東方project × ONE PIECE ~狂気の吸血鬼と鮮血の記憶~ 作:すずひら
パァン!
右頬から鋭い破裂音。
少し遅れて痺れるような痛み。
「フラン様の……バカァっ!」
何が起きたのかわからず、しばし呆然とする。
泣きながら走り去るメイリンの背を見て、私はようやく自分がビンタを張られたのだと理解した。
「え……あ……」
言葉にならない声が漏れ、力なく伸ばした手は何も掴むことなく虚空を彷徨う。
何が言いたかったのか、この手をどうしたかったのか、何一つ自分でもわからない。
分かるのは、ただ――メイリンを泣かせてしまったということ。
ぐるぐると腹の中が渦巻いている気がする。
ぐつぐつと頭の中が煮立っている気がする。
気持ち悪い、吐きそうだ。
なんで、こんなことになったんだっけーー。
★
確か、海の森で森林浴をしていた。
そうしたら、レヴィアが呼びに来たのだ。
「お母さま、お母さま。何か見慣れないものが近づいてきています」
「ん、おはようレヴィア。見慣れないもの?」
「おはようございます、お母さま。はい、よくわからないのですけど、皆が怯えています。襲いかかった大きな子が返り討ちにされてしまったみたいで」
「海王類を返り討ち……?」
悲しげな顔をするレヴィアはこの数百年で随分と成長した。
身長体重胸囲こそ変わってはいないものの、幼い頃に抱いていた周囲との関係の不安やそれに起因する依存心なんかはもうすっかり問題ない。
まあ私とリヴァイの熱心な教育の成果であって、そのせいで少々博愛的になりすぎたかもしれないけど。
一方でリヴァイは数百年経っても老いなかった。
というか海王類の寿命は個体によってまちまちで、数十年のものもいれば、リヴァイのように何百年生きているのかわからないのまでいる。
そしてそんなリヴァイと私の子であるからなのかレヴィアもまた年のとり方が遅かった。
不老としての特性自体は劣化しているのか、確かに年は取っているけど、まだ人間でいうところの二十代後半といったところだろう。
周囲の魚人や人魚が幾度も世代交代している中、私とリヴァイとレヴィアの三人はのんびりと時を過ごしていた。
そして、そんな穏やかに流れる時の中でレヴィアが報告に来たのだった。
「見慣れないものかぁ。生き物じゃないの?」
「うーん、お魚さんたちの話では、生き物じゃないけど生き物も中にいるとか……」
「なにそれ」
「さあ……」
まあ知性の低い魚の、それも恐慌に陥っている状態での言葉なんてよくわからないものだろうけど。
とりあえず見に行くしかないかなあ。
「一応魚人さんたちが対応してくださっているみたいですよ」
「ふーん、大暴れって感じでもないのかな。海王類は襲ってきたから返り討ちにしただけ?」
「襲いかかった子はちょっと乱暴者さんでしたから。ほとんど怪我もないみたいですし、いいお灸になったのかもしれません。あとで様子は見に行こうと思います」
レヴィアはのほほんと微笑んでいるけど、それはつまり海王類に水中で襲われても、怪我させることなく返り討ちにできる実力を持っているってことなのでは?
考えていても始まらないので、私とレヴィアはひとまずその問題の現場に向かうことにした。
そして、そこにあったのは驚くべき光景だった。
なんと、船がある!
見た感じシャボン玉に包まれている船が、魚人島外周の空気膜に接するように接舷されている。
しかもそのシャボン玉からは魔法の気配がしない。
帆船で海底に来るというのは、以前に私がスカーレット海賊団を率いていたときと状況は似ているーーけど魔法を使わずにとなると、どうやったのか私にもわからなかった。
というか、船ということは地上からの来訪者ということだ。
いつかはこの海の底にも訪れるだろうとは思ったけれど、まさかこんなに早いなんて。
私が地上を離れてまだ千年も経っていない。
人類が既にここまで生息圏を広げたというのならそれはもう……。
ただ、驚きはそこで終わらなかった。
この数百年で、いや、この世界に生を受けてから最大の驚きが、私を待ち受けていたのだから。
武器を持った魚人達に囲まれているのは、十人ほどの人間だった。
一触即発といった雰囲気ではなく、互いに困惑しているような状況で、それぞれの代表が何やら言葉を交わしていた。
そして、その代表の両方に私は見覚えがあった。
魚人の方は、今代の魚人島の島長だ。
リュウグウノツカイの魚人で、とても理知的で物静か。
噂では何やらレヴィアと恋仲だという話も聞く。
母親としてはレヴィアが幸せになってくれれば何も言うことはないけれど、父親の方は大変そうだ。
リヴァイはレヴィアを溺愛してすっかり親馬鹿になってしまったので、いざとなったら私がなんとかするしかないだろうと思っている。
……ああ、ダメだ、思考が逸れる。
それについて、考えたくない。
なぜ、なぜあなたがそこにいるの。
わからない、何もかもが。
ねえ、なんでなの――メイリン。
人間代表の方は、よく見知った女性だった。
私が作った緑色の似非華人服に身を包み、凛として立っている。
私があげた、鈴の転がるような声で島長と話している。
その仕草も表情も私がよく知る彼女のもので、彼女が他人の空似なんてことはあり得ない。
だけど、彼女は。
悪魔の実を食したとはいえ、ただの人間で。
覇気で若々しさを保ってるとはいえ、寿命には勝てないはずで。
私が彼女に出会ってから、もう千年近くも経っていて。
生きているはずなんか、ないのに。
私は、彼女が死ぬのが怖くて、耐えられなくて、逃げ出して――こんな海の底まで逃げてきたのに。
なぜ、あなたはそこにいるの。
「おや、フラン様。よくぞお越しに」
硬直していた私に、最初に気がついたのは島長だった。
そして視線の先を追ってメイリンも私に気がついた。
「フラン様!」
目と目が合う。
彼女の綺麗な瞳から感じるのは、驚きと喜びと達成感――だろうか、複雑すぎてよくわからない。
私は彼女の目を直視できなくて、すぐに視線を外してしまったから。
「おや、ホン殿はフラン様と面識がお有りで?」
「え、ええ。というより、私はフラン様を追ってここまで来たんですから」
「なるほど、フラン様とお知り合いだったのならば納得です。それにしても人間というものは初めて目にしましたが実に奇妙……おっと失礼」
「そうですか?」
「ええ、人魚の上半身と魚人の下半身を足したような……実に中途半端に見えますな」
「あはは……私達からすれば、あなた方のほうがよっぽど奇妙なんですけどね」
そこまで話しメイリンは、島長との話を切り上げて私の方へと駆けてきた。
「フラン様! 随分と時間はかかっちゃいましたし、いろんな人の助けも借りましたけど、私ついにここまで――」
「どうして」
「え?」
「どうしてここにいるの、メイリン」
あなたは、寿命で死んだはずじゃ。
なんで生きてるの。
ねえ、どうして。
あなたが生きてるのなら、私が逃げ出して、逃げ続けたこの数百年はいったい――。
「それは、フラン様を探して――」
「私は、探してなんて言ってない」
そうだ、私は探してなんて一言も言っていない。
なのに、あなたは一体何年かけてここまで辿り着いたの。
何を犠牲に。
ああ、数百年以上もかけてこんな海の底まで来て。
そのために人の身であることまで捨てて。
「あなたも、人間のまま、死ぬべきだったのに――」
今まで私の前を去っていった皆のように。
みんな、私の前からいなくなった。
私だけが時の流れに置いて行かれて。
マロンだって、クックだって。
人の身を捨てることになったルミャでさえも、私を置いて行ったのに。
「なんで、生きてるのよッ!」
そうだ、そして私は――彼女に頬を張られたんだった。
違う、違うんだよメイリン。
私が言いたかったのはそうじゃなくて。
あなたが、私と同じ
私が千年以上味わってきた離別の苦しみを、あなたには味わってほしくなかった。
そして、私だってもう裏切られたくなかった、置いて行かれたくなかった。
たとえ人の身を捨てたところで、どうせすぐに心が耐えきれなくなる。
私は狂気に身を委ねてのらりくらりとかわしてきたけど、心に闇を抱えていたルミャでさえも耐えきれないと言った色濃い絶望だ。
ああ、それなのにメイリン、あなたはもう数百年もの間私を探して。
あなたならもしかして、なんて希望を持たせてくれる。
くれてしまう。
過ごした時間が長いほど、濃密なほどに別れは辛くなる。
数百年前の、たった百年ぽっちを一緒に過ごしたあなたとの離別さえ耐えきれなくて逃げ出した私が。
これから先あなたとの長いときを過ごして、そして、裏切られたら。
私は、どうすればいいの――。
「お、お母さま……」
苦しげな声に、はっと我に返った。
隣では、レヴィアがその巨体を地に伏せ呻いていた。
そうだ、レヴィアは感受性が豊か、というより敏感すぎるから私の鬱々とした感情に当てられてしまったんだろう。
「島長、レヴィアを病院までお願い。人手も多分必要」
「は、はい、フラン様。それで、あの、フラン様に手をあげたあの不届き者は」
「……いい。ほっといて」
「はっ。フラン様がそうおっしゃるならば」
島長はテキパキと指示を出して、50メートルもの巨体であるレヴィアを十数人がかりで病院まで運んでいく。
本当は私が魔法でぽんと転送してあげられたら良かったんだけど、ここまで心が乱れている状態で魔法を使うと暴発しかねない。
場には私と、メイリンの船のクルーたち、そして彼らを留めるように立っている魚人島の警備兵たち。
メイリンが私を引っ叩いたことで幾分か緊張は高まっているけど、一触即発と言ったほどではない。
「はあ、これからどうしよう……」
私はまだ痛む頬を擦りながら地面に寝転んだ。
ていうか吸血鬼の私に対して暫く痛みを残すビンタって、ヤバイよね。
薄くとはいえ妖力も纏っていたし、それもぶち抜いて来たってことは覇気を込めていたのかな。
普通の人間が喰らえば首から上がなくなっているよね。
そうだ、こんなにジンジンと痛むのはそんな凄い力で殴られたからだ。
そう、だからきっとこの胸の、刺すような痛みも――。
★
フラン様を殴ってしまった。
初めてのことでした。
訓練で相手をしてもらって攻撃を当てたことはある。
料理のときに手を滑らせてフライパンを頭の上に落としてしまったことはある。
船室のドアを閉めるときに気が付かなくて思い切り挟んでしまったことはある。
でも、フラン様を傷つけてしまった嫌な記憶は数あれど、自分の意思で傷つけたのは初めてのことでした。
だって、仕方がないことでしょう。
ほとんど千年にも及ぶ研究と試行錯誤の果てに、ようやくこの海の底まで追ってきて、ようやく、ようやく出会えたのに。
『どうしてここにいるの』
『私は探してなんて言ってない』
『あなたも、人として死ぬべきだったのに』
『なんで生きてるの』
冷たい声で、私と視線も合わせようとしないで、フラン様はそう言いました。
私は、その言葉に酷く裏切られたような気分になって。
気がつけば、あの人の頬を力いっぱい張り飛ばしていました。
……でも、泣きながら逃げ出して時間が経って落ち着いてみれば、どこまでも気分が落ち込んでいきました。
だって、フラン様が仰ったのは本当のことなんですから。
確かに探してとは言われてませんし、フラン様からすれば数百年以上も勝手に追いかけられているようなものだったのでしょうか。
そして追いつかれていきなりビンタされて泣かれて逃げられて。
正直かなり気持ち悪いというか。
でもそれ、私なんですよね……。
なんか私、一人で勘違いして突っ走って、痛い子みたいな感じじゃないですか。
おかしいな、私はこんなことをするためにフラン様を追ってきたわけじゃないのに。
ああ、なんで私フラン様を引っ叩いてしまったんでしょう。
もう顔を見れません。
そんな風に体育座りでうじうじしていると、誰かが近づいてきました。
誰かというか、海王類?
「こんにちは、お嬢さん」
うわ、喋った。
ていうか、海王類なのになんで肉声で日本語喋ってるんですか。
「あなたは?」
「私はリヴァイ。フランの夫だよ」
ふ、ふ、ふ、フラン様の夫!?
い、いえ、フラン様ほどのお方でしたら夫の一人や二人、百人や千人いても驚きませんけど、え、海王類と!?
「まあこんなこと言うと本人から普通に否定されるだろうけどね」
「な、なんだ、驚かさないでくださいよ」
「彼女と子供を作ったのは本当だけどね」
「えええええ!? それってつまり結婚せずに体だけの関係ってことですかぁ!?」
「ははは」
海王類さんは楽し気に笑った後、ネタバラシをしてくれました。
なるほど、人魚を作るのに遺伝子を提供したと。
先ほどフラン様の隣にいた大きな人魚の女性が、この海王類とフラン様の子供だそうです。
はー、驚きですね。
フラン様の子供と言えば……こぁは眷属で、フラン様自身と言っても過言ではないですし子供とはちょっと違いますね。
まぁラフテルの民すべてフラン様の子供のようなものでしょうけど、私も含めて。
「それで、リヴァイさんは私に何か用ですか?」
「んー、いやね、人間とは初めて話すものだからちょっとした好奇心というやつさ。……しかし、どうやら君も普通の人間というわけではないようだね」
まぁ、私これでもフラン様とこぁさんの次くらいには長生きしていると思いますし。
「私と一緒に来た船のクルーは皆純粋な人間ですよ。そちらと話されては?」
「あとでそうさせてもらおうかな。――それで、君は一体なんなんだい。君からはフランと同じ匂いがする」
ふうむ?
なんだか警戒されてますね。
まあ別に隠すことでもないのですけど。
私は私の来歴をリヴァイさんに語りました。
おそらくリヴァイさんの感じているのは私の中にあるフラン様の妖力ですよね。
なにも警戒することは……ああ、なるほど、そういうことですか。
彼は私達がフラン様を地上に連れ去ってしまうことを恐れているのですね。
「なるほどね、フランを追って、か……。しかし君たちは双方ともに不器用というかなんというか」
不器用?
フラン様も私も手先は器用な方だと思いますが……。
まあにとりには負けますけど。
彼女はミズミズの実の能力でミクロン単位の精密作業ができますからね。
「……君はいささか抜けているところがあるようだね。でもまあ、そんな人でもなければ彼女の隣は耐えられないのかもしれないね」
「なんの話ですか?」
「君達はお互いもっと腹を割って話し合うべきだということだよ。傍から見ていて非常にやきもきさせられる」
「はあ……」
なんで私は海王類に人生のアドバイスをされているのでしょう。
だいたいフラン様と何を話せというのでしょう。
そもそも、もう合わせる顔がないんですけど。
「まあ、まだ実感はわかないか。……ところで君の名前は? 君はフランのなんなんだい?」
「あ、すいません、まだ私の自己紹介はしてませんでしたね」
来歴とか目的とかは語りましたが、これでは片手落ちでしたね。
「私の名前は紅美鈴です。フラン様の……フラン様の……?」
あれ、私はフラン様の何なのでしょう。
以前はスカーレット海賊団の船員として、師匠が亡くなってからは料理長として船に乗っていました。
だから私はフラン様の部下で。
でも、船を降りた今は?
血のつながりはないし、にとりのように友人といえるほど気安い間柄ではありません。
でも、単なる知り合いと言ってしまうには、あまりに長い時間を共に過ごしています。
フラン様が海底へ行かれるまではかなり親しかったとも思っています。
でも、それならどうしてフラン様は私に何も言わず……。
「……その答えを見つけるためにも君はフランとよく話し合うべきだよ。はぁ、まったくなんで私がここまで気をまわしているのやら」
そう言い残して、リヴァイという名の海王類は去り。
しかし、私には彼を見送る余裕はありませんでした。
★
魚人島の外れにある森。
美鈴はその森の中の一本の木を背にして座り込んだ。
「フラン様……」
姿は見えなくてもその木の裏側にフランがいることは、気配で感じ取っていた。
一本の木を挟んで、背中合わせに座っている形だ。
「…………」
美鈴の言葉に返事はない。
しかし、うずくまるように座っているフランが少し身じろぎしたのを、美鈴の鋭敏な感覚が捉えている。
「私はフラン様が突然いなくなって、とても驚きました。それと、何も言わずにだったことが、寂しく思いました」
「こぁに聞いても何も教えてもらえず……一応、何か不測の事態に巻き込まれてのことではないと分かって安心はしましたけど」
「私はフラン様にまたお会いしたかったですし、仮に別れなければならないにしても別れの言葉くらいはお伝えしたかったです」
「だからそれから、フラン様を探すことにしました。にとりに手伝ってもらって、フラン様が海底にいるようだということはわかったので、そこまで行く手段が問題でした」
「海って凄いんですね。生身で潜っても息が続かないしペシャンコにされてしまうしとても寒いしで大変でした。悪魔の実で龍になっても半分が限界で、別の方法を考えなくてはならなくて」
「私は話に聞いていた、サンタマリア号を空気の膜で覆って潜る方法を真似てみようと思いました。それで、空気を出すという陽樹イブを接ぎ木して近くの島で育てることにして……」
「勿論そのままでは無理ですから、魔力を帯びているという海楼石をそばに置いて育ててみたり、妖力を込めてみたり、”気”を込めてみたり」
「ちょっと待って、妖力? なんでメイリンが妖力を使えるの?」
独り言のように、反応を待つでもなく喋り続けていた美鈴だったが、ここで初めてフランが反応した。
しかし、その反応に美鈴はピンとこない。
「え、ええと、昔フラン様が私の首の鈴に妖力を込めて壊れないように強化してくださったことがありましたよね。私の声帯はその鈴を元にされているそうなので、そのせいかなと。自分が妖力を持っていると気づいたのは悪魔の実を食べてからしばらくしてのことでしたけど」
ガン、と大きな音が海底の森に響いた。
美鈴が背中を預けている木が大きく軋む。
フランが勢い良く顔を上げ、後頭部を背後の木に盛大にぶつけたためだった。
再び――先ほどまでとは違う理由で――頭を抱えてうずくまる気配を感じて、美鈴は咄嗟に木の裏側へ回ろうとするものの、それは他ならぬフラン自身によって止められる。
「待って、ちょっと、こないで。大丈夫だから。今、自分の愚かさとかアホさ加減とか抜けてるところとか考えなしなところに呆れ返ってるけど、それ以上にこんな頭抱えた間抜けな姿を見られたら死ぬ。死んじゃう」
美鈴はフランが鈴に妖力を込めたことと、それを声帯と同化させることで自身の一部にしたことは意図的なものではなく――もしかすれば濃すぎる妖力が体に害を与えて危なかったのでは、と問い正したかったが、とてもそんな追い打ちをかけられる状況ではない。
“気を使える女”を自負する美鈴はとりあえず別の話題を振ることにした。
「えっと、その、フラン様って体頑丈ですよね」
「……うん? 何急に」
「いえ、あの、フラン様なら木に頭をぶつけたくらいじゃビクともしなさそうなのに結構普通に痛がっているのが不思議で……」
美鈴の言葉通り、フランは今若干涙目になりながらぶつけた個所を擦り、ずれた帽子を直していた。
「あーうん、まあね。日光対策に常時薄ーく妖力は纏っているけど基本的には生身だよ、私。痛覚含めて感覚はだいたい普通の人間と同じくらいに調節してるし」
「そうなんですか……あっ、そういえば昔私がフライパンを頭に落としてしまったときやドアに挟んでしまったときも普通に痛がってましたね」
「強い体を持ってたり長いこと生きてるとどうしても感覚が鈍くなっちゃうからね。そして感覚が鈍ると心も鈍くなっていくから。メイリンはこの数百年でそう感じることなかった?」
「あはは……。私は師匠に“気”を教えてもらって、そのあとも覇気やらなんやらで見習いコックのころから常に身体強化はしていましたし、五感も強化してましたから、あまりそういうことは考えたことがありませんでした。今後は気を付けてみます。……でも、それって危険じゃないですか?」
「一応私も“攻撃”に対しては反射的に防御するし、“
「うっ……ご、ごめんなさい。あのときはついカッとなって本気で殴ってしまいました……。そうですよね、アレ普通の人にやってたら首から上どころか余波で全身バラバラになっててもおかしくないですよね……。うう、私はフラン様になんてことを」
頭を抱えていたフランから一転、今度は美鈴が体育座りに顔をうずめてブツブツと呟く。
その様子が目で見ていないのにありありと思い浮かべられることに気がついて、フランは苦笑した。
随分と、それこそ千年近くも離れて必死で忘れようとしていた存在が、全く自分の中から消えていないことに気がついて。
「いや、ありがとね、メイリン」
「へ?」
「いいのを一発もらったおかげで、目が覚めたよ」
ぺたん座りをやめて足を前に伸ばす。
帽子を取り、背を木に預ける。
一つ大きく深呼吸をすれば、なんだか一気に心も体も軽くなった気がした。
「私はさ、怖かったんだよね。あなたが死んでまた一人になっちゃうのが。メイリンがもうすぐ寿命で死んじゃうって思ったとき、たまらなくなって逃げ出したの」
「フラン様……」
「笑っちゃうよね。ウブなネンネじゃあるまいし、メンタル弱すぎって感じ。まあ、実際は自分で妖力与えて寿命伸ばしてたんだから世話ないけど」
「あはは……」
はあ……と大きくついた溜息は空気に溶けて広がっていく。
束の間、海の森には風が木々を揺らすだけの静寂が揺蕩う。
互いに顔すら合わせてはいないけれど、しかし、この静寂はーーなぜだか心が通じ合うような、心地の良い静寂だった。
「正直、今でも怖いよ。例えばさ、これから千年くらいメイリンが生きるとして、私と一緒に生きたとして、長すぎる人生に疲れて私を置いていったりしたら、なんて考えるといてもたってもいられなくなる」
「私は、絶対にそんなことーー!」
「未来のことなんて誰にもわからないよ。絶対なんて言い切れない」
「それは……」
「ふふっ。でもね、それでも、いや、それだからこそ、いいのかなってーーあなたが思わせてくれたんだよ?」
「え?」
「千年後にはメイリンが居なくなっちゃうかもしれない。でも、そうはならないかもしれない。私は耐えられないかもしれない。でも、そうはならないかもしれない。未来なんてわからないんだから、その時の自分に丸投げ! 悩むのやめちゃおうってね」
「ええー……それはなんというか、適当過ぎません?」
「いいじゃない、適当で。だって私、メイリンに思いっきりビンタされる未来なんて一度も考えたことなかったし。しかも、死んだと思っていたのに千年後に海底まで追ってきて、だよ」
フランは目をつむり薄く微笑む。
美鈴は花が咲くようなその気配に、思わず振り向いて見たくなった。
きっとそれは、今まで見た彼女の表情の中でも、いっとう綺麗なものだと思ったから。
「なんかもうね、いい意味で色々馬鹿らしくなっちゃって。もっとこう、自由に生きたいなって思っちゃった」
「今以上に自由に……?」と思わず美鈴は口走りそうになったが、すんでのところでこらえる。
何も言わずに深海に千年も引きこもるというのはなかなかにぶっ飛んだ自由人の在り方だが、美鈴は空気が読める女なのだ。
「だからさ、メイリン。色々と酷いことをしたし、酷いことも言っちゃったけど……また、私のそばにいてくれる?」
そのフランの言葉に美鈴は体を硬直させた。
知らず、止めていた息をゆっくりと吐き、深く深呼吸をした。
「フラン様……私は、自分でも分かってませんでしたけど……多分面倒くさいとか重いとか言われる女だと思います。今まで全く意識してませんでしたけど、特になんの約束があるわけでもなく千年も追っかけるとか、結構ヤバいと思うんですよね。だからまあ、気持ち悪がられたりすることはあるかもしれませんけど」
美鈴は目を閉じ、自分の気持ちを見つめ直す。
自分のことも大概だと自覚してしまったけれど、これも自分だと割り切ってしまえる程度には達観していた。
そして気持ちは彼女を追う前と再び会ったあとで、いささかの違いもなかった。
いや、むしろその想いは強くなっているかもしれない。
美鈴にはそのことが自分のことながら嬉しかった。
そう思える自分で在れることが誇らしかった。
「多分あなたが本気の本気で心の底からどうしても絶対に嫌だって拒絶しない限りは、私は頼まれなくたってそばにいたいと思います。もし死んじゃっても死の国から戻ってくるくらいには、執念深いと思いますよ、私」
そう言って美鈴は苦笑した。
自分でも何を言っているかわからない。
一歩間違わなくても、控えめに言って頭がおかしい。
狂っている。
でも、狂っているからこそ、彼女の隣に在れるのかもしれない。
なにせ彼女は狂気の吸血鬼、フランドール・スカーレットなのだから。
「だからその、いつまでも隣にいて、いいですかーー?」
その言葉は懇願のようであり、請願のようであり、それでいて、どこか決意表明のような色に見えた。
「あはっ、アハハハハッ!」
静かな海の森に狂った哄笑が響き渡る。
常人ならば聞いただけで腰を抜かし正気を保てなくなるような恐ろしい笑い声。
だけれども、ただ一人その笑い声を聞いた美鈴は知っている。
この笑い声は彼女の愛する吸血鬼が、本当に気分がいいときに出す笑い声だということを。
「あなたって割と馬鹿なところあると思ってたけど、間違いだったよ。正しくは大馬鹿者だね、それも救いようがないくらいの」
「えー、私結構勇気を振り絞っての告白だったんですけど。その反応は酷くないですか?」
「あはは、ごめんごめん。でも、お似合いだよ。私もどうしようもない愚か者なんだし」
「フラン様が愚か者なら全生物には知能がないことになると思うんですけどねえ……」
笑う二人の声は混ざり合い、空気に溶けていく。
それはまるで二人のわだかまりが解けていくようでもあり。
未来においてそれがどのような意味を持つのかはまだ誰にもわからないけれど。
きっと今この時は、何にも劣らぬ幸せな時間だった。
永遠に幼い吸血鬼は独り、永い時を刻む
小さな歩幅の歩みは遅く、終りは見えず
刹那の道をすれ違うよう、皆は先に行く
一人取り残される月夜に、訪れるは静寂
ああ世界よ、そして誰もいなくなるか?
そうして彼女が諦めれば、到る明けぬ夜
されども月夜に一人抗う、曙光輝く太陽
何も持たざる龍の少女は、月の隣を望む
月に寄り添い歩みを揃え、心の闇を払う
たとえ難き試練が彼女を、襲うとしても
きっと、それでも彼女はいなくならない