なのぎる。   作:くおん(出張版)

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なのぎる。(幕間の物語6)

 高町士郎は、まず自分の呼吸を整えることに専念した。

 

 呼吸――ただ、吸って、吐くというそれだけの行為に、人間の一日の消費カロリーの大半が必要とされる。

 言い方を変えるのならば、人間という生き物は、ただ呼吸をするためだけに生きているようなものなのだ。

 それだけに、古来より呼吸というものを人間は、いや、戦士は追求してきた。

 御神流もまた、然り。

 また、戦いの機微としての呼吸というものもある。

 相手の呼吸を探り、自らの呼吸を隠し。

 戦闘者ならば当たり前にするそれは、当然のことながら高町士郎も修めていることだ。

 その彼をして、今はその呼吸も乱れて隠すことすらままならなかった。

 ――神速の限界を超えた動き。

 その代償である。

 ありえない速度と動きであったと、士郎も思う。

 あのタイミングで、あの打ち込み。

 ギルガメッシュという男の剣撃の速度は、高町士郎の経験と知識にもないものだった。

 それを避けるために搾り出した速さと動きは、単純ながらもかつてどの戦いでも用いたことがないほどにぎりぎりの、限界のものだった。

 今までの戦歴において、彼より速く動いた戦士はいる。速度は及ばずとも「読み」の力で彼を上回った者もいる。世界の影には、そのような者たちは多くいた。

 潜在能力の解放、病理による異質化した筋繊維、薬物投与による強化、魔法じみた異能の効果、機械仕掛けの機動、修練の果てに辿りついた境地――

 

 そのどれとも違う。

 

 単純に、ただただ単純に、生物としての基本性能が違う。

 それらの異形(バケモノ)を打倒した達人(バケモノ)である士郎をして、およそ覚えのない「何か」。

 

 ――怪物を超えた怪物。

 

 勝てない、と思った。

 その怪物が、静かに口を開いている。

 

 

「存外、しぶといな」

 

 荒い息を吐きながら、士郎は黙って聞いた。

 

「ふん。生き汚いのは雑種の常とは言え、まだそのざまで我に挑もうと思っているのか」

 

 歯を食いしばる。後悔などするまいと思っていた。後悔などしたくないと思っていた。

 

「見所はある方だと思っていたがな。よもや、我の見立てが間違っていたということもあるまい」

 

 何を言っているのか解らなかった。

 

「少し、教えてやろう。貴様が使うそれは、まだ不完全だ」

 

 ふらりと、足を進める。

 

「肉体の枷を脳の方から外すというアプローチは、間違ってはおらん」

 

 痙攣のような衝動が身体を動かしていた。

 

「だが、それではまだ物理的に、人間としての生物の限度に達したという程度でしかない」

 

 ふと、それが神速のことを言っているのだと思い至る。

 

「人間以上のモノと対峙するのならば、生物として人間を超えねばならぬ。最低限の、それが道理だ」

 

 足を止めた。彼の言っていることを聞くべきだと思考とは別に身体がそう判断したようだった。

 

「観ているところが違うのだ。貴様は相手を見ているが、まずその前に自分自身を診なくてはならん」

 

 何を言っているのか士郎の脳みそには解らなかった。解らなかったが、何か魂の奥底に応えるものがある。

 

「その脚は、本当に闘いのために最善のカタチをしているのか? 腕は? 内臓の位置はそれでいいのか?」

 

 すでに脳みそは考えるのをやめていた。

 

異形(バケモノ)になることを恐れるな。怪物(バケモノ)を殺す戦士(バケモノ)こそが、」

 

 魂のみで、士郎は目の前の男を見ている。

 

「英雄に至るための、(きざはし)の一段目だ」

 

 古えの英雄王を見ている――

 

 

 どくん、と何度目かも解らない鼓動が胸を高鳴らせた。

 

 

 そして、士郎は神速をかけた。

 

 

 ◆ ◆ ◆

 

 

 ――いや、それを神速と呼んでいいものか。

 魂からの衝動が身体を突き動かし、それにただ身体が応えただけであるかのようだった。

 斬、徹、貫、の基本術理ですらない。

 突進しつつ飛針を打ち、鋼糸を飛ばし、蹴り、撃ち、舞った。

 

 ギルガメッシュは僅かに目を細め――

 

 飛針を剣の切先を微かに動かして落とし、鋼糸を一閃で切り払い、蹴りを剣を盾にして受け、斬撃を神剣を叩き込んで迎撃した。

 舞うように移動した士郎も視界に捉えたままで、身をよじって対応していた。

(たりない)

 狂気の如き衝動に押し潰されかけている、士郎の脳みそにほんのわずかに残された理性が言う。

(ぜんぜんたりない)

 何が足りないのか? 

 脳みそは血が足りないと思った。脳の活動には莫大な酸素と糖分が必要になる。 

 脳みそは速度が足りないと思った。筋力を発揮するのは筋繊維の収縮の落差が必要になる。

 脳みそはカロリーが足りないと思った。身体を動かそうとすれば、それだけの熱量が必要になる。 

『自分自身を診なくてはならん』 

 唐突に、そんな言葉が浮かんだ。

 どういう意味なのかは解らなかったが、脳みそは解らないままに自分の身体を診た。

 ぼろぼろだった。

 つい数年前に爆発を受けてぼろぼろに傷ついた身体だった。

 完治はしていたが、度重なる無理な負担は、その体の古傷を開かせようとしているように思えた。

『その脚は、本当に闘いのために最善のカタチをしているのか? 腕は? 内臓の位置はそれでいいのか?』

 ……ほとんど考えることを放棄している脳みそだったが、続いて思い出した言葉には応えなくてはいけないと思った。

 身体は脳みそとは別に動いて、小太刀を振っていた。

 

 ダメだ。

 

 脳みそは思う。

 

 この形はまだ最善ではないと思う。動くためにはもっと適した形があると、そう判断する。それは人間としての思考ではなかったが、脳みそにはもうそこまで理解できなかった。ただ、この筋肉の位置では無理だと思った。

 腕もそうだった。こんな筋肉ではダメだ。こんな血管の位置では無理だ。

 内臓も、そうだ。重心を十分の一秒単位で操作できれば、もっと自由な機動が可能になるだろうに。

 

 脳みそはまず血を欲した。そのために必要なのは心臓の鼓動を早めることだった。不随意筋を随意に動かさなければならない。

 脳みそはその血の流れを通す血管の位置を動かさないといけないことに気づいた。血管も拡大させないといけない。

 脳みそは血の中の栄養を補給せねばならないと思った。肝臓から全ての力を吐き出させないといけない。

 

 それだけのことをするために、高町士郎の脳みそは自らにさらなる負荷をかけなければならなかった。

 視界から色が抜け落ちただけでは足りなかった。

 理性の大半が抜け落ちただけではまだ足りなかった。

 

 脳みそは戦闘のためのリソースを拡大させるために、もっと削除しなければならないと判断した。

 もっと不必要なものを削らなくてはならないと判断した。

 

 高町士郎として培った経験と記憶の中で戦闘のロジックに類するもの以外は全面カット。味覚をカット。嗅覚の半分をカット。聴覚の一部をカット。触覚の半分をカット。

 サッカーのルールをカット。

 翠屋のメニューをカット。

 不破家の家族をカット。

 今まで出会って守ってきた人たちをカット。

 ご近所の人たちをカット。

 常連さんたちをカット。

 

『あなた』

 

 と声が聞こえたような気がした。

 

 ――今まで愛してきた、全ての人たちをカット。

 

 この時、高町士郎は人間ではなくなった。

 ただ一つの想いのためだけにすべてを切り捨てた何かになった。

 ただ一つの目的のため、そのためだけに生きる存在を人間とはいうまい。

 

 

 砂煙が舞う。  

 

「たわけが!」

 

 怒号と共に、文字通りの鉄槌が頭上から落ちた。およそ人間が持つことなど考えられない、全長にして五メートルは超えようかという巨大な槌だ。そのようなものを手に戦う者があるとすれば鬼か巨人か。

 それが、まったくの虚空から現れて士郎の頭上に落とされた。咄嗟に後ろに跳躍した彼の速度は神速を超えていた。神速を超えていてなお、ギルガメッシュに接近することはできなかった。

 鉄槌が落とされた場所から、爆撃のような衝撃が巻き起こる。

 だが、それよりもなお激烈な声がその直後に士郎を、この浜辺に立つ三人の御神の剣士を叩いた。

「まだ我を煩わせるか!」

 百条の雷光より発する大轟音の如き英雄王の一喝が、夜の海鳴の砂浜に響き渡る。

「愚昧にもほどがあるわ!」

 右手になる神剣が輝き――その一閃が緩やかな、しかし長く深い弧の溝を砂浜に刻んだ。かつて大蛇の身より生まれ大蛇を刻んだ神剣の真の力の、ごく一部の開放だった。

 士郎は溝の手前で足を止め、また消えた。

 英雄王は間をおかずに左の神剣を投擲する。

「この我が手ずから遊んでやっているのだ! 貴様はなけなしの全霊を尽くして挑むが礼儀であろうが!」

 それは、彼の遊びのためならば命をかけて当然ということだろうか。

 恭也も美由希も、そのあまりにも理不尽なものいいに声も出せなかった。

 いや。

 ――これが全霊ではないというのか?

 美由希も恭也も思う。

 今の、たった十秒かそこら前に、明らかに士郎は加速していた。間違いない。高町士郎は、通常の神速の及ばない領域に踏み込んでいる。それはもはや、人間と呼べるものではなくなっていた。そう、二人は驚愕とも戦慄ともつかぬ想いで目撃した。

 だが。

 この男は、違うという。

 この男は、これがまだ全力ではないのだという。

 その言葉に根拠があるのか、否か。

 恭也はあるのだと直感し、美由希はあるのだろうとただ思った。

 

 叙事詩に謳われし英雄ギルガメッシュ――またの名をシャ・ナクパ・イムル――〝全てを見たる人〟

 

 彼女は、それを知っていたのだ。

 そして。

 言った。

 

「――切り捨ておって」

 

 吐き捨てる、という言葉がまさに似合う声だった。

 どういう意味があるのか、二人には解らなかった。

 士郎がまた停止したのは何故か、誰にも解らない。どうして立ち尽くしたのか、士郎自身にも解らなかったに違いない。

「速さを求めて身軽になるは道理だ。だが、そのために捨てたな。己の魂の一部を、今、お前は捨てたのだぞ!」

 怒っている。

 この男は、本当に怒っている。

「―――はっ。解ってはいたがな。所詮、人間とは犠牲がなくては生を謳歌できぬ獣だ。それゆえに、生き延びるために己を形作っていたものさえ捨てる。

 蜥蜴が尾を切り離すが如く。

 当然の犠牲として捨て去るのだ。だがな、代償なくして何も得られるのも道理だが、それを覆すことをせずして、人を超えられるか!」

 それは――  

「切り捨てるのではなく、背負わねばならぬ。

 守るために背負い、戦うために背負い、生きるために背負い、死ぬために背負い、殺すために背負うのだ。

 感謝の喜びも、闘争の昂揚も、生存の安堵も、死出の恐怖も、殺人の罪業も。

 その全てを背負って立てて、やっと人間以上なのだ。 

 貴様が今やったことは、獣が獣以下に堕したという、それだけのことにすぎん。

 そのざまでは到底、全霊を尽くしているとは言えぬ。

 今の貴様に足りぬものは覚悟だ。

 誰かのために人を殺すという矛盾を背負って立つ、その覚悟が足りぬのだ」

 

 士郎は立ち尽くして。

 

「背負い込んだその量が、力となるのだ」

 

 覚悟を、決めた。

 

 脳みそは血を欲した。そのために必要なのは心臓の鼓動を早めることだった。不随意筋を随意に動かした。。

 脳みそはその血の流れを通す血管の位置を筋肉を動かして移動させ、脳内麻薬を分泌して血管を拡大させた。

 脳みそは血の中の栄養を補給するために胃の内容物を急激に消化させ、肝臓を活性化させた。

 

 そして、それは一瞬で行われた。

 

 この時、高町士郎は人間ではなくなった。

 ただ一つの想いのためだけにすべてを懸ける何かになった。

 ただ一つの目的のため、そのためだけに生きる存在を人間とはいうまい。

 

 それを、人は、戦士というのだ。

 


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