マスターと離れた現在、ドゥリーヨダナがやることは何もなく、カルナはカルナでエジソンの命により色々忙しなく働いていており、ドゥリーヨダナにとって暇を潰すものは何もなかった。
一言で言えば、ドゥリーヨダナは暇を持て余していた。
「…で、来たのかね」
「ああ、だから来たのだとも発明王」
「…私は忙しいのだが…」
エジソンは困惑をふんだんに含んだ声音で、くすくすと喉で笑う男に対し反論を試みた。しかしドゥリーヨダナは生まれながらの王族、それも長子である。時に神々からの忠告やバラモンの忠告すら聞き入れなかったドゥリーヨダナが、エジソンの小さな反論を気にする訳もなく、豊かな黒髪を背中に流して首を傾げる。「知っているとも、わが友の主にして、人々へ光を与えた人よ。これはオレの興味だ。なに、気にすることはない。そも、お前は集中すると周りが見えなくなる気質だろう」と鷹揚に笑って、エジソンの言葉をいなしてみせた男はその場にあった椅子に優雅に腰掛けた。
居座る気、満々である。
その意思を正確に汲み取った男は溜め息をついて、机の上を乱雑に片した。
「おや、仕事はいいのか?」
「何、貴方とのコーヒー1杯を嗜む時間くらいは作ってみせるとも」
悪戯げに微笑むドゥリーヨダナにそう言って、エジソンはオーバーに首をすくめてみせたのだった。
***
深みのある、どこか懐かしい匂いがドゥリーヨダナの鼻腔を擽った。一度目の人生ではよく飲んでいたっけ、とエジソンが器用にポットを取り扱っているのをぼんやりと眺めながら思い返す。二度目の人生が濃すぎて、正直殆ど覚えていないが、それでもその一度目の人生はしっかりとドゥリーヨダナの中に根付いていた。根付いていたからこそ、ドゥリーヨダナは災いの子としてではなく、ドゥリーヨダナとして生きることが出来たと言っても過言ではない。自己形成までの期間が短かったからこそ、周りの心無い言葉に傷つきながらも、生きることを諦めずに済んだ。抗うことを、諦めずに済んだ。ドゥリーヨダナはそのことこそが誇りだと思っている。
だからこそ、あの宝具がドゥリーヨダナの生きた証でもあった。
「…『カリ・ユガ』。神代に生きた貴方の宝具が、神々の否定だったとは思わなかった。…カルナ君が、私と貴方が似ていると言ったのも、道理かもしれない。私の宝具は、
ふうふうと淹れたてのコーヒーを冷まそうと息を吹きかけていた男が、まるでドゥリーヨダナの思考を読んでいたかのように、言葉を零した。それに対し僅かに目を見開くも、一拍おいてゆるりと首を振る。「いいや、それはちょっと違う、美しき獅子よ」とドゥリーヨダナは幼子の質問に答えるかのように優しい声で答えた。
「オレの宝具は、確かに結果としてはお前と似ているかもしれない。しかしオレの宝具は、決して神々を否定する訳ではないんだ」
オレはただ人の可能性を信じただけだ、とドゥリーヨダナが、深く息を吐く。ゆらゆらと、コーヒーに映し出された己が揺れるのを視界におさめながら、言葉を紡いだ。
「…いつか、インドラの雷をも誰しも扱う日が来ることを信じた。英雄の存在が過去になり、誰もが輝ける可能性を秘めた時代がやってくることを信じた。神が誰かを選ぶのではなく、人が人を選びまた選ばれる時代がやってくることを信じた。人が、己自身で生きていく時代を訪れることを、信じた」
ーーードゥリーヨダナが、カルナが、神々の思惑など知らず、必死に生きていたあの時代。
ーーー今はもう、神話としてしか人々に認識されていないが、それでも確かに自分達が生きていた、あの時代。
空に瞬く星を、幼き弟たちと共に数えた日があった。
風に舞う小さな花びらを集め、父と母に捧げた日があった。
修行に明け暮れた後、アシュヴァッターマンと共に水遊びに興じていた日があった。
万物を照らす太陽を、カルナと共に仰ぎ見た日があった。
ーーー確かに、あの時代はあの時代なりの良さがあったのだろう。
しかし、神々という第三者の思惑のせいで、呪われた者がいた。失う者がいた。苦しむ者がいた。哀しみを与えられた者がいた。それが、どうにもドゥリーヨダナは許せなかった。
だからこそ、ドゥリーヨダナは感謝をしている。
「…ああ、だからこそマスターはお前のもとへとオレを置いたのだろうな」
―――『聖杯?叶えたい夢ならあるが…。…オレは死ぬ直前まで、神々からの巣立ちを願っていた。だからこそ、その一端を担ってくれたものは皆、名を残そうが残すまいがオレにとっての若き英雄だ。…そいつらに、一言くらい、賛辞を述べることが出来たら、と思う』
(こんな、覚えるに足らないささやかな願いを、覚えてくれていたのか)
全く、本当にサーヴァント想いの主だ、とドゥリーヨダナは困ったように唇に笑みを浮かべた。ドゥリーヨダナは生前『災いの子』として扱われていたこともあり、人のこういう純粋な好意―――勿論家族やアシュヴァッターマン、カルナは別としてだが―――を向けられるのはごく稀だった。だからだろうか、なんだか面映い。少しだけ頬を染めたドゥリーヨダナは、立香の好意を無駄にしないように目の前の、自分が死んだ後に生まれ落ち偉業をおさめた男に向き直った。
「トーマス・アルバ・エジソン。後の世に生まれた、オレが待ち望んでいた若き英雄、世界を照らした光よ。
―――お前がこの世に生まれ、偉業を成し遂げることを、きっと誰よりも昔から、ずっと待ち望んでいた」
***
「エジソンとちゃんと話せた?」という、悪戯染みた声にドゥリーヨダナは苦笑した。その顔のまま、「ああ、ちゃんと話せたさ」と久しぶりに見る立香の頭を少し乱暴がちに撫でる。良かったと安堵したように笑った少年が「カルナとも話せた?」と首を傾げた。
「ああ、マスターが配慮してくれたおかげでな」
「良かった、気になってたんだ」
「すまん、すぐお前に報告しようと思ってたんだが、マスターと合流した後は作戦会議やらなんやらで忙しくて、喋る時間すらあんまりなかったからな…」
重ねてドゥリーヨダナが詫びれば「でもドゥリーヨダナのこと信じてたから」と立香がにっこりと笑う。なんだろうこの好意100%の笑みは。眩しすぎて目が眩みそう。
「…ドゥリーヨダナ、身体とかは大丈夫?宝具使ったから、心配だったんだ」
「まあ、あれ本来なら自滅宝具だしな…」
なんせ、ドゥリーヨダナの今の存在自体が神秘の塊である。神々の否定どころか自己否定の宝具だ。今回は完全な宝具展開ではなかったため、今こうして存在出来ているが、本来なら即カルデアに帰還しているところである。
それに、先ほどまで話していたコサラの王ラーマにも言ったが、『あらゆる神秘・呪い・祝福すらを打ち消す』宝具ではあるが、基本的に生前の呪いや祝福には効かなかったりする。「なんだと…」と非常にがっかりされてしまったが、それに文句を言えないくらい、他の英雄が持っている宝具に比べるとささやか過ぎる…言葉を選ばずに言うならば、見劣りする宝具だ。敵のバフ、味方のデバフやスタンの解除くらいしか出来ない。殴って倒す、まさにバーサーカー向きと言われればそれまでだが、正直カルナにかかっている呪いを解いてあげたかったためドゥリーヨダナ自身、若干使えない宝具だなと思っている。
なによりこの宝具、神代に生きた英雄や神々、それにキャスター勢に非常に受けが悪い。
(…まあ、嫌われるのは慣れてるがな)
生きていること自体が罪だと、常に死に晒されて生きていた生前と違って、少なくとも積極的に突っかかってくる英雄は誰一人としていない。ドゥリーヨダナが居場所さえ弁えれば、非常にカルデアの居心地は良かった。本当に、マスターには感謝しかない。
先程のカルナにしても、そうだ。
「…マスター、カルナがアルジュナと戦うことを許可してくれてありがとうな。確かにカルナしかアルジュナを抑え込めないのもそうだが…やっぱり特別な相手なんだよ、カルナにとってあいつは」
関係性をわざわざ言葉にするほど野暮なことはないが―――それを踏まえても彼等の関係を言い表すならば、それこそ運命の相手ってやつなんだろう。カルナの友でしかないドゥリーヨダナでは、到底あの
―――それでいい。
それがいいのだ、と、ドゥリーヨダナとカルナは互いに手を取って、選んだのだから。
「行こうか、マスター」
ドゥリーヨダナは、立香に微笑んだ。
たった一人の友との別れが近づいていると知っていても、それでも微笑んでみせた。
―――ドゥリーヨダナは転生者である。
本来なら一度目の人生で全てが終わるはずだった存在は、二度目の人生で再度幸せを得た。
そして、三度目の
もう、充分だった。
充分ほどに、幸せだった。
―――これ以上、望むものなどなにもない。
「梅の、匂い?」
ふわりと宙に舞った一枚の花びらを視界に捉えながら、「気のせいさ、マスター」と男は嘯いた。