「うー。さみい……」
その日のカシュバの目覚めは最悪のものとなった。
痛い体に痛い頬。冷め切って震える手足。カチカチと鳴る歯。そしてまだ夜明け前の真っ暗な室内。
ゆっくりと立ち上がり窓を開ける。
更に身を切る冷たい風が吹くが、時間を確認する方法をカシュバは他に知らない。
「ん? そうか、今日は月無いのか……」
都会の狭い空とは言え、明るく光る月が見当たらないのを卓上の日付表を見て納得する。
以前のカシュバだったらここでお手上げだったろうが、学校に通って一流の知識を詰め込んでいる今のカシュバはこの程度ではめげない。
「お。バジリスクの赤い右目が天頂って事は……夜中の3時ってとこか?」
時間の指標になる星座を即座に見つけて大体の時間を導くと、魔法で灯りを呼び出して机に戻る。
途中で寝てしまったがまだもう少しやりたい事があったのだ。その続きをしようとしたところで、カシュバは見知らぬ本が自らの机に開かれていることに気づく。
しかもその本には読みづらい文字で自分宛のメッセージが書かれていた。
カシュバの目は自然とその文字を追う。見逃してはならない重大な何かがそこに書かれている。そう心のどこかで確信があった。
驚くほど白い紙にコントラストの強い黒。滑らかなその紙面はペン先が引っかかりインクが滲んだ跡など一つもなく、上質な紙である事がわかった。
しかし、重要なのはそんな本の価値ではない。その本に書かれた内容は、カシュバに頭を石で殴られたような衝撃を与えた。
ーー初めまして。仮初めの宿主よ。
愚かなる人間にして、私に選ばれた憐れなる人間、カシュバよ。
我が名はウルベルト。
ウルベルト・アレイン・オードル。
悪の華と呼ばれたアインズ・ウール・ゴウンに名を連ねた悪の大魔法使い。
まずは私のくれてやった金貨でここまで見事に生き抜いたことに賞賛を贈ろう。何、私も宿主に死なれる訳にはいかないので感謝の言葉は必要ない。
今回私がこうして君に接触を図ったのは他でもない。私もこの世界を楽しみたいと思ったからだ。
おっと、悪魔の宿った身を嘆いて死ぬなんて愚かな真似はしてくれるなよ。君が今ここで死ねばどうなるか、それをよく考えることだ。
少なくとも君の大切なアルシェと、その妹達は酷い目にあうだろう。
私も昨晩話したが、なかなか素敵なお嬢さんだ。君が惚れるのも仕方がない程にな。
言っておくがこれはけして脅しではない。ただ私は事実を書き記しているだけだ。
さて、本題に入ろうか。
先ほどもここに書いたが、私はこの世界を楽しみたいと考えている。
だが安心したまえ、人間に害をなそうなど今はかけらも思ってはいない。君の貢献次第だが、今後も可能性は低いと思ってくれて構わない。
私の今の欲はただただこの世界に向けられている。興味があるのだ、この世界に。
ああ、けして支配しようだとかと言った意味ではなく、ただ純粋に見知らぬこの世に興味があるのだよ。
そして、この好奇心を満たす手伝いを君にして欲しいのだ。とても簡単だろう? しかも、私の魔の手から世界を救える。君の協力が必要不可欠なのだよ、宿主殿。
さて、では具体的な話に移ろう。
私から君にお願いしたい事はいくつもあるのだが、先ずは重要な事から。
第一。まずは君が健康に過ごし、しっかりと睡眠をとること。君の体は私の体でもあるのだ。大切にしたまえ。
第二。私は知識に飢えている。なので君が寝る前に興味深い本を置いておく事。内容はよく吟味したまえ。つまらない内容は嫌だからね。ああ、読み終わったらその旨をこの本に書いておくから、勝手に引っ込めないでくれよ。
第三。まあ、急に必要なものが出てくるかもしれないので、毎日この本を確認したまえ。気まぐれにしか君の体を使えない歯痒い身ではあるが、危機は突然やってくるものだからね。
さて、私のお願いはどうだったかな? 実に簡単、実に寛容ではないかね? その気になれば世界を滅ぼせる力をもつ大魔法使いが望むものがたったこれだけだなんて!
さて、私の要求はそんなものだが、勿論君にも私にお願いをする権利がある。
君が望むのならば、私が君の欲望を叶える手助けをしようではないか! 素晴らしい利点だろう? 持ちつ持たれつ、共に有意義な時間を過ごそう! まあ、対価と言ってはなんだが、その時には君の血を少しばかり頂戴することになると思うがね。
この私の提案を読んでくれた一先ずの見返りはそうだな。愛しの彼女にでもこのペンダントを渡したまえ。
彼女は随分と危険な仕事に身を置いているようだったのでね。私が加護を与えた首飾りだ。たいした物ではないが、無いよりはましだろう。
他に欲しいものがあるならばこの本に書くといい。
この私に出来ないことはないだろうが、まあ力の及ぶ限り君の願いを叶えよう。ーー
なんとか全ての文字を読み終わったカシュバは顔を青くした。
悪魔が! 自分に! とり憑いている!!
信じられない、いや、信じたく無い話だった。
しかし。
しかし思い返してみればそれは当たり前の事なのかもしれない。
“治癒拒否体質”ーーそれがカシュバのタレントらしい。
この世界の人間がごく僅かな確率でもつこのタレントと呼ばれる力は、発現した個人により千差万別である。役に立つものからどうでもいいものまであるなかで、カシュバが授かったのは“負った傷を治す行為”全般が無効化され、自らの回復力以外で治らないという負の力だった。
このタレントを知ったのはつい最近だった。学校で行われる魔法の実技授業はかなりの危険を伴う授業である。信仰系の魔法詠唱者がクラス毎に必ず一人付き、万一の事態に備えている程危険なものだ。
カシュバはその中で軽い怪我を負った。
共に授業を受けていた隣のクラスの貴族ーー確かランゴなんとかという名前だったーーがからかい半分にこちらに<魔法の矢>もどきを打ち込んできたのだ。
本人もまさか本当に打てるとは思っていなかったらしく、教師を含め様々な意味で混乱が起きた。そして怪我を負ったカシュバにかけた治癒魔法が不発に終わるという混乱もそこに追加された。
後日、薬草と包帯という原始的な治療で完治したカシュバに示されたのがこの“治癒拒否体質”というタレント名だった。
「きっと悪魔に取り憑かれた罰だったんだ。このタレントは! くそ! くそ! この悪魔の言った通り俺にはなんにもできない! 何もできない!!」
悔しさに頭が沸騰する。机を強く叩くが、感情は収まらない。頭をかきむしりながらカシュバは無力な自分を歯痒く思った。
何度目かの拳を怒りに任せて机に叩きつける。その時に指先に痛みがある事に気付いた。
利き手とは逆の指が切れていた。
そういえば悪魔が何かマジックアイテムを用意したと言っていた。この傷はそれの対価なのだろう。
カシュバはある考えを閃いた。悪魔の用意したマジックアイテムを壊して、この本にこう書いてやればいいのだ。
“お前の好きになんかさせない”
名案だ。すごく、すごく名案だ。なんて胸がすく事だろう!
カシュバの気持ちがいくらか軽くなり、冷静になれた。
そしてその少し冷静になった頭は、悪魔の用意した首飾りを見た時に驚愕に塗りつぶされる。
軽く机を漁ると、その首飾りは簡単に見つかった。本の下敷きにされていたそれはどうやらオリハルコンでできているようだった。
カシュバにとってはこれだけでもその価値の高さに手が震えるが、しかもそれはとても美しい意匠が施されていた。
細く編み込まれたチェーン。磨き上げられた丸い飾り部分には何かの模様が鋳造されていた。そしてそこだけ加工の仕方が違うのか光を反射しない。恐る恐る手にとって裏を返してみると、細かい赤の宝石で同じ模様が銀縁で描かれている。
極め付けはその宝石にかけられた魔法だ。
マジックアイテムは学校に通いだしてからよく見るようになった。それは授業の終わりに音を出す箱であったり、日がささない程の曇りの日につけられる灯りであったりだ。
しかし、この首飾りにかけられた魔法は根本が違う気がする。
それこそこの国の皇帝だけが持てる至高の一品ではないだろうか?
先ほどまでの怒りはすっかり消え失せ、視線は悪魔の書き残した文字をなぞる。
(これをアルシェ様に渡せばきっと喜んでくれるはずだ。それにあんなにひどい怪我をする事もーー?)
一瞬。
火傷を負ったアルシェが頭に浮かんだ。
そんなはずはない。だって、そんな姿のアルシェは見た事のがない。仕事の後に会うアルシェは確かに汚れた格好が多いが、殆どの怪我は仲間の神官に治療してもらっていた。酷い怪我をした想像のアルシェを頭から消して、カシュバは幸せそうに笑うアルシェを思い浮かべる。
二人の妹に向けられる暖かな笑顔。
これを渡したら自分もそんな顔で笑いかけてもらえるだろうか?
パチリと自分の頰をたたく。
思ったよりも疲れが溜まっているのだろう。こんな変な考えをするなんて。
予定とは違うが、カシュバはもう寝ることにした。
冷え切った布団に体を震わせながら、もう一度笑顔のアルシェを思い返す。
その日の夢はひどい悪夢だった。