ドゥリーヨダナは転生者である   作:只野

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生前5:ビーマ

パーンダヴァ兄弟の次男、ビーマには弟達にはいえぬ秘密が一つある。

 

 

 

 

ドゥリーヨダナ本人だけは断じて認めていないが、昔のドゥリーヨダナはそれはそれは可愛らしい容姿をしていた。真珠のようにふっくらとした頬。長い睫の額縁におさめられた、きらきらと輝く星を散りばめた瞳。紅く熟した果実のような唇から鈴の鳴ったような、これまた可愛らしい声で「ドリタラーシュトラ王の長子、ドゥリーヨダナと申します」と自己紹介された時、ビーマはその可愛らしさに頬を染め兄の後ろに隠れた。

 

今思い返せばなんとも忌々しいことだが、純情だったビーマは”少女”に一目惚れしてしまったのだ。

 

「…ふーん、君がそうなんだ。僕達のことはもう知ってるでしょ。ならいいよね」

 

そんな自分の反応とは裏腹に、兄はどこか冷たい目でその可愛らしい”少女”を見下ろしてそう言い放った。母がマントラという普通ではないやり方で初めて神から授かった子ということもあって、”人の子”というより”神の子”としての傾向が強い兄は、しばしばこういう目で他人を見ることがあった。幼少時のビーマはそういう兄を見る時、自分がいつそんな目で見られるか、と畏れを抱いたものだ。兄は「お前が”正しく”ある限り、そんなことはないよ。そしてそれは有り得ない。僕らは”正しい”存在だからね」と笑ったが。

 

「…ええ、”いい”ですよ」

 

兄のそっけない一言に、がらりと少女が纏う空気を変えたのが分かった。にっこり笑みを浮かべているものの、ビーマが見たかったものとはどこか違うと思った。「父上、私の敬愛するお方。もう弟達のところへ行ってもよいですか。顔合わせはこれで充分でしょう。そろそろ弟達が起きだす時間なので行ってやりたいのです」と可愛らしい仕草で父であるドリタラーシュトラ王にねだるドゥリーヨダナに目の前の兄がますます機嫌を悪くするのが分かる。兄は自分が中心的存在であることを自覚している分、自分をおざなりに扱われると不機嫌になるところがあった。

 

「おおドゥリーヨダナ、私の最も愛しい子。ああいいとも、行っておいで。お前の可愛らしい声をあの子達は特に好んでいる」

「私の父上、愛情深き方。私の声を父上は好んで下さらないのですか?」

「ドゥリーヨダナ、私の大事な子。そう可愛らしいことを言って、私を困らすのはおやめなさい。私も勿論好んでいるに決まっているだろう」

 

目の前の言葉遊びのようなやりとりに「この僕を茶番に付き合わせるとはね」と兄が小さく吐き捨てた。少女が喋る度にドリタラーシュトラ王の機嫌は良くなり、反対に兄の機嫌が悪くなる。しかしビーマは初恋の少女の声をもっと聞きたいと思っていたから、兄の言葉に頷かなかった。兄は、こんな自分を間違っていると言うだろうか。それだけは不安に思った。

 

結局が少女が大広間を出ていくまで、ビーマは随分と落ち着かない思いをした。

 

「ねえ、ビーマ」

「っはい!なんですか兄上!」

 

小さくなっていく背中を熱心に見つめていたビーマにユディシュティラが声をかけた。慌てて兄を見上げる弟に、ユディシュティラが切れ長の目を細める。「お前は…いや、いいや」とは珍しく言葉を濁した彼をビーマはきょとんとして見上げた。兄が最後まで言い切らないのを見るのは初めてだった。

 

「兄上?」

「…まあ、お前の好きにしたらいいんじゃないかな。僕は”アレ”とは関わるつもりないけど。そんな暇な時間もないしね」

 

既に王となる為に様々な教育を受ける日々を過ごしていたユディシュティラはそう言って、ビーマに背を向けたのだ。

 

 

 

***

 

 

 

次の日からビーマの遠巻きに眺める日々が始まった。

 

彼女は王族としての教育を受ける以外はいつも、弟達をうんと甘やかしていた。

弟の一人が転んで泣いていれば駆け寄って、抱き起こしてその涙を小さな手で拭ってやった。たまに抱き起すのに失敗した時は必ず自分が下になるように倒れこみ、悪戯げに微笑んで抱きしめた弟に頬ずりをした。弟達の昼寝の時間には、自分の目をしぱしぱさせながらもちょっぴり下手な子守唄を奏でてやったりもした。

 

そうやって”いつか一族を滅ぼす一人”と”それ以外の九十九人”はどこにでもいる子ども達のように、きゃらきゃらと笑い声が絶えない毎日を送っていたのをビーマは一人きりでずっと見ていた。

その毎日の終わりを告げたのは、二週間ぶりにみる兄だった。「お前も飽きないね」と子どもらしからぬ溜め息をついたことを大人になった今でも覚えている。明日には元の王宮に帰る旨を淡々と告げた兄は少しだけ考えるように目を伏せた。

 

「ねえアレとはもう喋ったの?」

「いえ、まだです。…あの子はいつも弟達に構ってばっかりで、その、一人でいることは殆どないから」

「で、それを黙って見てたわけか。一人にさせたらいいのに。そこまでする価値はアレ自体にはないけど」

「…兄上はあの子が嫌いなのですか?」

「嫌いというか、気に食わないね。アレは絶対に”正しいこと”が出来ない存在だから」

 

それでもお前はアレに会いたいんだろう、と兄が苦く笑った。

 

「全く、アレは本当に面倒な存在だよ。本人の意思がどうであれ、いるだけで周りを間違えさせる。でも僕らは”正しい”から、アレに間違わせられることなんてない筈だ。…うん、だから僕はお前がアレに会うことを止めないよ」

 

今なら王宮の東にある湖にいるから行っておいで、と言った兄がどんな顔をしていたのか、ビーマは覚えていない。けれどこの時の兄はどこか祈るような切実な響きが伴っていた。

 

 

 

 

兄に礼を言って駆け出したビーマが汗だくで湖に着いた時、焦がれた彼女はおらず彼女の弟の一人だけがそこにいた。

彼女の沢山いる弟達の名前はまるきり覚えていなかったが、毎日見ていれば彼女以外に興味がないビーマでも顔は覚える。確か、舌足らずな口調でドゥリーヨダナの周りをウロチョロしよく彼女に抱き付いていた甘ったれだ。…自分なんか彼女に触るどころか喋ったのもあの自己紹介の時だけだったのに。ビーマは彼女に会えると期待していた分、目の前の子どもに腹をたてた。

 

「へーえ、あなたがユディシュティラが会わせようとした誰かですか」

 

一方、腹を立てたのはドゥリーヨダナを密かに待ち伏せしていたドゥフシャーサナもだった。いつも王宮ですれ違ってもユディシュティラはドゥリーヨダナ達をいないものとして扱うのに、今日に限って自分の兄に近づくなり「夕没前に王宮の東にある湖に来て。ああ、返答はいらないよ」と囁いていたのをこっそり聞いていたのだ。何かを企んでいると思っていたが、こんな奴に会わせる為だとは。そのせいで前から約束していた弓の練習がおじゃんになったことをドゥフシャーサナは許せない。

 

「…お前には関係ないだろ」とビーマが言った。

「あの人は私の大事な人だ。血を分けた人でもある。あなたこそ関係ないでしょう」とドゥフシャーサナがせせら笑った。

 

―――怒りに溺れたビーマを我に返らせたのは、ずっと会いたかった少女の初めて聞く悲痛な声だった。

 

「ドゥフシャーサナ!おい、ドゥフシャーサナ!返事をしろっ!おい!」

「どうしよう、ドゥフシャーサナ兄上が死んじゃう!」

「馬鹿を言うな!こいつはまだ、何もしていないんだぞ!何も知らないんだ!死なせてたまるか!くそ…お前達!泣いてる暇あったらドゥフシャーサナを早く診せに行けっ!足に自信がある奴は先に行って治療の準備をさせとけ!」

 

突如与えられた理不尽に泣き叫ぶ声と抗う声がぐわんぐわんとビーマの鼓膜を揺らす。

 

 

ビーマはその時、ようやく己が”神の子”だということを自覚した。

生まれながらに力を持つ、選ばれた子どもだったことを。

 

 

ただ、怒りに任せて相手の腕を握っただけだ。それだけで、羽をやられた小鳥がもがく様に、目の前の少年が苦しみ、そして気を失った。

 

大人のドゥフシャーサナなら鼻で笑い飛ばすような痛みだ。彼は兄と同じように、どんな勇敢な戦士でも裸足で逃げだす過酷な修行を、根性と努力とその他諸々(兄に頼られたいというちょっとした下心とか絶対パーンダヴァ兄弟殺すという執念とか)だけで堪え切った男だった。

しかしこの時のドゥフシャーサナは兄に甘やかされた、普通の子どもだった。王族の血のお陰で他の人間と違って丈夫ではあったが、それでも神の血を直接引く者に比べればごく普通の子どもだった。

 

「お前…私の弟に何をした」

 

何時の間にか、この場にいるのは二人きりになっていた。

なのにちっとも嬉しくないのはビーマが焦がれた瞳も、声も、何もかもが冷たい怒りで染まっていたからだ。

こんなのが見たかったんじゃない。ビーマが求めていたのはこんな、冷たい目じゃない。

 

気が付けば、ビーマの口は勝手に動いていた。

 

「ひゃ、百人もいるんだ。一人ぐらい減ったって変わらないだろう」

 

次の瞬間バチン、と乾いた音がした。ドゥリーヨダナがビーマを叩いた音だった。普通の子どもならわあわあと泣いてしまう程に、幼いながらも鋭いビンタだ。けれど、丈夫な身体を持つビーマにとっては痛くもかゆくもないビンタだった。

 

ビーマにとっては、ドゥリーヨダナのその泣き顔の方がよっぽど痛かった。

 

「ふざけるな!お前は、お前等は、命をなんだと思ってるんだ!」

 

―――ドゥリーヨダナの怒りは、”自分ではない誰か”の記憶に基づくドゥリーヨダナの倫理観においては正しかった。だがこの時代においての倫理観とは決定的に違った。

 

そもそもこの時代において命の価値はそれほど高いものではない。神の子であるならまだしも、ただの人の子である以上どれが欠けても最終的に残ったいくつかが血を残せばそれでいいと思うのが当たり前だった。

 

だからビーマは自分の言葉のなにがドゥリーヨダナの逆鱗に触れたかが分からなかった。

ただ、ドゥリーヨダナをそんな顔にしたのが自分だということだけが分かっていた。

 

「―――いつか、お前を殺してやる!いいや、お前の兄、いつか生まれるであろう弟達をも私は、オレは全員殺してやる!ああそうとも、オレ達がいるんだ、お前達がいなくても変わりはしないだろうさ!」

 

ほろりほろりとその美しい瞳から真珠のような涙が零れ、頬を濡らす。

 

拭おうと伸ばした手はぱしんと払いのけられた。

 

「オレに触れんな!―――消えろ、消えてしまえ!お前の顔すら見たくない!」

 

 

 

こうしてビーマは、初恋のつぼみを散らしたのだ。

 

 

 

***

 

 

 

賭けに負けた帰り道、兄が「お前もようやくちゃんと終わらせられたようだね」と笑った。自分がどうしてあの男に誓いをたてたのか、本当の意味を知っていたのは多分兄だけだ。もう一生引きずっていくのかと思ったよ、と笑う兄にあまり大きな声で言わないで欲しいと小声で返す。今こそ吹っ切れたが、あの初恋はビーマの黒歴史の1つだ。しかも後日、水遊びをしていたドゥリーヨダナに「女が肌をさらすな!」と言って「オレは男だこのビーマ野郎!」と池に投げ込まれるというおまけもある。

 

「あの時中途半端に終わっちゃったからねー。ちゃんと振られて終わるか、男と知って終わるかのどっちかならお前も引きずらなくて良かったんだろうけど、よりによってあんな終わり方だったし。いっそのことあいつが益荒男!男のなかの漢!って成長してったら良かったのに、あの雰囲気残したまま育つから余計お前も燻ってたんだろ」

 

兄の言う通りだった。枯らされる前に自分の手で自ら散らしてしまった、初恋の花。芽吹くこともなく、けれど枯れることもないその花は時折ビーマを苦しめ苛んだ。まるで忘れるなとでもいうように。その度に兄の忠告染みた言葉が脳裏を過った。兄には、この未来が分かっていたのだろうか。

 

「いや、ボクは正しいことかどうかしか分からないよ。今も昔も」

 

しかも年々分からなくなってくるし、とぼやく兄は昔の兄より人染みていた。今の兄の方が好ましいとビーマは思う。しかし「未来が分かったら便利だよねー、賭け事にも勝てるし」という言葉には頷けない。兄は賭け事に弱いことをいい加減自覚すべきだ。

 

「…あいつはね、”間違っている”べき存在なんだ。そういった意味では”選ばれた”モノではある」

 

それでもあいつは自分が選んだというんだろうね、と兄が囁くように呟いた。時折、兄はこの世の誰よりもドゥリーヨダナを理解したようにいうことがある。

 

「あいつは”一族を滅ぼす子”と予言されて生まれてきた。僕なりに色々やったけど、悲しいことに戦いは避けられないだろう。けれどそれもまた、ドゥリーヨダナが”選んだ”ことなんじゃないかな。その選択に口を出す資格は誰にもない。…僕達が出来ることはきっと、あいつを戦士として殺してあげることだけだよ」

 

そこまで言って、兄は微笑んだ。オレも多分笑っていた。

もうオレはあの日のことを思い悩むことはないだろう。あの男を見て複雑な思いを抱えることもないだろう。

 

 

 

オレはようやっと、あの殺意を真正面から受け止めることが出来るようになったのだ。




長男➡主人公
ムカつくけど神の子も間違えることがあるのだと教えてくれた点では感謝している。その点にしては認めてやらなくもない。「今度また賭博行くなら誘って欲しい」
次男➡主人公
今回やっと吹っ切れた。今後は弟ともども殺したい。「兄を二度と賭博に誘わないで欲しい」
三男➡主人公
カルナの主であり友、としか思っていない。「カルナとの勝負を邪魔しないことに関しては評価しています」
四男&五男➡主人公
兄の意外な一面なんて正直知らないままでいたかった。「「意外に常識人だこの人」」

主人公➡兄弟
「全員殺す」

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