あるいは語られたかもしれない、彼と彼女の青春ラブコメ。 作:きよきば
私の過去を暴いてでもですか。
そのセリフの書いてある行に目を留めた。
それは、グループの結成からしばらく経ったとある週末。たまには知的に明治大正あたりの日本文学でも嗜もうかしらなどと思い立った日の午後だった。
引っ張り出した本を開き、まだ序盤。
そして、俺はこの本の結末を知っている。
だから、この行から先を読む気が失せていた。
こころ。
まえ読んだのはいつだったか、おおかた人の心を知ろうなどと哲学的な命題がカッコよさげだからとか、そんな理由で読んだのだろう。
友情、愛情、嫉妬、そして罪悪感。
人の心には実に多くの感情が混在していて、1人の人間の中に矛盾した2つの感情があることは別に珍しいことではない。
その中で苦しむのは先生だけでなく、誰もが同じように苦しみ、悩みもがくのだ。
こころ。
人の心などわからない。自分の心すらわかっていないのだから。
けど、わかりたいと言う自分がいる。手を伸ばしたい、応えたいとそう思った自分がいる。
私の過去を暴いてでもですか。
尋ねた学生はただ純粋に尊敬できる人のことを知りたかっただけなのだろう。
しかしそれは引き金にはならなくても過去の傷にせっせと塩を塗り込むような行為だったのかもしれない。
純粋な気持ちが、素朴な疑問が人を傷つけることだってある。
だから、「こころ」などわからない。
今の俺は「私」であり、「先生」であり、「K」であるかのような、そんな気がした。
ただの小説。立場も状況も、現状の俺とは全く違う。
しかし、その葛藤に共感した。矛盾の狭間での行動に、共感できてしまったから。
何の因果も共通点も無いと分かっていながらも、その先は読まずに、本を閉じた。
知的な休日の過ごした方をしようとしたのが間違いだった。これからは大人しくラノベでも読もう…
今日はもうなんとなく読書の気分ではなくなり、ラーメンでも食べに行くことにした。
ヒッキーというあだ名のせいで勘違いされそうだが、俺は休日になると家から出ないタイプではない。1人で本屋に行ったりラーメンを食べに行ったりする。
しかし俺にとって大打撃なのはなりたけのラーメンを食べるためには津田沼まで行かなければならないことだろうか。千葉になりたけが無いのがどのくらい痛いかというと繋ぎの4番として名を残した彼がマリーンズを去るくらいの喪失感。やだ、寂しい。
まあ、無いものはない。他のラーメン屋に行くことにして、俺は家を出た。
自転車を走らせること十数分。スピードを落とし、どこに行こうかと魅力的な看板を探していると結構遠くまで来ていた。
そろそろ何かないかとぐるりと見渡すと、少し離れたところにいかにも頑固オヤジがぶすっとした顔でやってそうなラーメン屋を見つけた。なんて偏見だ。
とりあえず今日はあそこにしよう。そう決めて自転車の向きを変えると、信号がちょうど点滅しはじめたところだった。
1分1秒を争う勢いで駆け込むつもりはないので大人しく止まり、足を下ろす。やがて、信号の色は変わり、車が走り始める。
信号、変わらない。……車の時間、長くない?
ずいぶん車優先で長めの赤信号に平等とはなんたるかを脳内で説教してやろうかと論理を組み立てていると、駅から出てきたのだろうか、高校生の集団がぞろぞろと歩いてきた。総武の制服やジャージを着ている者が多いが、どうやら1つのグループではないらしい。
横断歩道の向こう側に彼らは固まり、俺と同じように信号が変わるのを待っている。
なんとなくその集団を見ていると、その端っこの方にジャージ姿の戸塚を見つけた。
通り様に声をかけたほうがいいのかと考えていると、戸塚も俺に気づいたらしく、にっこりと笑いながら手を振った。
ようやく信号が青に変わった。
歩行者が一斉に信号を渡るなか、戸塚は立ち止まったまま俺を待っている。やだ可愛い。
ペダルに足をかけ、戸塚の所まで行った。
「よう」
「うん、よっ」
自転車を止め、声をかけると戸塚は軽く手を挙げてはにかんだ。
「部活の帰りか?」
「うん。ちょうど終わったとこ」
手にしたラケットを見せ、戸塚は笑う。
テニス部は午前中に練習をするらしい。
「八幡はどうしたの?」
戸塚はラケットを持ち直すと身体を前に倒し、俺の顔を覗き込んできた。なんて女子力…!
「ちょっとラーメンでも食べに行こうかと思ってな」
「へえ、どこに行くの?」
「あそこに見えるやつだ」
俺がラーメン屋の看板を指差すと、戸塚はへえ、と言いながら振り向いた。
「八幡はよくラーメンとか食べに行くの?」
「ん?まあな」
俺の言葉を受けて、戸塚は少し考え込むような仕草を見せ、その後何か言いたそうに俺の顔を見始めた。
男だと知らない人が見たら惚れてしまうんじゃないかというくらいにその様は艶かしい。ていうか本当に男?
「は、八幡?」
「なんだ?」
「八幡が迷惑じゃなかったらなんだけど、ぼくも一緒に行っていい…?」
やだ、なにこれ可愛い。
仮にどうしても1人で行きたくてもOKしちゃうしむしろこっちからお願いしたいまである。
「ああ、じゃあ…行くか?」
「……うん!」
ほっとしたように笑う戸塚に癒されながら、俺は自転車を降りた。
ジャージ姿の戸塚と2人、ラーメン屋までの500メートルもない道を歩き、食券を買うタイプの店に入ったことがないのかオロオロしながら「は、八幡?ぼく、どうしたらいい?」と不安げに見上げる戸塚に頬を緩め、座ったこともないテーブル席に座った。
荷物を置き、水を飲んでひと息つくと、戸塚は店内をきょろきょろと見渡しはじめた。
「こういうとこ、あんま来ないのか?」
「そうだね。家族とごはん行くときはファミレスとかだし、1人だとちょっと怖くて」
戸塚の家族とかどうなってんだろうなぁ…
たぶん全員何かしら普通の人間とは違うんだろうなぁ…
まあ1人だと入りにくいというのはわかる。ラーメン屋のイメージって「へいらっしゃい!」みたいな感じだろうし、だいたいそのイメージで合ってるし。
やがて、注文したラーメンが目の前に置かれる。戸塚は丁寧に手を合わせるとちゅるちゅると麺を吸うように口へ運んだ。戸塚が食うとスイーツにしか見えない。
「おいしいね、八幡!」
「そうか、そりゃ良かった」
連れてきといてマズいもの食わせたら凄く申し訳ない気持ちになるところだったが、戸塚の舌には合っていたらしい。安心して、俺も自分のラーメンにとりかかった。
「ふぅ、ごちそうさまでした」
戸塚は終始美味そうに食べ、スープまで飲み干した。やっぱりそれスイーツなんじゃねえの?俺と同じものには見えないんだけど。
「意外と食べるんだな」
「うーん…練習した後だからかな。美味しかったよ八幡!」
「そうだな、うまかった」
うまいラーメンを食べた幸福と満腹感から背もたれに体重をかけた。
「八幡?」
「ん?」
戸塚は水を少しだけ口に含んで飲み込み、コップの縁を人差し指でなぞりながら俺の顔を覗き込んだ。
「またラーメン食べに行ける、かな?」
その容姿と仕草にラーメンというのは似合っているか似合っていないかで言えば間違いなく似合っていないのだが、本人が食べたいと言うなら、また次の機会もあるだろう。というかあると八幡的に超ポイント高い。
「なら、またどっか行くか?」
「うん!楽しみにしてるね!」
ラーメン屋を後にして、自転車を押して歩く。
戸塚はよほどラーメンが気に入ったようで、俺が知っているラーメン屋について興奮ぎみに質問を繰り出していた。部活帰りにラーメン、そんないかにも友達っぽいものに俺も戸塚も憧れている節があり、また近いうちに出かけることになるだろう。
しばらく歩くと、話題は学校生活のことになる。授業のことや部活のこと、まさか俺がこんな会話をするようになるとはなぁ…テニス部にも誘われたが、どうなるかだいたい予想がつくのでやめておいた。
高校生同士で学校の話をすれば、やがてやってくるのは色恋の話。
「八幡は好きな人とかいる?」
「……どうだろうな、そういうのとは無縁だったし、何とも言えん」
断じて嘘はついていない。失恋経験が豊富なだけで、男女交際とは無縁だ。
「…そっか」
もの言いたげな顔をしたが何も言わないでいてくれるのはありがたい。
「戸塚はどうなんだ?」
「ぼく?うーん…ぼくってほら、男らしくないからそういうのあんまり、かな」
男らしくないから、の部分を少し寂しげな顔で話す戸塚を見ていると、悪いがその部分は確かに否定できないと思った。女子からは可愛いとか言われるだろうし男子からしたら女子にしか見えないわけで、そりゃあ色恋どころか友達もなかなかできないわけだ。
「…そうか」
「うん。八幡みたいに男らしくなりたいんだけど…」
「俺は別に男らしくなんかねえよ。ただの男だ。それに、無理して変わる必要もないと思うぞ。…本当に、変わりたいなら、その…応援するけど」
「…、ありがとう。八幡のそういうところ、ぼくは好きだよ」
「…え…」
「あ、ヘンな意味じゃなくてだよ!かっこいいな、って思う」
びっくりした、心臓止まっちゃうかと思った。もう!驚かせんなよう!別に残念がってなんかないよう!
「…そうか」
「うん!…ねえ、八幡?」
「なんだ?」
戸塚は少し躊躇うような表情を見せた後、言いにくそうな様子で口を開いた。
「………」
しかしパクパクと動かす口からは何の音も出てこない。どう言えばいいかわからないといった感じだ。
「どうした?」
言いにくいことでもあるのだろうか、察してやりたいが俺にはできそうもない。
やがて、戸塚は軽く首をかしげながら、俺の反応を伺いつつ声を出した。
「気になる人、ならいるのかなって」
「気になる人?」
「うん、好きとかじゃなくても気になるな、って人」
いま1番気になるのは戸塚の態度なんだがそれは置いて、気になる人か。好きと違って定義ができない曖昧なもので、好きな人がいるのかという質問以上に答えにくい。気になる、が単に恋愛対象としてなのか、違う何かなのかすら曖昧だ。
……ヒッキー!
ごめんなさいいます。どうしていいかわからなくていろんな意味でものすごく気になります、はい。
「まあ…」
「そっか。もしぼくに何か出来ることがあったら、いつでも言ってね!…頼りないかもしれないけど」
「そんなことねえよ。まあ…たぶん、頼る。…頼っても、いいか?」
「うん、任せて!じゃあ、約束」
どんと胸を叩いて戸塚は小指を立てた。
男らしさが出てくるのは当分先になるだろう。その仕草がいちいち可愛いらしくて、控えめな女の子と言われたら納得してしまうレベル。
でも、俺には誰よりも頼もしく見えて、自分の小指を戸塚の細い指に絡めた。
「おう、男同士の約束だ」
「うん、男同士の約束!」
戸塚と別れて自転車を漕ぎ、家に1番近いコンビニに入った。マッ缶を買うためだ。
レジは少しだけ混んでいて、俺の順番が来るのは少し後になるだろう。こういうときは脳内会議をするに限る。議題は男同士の約束について。
交わした男同士の約束はきっと果たされることになる。しかしそれは俺が本当に困ってしまった時だ。まずは先延ばしにしてきたことにいいかげん真剣に向かい合わなければならない。
過去を暴いてでも知りたいか?ー知りたい。
それで相手が傷ついても?ーその時は真剣に謝るしかない。
知って、比企谷八幡に何ができる?ー知らねえよ、まだ知らないんだから。
今のままでも楽しいだろう?ーああ、俺はな。でも俺だけだ。
レジ袋を受け取り、コンビニを出る。
ここまでノンストップで自転車を走らせたせいで軽く汗をかいている。
身体と、頭を1度冷やすためにも夕涼みがてら歩いて帰ろう。
袋を籠に入れて家までの短い距離をのんびりと歩く道中、ふと今は何をしているのだろうかと、お団子頭の女の子のことを考えた。
願うものが何なのか、その輪郭さえぼやけていて見えはしない。ならば、近づいてよく見るしかない。
出会った日の俺の決意。
臆病な心との矛盾で立ち止まってしまっているけれど。
未だ、この感情の正体は知らないけれど。
それでも俺は、足を進める。
と、かっこいい感じで決意したものの。
冷静になるとどうしていいのかやっぱりわからないことに気づいた。あ、あれー?おかしいな…なんか歩いてるときは何でもござれみたいな気分だったんだけど…
考えてみれば、対人関係において俺がいくら案を捻り出したところで無意味だ。
例えば、由比ヶ浜自身の評価を下げないために思いついたのは俺と関わらないなんてものしかなかった。
かと言ってノープランで行動しても良い結果にはなるまい。
ということは。
つまり。
「…助けてくれ戸塚」
「思ったより早かったね…」
男同士の約束が履行された。
いやほら、本当はやるだけやった!でももう無理なんだ!助けてくれ!みたいな感じでいきたかったんだけどね?
じゃあどのくらい粘ればそれが許されるかって言うと特に決まりなどない。ならば早いに越したことはない。てことにしておこう。
「すまん」
「謝らなくていいよ。ちょっとびっくりしただけだから。それで、どうしたの?」
「…明日の部活の後とか、時間あるか?」
「うん、大丈夫だよ。…うん、じゃあ待ってるね」
明けて、日曜日。
お昼過ぎには練習が終わるらしく、昼食を一緒に食べた後話をしようということになった。
昼が近くなり、リビングにいた小町に昼はいらないことを伝え、靴を履いて家を出た。
ペダルを漕ぐ足は普段より少し早めになり、自分が無駄に焦っていることに気づく。
落ち着け、まだ何もしてない。けど、これからも何もしないのはだめだ。
どこに食べに行くのかを決めていなかったため、校門のあたりで戸塚を待つ。私服で高校の前にいると目立つのか、出て行く生徒の大半がジロジロと俺を見る。本当に最近ステルスヒッキーが発動しない。これだけ視線を浴びるのはぼっちの身には堪える。ストレスヒッキー状態だ。
ちょっと上手いこと言ってやったと満足していると、ジャージ姿の集団が目の前を通過していった。どうでもいいけど普通高校生って部活の後でも制服で帰るんじゃないの?
その集団の最後尾に小柄で色白、可憐でいてどこか儚さの感じられる美少年がいた。
回りくどい表現をしたが戸塚である。俺に気づくと昨日と同じように軽く手を振って集団を抜けた。
「ごめん、待った、かな?」
ジャージ姿で軽く汗をぬぐい、テニスバッグを背負っている。うん、やっぱりジャージで下校してもいいんじゃないかな!
「いや、そうでもないぞ。とりあえず、行くか?」
「あ、そうだね。どこ行こっか?」
ラーメンは昨日食ったしまたの機会にということにし、移動を繰り返すのは面倒だからということでサイゼに直行することにした。これで次回ラーメンの約束をしつつサイゼという寸法よ。天才か俺は。
駅近くのサイゼは、日曜の割に空いていた。椅子を引いて座ると戸塚は反対側に座る。
俺はまだ昼を食べてないし、戸塚は練習後だ。先に空腹を満たした方がいいだろう。
「先に何か食うか」
「そうだね。お腹すいたし」
戸塚の言葉を受け、俺は注文ボタンを押した。
小一時間ほど食事に当て、お互い空腹を満たしたところで本題に入ることにした。俺は口元を拭いて戸塚に話しかける。
「それで、相談なんだが…」
「うん、どうしたの?」
俺は途中でつっかえながら、慎重に言葉を選んで話した。初めて会った日に感じたことや眼鏡を買いに行った日のこと、最近感じていることなどなど。戸塚は疲れた身体に満腹感で眠たいだろうに、真剣な表情で俺の話を時に頷きながら、時に質問を挟みながら聞いてくれた。
そして全てを話し終えた。口の中が乾燥しきっている。俺はコーヒーをひと口呷り、息を吐いた。
「そっか、その眼鏡、由比ヶ浜さんからのプレゼントなんだ」
「…ああ」
「それで、八幡はどうしたい?」
当然、その質問が来ることは予想していた。しかしその問いに対する答えを俺は持っていない。ある意味そこが1番の問題と言える。
俺の話を簡潔にまとめてしまえば、踏み込むと決めたのにそれで嫌われるのが怖い、というだけのことだ。本来相談すべきは怖いけどこうしたい、という部分であって俺はその段階にすらいないのだ。
「…わからん」
「……八幡、由比ヶ浜さんはそのくらいで八幡のことを嫌いになったりしないよ。…って言っても、意味ないよね」
その通りだ。
何言ってんだアホ、もっとまとめてから相談しろと怒られても仕方ない。
戸塚には申し訳ないが、仮にそんなことを言われても良かった良かったと言って帰ることはできない。
首を縦にふると戸塚はだよね、と頷くと、少し考えてから口を開いた。
「こう言うのは卑怯かもしれないけど、八幡、怖いけど踏み出すしかないんじゃないかな。知りたい、って」
たぶん、ここで何時間話しても同じ結論が出ただろう。解決方法はそれ以外に存在し得ないのだから。
前進するにはこれしかない、けれど前進するとは限らない。
ただし、それ以外の方法では何も変わらない。それどころか、ゆっくり時間をかけて壊れるだけ。
これはそんなお話。本人もそれを自覚していて、それなのに怖いからと言って人を巻き込んでややこしくした、それだけの話。
そんな事実を、戸塚は言いにくそうな顔をしながらも突きつけた。
「ぼくは由比ヶ浜さんじゃないから大丈夫だよって言えないけど…八幡ががんばるしかない、と思う…」
「…だよな」
戸塚は正しい。
適当に慰めて、誤魔化して有耶無耶にして。俺はそんな言葉をかけて欲しいわけじゃない。
だから、戸塚は正しい。
「もし、八幡が由比ヶ浜さんを悲しませたり、怒らせたりしちゃったらぼくも一緒に謝るよ。それで、一緒に考える。だから、八幡?」
あるいは、ただ聞いて欲しかったのかもしれない。叱って欲しかったのかもしれない。
なんて恥ずかしい。
「…ん、そうだな。その時は何が悪かったのかしっかり説教してくれ」
「うん!」
戸塚は頷くとジュースを飲み干して帰り支度を始めた。
え、なにまさか今すぐなの?
「じゃあ八幡、がんばってね」
「え、今から?」
「え、違うの?」
口をポカンと開けて見つめ合うこと数秒。
先に機能を回復したのは戸塚だった。
「八幡、さっそくお説教しなきゃいけないのかな?」
戸塚の説教とやらに興味はあるのだが、できれば今日はご遠慮願いたい。
「いや、なに。冗談だ。今日は大丈夫だ」
「うん、じゃあ…」
「おう、またな」
簡単に別れの挨拶をすると戸塚は帰って行った。飯食うのにかかった時間と本題にかかった時間がほぼ同じだったとかどんだけしょうもないこと相談したんだよ。せめて何かしてから相談しろよ。
と、自らに突っ込みを入れながら、俺は携帯を取り出し、電話をしようとしたところでふと気づいた。
戸塚、伝票持ってったな。2人分の。
…何だよあいつ超男らしいじゃねえか。
1人でサイゼにいることなど俺にとっては珍しくもなんともない。
由比ヶ浜と2人でいることも最近は特に珍しくない。
しかし今日はなんとなく、どこか違う場所であるかのように感じた。
できれば何か予定が入っていて欲しいなどとヘタレ全開で電話したところ暇だったらしく、すぐに行くと言って通話が終了した。
舌が乾いているのがわかり、コーヒーを2杯飲み干したころ、ドアが開いて見慣れたお団子頭が入ってきた。
「お待たせ、ヒッキー」
「おう、急に悪いな」
「ううん、全然!ヒッキーから誘ってくれるの初めてだし!」
由比ヶ浜はぱたぱたと駆けてくると、俺の向かい、さっきまで戸塚が座っていた場所に座った。
やべえどうしたらいいのか全然わかんねえ。……八幡、頑張ってね!(CV.戸塚彩加)。よし、頑張ろう。
「とりあえず、何か頼むか?」
「んー、今はいいよ」
できれば何か頼んでほしかったです、はい。
今になってなおヘタレ万歳の、どうも俺です。
「そうか」
「うん。それで、どうかしたの?ヒッキー」
当然ではあるが、由比ヶ浜はいきなり本題に入った。そりゃそうだ、俺が呼んだんだから。
いやあ、参ったなぁ…言葉が出てこないなぁ…
逡巡する俺をしばらくわけがわからないといった顔で見ていた由比ヶ浜は、やがてメニューを開いて顔を半分隠しながら優しい声音で語りかけた。
「やっぱり何か食べるよ。ヒッキーも何か頼む?」
「…いや、俺はいい」
「そっか」
その気遣いは、心配りは実に由比ヶ浜らしい。
いったいいつまで彼女に甘えるつもりなんだと、いい加減自分が嫌になった。
由比ヶ浜がティラミスをつついている間、言うべき言葉を組み立てる。が、組み立てたそばからガラガラと崩れ落ちてしまいまったくまとまらない。俺大丈夫かしら…
できるだけゆっくり食べていたようだが、ティラミスを食べるのにそう時間はかからない。
最後のひと口を飲み込むのを待ち、コーヒーを呷ってようやく俺は前を向いた。
「由比ヶ浜。この眼鏡買った日のこと、覚えてるか?」
「え?あ、うん、覚えてるよ?」
「…嬉しかった。俺なんかのために本気で怒って、考えてくれて。あと、聞きたい、って言ってくれて」
「…うん」
「けど、俺は由比ヶ浜に引っ張ってもらってばっかで、何もしてないだろ」
「そんなこと…」
あと、ひと言だけ。そのひと言を言えばいいものをこの口は動こうとしない。くだらないことはペラペラ喋れる癖に肝心な時に役に立たない。
でも、それじゃあダメなのだ。俺が今までに踏み出してきた距離はあまりにも短い。
嫌な思いをさせたくはない。けれど、由比ヶ浜は聞きたいと言ってくれた。だったら、俺は。
「………俺は、知りたい。由比ヶ浜のことをもっと聞いて、知って、それで…」
視線は由比ヶ浜から外さない。
声はだんだん小さくなっていって最後まで言いきることなく出なくなった。
今は、悪いがこれが俺の精一杯だ。きちんと喋ろうにも頭も口も全く回らない。
由比ヶ浜は驚きを顔いっぱいで表現するとくすぐったそうに小さく笑った。
「そっか…そんなふうに思ってくれてたんだ…」
「…ウザく、ないか?嫌だと思うなら突き離してくれた方がいい」
卑怯だと思う。
こんな言い方しかできない自分にほとほと呆れてしまう。
「ううん、あたしは嬉しいよ?ヒッキーがそういうこと言ったの初めてだもん。…聞いて、くれる?」
「…ああ、聞きたい」
しかし由比ヶ浜は嘘もごまかしもない笑みを浮かべて俺の目を見た。
「ちょっと長いよ?あたしヒッキーみたいにうまく話せないし」
「…いい。聞きたい。言いたくないことは言わなくていい」
それはまるでいつかのあの時の焼き増し。
ただ、聞いたところで俺に何ができるのかはわからない。
しかし踏み出すことに怯えて壊れるのを待つだけの時間はこれで終わりだ。
ようやく、由比ヶ浜の隣に立つことができるような気がした。
由比ヶ浜は、男子に人気がある。
顔は可愛いし、スタイルもいい。
基本的に人当たりが良く、優しい。
本来なら男女問わず人気が出てもいいくらいだ。
けれど、女子の世界ってのは複雑らしい。
中学時代、ある女子が好きだった男子が由比ヶ浜に告白して振られたらしい。
それがきっかけで女子からはハブられるようになったそうだ。俺からすれば全く意味がわからないがそりゃ俺だから仕方ない。
男子は胸を見てニヤニヤするし女子は敵、という状況で過ごすには、空気を読んで合わせるように振る舞うほかない。
そんな自分を変えるべく総武を受け、入学したものの初日にあの事故。
クラスでもなんとなく合わせているうちに気づけば相模とかいう女子のグループにいたそうだが、合わせていれば自分の意見がどうだと言われ、合わせなければやはり文句を言われる。なんだその息苦しい空間は。
さらにその相模とやらのグループは人の悪口で繋がるタイプだったらしい。やだ、そんな空間酸素がいくらあっても足りない。
そしてそれ以外のクラスメイトともそこそこに上手くやれても仲良くなるというのは難しかったらしい。男子は言うまでもなく。
そこに現れたのが戸塚と雪ノ下というわけだ。
あの2人が何か違うというのは由比ヶ浜も感じたのだろう。
だから、昼休みは毎日ベストプレイスに来るし放課後遊びに行くこともなく、土日も犬の散歩くらいでしか出かけないらしい。
つまり今は相模のグループからフェードアウトしている真っ最中ということになる。
「…そうか」
「…うん」
俺に何かができるという状況ではなさそうだ。由比ヶ浜自身は何の非もない、一方的な被害者であり、運が悪かったとも言える。
俺にできることなどほぼない。むしろ首を突っ込めば事態の悪化を招く。
「俺ができることは悪いが無い。そのままなんとなくフェードアウトするしかない。けどいつか相模達の悪口の矛先が由比ヶ浜になる可能性はある」
「そう、だね…」
というか、ほぼ確実にいずれやってくるだろう。その番がやってこないのはイケメンリア充くらいのもので、それ以外は必ずどこかで悪口が言われているものだと思っていい。
ちなみに、その番が由比ヶ浜に来たとして、俺ができることはやはりあまりない。
「まあ、なんだ。その時は逆に俺が手ぇ引っ張って逃げてやる」
「逃げるんだ!?まさかの展開だ!?」
え、あれ急に場の空気がコメディになったんだけど。あれー?俺わりと本気で言ったんだけど……
「なに、立ち向かって叩き潰すつもりなの?」
「そうじゃないけど!なんかかっこいい感じのやつ期待するじゃん!」
「ばっかお前、逃げるが勝ちって言うだろ。つまり逃走が完了すれば完全勝利だろ」
マジで賞金もらっていいレベル。
悪口に正論をふりかざしたところで、返ってくるのは大きくふたつ。
1つ、意味不明なんですけど?
2つ、ていうか誰あんた?
結論。逃げるが勝ち。
「それに口喧嘩するなら雪ノ下の方が強いだろ。たぶん、わりと」
「…なんかそういうの、ヒッキーっぽい」
卑屈だと言いたいんですかねぇ…
思わぬ方向に話が進んで俺もついていけてないが、由比ヶ浜が楽しそうに笑い始めたので良しとしよう。
「…まあ、最悪本気出すよ。俺が本気出せば平塚先生くらいなら呼べる」
「本気の出し方おかしいってば!うぅ…お前は俺が守るとか、そういうの来るかと思った…」
えぇ…それはちょっと注文が厳しすぎやしませんかねぇ…
そんなちらちらとこっちを見られましても…
「まあ、なに。そのうちな」
「…うん、そのうち」
そんな機会、来ない方がいいんだけどな。
「よし、ヒッキー甘いもの食べよう!」
唐突に話を切り上げた由比ヶ浜は、テーブルをばんと叩いて笑顔を見せた。
切り替え早すぎやしませんかねぇ…
「さっきティラミス食ってただろ…」
「じゃ、じゃあ歌!歌ってハニトー食べよう!」
「食ったら一緒だろ…」
「いいじゃん、行こうよー!」
こうなった時の由比ヶ浜には基本的に勝てない。そういう普通のスタンスでいたら普通に友達とか彼氏とか……まあいい。無理に変わることもないな。
「わかったよ…」
諦めて席を立つ。
あれだけ踏み出すのを怖がってた癖に、何故か喜劇をしてしまった。どんな週末だよ。
ともあれ、拍子抜けするくらいに話は進み、由比ヶ浜はもはやパセラのことしか考えていない。
なんだ、やればできるじゃねえの、俺。
由比ヶ浜の人間関係の問題に介入することはあまり好ましくない。
だからできることといえば、こうしてパセラに付き合ったり話を聞くくらいのことだ。
ふと、外を見るとまだまだ陽は高く、夕暮れまでは当分かかりそうだ。
人の心などわからない。
矛盾に矛盾を重ねる人の心は全くもって非合理的で、だから行動の結果に後悔がついてまわる。
俺が抱く非合理的な感情。
その正体はやはり見えず、願うものの輪郭もまたまだぼやけたままだ。
それでも俺は歩を進める。進まないと何も知ることができないから。
まあ、さしあたっては、パセラへ。
高めの気温のせいか、頬を朱に染めた由比ヶ浜の隣へ、俺は自転車を走らせた。