落第騎士の英雄譚  兇刃の抱く野望   作:てんびん座

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色々と思うところがあって書き直しを投稿です。
次話は30分後に投稿予定。(4月17日現在)


話せばわかる(物理)

「ふざけるなッ……ふざけるなァ……!」

 

 慣れない訓練場を走りながら、赤座は必死にリングを目指している。その途中で愛用している帽子を落としてしまったが、それに気付く余裕すら今の赤座にはなかった。

 先程から一輝を讃える歓声と喝采が鳴り止まない。もう《雷切》に勝利したという事実はどうやっても揉み消すことはできないだろう。

 しかも今日は裏から手を回し、学園外の報道関係者もこの試合に引き込んでしまっている。噂の黒鉄一輝の命運が決まる、という文句であの試合はテレビ中継されてしまっているのだ。

 

「クソッ、チクショウ!」

 

 今頃、厳はこの中継を観て失望の溜息をついているはずだ。

 いつ携帯電話が鳴り響き、自分の失脚を宣告してくるかわからない。

 ならばその前に何としてでも手を打つ。破れかぶれでも一向に構わない。屁理屈を吐いてでも一輝を追撃する必要がある。

 

「ひ、ひひっ……そうだ。本当の決闘の相手は私だったんだ……!」

 

 どう考えても理屈が通らないその理論。

 しかし崖っぷちに追い込まれた赤座にはそれが天才的な発想に思えていた。

 この条件と虫の息の一輝が相手であれば、間違いなくここから逆転することができると確信していた。

 唯一見出すことができた希望。それを掴み取るため、リングへと続くゲートに到着した赤座は霊装の手斧を顕現させて走り出す。

 

「そうだ! 《雷切》に勝ったことなど関係ないッ、私との闘いが本当の決闘だ! このままあいつをグチャグチャにしげぇッッ――!?」

 

 その瞬間、赤座は何が起こったのか全くわからなかった。

 まず声が封じられた。脂肪で丸々と太った首が万力で締め付けられ、息が声帯を震わせることを許さない。

 続いて手足をどこからか掴まれたように感じたかと思うと、走った勢いによって地面に引き倒される。

 息ができない。手足も動かせない。

 赤座は必死に周囲を見回し下手人を見つけ出そうとするも、しかし薄暗い通路には自分以外の誰もいなかった。当然だろう、何せ今は試合が終わったばかり。そんなタイミングで入場口(ゲート)に人がいるはずもない。

 

(な、何が……ッ!?)

 

 赤座がようやくそう思ったのと、その身体がどこかへと猛烈な速度で引き摺られ始めたのは同時だった。

 ゲートが遠ざかっていく。その光を必死に目で追いかける赤座だったが、最初の角を勢いよく曲がった瞬間に視界に火花が散った。壁に後頭部から叩き付けられたのだ。

 しかし悶絶すらも封じられた赤座は、そのまま高級スーツが埃塗れになるまで音もなく引き摺られ続ける。

 そして何度壁に叩き付けられただろうか。

 凄まじい速度で二、三秒ほど廊下を引き回された赤座は、訓練場内のとある小部屋――恐らくは選手控室に引き摺り込まれ、その勢いのままに入口の正面にある壁へと激突した。そして赤座が通過した入口は独りでに閉まり、外から響く歓声が小さくなる。

 

「げはァ!? ぐぇへぇ……!」

 

 ここに来てようやく身体を解放された赤座は、失った酸素を取り戻そうと必死に息を吸い込んだ。

 しかし息が整う前に、赤座は意外な人物を目にすることとなる。

 

「ハァ、ハァ……疼木、さん……? 貴女がどうして……?」

「…………」

 

 そこにいたのは、先程まで自分と談笑していたはずの祝だった。

 彼女は部屋の中に設置されたベンチにちょこんと腰かけ、感情の読めない瞳でこちらを見下ろしている。

 

「ま、まさか、貴女が私をここに連れ込んで……」

「そうですよ」

 

 祝が指をクイッと引くと、赤座の右腕を引く感触が伝わる。

 糸だ。彼女は魔力の糸で赤座を縛り、ここまで引っ張ってきたに違いない。恐らくは先程の観戦中にコッソリと巻き付けていたのだろう。

 それを理解した赤座は、困惑から徐々に怒りへとその表情を変貌させていく。

 

「な、何の真似ですかこれはァ! おおお、お前に付き合っている暇なんてないんだッ! 早くしないとあのガキがッ……ええい、クソがァ!」

 

 怒声を張り上げながら立ち上がった赤座だが、祝は表情をピクリとも動かさずその様子を見つめている。

 普段の赤座ならばこれに不気味さの一つも感じるのだろうが、この時の赤座は非常に焦燥に駆られていた。故に祝へと唾を飛ばしながら悪態をつき、感情のままに「よくも邪魔を」と呪詛を吐く。

 

 

「うるさいなぁ」

 

 

 それは何の前触れもなかった。

 事実、赤座には祝の右肩から先が消え去ったようにしか見えなかった。

 何が起こったのか。その疑問に眉根を寄せ、そして足元から昇ってくる激痛に表情筋の全てが引き攣った。

 

「うッ、ギィやァァァアアアアアアッッ!?」

 

 赤座の左足の甲に鈍色の曲刃が突き立っていた。

 刃渡りの半分まで深々と突き刺さったその刃は、間違いなく赤座の足を貫通して床へと届いている。

 幸いにも《幻想形態》であったが故に刃が赤座の肉を抉るには至っていないが、与えられる痛みは《実像形態》のそれに遜色ない。

 事実、思わず尻餅をついた赤座は、その動きが足をより抉ることとなってしまいさらなる悲鳴をあげることとなった。

 当然ながら耳を劈くそれを祝が許すはずもなく……

 

「……だから」

 

 祝の右手に力が籠る。

 そして彼女は躊躇なく刃を引き……

 

「私は、うるさいって、言っているんですけど」

「――あっ、あああああああああああああああああああッ!?」

 

 赤座の足から赤い《血光》――《幻想形態》を食らった肉体から噴き出す魔力光が宙に散る。

 今、赤座は足が縦に裂けたのと同等の痛みに悶えているのだ。いかに《幻想形態》が齎した偽りの傷だとわかってはいても、左足を反射的に手で押さえ、喉が枯れるほど絶叫して蹲った赤座の行動は自然なものといえる。

 しかし祝はそのようなことを考慮する殊勝な人格など持ち合わせていなかった。

 鳴り止まぬ赤座の声に辟易したのか、祝は空いた左手を軽く引く。それだけで再び赤座の首が締まり、「ふげぇ」という声を最後に悲鳴は肺の奥へと収められた。

 

「こうやって首を絞めたらお話ができなくなるじゃないですか。だから悲鳴はやめましょう?」

「ッ! ッッ!」

 

 祝の言葉に必死に赤座は頷いた。彼女が本気だということを今更になって悟ったのだ。

 このままここで祝と対面していれば、自分は彼女の気分一つで再び痛めつけられることになる。そう判断した赤座は、左足を襲う激痛に懸命に耐えた。

 だが、赤座もこのまま黙っているつもりはない。

 

「そうですか。理解が早くて助かります」

(――かかったな馬鹿め!)

 

 赤座の首肯を見て、祝は首の糸を緩めた。

 しかしそれこそが赤座の狙い。首が解放されるなり、彼は霊装の手斧を再び手元に顕現。痛みのない右足を踏み出し、その手斧を渾身の力で振り上げた。

 赤座とて伐刀者の端くれ。こうして反撃することももちろんできる。

 しかし祝は無防備にも赤座を糸から解放した。既に手傷を負わせたからと油断したのだ。

 それが彼女の命取りとなる。

 

(このまま頭を割ってあげましょう! 《幻想形態》ではないので死ぬことになるでしょうが、これは正当防衛だ!)

 

 脳内で理論武装を組み上げる。

 そしてこの憎らしい女が死の間際でどのような表情を浮かべるのか、それを見ながら殺してやろうと赤座は喜悦に表情を歪ませた。

 しかし、忘れていたのは赤座の方だった。

 目の前の少女が何者であり、そもそも赤座の反撃が完璧だったとしても前提として“奇襲が通用しない伐刀者”であるということを。

 

「死ねぇ!」

 

 赤座が殺意の一撃を振り上げたその時には、既に祝の右腕は動いていた。

 頭上へと真っ直ぐに伸びる赤座の腕。その腕に伸びる黒い一閃。

 しかし赤座自身はそれに気付くこともなく狂喜と共に右腕を振り下ろし――

 

「……はれ?」

 

 いつまで経っても手斧が降りてこない。

 自分は確かに腕を振り下ろしたというのに、その手に握られているはずの武器が祝の頭に届いていないのだ。

 

(えっ? えっ? なんで……?)

 

 わけがわからない。

 一体何が起こっている。

 首を傾げる赤座。しかしその解答は、血の雫と共にべしゃりと地面から響く音によって齎された。

 本能的な恐怖によって恐る恐るそちらへと視線を向ければ――そこに転がっていたのは、霊装を握り締めたまま赤く染まる自分の右腕で……

 

「……ッ」

「喧しいですよ」

 

 三度赤座の首が締まる。

 今度は喉が引き攣った瞬間に糸が張力を取り戻していた。故に室内に悲鳴はなく、聞こえるのは未だに続く歓声と赤座の小さな唸り声だけだ。

 淡々と赤座の口を封じる祝は、彼の腕が夥しい量の赤い水を滴らせようと表情一つ動かさない。しかしまだ彼を殺す気はないのか、気怠そうに立ち上がると赤座の腕に糸を強く巻き付けて無理やり止血する。

 

「話が進まないので大人しくしてください。殺しますよ」

 

 仏の顔も三度まで。

 余りの痛みに意識を半分ほど遠退かせながら、なぜか赤座はその言葉を思い出していた。既に自分があげる悲鳴で彼女を苛立たせること三回。そして彼女が今言い放ったことは間違いなく本心で……即ち、次はない。

 そのことに恐怖し、赤座は歯を食い縛って意識を繋ぎ止める。

 痛みよりも恐怖が上回るなど、今までの人生で体験したことすらない事態だった。

 しかしこれが現実だ。次に悲鳴をあげた時、自分は死ぬ。それを本能で理解し、赤座は必死に口を噤んだ。

 そして喉元を解放されて最初に行ったのは、謝罪と命乞いである。

 

「も、もう赦してください……二度と一輝クンには近づきません……! 二度と貶めようともしませんッ……だがらどうが……こ、ここ、殺ざないでぇ……」

 

 祝が自分をここまで痛めつける理由。

 それは自分が卑劣な手段を用いて一輝を追い込んだからに違いない。黒乃たちが自分に敵意を向けてきたように、彼女も自分に対して怒りを抱いているのだ。

 彼女は力ばかりが際立つが、その本質は普通の女の子。であるならば正義の心に駆られ、同じ学校の仲間のために怒ることがあってもおかしくはない。

 そう判断した赤座は、溢れる涙と激痛を無視してその場に蹲った。いや、これは土下座だ。頭を地面に擦り付け、一心に祝へと謝罪している。

 

「……はい?」

 

 そんな赤座を見下ろしながら、祝はコテンと可愛らしく首を傾げた。

 返り血に制服と顔の半分を真っ赤に染めながら、しかしその動作はもはや赤座が不気味さしか感じないほどに自然体だ。

 もはや一抹すらも余裕が残されていない赤座は、その芳しくない祝の反応に全身の筋肉を縮込ませた。

 

「も、もちろん一輝クンにも謝ります! ステラ殿下にも謝りに行きます! なっ、何なら黒鉄家の陰謀だったことをマスコミに暴露しても……!」

「…………?」

 

 赤座が口を開けば開くほど祝の眉は顰められていくばかり。

 それに焦った赤座がさらに命乞いを続け、そして祝の機嫌が急降下していくという完全な悪循環。

 そして遂に、祝の深い溜息によって赤座の口は無理やり閉じさせられた。

 

「……はぁ。薄々気付いてはいましたが、やっぱりそうですか」

「ッ!? す、すみません赦してください! 何でもしますから命だけは……!」

「赤座さんは私が黒鉄の件について怒っていると、そう思っていたんですね」

 

 呆れたように赤座を見下ろした祝は、蹲る赤座の耳元へと顔を寄せて優しく囁いた。

 

「私はね、赤座さん。別に黒鉄のことなんてどうでもいいんです。私が怒っているのは全く違うことについてなんですよ」

「ち、違う……?」

 

 では何だというのだ。

 赤座には祝を害した記憶などない。何せ数週間前に会ったばかりの関係だ。だというのに、自分が一体何について怒りを向けられなければならないというのだ。

 

「赤座さんが先程仰った“大鎌が足枷”という旨の言葉……あれを撤回してください」

「………………は?」

 

 理解できない言葉に赤座の思考が停止する。

 祝の要求はあまりに予想外に過ぎた。故に赤座はその意味を咀嚼するのに時間を要し、思わず“失言”を漏らしてしまう。

 

 

「そ、()()()()()()()()……?」

 

 

 次の瞬間、祝の左手に掴まれ、赤座の頭蓋は地面を陥没させていた。

 あまりの速度に胴が置いてけぼりを食らい、首の肉が伸び上がってしまったほどだ。魔力防御がなければ確実に頭の方が窪んでいただろう。

 だが祝は行動をそれだけで収めることはせず、俯せで苦悶する赤座の背中に《三日月》の刃を突き立てた。

 

「ひぐッ!?」

 

 《幻想形態》の刃が骨と肉ごと貫いた奥にあったのは、血流を作り出す重要内臓器官――即ち心臓。

 生きたまま心臓を刺し貫かれる。その苦痛と恐怖は想像を絶する。祝が糸で喉を絞めていなければ確実に喚き散らしていただろう。

 しかもあろうことか、祝は前後に鎌を押し引きすることで傷を抉り続けている。

 

「そんなこと? それ以上に重要なことが貴方の人生に存在すると思っているんですか? 撤回してください今すぐに。大鎌(この子)に、誠意を込めて、心から謝罪してください」

 

 刃は心臓をなぞり、残る左腕へと肩を伝って上っていく。

 その激痛に白目を剥きながら、赤座は痛みへと条件反射したかのように何度も頷いていた。しかしあまりの苦痛に意識は断たれ、口元からは唾液と泡が垂れている。

 だが、その程度で祝が手を緩めることはない。

 

「何を寝ているんですか」

 

 左の人差し指が石突によって叩き潰された。

 その痛みで赤座が跳ね起き、そして「うーうー」と声にならない叫び声。未だに首は緩められていない。

 しかし求められていることは理解しているのか、赤座は涙を流しながら必死に割れた額を地面に擦り付ける。それによって糸が僅かに緩められ、赤座はようやく血の臭いに塗れた空気を存分に吸い込むことを許された。

 

「私はね、赤座さん……大鎌が大大大大大ッ大ッ大ッ大ッ大好きなんです。ちょっと自分でも病気なんじゃないかな、と思うくらい愛しているんです。大鎌を使って闘ったり修行しているだけで幸せですし、それだけが今の人生に彩りを与えてくれている。大鎌で闘えない世界なんてもう耐えられないくらいなんです。もはやそれは地獄でしかない」

 

 まるで舞台上の俳優のように、祝は両手を広げて謳い上げる。

 その瞳は明らかに狂気を帯びており、言葉の端々から空気へと伝染する喜悦が赤座を竦ませる。

 

「大鎌使いとして研鑽することに命を使い果たすのが私の夢なんです。この子の使い手として楽しく闘い続けたいんです。それにね、私の大好きな大鎌は他の武器にだって全然劣らないんだぞって知ってもらいたくもあります。そうすればもっと大鎌使いの伐刀者が増えるでしょう? きっとフィクションにもノンフィクションにも大鎌が溢れる素晴らしい世界になる。そんな世界になれば私は嬉しい。死ぬほど嬉しい」

 

 まるで子供の用に無邪気に笑い狂う祝。しかしその姿はもはや赤座の目にはこの世の者とは思えなかった。

 あれは間違いなく魔物の類だ。人の形をしているだけで人間ではない。自分は今、恐ろしい怪物の前にいるのだ。

 

「……ですからね、赤座さん」

 

 芝居がかった演説が終わり、祝は微笑みながら再び椅子に腰かけた。

 しかし赤座にとってその笑顔は、もう心胆を冷やす以外の役割を持たぬ恐怖の面貌(かお)でしかない。

 

「そんな大鎌大好き人間な私からすると、先程の赤座さんの言葉は看過できることではないんです。もっと言うのなら、去年の日本支部が行った情報操作は赦されざることです。死刑確定です」

 

 今度こそ赤座の顔から血の気が引いた。

 歯がガチガチとぶつかり、これまでとは比べ物にならない恐怖が全身を震わせる。

 赤座は確信した。これは復讐であり報復なのだ。

 このまま祝と同じ空間にいれば、その実行役であった自分はただ殺されるのよりも恐ろしい目に遭わされる。何かはわからない。しかし本能が全力で警鐘を鳴らしている。

 もう駄目だ。お終いだ。

 もはや悲鳴を出すことすら出来ない。恐怖に喉は引き攣り、滂沱の涙が双眸から溢れ出る。

 

 なぜだ。自分はどこで間違えた。本当ならば輝かしい未来が自分を待っていたはずだというのに。どうしてこんなことに。自分の何が悪かったというのだ。

 

 嗚咽を漏らし、赤座は泣いた。

 絶望によって精神を追い詰められ、頭に浮かぶのは後悔と未練ばかり。

 大の大人が情けない――そう言い放つことができるのならば、それは目の前の少女の恐ろしさを知らぬというだけのこと。もはや生き残る術も可能性もない今、赤座にできるのはこうして子供のように泣くことだけだった。

 

 

 だが、そんな赤座に最後の可能性(チャンス)が齎される。

 

 

「しかし、私も鬼ではありません」

 

 涙に濡れた赤座が顔を上げると、そこには先程と一変して天使のように慈愛に満ち溢れた微笑を見せる祝がいた。

 優しい声音だ。

 聞くだけで心が安らぎ、その柔らかさはまるで遠き過去に聞いた母の子守歌のよう。

 

「赤座さんは何も知らなかったんですよね? 上から命じられた仕事をただ果たしただけ。そうですよね?」

 

 その言葉に赤座は最後の希望を見た。

 悪魔の狂気から天使の慈愛へと笑みの性質を変じさせた祝に、赤座は生きる希望がまだ残されていたのだということを知った。

 そうだ、その通りだ。全ての元凶は破軍学園の前理事長であり、その取引の相手も日本支部の上層部だ。自分はそこから言われた通りに仕事をしただけなのだ。

 自分に非はない。

 そもそも自分は祝がこれほど大鎌へ愛を向けているなど知らなかったのだから。

 

「でも、赤座さんが私の大鎌を愚弄する世論を作り出した人の一人であることに違いはありません。それをタダで赦しては私の大鎌愛が廃ります。ですから……ね?」

 

 這い蹲る赤座の目と鼻の先に《三日月》の曲刃が突き立てられる。

 その大鎌は全身から凍てつくほどの冷気を放っていた。

 いや、違う。これは瘴気だ。恐らくこの冷たさは、《三日月》の放つ瘴気と死の気配を死と隣り合う自分の本能が感じ取っているのだろう。

 

「わ、私にどうしろと……」

「謝ってください。大鎌(この子)に、心から、誠意を込めて、『大鎌の地位を貶めて申し訳ありませんでした』と謝ってください。そうすれば私は貴方を赦します」

 

 祝が真剣そのものだということは眼前の大鎌の瘴気が証明している。

 彼女は本気だ。

 本気でこの霊装に赦しを請えと言っているのだ。もしも欠片でも赤座の言葉に邪念を感じ取ったのならば、祝はその刹那の後に赤座を惨殺するに違いない。

 もはや赤座に躊躇はなかった。

 

「も……申し訳ありませんでしたァ……!」

 

 人生で最も深く頭を下げた。

 心の底から目の前の無機物へと謝罪した。

 何なら屈服の証に、その使い手である祝の靴を嘗めたって良かった。

 もう赤座の心は完全に折られていた。与えられた苦痛、祝の計り知れぬ狂気、そして齎された最後の希望によって。

 希望がなければ赤座は全てを諦めて死の覚悟をすることができたかもしれない。しかし最後の最後に見せられた『生き残れるかもしれない』という希望は、赤座に未来への願望と未練を思い出させるのに充分な光となっていたのだ。

 

「……見事な土下座です。どうやら赤座さんは心から大鎌に謝罪してくれたみたいですね」

「はっ、はい! 反省しています!」

「宜しいっ。ならばこれで赤座さんの罪は赦されました。もう安心してください」

 

 眼前に突き立てられた《三日月》が空気に溶けて消える。

 それによって本当に命が助かったのだということを、赤座は心から実感した。

 助かった――その事実に赤座は歓喜の涙を流し、“生きている”ということがどれほど尊いのかを思い知らされた。限りなく死に瀕したことで、赤座は生命の歓びを教えられたのだ。

 

「あぁ……あぁ……ありがとう……!」

 

 口から出るのは感謝の言葉ばかり。

 それが誰に向けられたものなのかは赤座にもわからない。しかしただ、今は誰かに感謝を捧げたい気分だった。

 

 

 

 

「――まぁ、嘘なんですけどね」

 

 

 

 

 その感謝は十秒と待たず霧散する。

 消えたはずの鈍色の刃が、赤座に残されたもう一本の腕を斬り落としていた。

 

「……へ?」

 

 理解が追い付かない。何が起こったのか、赤座には何もわからない。

 目を丸くする赤座の首が魔力の糸によって締め上げられ、気道と声帯を完全に抑え込まれる。

 それでも赤座にはわけがわからないままだった。いや、正確にはわかりたくなかった。自分は希望を見つけ、それを掴むことに成功したという理想に縋りたかった。

 しかし現実はすぐにその理想を追い抜き、苦痛と死の恐怖を纏って赤座の命を握り込む。

 

「……ぁ……ぁ……ぁ……」

「私が貴方を赦すと、一瞬でも本気で信じていたんですか? 笑えない冗談です」

 

 首の糸を外そうともがく赤座を余所に、今度は右足を縦に(・・)引き裂く。あくまで淡々と、坦々と。

 赤座の身体が痛みに痙攣する。

 しかし祝は手を止めない。今度は左足だ。肉の内に通る骨を、《実像形態》の石突で丁寧に叩き潰していく。肉が裂けて血が飛び散ろうと決して手を止めない。

 

「死を以って償ってください。苦しんで、もがいて、絶望して――その中で大鎌に詫びてください」

 

 赤座は完全に理解した。

 晒された暴虐も、最後に見出したと思った希望も、全てはこの瞬間のための餌だったのだ。絶望の淵から希望の糸を垂らし、それに縋って安堵したところを再び絶望に突き落とすための罠だったのだ。

 現に、ほら……自分はこんなにも恐怖し、苦しみ、絶望しているのだから。

 

(い……いやだ……!)

 

 本当に、自分はどこで間違えたのだろう。

 いや、最初からだ。厳がずっと示唆していたように、最初から自分はこの悪魔と関わるべきではなかったのだ。

 この悪魔と出会ってさえいなければ、少なくとも自分は死ぬことはなかったはずなのだから。この悪魔に遭遇してしまったせいで、自分はここで肉片と骨片になって死ぬのだ。

 

(……いたい……くるしい……しにたくない……!)

 

 恐怖と苦痛で心が壊れていく。

 希望が絶望に塗り替えられ、抱いていたはずの未来への願いが崩れていく。

 自分の肉体と精神が端から破壊されていく感覚。五感が意味を失い、肉体が死体へと変じていく感覚。魂が身体から引き剥がされ、まるで地の底へと吸い込まれていくような感覚。

 その全てが未知の感覚で、言い様のないその感触が堪らなく気持ち悪かった。

 

(だれか……た、すけ…………て………………)

 

 深い絶望と恐怖。

 そして苦痛を余すことなく感じながら、赤座守は絶命した。

 だが、それは赤座にとって苦しみからの解放でもあった。命という代償を支払い、彼は祝の責め苦から脱出したと考えることもできるだろう。

 そういう意味では、赤座はようやく死ぬことができて幸せだったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 伐刀絶技《既死回生(カルぺ・ディエム)》――発動。

 

 

「――でも私、思ったんです。それだけじゃ駄目だって」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう、絶命した……はずだった。

 

「…………え?」

 

 呆けた表情で、赤座が(・・・)間の抜けた声を漏らす。

 気が付けば赤座は控室に佇んでいた。

 目の前では祝が微笑んでおり、その手には大鎌が携えられている。血溜まりは綺麗になくなっており、噎せ返るほどの血の臭いもない。

 たった今まで襲っていた痛みや苦しみは既になく、体調は至って良好。思わず視線を落とせば、見るに堪えない責め苦を受けたはずの四肢は全く異常のない状態で赤座の胴に繋がっているではないか。

 

「……は? ……え? どうしてっ!?」

「このまま貴方を殺すだけでは、大鎌を愛する者として失格です。逆にどうしたら赤座さんに心から大鎌の素晴らしさを知ってもらえるのかを考えなければいけない。さっき赤座さんに大鎌を馬鹿にされてから、ずっとずっとその方法を考えていたんです」

 

 天井の照明を反射し、《三日月》の刃がギラリと光る。

 大鎌を大きく振りかぶった祝は、混乱の極地にあった赤座に“死神”の二文字を想起させた。

 そして祝が《三日月》を一閃。

 腹部に凄まじい熱。

 それを意識した瞬間に昇ってくる激痛。

 そして締め上げられる首。

 夥しい量の出血。

 溢れ出る内臓。

 遠退く意識。

 死。

 

「…………ッ!?」

 

 そして気が付けば赤座は控室で佇んでいた。

 慌てて自分の身体を(まさぐ)れば、裂かれたはずの腹には傷一つない。

 確かに血が流れ、内臓が腹部から零れ落ちる感覚を味わったというのに、今では痛みなどどこにもない。

 では、先程の体験は夢だったのだろうか。質の悪い白昼夢だったとでもいうのか。

 

「な、なんで――」

「そして思い至ったんです。――きっと赤座さんは大鎌のことを勘違いしているんですよね。農具としての大鎌しか知らないから、大鎌の素晴らしさを知る機会に恵まれなかったからあんなことを言ったに違いありません」

 

 頭の頂点に凄まじい衝撃。

 脳天から首を貫き、内臓までを貫く鈍色の刃。

 視界が真っ暗になる瞬間、赤座は「ふんぐっ!?」という鼻から抜けたような声を漏らして死亡した。

 

「なッ、何なんだこれはァ!?」

 

 そして気が付けば赤座は控室で佇んでいた。

 本当に()()()()()()()かのように。

 流石にこれはおかしい。どう考えても異常だ。しかし何が起こっているのか、赤座には全く意味がわからない。

 

「お、お前の仕業か!? 何の魔術だッ、私に何をしたんだぁ!?」

 

 赤座の必死の叫びに、しかし祝は答えない。

 まず、両の膝を一斬にて切断した。

 そのまま冷静に赤座の首を糸で絞めて悲鳴を封じると、倒れ伏す赤座にマウントを取り、祝は石突を顔面に叩き込み続ける。

 

「だったら私が教えてあげればいいんです。大鎌がどれだけ優れていて、他の武器に劣らぬ素晴らしい可能性を秘めているのかを()()()()()()()()()()()

 

 歯が折れ、鼻が潰れ、顔面の骨が残らず破片になるまで止むことなく打擲される。眼球が潰れ、舌が潰れ、唇が千切れようと止まることはない。

 そして度重なる痛みによって意識の消失と覚醒を繰り返した赤座は、四十八回目の衝撃を迎える前に失血で息絶えた。

 

「ぅッ、ぎゃぁぁぁぁああああああああッッ!?」

 

 そして気が付けば赤座は控室で佇んでいた。

 盛大に尻餅をつき、そのまま部屋の隅まで転がるように逃げ惑う。

 しかしそこに逃げ場などあるはずもなく、赤座は自ら雪隠詰めの状況を招くこととなった。

 

「や、やめ……助け……!」

「だから私はこれから、時間が許す限り、持てる全ての技を以って貴方を殺し続けます。きっと辛く苦しい試練となるでしょうが……それを乗り越えた時、貴方の中に大鎌を愛する心が生まれると私は信じています」

 

 赤座の言葉など聞こえていないとばかりに、祝は赤座の首元へと閃光を走らせた。

 そして気が付けば赤座は控室で佇んでいた。

 意識が戻った瞬間に舌を噛み切って自殺を図る。

 

「…………どうして……どうして()()()()んだァッ!?」

 

 そして気が付けば赤座は控室で佇んでいた。

 汗、鼻水、唾液――あらゆる液体を顔から流しながら、赤座は必死に叫ぶ。

 全く噛み合わないこの会話が無意味だとしても、それでも赤座は叫び続けた。

 

「どういうことだッ、お前の能力は予知能力じゃないのかぁ!?」

 

 しかしもう祝は答えない。全ての結論を自分一人で完結させてしまった彼女にとって、もはや赤座の意見などどうでも良かったのだ。だから自身の納得と満足のため、祝は再び赤座を大鎌で屠る。

 そして気が付けば赤座は控室で佇んでいた。

 彼の意識が戻った瞬間、その刃を見せつけるように祝が大きく《三日月》を振り翳す。

 心を込めて、丹念に、丁寧に命を奪う。そこに込められた思いは偏に大鎌への尊敬と感謝だった。

 その感情を、刃を通して赤座の魂へと刻み込むかのように祝は赤座の命を刈り取った。

 そして気が付けば赤座は控室で佇んでいた。

 その瞳に浮かぶのは隠し切れない恐怖。

 それは祝が赤座に求める感情ではない。

 だから祝は赤座を再び殺した。

 

 そして次も、その次も赤座を殺し続け――何度死んでも終わらないその現実に、赤座はようやく何もかもを諦めることができたのだった。

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

「……先生たち、遅いなぁ」

 

 現在、私は訓練場の出入り口で南郷先生たちを待っていた。

 本当は用事の後で席まで戻ろうと思っていたのだが、訓練場を出ようとする生徒たちの波に押しやられてしまったのだ。

 前世の通勤ラッシュを彷彿とさせるその人混みに私は即行で抵抗を諦め、こうして御三方を待てる場所に移動した次第である。

 一応、新宮寺先生にメールはしてあるから、気付いていれば私を探してくれるか連絡を入れてくれるだろう。

 

 そう考えて私はボケっと突っ立っているわけなのだが……道行く生徒たちは先程の黒鉄の試合について、やれ新技だ、やれ一撃必殺だと燥いでいた。

 まぁ、確かにショッキングな試合ではあったからね。興奮が冷めないのも無理はないだろう。

 私としても、確かにさっきの黒鉄の試合はヤバかったと言わざるを得ない。――もちろん原作崩壊的な意味で。

 

 もうね、見るからにさっきのって《一刀羅刹》じゃないんだもの。《雷切》を速度で完全に凌駕するとか、普通に原作の展開を超えているよ。あんなのどうやって対処すればいいんだよ。というか避けたり防いだりって本当にできんの?

 「速さが足りないッ」をガチで克服したらとんだ化け物が生まれてしまったよ兄貴。

 

 ……もしかしてこれって私のせい?

 原作崩壊の原因は、基本的に“余分な要素”が原作に関わったためだと考えられる。そして原作にない存在といえば私しかいないわけで。

 知らない間に何かしていたのかなぁ、私。黒鉄とは喋ったことすら殆どないのにね。

 謎だわ。

 因果干渉系能力を持っていても、世界の流れは本当に摩訶不思議である。これが所謂バタフライ効果というものなのかもしれない。

 

 ……いや、あるいはあれが“主人公補正”というものだったのではッ!?

 

 勝てるはずのない敵になぜか勝てる。敵の予想を超えた成長で新たな力に覚醒する。――これ、マンガとかアニメで習ったヤツだ!

 何ということだ。あれが伝説の主人公補正だったのか。

 もちろんその陰には黒鉄の弛まぬ努力があったのだということはわかっているのだが、それを土壇場で実らせてしまうのが主人公補正。というか戦闘中に明らかに強くなる展開など現実で起こることは……ないとは言わない。『あり得ないことはあり得ない』って某強欲が言っていたように。でも私の経験上は殆どない。

 闘いとは、基本的にヨーイドンしたところの強さと時々の運で勝敗が決まる。だから闘いの中で成長する、というのが特別に語られるのだ。

 

 

 ――とか楽しく考察してみたが……まぁ、馬鹿らしいよね。

 

 

 主人公補正とか、マンガじゃあるまいし。

 前世の記憶持ちとはいえ、私はこの世界で生まれ育った住人。本気でこの世界が夢幻(ゆめまぼろし)だとは思っていない。

 ここは前世とは違った法則で成り立つ異世界であり、自分はそこの知識で少し未来をカンニングしているだけなのだ。

 だから主人公補正とかお約束とかの言葉で黒鉄の成長を否定してしまうのは、個人的には“逃げ”だと思っている。

 得てして、そういう逃げの思考は心の隙を生む。

 仮に原作キャラと闘って敗けそうになった時、そういうことを考える奴に限って「原作キャラ相手だから仕方ないよな」とか「主人公を相手に自分は頑張ったよな」なんて言い出すのだ。そんな便所のネズミの糞にも匹敵する、くだらないものの考え方こそが命取りになるとも知らずに。

 

 普通に黒鉄は強かった。だから東堂さんに勝った。以上、終わり。

 

 それ以上の感情はさっきの試合には必要ない。

 実際、それ以外に思ったこともないしね。強化版《一刀羅刹》の絡繰りも原理は単純だったし、あれも黒鉄が持つ可能性の一つだったということだろう。

 あえて感想を言うのなら、私の知る原作知識も完全に信用できるものではないんだな、くらいか。七星剣武祭では真面目に警戒する必要があるだろう。

 

「お~い、祝~」

 

 するとどこからか私を呼ぶ声がする。

 辺りを見回せば、学生たちに混じって明らかに禿げて老け老けなお爺様が。流石は南郷先生、探しやすい。

 一緒にいる西京先生にも見習ってほしいものだね。この人、天狗下駄とか履いているにも関わらずチビすぎて見失うくらいだし。

 

「……クソガキ。なに人にガンつけてんだ、あぁ?」

「チンピラですか貴女は。ただ、西京先生は身長が低くて不便そうだなぁと思っていただけです。別に睨んでなんかいません」

「喧嘩売ってんだろテメェ!?」

「いちいち騒ぎを起こさなければ気が済まないのか、お前たちは。……というか疼木、急にどこへ行っていた?」

「すみません、試合が終わってすぐにお手洗いへ。グズグズしていると人でいっぱいになってしまいますから」

 

 実際、今頃は訓練場のトイレは女子の行列ができているだろう。

 この身体で最も苦痛に感じることの一つが、トイレの行列が長いということだ。当然ながら女性の方が男性よりも用を足すのに時間がかかるため、必然的に列ができやすくなってしまう。

 この不便さだけは本当に辛い。

 もしもTS転生とかに憧れている男性がいるのなら、その地獄を覚悟しておくといいだろう。マジで待っている途中で手が震えるから。

 

「南郷先生はもうお帰りに?」

「いや、最後に刀華の顔を見て帰ろうと思っておる。しばらくは目を覚まさんじゃろうが、言伝くらいは置いていくとするわい」

「そうですか。では、私はこのまま修行に行くので失礼させて戴きます」

「うむ。……あー、そういえばお主に聞きたいことがあるんじゃが」

「はい?」

 

 立ち去ろうとする私を、南郷先生は何とも言えなさそうな表情で呟いた。

 何か言いにくいことでも切り出そうとしているのだろうか。

 

「何でしょう?」

「…………お主は……」

「はい」

 

 ……どうしちゃったの。

 南郷先生がこんなに言い淀むのは本当に珍しいな。

 もしかして私の制服にタグが付いたままだったりするのだろうか。あるいはスカートが捲れあがっていたり!? ……良かった、後ろ手に確認したけど大丈夫そうだ。

 じゃあ何なのだろうか。

 

「……いや、何でもないわい。お主はそのまま進めばいい。お主の道に口出しする資格など、既に魅せられてしまったワシにはないのじゃからな」

「……?」

「こっちの話じゃ。それでは祝、達者でな」

 

 シワシワの手で私の頭を撫でると、先生は西京先生を連れて去っていった。このまま師弟揃って、東堂さんの見舞いに行くのだろう。

 それを見送った私と新宮寺先生は、そのまま流れで解散する空気が生まれたのだが……しかし先生は何かを思い出したように私を引き留めた。

 

「そういえば疼木。お前、あの赤狸の奴を見なかったか? 客席を飛び出して行ってから姿が見えんのだが」

「――さぁ? お帰りになられたのでは? あんな人、もうどうでもいいですけど」

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

 選抜戦の最終日。

 その日の夕方、第一訓練場を見回っていた警備員によって赤座守は発見された。

 選手控室の隅で膝を抱えて丸まっていた彼は、虚空を見上げて呆けるばかりで全く会話をすることができなくなっていたという。しかし精神状態に反して()()()()()()()()()()()。室内には争った形跡もなく、訓練場内でもその手の痕跡は発見されなかった。

 明らかに尋常ではないその様子に赤座は救急車で病院に搬送されることとなったが、しかし医師は「どこにも悪い場所はない」と首を傾げていたという。

 精神科医は、強いショックによって精神に異常を来してしまったのではないか、と判断を下した。

 

 しかし原因がわからない。

 

 というのも、赤座が正常だったと確認される時間帯から彼が発見されるまでの間、訓練場に設置されていた監視カメラは()()()()()()によって機能を停止していたためだ。

 よって赤座が客席を立ったその後、何が起こったのかは誰にもわからない。試合直後の出来事であったためか、目撃者もいない。

 その後、気が狂った――そう判断せざるを得ないほど意思疎通ができなくなってしまった赤座は、家族の申請によって連盟を退職。

 それからは相変わらず考えることを忘れてしまったかのように実家の部屋の隅で穏やかに過ごしている。

 だが、彼はある意味で幸福と言えるだろう。

 

 “考える”という人間が手にしてしまった業を失ったことで、その身を襲った恐怖と苦痛を二度と思い出すことはないのだから。

 

 


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