五日目
初夏だとはいえ、曇っていれば朝はまだ肌寒い。特に早朝と呼べる時間帯だから、随分と冷え込んでいる。ここからあの気温になるまで上がるのだから、太陽は働き者だなと思う。
俺はいつもより遠回りする方向へと足を向けていた。怪盗五文字に指定されたとおり、卯の刻……つまり午前六時ごろ、荒楠神社に辿り着けるよう家を出ている。
「……遠いな」
最近荒楠神社へ向かったことはあったが、その時はそこまで遠く感じなかった。今日とその日の違いは何だろう。
やはりこの事件だろうか。それともあの日は調子が悪かったからか。
しかし、どんなに遠く感じるとはいえ、歩いていればいつかは辿り着けるものだ。時間さえあれば、俺だって辿り着ける。
本殿へ伸びるたくさん段の石段を見上げ、俺は呟かずにはいられなかった。
「遠いな……」
なんでこうも遠いんだ。古くからある神社に対して、せめてもっと石段を短くしてくれというのは、さすがに我儘が過ぎるが、それにしても遠い。ロールプレイングゲームの最後の戦い前は、こういうところを進んでいくイメージがある。ただ、俺は勇者でもなんでもない。
なんでそんな気分にならないといけないのかと思いながら、一段一段、昇っていく。
段数を数えようとしても途中で分からなくなるのが関の山なので、数えることはしない。
その代わり、この事件の事をもう少し考えようと思った。
どうしてこんなことをしたんだろうか。
友のものである「お」から始まるものを奪いたかったから、こんな事件を起こしたのだろうか。
「あいつは話をすれば、通じる相手だとは思うんだが……それとも別の友か?」
あいつは怪盗を「親友」と呼ぶ。それほどに仲がいいのだから、お願いのいくつかは聞いてもらえるはずだ。
なのに、それをしなかった。
つまり、最初から、「お」から始まるものを欲しいと頼んでも、決して貰えないと諦めているのだろう。
「諦め、ね……」
諦めるには早過ぎる気がする。それとも、俺が知る前から親交があるようだから、小さいときから羨望していたものなのだろうか。
だとすると、俺まで巻き込む意味が分からない。
俺をわざわざ隠しもせずに、ここに呼び出す意味が分からない。
話を聞いてもらい、俺を介して頼むつもりか。
明らかに二度手間だ。俺はそこまで高い交渉術を身につけている訳じゃない。それこそ親交のある入須辺りに頼めば、事は望む方向に運ばれるだろう。
そうしなかった理由……。
「……俺が、怪盗のいう友がもつ「お」から始まるものを持っている、ということか?」
心当たりはない。
しかし、俺をわざわざ呼び出し、あがけというのはなぜだ。逆に、俺が持っていたとして、呼び出す時間と場所まで指定しているというのに、肝心の目当てのものを指定してこなかったのは、なぜだ。
怪盗五文字はそれを俺に解かせ、ここに持ってこさせたかったのか。俺が解けると信じて。そんな不確定な要素に頼ったのか。入須冬実の欠席を利用するという確定的な要素を使うような奴が。
……すべて神通力による予想の通りに動いたからとか言われたらかなわんぞ。
「分からん……」
結局は何も分からないままだ。
分からん分からん、と心の中で声をこだまさせていると、ようやく石段が終了した。
朝日に照らされた神社の境内が目の前に広がり、そしてそこに。
「ようこそ、お参りくださいました」
セーラー服を着た長い髪の女――十文字かほが、深々と頭を下げていた。
社務所の一角、以前千反田に生き雛祭りの時の写真を見せられた場所に、俺は通された。
もはやここは、十文字の部屋と言っても過言ではないだろう。本棚や勉強机、電気スタンドに筆記用具まで揃っている。おそらく、自分の家は別にあるだろうが、パーソナルスペースができていた。
「今、お茶淹れる」
とりあえず、生き雛祭りの時と同じ場所に腰を下ろす。自然と正座になった。
五分ほどして、十文字はお盆に二つのコップを乗せて戻ってきた
「はい、麦茶。どうぞ」
「どうも……」
俺とは反対側の位置に、十文字が座る。多分正座だろう。礼儀正しそうにしているが、セーラー服のせいか幼く見えた。いつぞやの大人っぽさは、まるでない。
いや、すぐに思い当たった。今のは語弊がある。
セーラー服のせいではない。これからまさに怒られるのかと心配する子供の雰囲気があるのだ。顔貌はまさに、十文字かほである。表情は、昨日の複雑な表情を思い返させるものだった。
「で。お話、しに来たんだよね?」
「ああ……そう、だな」
「聞かせて?」
「……一つ、確認していいか?」
「うん」
「十文字、お前が怪盗五文字。これはあってるよな?」
十文字はくすくす笑って、すぐに寂しそうな顔をしてから、小さな声でせいかい、と言った。
「本当に折木くんはすごいね。どうやって私に辿り着いた?」
一度深呼吸をする。考えながら話すのは苦手なので、少しだけ整理してから口を開いた。
「……これは俺の推論だ。間違っているところもあるはずだから、鵜呑みにしないでくれ」
「うん。どうぞ?」
「まず、学内学外誰でもできる、という状態から考えていった。
一つ目二つ目を飛ばし、三つめの『上履き』の時を思い返して欲しい。
その時怪盗は、犯行声明カードと一緒に、このカードを置いた」
俺は鞄から、一枚目のメッセージカードを取り出す。
「ここに、『十文字事件の時はありがとう』と書かれているだろう? 俺は思い返したんだが、礼を言われるようなことをしていないんだ。何せ、十文字事件は(表向き)未解決なんだからな。
それでも、ここには『ありがとう』と書かれている。
あの事件の特徴から、礼を言われるとすれば、盗まれた品物が返されたことだと推測した。
だが、俺はさっきも言ったように、品物を取り返させたわけじゃないんだ。あの時は自然に戻っているはずだ。なのに、こいつは、俺に礼を言っている」
もう一息吸いこんで、ゆっくり言葉を選び、口にする。
「だから俺はこう考えた。
怪盗五文字は『十文字事件で俺がいろいろ考えていた事を知っている人物』。
さらに言えば『その時に被害に遭っていた人物、あるいはその関係者』だと。
それなら、まぁ、礼を言われることはやってないが、ある程度自然に考えられる。
次に、一つ目と二つ目の犯行だ。
狙われたのは『赤いサインペン』と『入須冬実』。被害に遭ったのは壁新聞部と……入須の場合はあえて言えば入須本人だな。
ここから分かるように、十文字事件よりも条件が厳しくないということだ。つまり、狙うのは本来、何だってよかったはずなんだ。『味付けのり』でも『炒り卵』でも」
ここで十文字は手で口を隠しながら肩を揺らした。
「味付けのりに炒り卵って。お腹空いてる?」
腹は減ってない。朝食は食べてきた。
「む、おかしかったか?」
「あ、ごめん。続けて?」
「……そう、狙うのは何だってよかった。
しかし怪盗は、わざわざ『入須冬実』なんてたいそうな奴を狙った。欠席する入須を選んだのも、あたかも犯行が成功したという演出のためだろう。ただ、これにより、『事前に入須冬実の欠席日程を知っていた人物』という条件が付くことになる。
入須の友人を尋ねたところ、欠席日程はその友人のみが知っているという状況だった。それによってその友人も怪盗の可能性が出たんだが……さっきの十文字事件の件によって否定される。そいつは十文字事件の時、俺が色々考えていたことを知らなった」
もう一度、呼吸をする。喋り続けるのは苦手だ。今週は結構喋ったのではと思えてきたな……来週は電源を切っておこう。
「十文字が事前に入須の欠席日程を知っていた、ということは、お前の口から聞いたことだしな。そのまま証言として採用させてもらったぞ」
「あれ? 私、言った?」
「火曜日、俺に話しかけてきたじゃないか。俺が、入須は欠席だから心配するなと言ったら、『折木くんも知ってたんだ』って。覚えてないか?」
「……なんで忘れちゃってたんだろう」
十文字はそのことが心底悲しいというような表情を作る。気のせいではない。他人との会話を忘れるなど、誰にでもあることだと思うのだが。
「まぁ、そう言うこともあるさ。話を戻すぞ。
次は一つ目の事件に注目しよう。
壁新聞部から『赤いサインペン』が奪われた。
犯行が行われたのは、部員が昼食を食べに行った最中だという。その時活動していた部活はいくつもあったらしいが、先の条件『十文字事件の時に被害に遭った人物、あるいはその関係者』にあてはまる部活に絞ると、数えるだけになった。そしてその中に、占い研究会があった。
三つ目の犯行も四つ目の犯行も、お前なら簡単にできるだろう。
以上の事を踏まえて、十文字が一番怪盗五文字に近いと推測した」
言い終えると、十文字はぱちぱちぱちと、ゆっくりと手を鳴らした。
「言っておくが、確証はない。入須冬実の時を除けば、どれも誰だってできる。お前が否定しても、俺はそれを信じるしかないんだ」
「全部当たってるよ? でも本当にすごいね、折木くん。全部見られてたみたい」
「たまたまだろう。それに、分からないことは分からないんだ」
言葉を聞いて、十文字が目を見開いた。……気がした。
「どんなことが分からない?」
「……まずでかい疑問は、どうしてお前がこんなことをしたのか、だ。なにか理由があるんだろう?」
「……」
悩んでいるんだろうな。親友に相談もせず動き出したんだ。それなりに覚悟が必要な理由なのは想像し難くない。
「千反田も心配していた。親友に話せない理由があるのだと、あいつは思っている。簡単に話せるようなことじゃないだろうが……俺は、口は、固いつもりだ……」
「折木くん、心配してくれるんだ」
「まぁ、な。お前がきっかけで千反田がいつもの千反田で無くなるのは、本望じゃないしな」
なんで照れ隠しに千反田を使ったんだと、言ってすぐに後悔した。これじゃあまるで、千反田を意識しているように聞こえ――、
「折木くんと、話がしたかった。けど、私には勇気がなかったから」
――なに?
「折木くんに、私のこと、考えて欲しかった」
それは、つまり……そういうことなんだろう、か?
「いつからだろうね?」
いや、俺に聞かれても。
十文字は麦茶を一口飲むと、視線をコップに落としたま話だした。
「意識し始めたのはね、去年の文化祭が終わってからかな。それまでは、えるの話を聞いて知ってた。どんな疑問でも、必ず答えに導いてくれる、まさに光みたいな人だって」
どんな話し方をしてるんだ、あいつは……。
「える、昔から好奇心旺盛で、なんにでも興味持つ子だったんだけどね。いつからだったか、何かに引っかかってるような感じで……遠慮って言うのかな。でもそれが、いつの間にか無くなってた。気が付いたのは夏休みに入って少ししたころかな。えるの話しぶりから、古典部に入ったおかげなのも、折木くんのおかげなのも、すぐに分かったよ」
関谷純のことだろうな、おそらく。というかだな、関谷純の真相が分かる前からあいつは遠慮なんてしてなかったと思うんだが……あれが遠慮してのものだとしたら……。
「そこから、折木くんがどんな人か、興味が出てきた。で、文化祭が終わってから、折木くんが十文字事件の時に色々考えていたってえるから聞いてね? そしたらなんだか、『運命の輪』が戻ってきたのも、折木くんのおかげな気がしてきたの」
「それは違う。俺のおかげでもなんでもない」
「分かってる。でも、そんな気になっちゃったんだ。……どうしてかなって、自分でも理由を考えてみた。そしたら、気が付いたんだ。私、折木くんが」
「ま、待て」
その先を言わせてはいけない。これ以上先を聞いてはいけない。
これは……これはきっと、俺と十文字だけの問題じゃないんだ。
進ませてはいけない。
「えっと、だな……さすがに、鈍感な俺でも、今の話を聞いて気が付かない訳じゃない。だいたい、分かった……お前が事件を起こした理由は、十分に、分かった」
「……ありがと」
礼を言われる覚えはない。と言って、麦茶を口に含む。もともとこんなにも冷たかっただろうか。味も温度も気にしていられなかった。こういうことは、慣れていないんだ。
「……ああ、そういうことか」
ふと、怪盗が最後に盗みたがった「お」から始まる友のもの、というのが何なのか、思い当たってしまった。今までずっと「奪う」と表現してきたのも、その為か。
「自惚れかも知れん。その時は笑ってくれ、十文字。奪うも何も、俺は誰のものでもない。もちろん、千反田のものでもない」
「そう? 折木くんを借りるときは、えるに言わなきゃいけない気がするけど」
「勘弁してくれ……」
自惚れではなかったようだ。自惚れだった方がまだ楽に考えられたんだがな……。
麦茶を再び飲もうとして、いつの間にか飲み干してしまっていたことに気が付いた。
「あ、ちょっと待っててね」
再び十文字が席を外す。ふうむ……どうも俺はこういうことに不慣れだからか、上手く考えがまとまらない。
「はい、御代わり」
「ああ、ありがとう」
冷えた麦茶を喉に流す。心地よく感じるのは、だんだんと気温が上がってきたからだろうか。
「ねぇ、折木くん。私が奪った『永劫』に、どんな意味があるか分かる?」
「ん? ああ、昨日姉貴に聞いた。世界の変化、だったな」
「へえ。お姉さん、タロット詳しいんだ」
「興味のあるカードしか知らなそうだがな。いや、姉貴は今関係ないだろう。で、それがどうかしたか?」
「うん……。私、えるを見てると、本当に世界が変わったんだなって思うんだ。……眩しくて、羨ましかった。私も、世界を変えたいって思う程にね。だから頑張ってみようって思ったんだけど……すぐに気付いちゃった。私の世界は変えられそうにないって」
こういうことは黙って聞いているしかない。
「最初から、折木くんを奪うなんて、無理だって分かってたんだけどね」
世界の変化は、十文字かほから奪われた。つまりは、世界は変化しない、というメッセージだったのか。俺ならば、十文字の世界を変えられると、こいつはそう思っていたのだろうか。
では、十文字のいう世界とは何だろう。現状? 家? 定められた将来? 環境? いずれにしても、俺には断定する権利が無い。
正直、言ってやりたかった。
そんなことはない。いつだって、変えられるはずだ。誰だって、変えてくれるはずだ。今が全てじゃない。
そういったことは、言えなかった。言えるはずがなかった。
先程、姉貴の話題が出てきてしまったがために、昨夜姉貴に言われた事を思い出してしまった。
あんたが慰めちゃダメ。
今俺がかけようとした言葉は、どれも慰めだ。それにしかならない。姉貴は一体、あの一瞬でどこまで把握したのだろうか。気味が悪い。
「分かってても、体験したかった。折木くんに私のことを考えてもらうのを。折木くんに考えてもらえて、私、嬉しかった。でも、疑われるのはあんまりいい気持ちになれないね」
諦めの言葉を聞きながら、俺は麦茶を喉に流す。
「……私からのお話は、これでおしまい」
言うと十文字は、自分の机であろうその下から、袋を二つ取り出した。
「はい。ごめんね、上履き借りちゃって。こっちは赤いサインペン。折木くんから返してもらえる?」
上履きを入れた袋は分かるが、サインペン入りの袋も案外に大きい。一体何本のサインペンを持ちだしたんだ。
「それは別に構わんが……騒ぎはどうする。あれだけ盛り上がってしまうえば、『最後は失敗しました』なんて言えんぞ」
「そう、だよね……どうしようか?」
やはり考えていなかったか。というより十文字よ、なぜ楽しそうなんだ。いや、気のせいか。
「まぁ、俺に考えが無いわけではない。なぁ十文字。この犯行声明カード、もう一つ用意できるか?」
「一応予備はあるけれど……どうするの?」
「じゃあ、こう書いてくれ」
俺は鞄から御守りを外しながら、指示を出す。入須冬実が俺に奉納したと冗談を飛ばした、荒楠神社の大願成就の御守りだ。
『「御守り」は奪われた。よって五文字は成立された。怪盗五文字』
「そう書けたら、この御守りと交換だ。後で俺がそれをサインペンを届けるついでに壁新聞部に届けてやる。事件が完結すれば、生徒も落ち着くだろう」
今は入須に感謝しよう。……もしかしたら奴も一枚噛んでいるのか? さすがにこれは考え過ぎか。
「……はい、書けた。折木くん、こんなことまで考えてたんだ? 本当にすごいね」
「いや、別に考えてたわけじゃないんだが……友の持つ『お』から始まるもので思い浮かんだのがこれだっただけだ」
「ふうん。でもよくうちの御守りなんて持ってたね。御守りとか、持たなそうだったんけど」
「少し前に入須に納められたんだ。もちろん冗談で、だが。曰く、俺に納めると大願も成就しそう、とのことだ」
聞いて十文字はくすくすと笑う。
「うん、そうだね。確かに、うちに納めるより大願が成就しそう」
「神社の娘がそれを言うか?」
「思ったことを言っただけ」
それはそれでダメだろうに。
新たな犯行声明カードを受け取り、飲みかけの麦茶をそのままにしては勿体無いと思った俺は、それを一気に飲み干す。
「じゃあ、俺は先に行く。麦茶、ありがとうな」
「ううん。こっちこそ、色々とありがとう」
「……千反田への説明までは考えてやれん。だから、それだけは自分でなんとかしてくれ」
「うん」
十文字よりも先に、学校へ向かう。鳥居をくぐろうとしたところで、「またお参り下さい」と声が聞えた。返事に困ったので、「ん」とだけ返す。
ここから学校に向かうのは……大日向の時以来か。正確には、あの時は参道から指定コースに戻り、学校へ向かったんだったな。
長い石段を下りていく。
雲は晴れ、気温は上がっていく。初夏の風にしては、少々熱を含んでいるように感じた。
「もう、夏か……」
後少しで夏休みか、そう言えば。ということは文集か。今年は大変なことにならなければいいが。
石段を降りながら、ふと、十文字から貰ったメッセージの「舞台」という比喩を思い出した。
怪盗が用意した舞台。怪盗が上ってこれなかった舞台。
俺は舞台に上がる事の無い人間だ。
何があろうと、客席で舞台を眺めることしかできない。
舞台では物語が展開され、役者は喜怒哀楽を表現する。
今回の事件の目的を含めれば、おそらく十文字はこれを「お互いが住まう世界」とでもいいたかったんだろう。
俺と十文字の住む世界は、やはり違う。俺と千反田の住む世界が違うように。
となると、用意した舞台というのは……。
「婿にでもするつもりだったか……いや、さすがにこれはいき過ぎた自惚れだな。笑いにも変えられん」
十文字かほの世界は、変化しない。
怪盗は、華麗に「世界の変化」を奪っていったのだから。
今日一日、朝から大変だった。
朝、壁新聞部へ十文字に託されたものを渡しに行けば、事件などどうだっていいから取材させろとしつこく迫られた。もちろん、丁重にお断りさせていただいた。
久しぶりに上履きで歩いていると、教師陣から「本当に何もなかったのか」と要らぬ心配を掛けられた。「犯人は誰だ」と聞いてきた数人も、はっきり言ってうっとおしかった。
とは言うものの、昼休みには「幕引き」の文字がでかでかと書かれた壁新聞が掲示されていたから、すぐにこの騒ぎも落ち着くだろう。平和に戻れ、神山高校。
で、今は放課後。今日の部活には、古典部全員が顔を出していた。
俺は机に突っ伏させてもらっている。とにかく疲れたのだ。エネルギーを養わないといけない。
こんな俺を、千反田がそっとしておいてくれているのは、ある意味幸いだと思った。千反田が納得できるように説明する自信はない。だから俺は十文字に託したのである。
伊原は悲鳴を上げている里志の向かい側で勉強を教えていた。里志の今年の目標は補修ゼロらしい。今のところ大丈夫だとは思うが、さて。
唯一の後輩である大日向は何をしているのだろう。ちらりと見てみると……じっと俺の方を見られた。俺の視線に気が付くと、すぐににこり返される。
何やってるんだ、あいつ。何もしないでいいのか。それはそれは、なんとまぁ……羨ましいな。省エネじゃないか。何もせずに楽しめるなんて。今度、方法でも聞いてみよう。いや、楽しむのもエネルギー消費が激しいことか。考えものだな。
というところまで、考えたところで。
「失礼します」
髪の長い女が入ってきた。件の十文字かほである。
「やっぱり正々堂々じゃないとね」
そう言って、十文字はすたすたと千反田の方に向かって行く。千反田は、昨日の今日でまだ整理が付いていないのか、何を言ったらいいのか分からない表情をしていた。あたふたもしている。伊原と里志、大日向は、事の成り行きを見守っていた。
「あ、あの、かほさん、その、私……」
「はい、える。挑戦状」
「……挑戦、状?」
十文字が渡したのは、あの犯行声明カード、に似ている大きさの一枚のカードだ。俺の視点からでは裏側しか見えないので、全く同じものかどうかは何とも言えない。
「あと、折木くん。これ」
千反田が渡されたカードを読んでいる間、十文字は俺に御守りを差し出した。「どうか、お納めください」と言って頭を下げている。
「俺は神社じゃないぞ」
むしろそっちが神社である。
「いいの。大願成就、よろしくね」
「自分のところがあるだろう」
「折木くんの方が御利益ありそうだからね」
「さいで」
俺は御守りを受け取る。入須から俺に渡り、俺から十文字へと渡り、十文字から俺に渡った。結構人を渡ったものだ。案外御利益もあるかもしれない。
「なむ」
御守りを渡すと、十文字は両手を合わせて、目を瞑った。
「もうつっこまんぞ」
十文字は口を尖らせたが、すぐにくすくすと笑った。こうして見ると、とても怪盗には見えない。
「……ええっ!」
これで事件も解決かと一息ついていると、千反田が大声を上げた。今まで十文字から渡された挑戦状なるものを読んでいたはずだが……。
「あ、あの、かほさん、これ、あの……ええ!?」
「ふふふ。じゃあ、今日は一先ずこれだけ。負けないからね、える」
「ちょ、ちょっとかほさん! これは一体、どういう意味ですか!」
千反田のことなどお構いなしに、十文字は部室から出て行く。千反田はその後を追っていって、部室は一気に静かになった。平和が一番。寝よう。おやすみ。
「ホータロー。なんとかしたんだね」
まどろみに意識を混ぜて行こうとしたところで、里志が意地悪い笑みを浮かべながら話しかけてきた。当然、俺は顔を上げていない。見なくても分かる声音だったのだ。
俺は両腕に顔を埋めがら答える。
「さぁ……なんとかなってりゃいいけどな」
「そんな事言って、ホントは何とかしてやったぜ! って思ってるんじゃないの?」
「ふくちゃん、いいから! 今はこっち! 次この問題!」
ナイス伊原。お前のことは眠ったとしても忘れないでおこう。
「ったく、折木のくせに。なんかムカツクのよね」
なんでだ。なんで俺はここで罵倒された。ちくしょう、忘れてやろうか貴様。
「まぁまぁ。私達は任せっきりでしたし、あんまり言わない方がいいですよ。それにしても、やっぱり今回も折木先輩は折木先輩でしたね」
やっぱりってなんだやっぱりって。
そもそも、俺はこいつらの評価の仕方がいまいち理解できない。なんというか……良く分からん。
良く分からんのだが……。
なぜか悪い気はしない。
決してそういう趣味があるわけではないんだがな。
「あ、ちーちゃんおかえり。結局何だったの?」
千反田が戻ってきたのか。……今、なんとなくだが、嫌な予感がした。突っ伏したままでいよう。
足音が聞え、俺の横で止まる。自分の席に戻るだけなら通らなくていいはずだ。ということは……。
「折木さん」
俺の嫌な予感の的中率、十文字の神通力といい勝負をしそうだなぁ。
「折木さん! 起きてください!」
「……なんだ、千反田。見て分からなかったか。俺は今休んでいて」
「私も負けません!」
「はぁ?」
「かほさんには、渡しませんからね!」
「……すまん千反田。良く分からんのだが」
「では、私は用事ができたので、今日はこれで失礼します!」
俺の言葉は空中で虚しく消える。千反田には届かなかった。というか、あいつ、何で少し怒り気味なんだ……。
「……なんだお前ら」
「僕はホータローの修羅場、早く見たいなあって」
「ちーちゃん泣かしたらぶん殴るからね、折木」
「仲違いだけは、しないでくださいね、折木先輩」
「なんなんだ……」
千反田はそのまま鞄を持って帰るし、伊原たちからは変な視線を向けられるし。災難といっていいよな、これは。
ただ、あれもこれも全部、今週ならば原因がはっきりしているから助かる。
俺は言わずにはいられなかった。
「怨むぞ、怪盗五文字」
俺の言葉は、やはり虚しく空中で消えたのだった。
俺はまだ、客席にいた。さっさと客席ホールから出れば良かったものを、俺は出るのを面倒がったわけである。
大人しく席に座って舞台を眺める。
舞台の上で物語を繰り広げているのは……見知った顔たちだ。俺の両隣に座るやつも、見知った顔だ。
「お願いします、誰か!」
役者が叫ぶ。それだけならまだいいのだが、役者は客席に向かって叫んでいた。
舞台上の物語の裾が、客席にまで伸びてくる。俺は頬杖をつき、目蓋を閉じ、ここから動かないことを周りにアピールした。
にもかかわらず、両隣に座るやつらが俺の腕を引き、無理やり舞台に引き摺り出す。
「ありがとうございます!」
抵抗むなしく、舞台に上げられた。浴びたくもない光を浴びさせられ、目を眩ませながら、俺は物語に無理やり関わらせられる。
俺を引き摺り出した奴らを含め、再び物語が動き出した。
物語に関わった以上、役者や舞台上の空気を読み取ってしまう。見て見ぬふりをしても、読み取れてしまう。
「勘弁してくれ……」
果たしてこれは薔薇色か、と聞かれても、俺は「分からない」としか言えない。自ら進んで舞台に上がったわけではないのだから、薔薇色では無い気もするが、傍から見れば薔薇色に見えるのだろう。
俺からしてみれば、目の前で物語を繰り広げている奴らこそが薔薇色だと思うのだが。
しかし舞台の上というのは、案外暑いものだ。暑いのは好かん。寒いのも同じくらいに好かん。
俺は思う。
帰りたい。
あの涼しい客席に、戻りたい。
「……はぁ」
しかし、同時にこうも思うのだ。
こういうのも、たまにはいいかも知れない、と。
舞台上が暑いなんて、知らなかった。
ここで物語を広げる奴らがこういう顔をしていたなんて、知らなかった。
こいつらがこんな風に感じているなんて、知らなかった。
全てが新鮮で、暑さなど関係なしに、受け入れたくなる。
「これが薔薇色……」
灰色を望んでいたはずの俺ですら、羨んでしまう、特別な色。
まだ舞台に上がったばかりの俺は、灰色のままだが。
いつか、この色に染まれる日が、来るのかもしれない。
「……少し、楽しみだ」
心から、思ったのだった。