カシュバは自分がアルシェの後輩として帝国魔法学院での4年を過ごすものだと思っていた。
それはアルシェの実家でありカシュバの寄宿先であるフルト家が、斜陽の元貴族であったからだ。アルシェの父親は未だに貴族であった頃の浪費癖が抜けずに、屋敷に商人を呼びつけては高価な買い物をする。既に貴族の特権を取り上げられ、収入はカシュバを預かるという名目で皇帝から金銭的支援をされている分だけ。にもかかわらず、その散財は減る事はなく、借金が膨らむ。
だからアルシェはそんな両親の為に稼ぎのいい、身分の保証された職につくべく魔法学院に進学し、優秀な成績を修め、ゆくゆくは国の高官になるのだと思っていた。
アルシェと、そしてこの屋敷に偶に顔を見せるジェット、そしてその幼馴染の少女。きっと人生で一番楽しくて素晴らしい学校生活がおくれる。
しかし、それはカシュバの魔法学院入学が決まり、ささやかなお祝いの席が設けられた席で崩れた。
煌々ときらめくシャンデリア。
いつもの三割増しで豪華な食事。
綺麗な飾り付けのされた室内はフルト家の家人と居候のカシュバの為に用意されたものだ。
そんな立派な祝いの席は既に終わりに近く、ゆっくりと寛ぎ食後の葡萄酒で口元を湿らせるフルト夫妻や、眠い目を擦って寝室へ向かう末の娘達の姿がある。
肝心の主役はというと、一番上の娘であるアルシェと共に綺麗に整えられた庭の、その中央にある東屋に居た。
東屋もきちんと手入れがされており、近隣の貴族の家と比べても遜色ない。もっとも、夜の月明かりだけではその見事さを十分に楽しむには心許ない。
そんな幻想的な雰囲気の中、声変わりを迎えた少年の声が響く。
「ワーカーになるって! 本気なんですか? 考え直して下さい!」
カシュバはアルシェに告げられた言葉に悲鳴の様な叫びを返した。
ここが誰も居ない庭とはいえ、流石に母屋の方まで聞こえるのではないだろうかと心配になる声量だ。
「私は本気。それにカシュバが心配する必要はない。これは結局、私の家の問題なんだから」
「心配する必要はないって……! 心配するに決まってるじゃないですか! せめて冒険者じゃあダメなんですか? 組合がある分まだそっちの方が……」
「カシュバ、私はお金が欲しいの。それもとても沢山。カシュバだったらわかってると思うけれど、うちの家計はもうどうしようもない。私が卒業するまでもてば、なんて甘い考えだった。冒険者の稼ぎじゃあもうダメなの」
「でも……。そうだ! ジェット! ジェットにも言ったんですか!? あいつなら俺と同じに反対するはずだ!」
「ん。カシュバ、それ以上はやめて。……大丈夫。私は第三位階魔法まで使えるし、チームはもう決まってる。皆んな優秀な人達ばかり」
「アルシェ様……」
「お祝いの日にこんな事言いたくなかったけど、カシュバにどうしてもお願いしたいことがあって」
「叶えられるならどんな願いでも聞きます! だからーー」
カシュバの言葉は唇に添えられたアルシェの指に遮られた。
柔らかい指だ。
苦労を知らない、いや、苦労は知っているが働いたことの無い人間の手だ。
この元貴族の令嬢としての手を捨てて、魔法省への道も捨てて、彼女はお金を稼ぐ為に危険へと身を投じるのだ。
(なんて愚かなんだ。きっと使い捨てられる。俺のように)
ふと、そんなおかしな考えが頭をよぎった。
その考えに疑問が湧く前に、アルシェはカシュバへ可愛いお願いをする。
「妹達を両親から守って欲しい。妹達だけが気がかりなの。カシュバに任せられるなら、私はどんな事があってもちゃんと戻って来られる」
それだけを貴方にお願いしたい。
アルシェの宝石の目がきらめく。
強い瞳だ。何を言っても、きっとアルシェは考えを変えないだろう。
そんな事は一年に満たない付き合いでもカシュバにはわかっていた。しかし同じワーカーであった両親の事を思うとだめだった。どうしてもカシュバはアルシェの言葉に頷けなかった。
「ありがとう、カシュバ」
頷かないカシュバに一方的にアルシェはそう言った。
カシュバの目から知らずに涙が溢れた。
カシュバがアルシェの妹達を放って置けない事なんてアルシェはわかりきっているのだ。それでもきちんと言葉にして頼む。なんて尊い愛だろう。
「生きて帰ってきて下さい。何があっても」
「勿論。カシュバも、大変なのは入学してからなんだから、勉強はしっかりとやること」
くるりとドレスの裾をはためかせてアルシェは一足先に母屋である屋敷へと戻る。
白いフリルが月明かりに反射してとても綺麗だった。
華奢な肩に一家の命運を背負おうとする少女。
胸に湧き上がる感情の意味を知る事なく、ぼんやりとその後ろ姿を見つめていた。
一体どれほどの時間をそうしていただろうか。カシュバも見えなくなった後ろ姿を追うべく、ゴシゴシと少し乱暴に目元を擦って立ちがった。
肥え太った月が照らす庭は明るく浮き上がる。しかしそれはすぐに厚い雲に隠れて一気に暗くなった。
それに嫌な予感を感じながら、それでもアルシェの決めた道なのだと、カシュバは見守る決意を固めた。
魔法学院での生活はあっという間に過ぎて行った。
少しでも自立したい、アルシェの足しになりたいとジェットに紹介してもらった仕事をこなしながらの毎日は、睡眠不足と疲労との戦いだった。
大変な生活だ。それでも2、3日おきに帰ってくるアルシェと話す時間は幸せだった。
それに、魔法学院での講義を通してカシュバに魔法の才能があった事がわかった。
理論も実験も、他の全ては貧民育ちのカシュバでは赤点ギリギリ。なんとか食らいついている状態だが、魔法の実技では既に第三位階まで使えるという非凡さを見せた。
一部の選民意識の強い貴族の子弟からの風当たりは強くなったが、自分の取り柄を見つけれた事でカシュバは更に自分の中で自信がついていくのを感じれた。
そして自分の中でアルシェに対する思いも高まっていた。
胸が詰まるような息苦しさ。
帰ってくる日を胸を高鳴らせながら待つ時間の焦ったさ。
カシュバはアルシェに恋をしていた。
彼女を幸せにしたかった。
「…………」
ウルベルトは自分が随分と長い間目覚めていなかった事を自覚した。
既に季節は冬。純度の低いガラスの嵌められた窓からさす星明かりは、その冴え冴えとした空気のせいもありとても明るかった。
芯まで冷えた体を震わせ、白くなる息をゆっくりと吐きながら体を大きく伸ばす。
痛む頰にはきっとインクと紙の跡が付いているだろう。
今回のカシュバは机で居眠りをしていた。あたりには勉強の跡が見える紙片。それに分厚い参考書。
最後にウルベルトが目覚めたのは入学したその月の新月の日。それは夏の終わりだったので、ゆうに三ヶ月は時間が経っていた。
(宿主の体調次第では外に出る事もできない……か)
それまで以上に睡眠時間と体力を削って勉強に打ち込んだカシュバでは、自分がこうして表に出る事も出来ないのだろう。
まるで籠の鳥だ。
自分ではどうする事も出来ない事に自由を制限され、囚われる。
いや、そもそも勝手にこの少年に取り憑いているのはウルベルトの方なのだ。
見当違いの不満をかき消し、ウルベルトは長い眠りの間にあったカシュバの身の回りの出来事を覗き見る。
順風満帆といったその学校生活に軽い嫉妬を覚える。
「魔法の才能なんて勝ち組コースかよ……。いや、ここは嬉しく思うところであって嫉妬するところでは無いのはわかっているが! くそ、どこぞの聖騎士じゃああるまいし! アルシェとも良い感じになりやがって」
一方的な不満を声に出すとスッキリした。
ガシガシと髪をかいたところでふと思ってしまった。
もうカシュバに自分の助けは必要無いのではないか?
いや、そもそも。最初の大金を出したきっかけ以降自分はカシュバに直接何かを働いた事はない。
それはその必要がなかったからだ。
全てはたまたまあった皇帝がお膳立てしてくれ、そしてそれにカシュバが応えた。
そこにウルベルトがした事なんてかけらもない。ただ知らない間にきっかけを与えただけの存在。
それがカシュバにとってのウルベルトだった。
「参ったな。これじゃあ俺は何の為にいるのかわかんねぇ……。ははは。この世界でも所詮は替えのきく、無くてもいい部品ってことかよ!」
自嘲のかわいた笑い声。
それに重なるように控えめなノックの音がした。
「え? あ、はい」
突然の事に間抜けな声で返事をする。
日が落ちた時間に行動するなど、この世界の住人では考えられない事だ。
魔法があるとはいえ夜の灯りは貴重品。とても高価なものであり、だから正直この時間起きている家人がいるとは考えなかった。
「カシュバ。起きてるなら少し話ししてもいい?」
アルシェの声だった。それも酷く弱々しい。
急いで扉をあける。
開けた先にはボロボロの姿をしたアルシェだった。
「アルシェ……様! どうしたんですか!」
「少しヘマをしただけ。大丈夫だから」
「とりあえずこっちに座ってください!」
マントは焦げ、顔は煤け、杖を握った手には火傷がみえた。
異臭とまではいかないが、若い女性からあまり臭って欲しくない臭いもする。
カシュバの記憶でアルシェを最後に見たのは一昨日。きっと困難な依頼を達成したのだろう。
水差しからグラスに水を入れてアルシェに差し出す。
「ありがとう」
両手でもったグラスから一気に水を飲み干すとアルシェの掠れ気味だった声に艶が戻る。
それに安堵を覚えながら改めてアルシェの様子を見た。
やはり記憶のアルシェよりも元気がない。それにこの時間にやってくるのは今までどのアルシェでは考えられない非常識だ。若い女が、男の部屋に、夜にやってくるなんて夜這いと思われても仕方がない。
もっとも、この姿をみて夜這いだと思う輩などいないだろうが。
「あの、カシュバ、灯りつけてくれると嬉しい」
「あ、すみません。暗かったですよね」
カシュバが勉強中につけていた灯りは寝ている間に消えていた。
今ウルベルトは夜目が利く自分の目のおかげでアルシェを見ているので、アルシェにしたら何も見えないだろう。
曇った窓では星明かりも不十分。アルシェには殆ど何も見えないだろう。
小さな灯りを出せる生活魔法を唱えると、ウルベルトにとっては眩しいほどの灯りに照らされる。
「その魔法、使えるようになったんだね」
「ええ。まあ、自分には階位魔法が向いてるみたいで、生活魔法を覚えるのは大変でした」
「珍しい。生活魔法が使えても階位魔法は使えないことが多いのに」
「はは。教師からは俺がタレント持ちでそのおかげじゃ無いかって言われましたよ」
「タレント……。確かにそうかも。……そういえば学校での話あんまりしてないね。どう、楽しい?」
「ジェットもいますし、楽しいですよ。最近やっと慣れてきたんで、少し勉強の量を調節しようかなって。授業中に酷い眠気に襲われるんですよ。そういうアルシェ様はどうなんですか? ワーカーの仕事は大変じゃありませんか?」
「ん。今日も少し仲間を危険な目に合わせちゃった。でも大丈夫。クーデリカとウレイリカもさっき寝顔をみたけれど、元気みたいで良かった。これもカシュバのおかげ」
「そんな、大袈裟ですよ」
カシュバを真似ての会話にウルベルトは嫉妬が湧き上がるのを覚えた。
アルシェが会話をしているのはウルベルトではなくカシュバなのだ。
(カシュバに嫉妬するなんて、俺は相変わらすのバカだ。自分をこの世につなぎとめる宿主にこんな感情を持つなんて無様だ。これで悪の大魔法使いなんて笑っちまう)
そんな事を思いながらも会話は弾む。
アルシェの仕事での話を聞いたり、ウレイリカやクーデリカの話をしたり。時間はあっという間に過ぎていく。
魔法の灯りが効果時間に差し掛かり、少し陰りを見せた。それに気づいたアルシェは満足したのかおやすみ、とウルベルトに別れを告げて出て行った。
「よし」
ウルベルトはゆっくりと立ち上がると机のペンたての横にあったペーパーナイフで自らの指を切る。垂れた血で床に大きな丸を描く。更に指を握って血を出す。
(お湯とうーん。ワーカーだから防具かな……後衛は特に紙装甲だから。いや、でも防具は流石に目立つから装飾品でそれっぽいのと、あとはーー)
血で描かれた円が輝きその中央にウルベルトが望んだものが現れる。
無限にお湯がでる瓶。ゲーム時代に気まぐれで作った魔法と物理攻撃に対する守りの首飾り。そして不死鳥の羽で作られたペンと無くなる事の無いインク壺。魔法ので限られた者しか読めないようにされた白紙の本。
「いい加減カシュバに俺の事を伝えなきゃな。困った時は頼れって。それに、うん。過労死なんてして欲しくない、しな」
ユグドラシル時代に参加していたギルドのギルド長との他愛ない会話の一つを思い出す。
確かあれは、どうして自分が特権階級を憎むのかといった話題だったか。
(たっちとの喧嘩のあとだったっけ)
モモンガさんの親や俺の親みたいにはなって欲しく無い、よなぁ。ここもくそったれな世界だけど、俺の身近な奴に過労死なんて、本当に。
部屋にある桶にお湯を注ぎながらなんとカシュバに自分の事を伝えようかと悩む。
アルシェの部屋にそのお湯を差し入れた後、部屋に戻ってゆっくりと内容を吟味しながら綴った。
最後の一文を書き終えた後、強い眠気に襲われウルベルトはそのまま机に突っ伏した。