午後の授業を終えてホームルームで職場見学希望調査票も提出し終えた放課後、比企谷八幡は机に座ったままぼんやりと考え事をしていた。今日の朝はいつものように妹と一緒に通学して、今日の昼は屋上で謎の女子生徒と遭遇した。朝昼の出来事が嫌だったわけではないが、誰とも話さないぼっちの時間が最近は減っている。
この後も部活で、かしましい女子部員といかめしい部長様と共に時間を過ごさねばならない。それをさほど嫌とは思っていない事は既に彼も自覚しているのだが、ぼっちの期間が長かった彼としてはバランスが崩れている感じがして落ち着かないのも事実である。贅沢な話かもしれないが、もう少し独りで落ち着ける時間も欲しいというのが本音であった。
教室の後ろの方では、彼とも以前に少し関わりがあったクラス内トップ・カーストの連中が盛り上がっている。彼らには、時に独りで過ごしたいと思う彼の心境が理解できないだろう。グループから離れて孤独に過ごしたり、話題が途切れて沈黙が座を支配したり、そうした事態に陥る事を彼らはとても怖れている。
問題は、誰もが同じ怖れを胸に抱いていると連中が考えている事であり、そのせいで八幡はせっかく教室で独りの時間を満喫しているのに、それを彼らのリーダー格である葉山隼人に邪魔されてしまう事がしばしばあった。彼が投げかけてくる小説の話を意外に楽しく感じてしまう事も、逆説的に八幡の苛立ちを加速させている。
もう少し教室でゆっくりしたい気持ちもあったが、彼らに絡まれて面倒な事になるのも回避したい。彼らに悪意がなく、少なくとも表面上は楽しげに語りかけて来ているのは重々承知なのだが、それゆえにこそ雑な応対しか返せない自分が少し嫌になる。「前門の虎、後門の狼」などと大げさな事を呟きながら、彼は静かに席を立って部室に向かうのであった。
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八幡が廊下を歩いていると、彼を引き止める声が後ろから聞こえてきた。昼休みに覚悟はしていたものの、やはり呼び出しを喰らう事になるのか。八幡はそう考えながらゆっくりと後ろを振り返る。彼の予想通りの人物がそこに立っている事を確認して、内心で溜息をひとつ吐いてから彼は口を開くのであった。
「どうしたんですか、平塚先生?」
「比企谷……。私が何を言いたいか、解るな?」
「も、もちろんです、ごめんなさい。……でもその、ちょっと早すぎやしませんかね?」
「少し嫌な予感がしたのでね。担任の先生にお願いして、君の調査票を見せてもらったのだよ」
発言とともに平塚静教諭から迸る殺気を感じ取って、八幡は慌てて返事をした。教師が生徒に暴力を振るうとは考えられないが、嫌な話に巻き込まれてしまう事は確実である。その衝撃たるやファーストブリット並かもしれない。そんな事を考えながら平謝りする八幡に、事の経緯を機嫌よく語る平塚先生であった。得意げに胸を張る教師に少し呆れながら、彼は素直な感想を口にする。
「何もそんなに急いで確認しなくても……」
「君はそう言うが、担任は『またこいつか』という反応だったぞ。私が呼び出して対処する事を提案したら、二つ返事で『いいですとも!』と……」
「いや、先生はもっとパワーを別のところに使って下さいよ」
「ふっ。君は理解が早くて助かるよ」
「じゃあ、俺はこれで……」
「それで誤魔化せるとでも思っているのかね?」
「はぁ……調査票は書き直しますよ。でも正直、他の志望とか思い付かないんですけどね」
八幡はそう言いながら、担任が提示した幾つかの選択肢を振り返る。曰く、千葉県下で醤油や乳製品などを作る工場を見学する事もできるし、身近なところだと千葉のモノレールを整備する工場なども見学できる。日常業務を見学するなら大企業から中小企業まで選び放題だと。しかし、ほんの1日で何が分かるというのだろうか。
とはいえ、そうした高校生にありがちな思考など教師にはお見通しなのだろう。わざとらしく溜息を吐きながらも顔には少し笑顔を浮かべて、教師は生徒に話し掛ける。
「比企谷、何もそんなに大仰に考える事はない。実際に見聞きして体験した事が、その後の人生のどこでどう関わってくるのか判らないからこそ面白いのだよ。それがリアルか否かもそれほど大した問題ではない。今の君達に必要なのは体験そのものなのだと、頭の片隅で覚えておいてくれたら嬉しいんだがな」
「まぁ、そこまで言われちゃうと反論できないですね。じゃあ面白そうな見学先を探してみますよ」
「うむ、それでいい。では部活も頑張りたまえ」
話が一段落して八幡が別れの言葉を口にしようとした時、元気な女子生徒の声が廊下に響いた。
***
「あー、こんなとこにいた!」
今日は珍しくクラスで長居をしているなと、部活仲間の男子生徒の動向を確認していたのも束の間、気付けば彼は今日もまたいつの間にか教室から姿を消していた。たまには一緒に部室まで行ってくれても良いのにと、内心でぶつくさ言いながら廊下を歩いていた由比ヶ浜結衣は、当の本人の姿を廊下の先に認めて思わず大声を上げる。びくっと身を少し怯ませる八幡に代わって、その隣にいた教師が口を開いた。
「おや、由比ヶ浜。悪いが比企谷を借りているぞ」
「べ、別にあたしのじゃないから、全然いいです!」
「ふむ。用事は既に終わったから、速やかに返却しても良いのだが?」
「俺のレンタル代って、どれくらいなんですかね?」
「それはもちろん、君の持ち出しだろう」
「借りてくれって頼んだ覚えはないんですけどね」
親しげに雑談を交わす2人を眺めながら、由比ヶ浜は相変わらずのふくれっ面である。せっかく同じ部活に所属しているのだし、もう少し仲良くしてくれても良いのに。ふと、もう1つの要望を思い出して、彼女は憤った気持ちに背中を押されてそれを彼に告げるのであった。
「てかヒッキー。待ち合わせの連絡とかしたいから、ちょっとメッセージ送って!」
「は?なんで俺が送る事になんの?」
「だって、いきなり送るとか、その、ちょっとアレだから。できれば先に、メッセージを送り合っておきたいな、って」
少しずつ声が小さくなって行くものの、ここ最近ひそかに提案したいと思っていた事をきちんと口にできて、内心で胸をなで下ろしていた由比ヶ浜であった。
この世界では、直接向かい合って話をした事のある相手にメッセージを送る事ができる。わざわざアドレスを聞き出す必要がないという点では手間が省けて良いのだが、そのぶん突然メッセージを送りつける事は避けるべしという何となくのマナーが定着しつつあった。由比ヶ浜の懸念はそうしたマナーを考慮したものであり、そして八幡が疑問に思ったのは、そうしたマナーに接する機会が無かったからである。
「まあ、別にいいけどな。んじゃ、俺から送れば良いんだな?」
「う、うん。お願い!」
「比企谷。女子生徒へのメッセージで、その文面はどうかと思うが」
「え、だってタイトル『テスト』、本文『test』以外に書く事って……あ、逆の方が良いとか?」
「……経験がないから仕方がないとはいえ、君はもう少し女性と言わず同級生と交流をした方が良さそうだな」
「失礼な……。俺だって中学の頃に、女子とメールくらいした事ありますよ」
「嘘……」
思いがけない八幡の発言に、固まってしまう由比ヶ浜であった。受けた衝撃を、たははと笑う事で誤魔化そうとする彼女に向けて、八幡は少し自慢げに説明を行う。
「クラス替えでみんながアドレス交換してた時な。流れに乗り遅れてきょろきょろしてたら、『何かきょどっててウケる!』って声を掛けられたんだわ。まあ、俺が男らしく『アドレス教えてくれ』ってお願いしたら、『え、交換すんの?』って爆笑されたわけだが」
「比企谷、それは……」
「……その子は、どんな感じの子だったの?」
「とにかく健康的で元気な奴だったな。夜の7時にメールを送っても翌朝まで返事が来なかったり、たまに即レスがあっても『ウケる!』って一言だったり」
「う、それって……」
「比企谷……。私で良ければ寝たふりをせずメッセージをちゃんと返すから、次はこっちに送ってくれ」
凄まじい勢いで同情される八幡であった。平塚先生にもタイトル・本文ともにテストなメッセージを送りつけると、両人から返事が届く。八幡が「では部活も頑張って下さい」と書かれたメッセージを読んだ事を確認して、平塚先生は去って行くのであった。
教師を見送った後で並んで部室へと歩を進めながら、八幡は傍らの彼女に話し掛ける。
「てかお前、この顔文字は何だよ……」
「え、可愛くない?『よ(^0^)ろ(^◇^)し(^▽^)く(^ο^)ね(^ー^)』って完璧じゃん!」
「なんでそんなヒエログリフみたいなの使うんだよ」
「ヒエログリフって何?流行ってんの?」
「世界史でやっただろ……。まあ、2千年ぐらい前に廃れたわけだが」
途中からとはいえ、並んで部活に行ける事を内心で喜びながら、由比ヶ浜は歩きながらの会話を楽しむのであった。
***
部室で2人を出迎えてくれた雪ノ下雪乃と軽く会話を交わした後で、3人はいつものようにマニュアル解読に耽る。しかしそれぞれに集中できない理由があるのか、今日は作業があまり捗っているようには見えない。そんな時、由比ヶ浜に1通のメッセージが届いた。
「はあー」
「由比ヶ浜さん、どうしたのかしら?」
メッセージを見て深く溜息を吐く由比ヶ浜の顔を訝しげに眺めながら、雪ノ下が少し心配そうに問い掛ける。
「あ、何でもな……くはないんだけど、ちょっとうわって思っただけ」
「比企谷くん、卑猥なメッセージを送りつけるのは止めなさい」
「俺じゃねぇよ。てか、由比ヶ浜に送ったメッセージって、テストの3文字だけだからな」
「そんなに自慢げに語れる話ではないと思うのだけれど……」
何故か胸を張って語る八幡と、額に手を当てながら呆れた口調で返事をする雪ノ下。そんないつも通りの彼らのやり取りで調子を取り戻したのか、由比ヶ浜も会話に加わって来た。
「ヒッキーのせいじゃないんだけど、関係なくもないって言うか……。うちのクラスでね、ちょっと変な噂が広まってるみたいで」
「噂?」
「うん。まあ、今の時点ではどうにもならないし、しばらく様子見かなって言ってるんだけどね」
「ほーん。ま、緊急じゃないなら放っておけば良いんじゃね?」
「うん、だね」
由比ヶ浜の語り口調から、ひとまず問題は無さそうだと判断して、雪ノ下は鋭い目つきを緩めて珍しく雑談モードに入る。
「ところで、貴女たちは職場見学の行き先を決めてしまったのかしら?」
「あー、それな。さっき平塚先生に再提出を命じられたんだわ」
「どうせ貴方の事だから、ゲームセンターとか自宅とかを希望したのではないかしら?」
「だから何で判るんだよ……。専業主夫希望で自宅見学を主張したら怒られた」
「はあ、全く……。貴方の所には、運営から勧誘が来ていないのかしら?」
「それな。やっぱり雪ノ下にも来てたんだな」
「ええ。解読の最中にポップアップが開くから、鬱陶しくて仕方がないのだけれど。嫌がらせ目的でこんな事をしているわけではないのよね?」
「たぶん運営のこれまでの傾向からして、本気で勧誘してるんだと思うぞ」
それが最近の彼らがマニュアル解読に集中できない理由であった。職場見学は是非こちらにと、解読作業に区切りがつくたびに案内文が表示されるのである。プログラミングの基礎、準備されたツールを使ってこの世界を構築するマインクラフト的な作業、プレイヤーからの要望に対処する現場を見学しても良いし、経理関連の仕事を体験しても良い。他の企業とは比べものにならないほど熱心な内容で見学を要請して来るのである。
運営からの勧誘は等しく全校生徒に向けられているのではなく、マニュアルの解読状況に応じて優先順位が付けられていた。つまり解読作業が抜きん出ている雪ノ下の許には頻繁に勧誘のお知らせが舞い込んでおり、真偽は判らないがゲームマスター直筆と銘打った勧誘の手紙すら届いていた。
どこか愉快犯的な傾向が窺える運営の性格からして、その勧誘はかなり本気のものなのだろう。もう少し勧誘を受ける側の心情に配慮しても良い気がするが、困った事に見学に行く側としても彼らが提示する内容は確かに心惹かれる部分があった。そして、挑戦を持ちかけられて背中を見せる雪ノ下ではない。
「本気で勧誘しているのであれば、こちらには断る理由がないわね。鬼が出るか蛇が出るか、とても楽しみだわ」
意欲を燃やす雪ノ下を尻目に、内心で巻き添えになる事を覚悟しつつ、やっぱり自宅見学にならないかなと遠い目をする八幡であった。