四日目
なんてことのない……とはいかない木曜日の朝だ。
姉貴に朝食を作れと起こされ無ければ、いつもの通りの朝だった。朝からさっそく疲れてしまった。今日の体育は辛そうである。
「ねむ……」
寝足りない。なぜにこんなに寝足りないんだろう。昨日あれだけ女子記者もどきたちから逃げ回ったからか。部室であれだけ喋ったからか。それとも、朝起こされたからか。
「つか、朝飯ぐらい自分で作れるだろ……」
振り回されるのは千反田だけで勘弁願いたい人生だ。が、血縁がある以上、仕方ないのだろう。姉に逆らえる弟はこの世に存在しない。
「はぁ」
溜め息は見えない。冬だと見えてしまうが、こんなの見えない方がいいに決まっている。ただ俺は、姉貴には見せてやりたいと思った。
高校に到着する。ざわつきはさらに増していた。
ここ最近、こういう騒ぎが無かったから盛り上がっているんだろう。しかも、十文字事件に似ている事件だ。思い出話に花を咲かせる水になっているんだろうな、この事件は。
なんてことを考えながら、下駄箱を覗く。
スリッパを落とし、足を突っ込む。
「……やっぱり上履きの方が落ち着くな」
これもなにかのメッセージなのだろうか。……ああ、分かった。これで逃げ回ったから疲れたんだ。怨むぞ怪盗五文字。
ぺたりぺたりとスリッパの音を聞きながら、俺は教室へと向かう。
途中の掲示板に、でかでかと俺の写真が載った壁新聞が掲示されていた気がしたが、きっと気のせいだろう。そういうことにしてほしい。覚えてろ、壁新聞部。とくに女子記者もどき共。
四時間目の移動教室が終わり、教室へ戻ってきてすぐ、俺は十文字に呼び出された。
廊下の隅、人気の少ないところで、十文字は俯きながら、見覚えのあるカードを見せる。
「これ。戻ってきたら机に入ってた」
『十文字かほより、「永劫のカード」は奪われた。怪盗五文字』
今日も無事に(?)怪盗五文字は犯行を成立させたようだった。
永劫のカード、というのはタロットカードの一つだろうか。十文字は前も……そう、十文字事件でも、運命の輪というカードを奪われた経験があるはずだ。なんとも災難だと思う。不幸体質……ではないだろうな。神社の娘だし。
「折木くん、どう?」
「どうって?」
「怪盗五文字、誰か分かった?」
「……大体な」
「そっか」
十文字は、俺の答えに対して複雑な表情を見せた。……いや、十文字は表情の起伏が乏しいから、気のせいだろう。いつもと変わらない。
「なぁ、十文字。一つ聞きたい」
「なに?」
今度は嬉しそうに見えるが、やはり気のせいだろうか。
「これ以外にカードは無かったか?」
「あったよ。はい、これ」
あるなら最初から見せてくれ。初夏の省エネキャンペーン中だぞ。
で、なになに……。
『折木奉太郎君へ。明日卯の刻、荒楠神社にて君を待つ。例え、友のものだとしても、「お」を奪わせてもらう。せいぜいあがいてみろ。君の舞台に上がれない私を許せ。怪盗五文字』
「……」
分からない。
どうしても分からない。
俺は、推論を導き出せても、相手の考えまでは導けない。相手の心、細かい修正、分厚すぎる知識の補足をできるのはあいつらで、俺はただ推論を出すことしかできない。
一体何を考えているんだ、怪盗五文字。
「何か分かった?」
「……いや、すまん。分からん」
「そっか」
十文字の表情はやはり、嬉しそうで悲しそうな、そんな複雑な表情に見える。俺の気のせいだろうか。これも分からない。
「もう一つ聞いていいか?」
「いいよ。なんでも聞いて」
「移動教室前に盗まれたのか、移動教室中に盗まれたのか、分かるか?」
「うーん……」
きょろきょろした後、十文字は左手で俺を仰いだ。招き猫を思い浮かべる。
「耳貸して。みみ」
「おう」
「……あのね、ずっと鞄の中だったし、誰でも盗めると思う」
耳がこそばゆい。
じゃない。
これやらなくて良かったろ。何の意味があるんだ、これ。なんだか恥ずかしいのだが。
つまりは。
「分からないってことか?」
「うん」
どうも十文字は掴み辛いな。
「なるほど……。サンキューな」
「あれ? もういいの?」
「ああ……あいや、まだあった。まぁこれは頼みみたいなものなんだが。これ、他人に見せてもいいか?」
「んー……恥ずかしいけど、いいよ。一つは折木くん宛だし。折木くんの自由でいいと思う。そもそも見せちゃダメって書いてなかった」
確かに、そうとは書いていない。
「じゃあ、念のために貰っていいか? 必要になったら使いたい」
「元からあげる予定だったから、いいよ。それじゃあ、私はご飯食べてくる」
「ん」
凛とした所作で遠ざかる十文字を眺めながら、俺はゆっくりと思考の海へ舟を漕ぎ出した。
「分からん……」
なぜ、こんなことをするのだろうか。
まだ手にしていない情報を手にすれば、分かることなのだろうか。
「分からない……ああ、くそっ!」
答えのその先へ、不器用な俺では辿り着けないということなのだろうか。
ううむ……。
……。
「珍しいね、ホータロー」
「うおぁ!」
いつの間に居たんだ、お前は。
「脅かすな里志……」
「イライラするホータローで満足してたら驚くホータローを見られた。全く、ホータローは期待以上だね! 僕は大満足だよ!」
「俺は不満だらけだ」
人を置き物みたいに認識している里志は、俺と十文字が話しているところを見ていたのだろうか。十文字が歩いて行った方を見ながら、話しかけてくる。
「そう拗ねないでよ。それよりも、何かわかったかい?」
「……分かるも何も、なぁ。お前も気が付いてるんだろ?」
「その人、入須先輩の欠席日程、知ってるの?」
「ああ。俺、言わなかったか?」
「言ってないよ。けど、やっぱりそうなんだ……ちょっと意外かな」
やはり里志は犯人に辿り着いているか。なら伊原もこいつと同じだろう。
「千反田さんは、多分、無意識に除外してるんだろうね。親友だから」
「かもしれんな……」
そのままで終わればいいんだが、そうもいかないだろう。俺が推論を導いている以上、千反田を止めることはできん。
「なぁ里志。お前、壁新聞部の情報、何か持ってないか? 否定材料が欲しい」
千反田を止められないのであれば、せめて、少しでも千反田が安心する様な要素を入れたいと思った。一番手っ取り早いのは、別の犯人を見つけることだろう。
俺の言葉を聞いた里志は不気味な笑みを張り付けながら、俺に詰め寄った。気持ち悪い。
「おやおや、ホータローらしくないね。今までのホータローなら、否定材料を探そうとしないはずだ。否定する必要がないからね、こういうのは。なのにどうして否定したがるのかな。それは千反田さんのため?」
「お前は俺の何を知ってるんだ」
実は図星だが、肯定したくない。
「いいから。持ってるのか、持ってないのか早く言え。飯を食う時間が無くなる」
「はいはい。持ってるよ」
里志は巾着袋から、一冊のメモ帳を取り出した。
「壁新聞部から『赤いサインペン』が盗まれたのは、日曜の正午前後。お昼を部員全員で外で食べに行っていた間だってさ。で、その時に活動していた部活で、そのうち『十文字事件で被害にあった部活』っていうのが、これになる」
里志がメモ帳を見せながら、赤いボールペンで丸を付けていく。
「囲碁部、占い研究会、園芸部、お料理研、壁新聞部、軽音部」
一気に数が減った。が、消えて欲しい部活が消えなかったのは残念だ。
「……一応聞くが、そのうち、入須と仲がいいやつがいる部活は、どれだ」
「気心の知れた、っていう意味で考えると、やっぱり一つしかないんじゃないかなぁ。あ、でも入須先輩、去年は奇術部の公演を見に来てたから、もしかしたらそこに仲良しな人が……」
「仮にいたとしてもだ。奇術部は、ここのリストに入っていない」
「でも学校には来れるよね」
「それを言い出したら学外の人間まで可能性は広がるぞ。そうなったらお手上げだ。だから、それは考えないようにしてる。目の前にある条件で、推論を組み立てないと、俺の意味がないだろう」
「さっき否定したがってたじゃん……」
俺の範囲で上手いこと犯人を特定しようとすると、やはり辿り着くのは一人だ。否定材料を求めたが、これではむしろ怪盗五文字を特定する方向に動いてしまったな。
「さて、これをどう説明するか……」
「結局のところ、怪盗五文字の目的はなんなのかな? 単純に、五文字を完成させたいだけ?」
「いや、さっきメッセージカードを貰ったんだがな……」
十文字から貰ったカードを見せる。
「なになに? ……ふむふむ。友のものだとしても『お』を奪う、か……じゃあ、この『お』が目的かな?」
「多分な。意気込むくらいだからな、目的なんだろう。ただその『お』が何かは分からんが……」
ふぅ。どうしてこうも難解なんだ。明らかに十文字事件よりも単純なのに、どうしてこうも……いろいろと読み取れない。俺には無理なのか。
「……ホータロー」
「なんだ」
「僕さ、今日は摩耶花と約束があるんだ。あと、さっき大日向さんに今日は部活に行けないって言われたから、そのつもりでよろしく」
逃げるのか、里志よ。お前もか、ブルータス。いや、関係ないか。
「その目、僕が逃げるって思ってるね? 残念だけど、前もって約束してたんだ。大日向さんのは、まぁ、運が悪いと思ってさ」
あの好奇心の猛獣相手に、俺一人か……。帰りたいな。もうほとんど事件も終わってるし。ダメだろうか。
「ダメだよホータロー。それじゃあ先延ばしにするだけだ。ホータローの主義、『やらなくていいことはやらない。やらなければならないことなら、手短に』に反する」
お前は俺の心が分かるのか。テレパスか。実に腹立たしい。
「たまには反したくなるもんだ」
「ってことは、それだけ千反田さんの存在はホータローの中で大きいってことだね」
「なっ、誰もそんなことは言ってないだろう!」
「はいはい」
俺の反論も虚しく、里志は笑顔を張り付けたまま「そういうところが証明してるんだよ。怪盗五文字の事、よろしくね」と言って去っていった。丸投げするつもりだ。
……はぁ。
「俺が主義に反すれば千反田がどうたらと言われ、主義を守ろうとすると千反田と相対せねばならない、と……袋の鼠だな」
怪盗五文字も同じ袋の鼠のはずなのに、なんで俺だけがここまで追い詰められなきゃいけないんだ。おのれ怪盗五文字。
しかし文句を言っても何も変わらない。
今日の放課後は、だいぶ考えないとダメなようだ。
部室に入る。既に千反田はいつもの席に座っていた。予告どおり、他に誰も居ない。
「こんにちは、折木さん」
「ああ」
自分の席に着き、文庫を取り出した。逃げられるのなら、逃げたい。
「折木さん」
まずい声音が部室に響く。
「五文字事件、今日は動きがありませんでしたね」
千反田の声音は、興味津津という感じだ。宥めるには、エサを置くしかない。
「いや、犯行は行われたらしい。ほら」
十文字から渡された二枚のカードを千反田の前に置く。二枚を手にとった千反田の表情が、曇っていく。あまりそういう表情は見たくない。
「そんな……また、かほさんが……」
親友が被害に遭って心を痛めているのだろうか。千反田からは、興味だけでなく悲しみの色も伺えた。
……。
いい加減、俺も正直に話すか。嘘はもう吐かないと決めている以上、それしか方法が無いのだが。その代わり、見たくない表情を見なければならないだろう。俺はこういう時のために、器用な人間になりたかった。難しい。
「なぁ千反田。今から話すことは、俺の推論だ。だから、もしかしたら間違っている可能性もある。落ち着いて聞いて欲しい」
「何か分かったんですね! ぜひ、お聞かせください!」
やめてくれ、お前の期待には答えられん。ともすれば、怒られてしまうかもしれないというのに。
「……はぁ。念を押すが、推論だからな。いいか、今回の五文字事件なんだが――
夕日の橙が色濃くなるころ、ようやく俺の話が終わる。
――。以上だ」
長かった。思っている以上に、五文字事件は長かった。
途中、口を挟まなかった千反田に「聞いているのか」と確認したくなるほど、黙って聞かれた。こんなのは初めてだ。
「……折木さんは、その『お』が何なのか、分かりますか?」
「はっきりと言わせてもらう。分からない」
「そう、ですか……」
「千反田。これは推論だ。確証はない。目の前にある条件で当て嵌まる人物を述べただけだ」
「……」
「俺だって間違えることはある。だからあまり気にするな」
「……なぜ」
俯く千反田の幽かな声が、俺の耳に届く。
「なぜ、このような事をしたのでしょう」
「……お前は俺のわからないところを突いて来るな……。これは推論でもなんでもなく、俺個人の予感だが、おそらくはややこしい理由があるんだと思う。騒ぎたいだけの奴とは思えない。お前も知っているように」
「……でしたら、どうか、お願いします」
突然、千反田は立ち上がり、
「この事件に込められた想いを解き明かしてください。親友からの、心からの頼みです」
思い切り頭を下げた。
「おい、頭を上げろ」
「……」
ある意味身内が関わっているからか、千反田は責任を感じているのだろう。こいつの責任感の強さ、感受性の高さは、この間のバレンタインで思い知ったばかりだ。
「……明日の朝、そこに記された場所に行ってみようと思う。今の俺では事件に込められた意味を紐解くことはできんが……。一晩眠れば、頭もすっきりするだろう。だから、その、頭を上げてくれ」
なんとも確証のない返事だと、我ながら思う。酷いったらありゃしない。
千反田が俺の言葉を聞いて十秒程してからようやく頭を上げた。
「親友の私に何も伝えてないということは、きっと、伝えにくいことなんだと思います」
だろうな……。
「もう折木さんしか頼れないんです。どうか、よろしくお願いします」
再び千反田は頭を下げた。
俺しか頼れない、というのは言い過ぎだろう。が、怪盗五文字は、現に、俺に向けてメッセージカードを渡してきている。俺に何かを解かせたいのか、あるいは考えてほしいのか。そう想像するのが自然だ。
「だから承ったと言っているだろう。頼むから頭を下げないでくれ」
二回も頭を下げられるほど、俺は優れた人間ではない。
さすがにこの後、ここで本を開いて読む、なんていう余裕は無かった。そのまま俺たちは一緒に帰ることになったが、終始重い空気が漂っていたのは、気のせいではないはずだ。
就寝前、俺はリビングで今までのメッセージカードを広げた。
『折木奉太郎より、「上履き」は奪われた。怪盗五文字』
『折木奉太郎君へ。この内容は他者に口外しないで欲しい。まずは君に礼を言おう。十文字事件の時はありがとう。ささやかだが、君のために舞台を用意した。だから君も舞台に上がれ。会える日を楽しみに待つ。怪盗五文字』
『十文字かほより、「永劫のカード」は奪われた。怪盗五文字』
『折木奉太郎君へ。明日卯の刻、荒楠神社にて君を待つ。例え、友のものだとしても、「お」を奪わせてもらう。せいぜいあがいてみろ。君の舞台に上がれない私を許せ。怪盗五文字』
二枚の犯行声明と、二枚のメッセージ。
たびたび出てくる「舞台」は、事件の事を指しているのだろうが、それだと二枚目のメッセージカードがよく分からなくなる。
「分からん……」
「なーに見てんの」
突如、視界が真暗になった。後ろから聞こえた声と、視界を塞いだぬくもりから、姉貴が俺の目を両手で後ろから隠したことは、すぐに分かった。こんなことが分かりたいんじゃないんだ。
「これじゃ何も見えんが」
「なになにー……また何か面白いことが起きてんのねぇ」
「姉貴には関係ないだろ」
いいながら俺は、姉貴の手をどかそうとする。残念ながら、力は姉貴の方が上だ。状況は何一つ変わらない。
「あんたの姉なんだから、この世に全く関係しないなんてことはないのよ」
そりゃ暴論だ。と言おうとしたところで、視界がリビングを取り戻した。おかげで抗議の言葉をいう機会を逃した。
「上履き無くなって大変だったでしょ?」
「いや、スリッパが代わりに置かれてたから、特には」
「あらあら。お優しい怪盗さんだこと」
たしかに、あいつは優しい、と思う。俺はまだあいつの事をよく知らないが、酷い奴だとは思えない。
「じゃ、頑張りなさいよー。おやすみ、奉太郎」
「……待て姉貴、ついでだ。タロットで『永劫』って、どういう意味がある?」
この事件に込められたメッセージを読みとるには、もっと細かく見なければいけないんだろうと思って、俺は問いかける。
「あんたの部屋にタロットの本置いてあげたでしょ? それくらい自分で調べな」
やはりあれは姉貴の仕業だったか。
「いいだろ別に、ここで教えてくれたって」
「……仕方ないわねぇ。いい、奉太郎。意味は一つじゃないし、解釈次第だけど……あたしなら、永劫は『世界の変化』と捉えるわ」
「世界の変化……」
それが奪われた、と書かれているのだから、変化はしなかった、と考えるべきか? これは考えようによっては、良くも悪くもなるな……。関係ないことだっただろうか。
「じゃ、あたしはもう寝るから。あんたも早く寝なさいよ。明日早いんでしょ」
ああそうだった、明日は早いんだ。怪盗五文字め。睡眠時間まで奪うのか、お前は。怨むぞ。
「奉太郎」
怪盗五文字への文句の一つでも愚痴ろうかと思っていると、姉貴が静かに俺を呼んだ。
「間違ってもその怪盗さん、あんたが慰めちゃダメだからね」
「はぁ?」
「じゃおやすみー」
「あ、おい待て姉貴! ……いろいろと抜け過ぎだろう」
まぁ、姉貴の言葉は今考えても仕方ない。気が付くともう十一時を過ぎている。姉貴の言う通り、俺の明日は早いのだから、そろそろ寝ないといけないな。
明日はいよいよ、怪盗五文字と相対するのだ。