落第騎士の英雄譚  兇刃の抱く野望   作:てんびん座

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前回はたくさんの感想をありがとうございます。
返信ができなかった方は本当に申し訳ありません。しかし全てに目を通しているので、これからも感想、及び誤字脱字報告をお願いします。

ちなみに、今回も挿絵を戴いたので後書きに掲載しております。


僕の脳内選択肢が、修羅道を全力で邪魔している

 破軍学園の最寄り駅から学園までの距離は約一キロ。舗装された道はなだらかな上り坂となっており、常人ならば歩いて二十分とかけず辿り着くことができるだろう。

 しかしその常人に遥かに劣るほどまで体力を削ぎ落とされた一輝にとって、この道程は地獄でしかなかった。

 

「はぁっ、はぁっ……!」

 

 肺が伸縮するたびに激痛が走り、呼吸をするだけで気道が悲鳴をあげる。

 燦々と照り付ける初夏の陽光は弱り切った身体を殺人光線となって刻み、時折すれ違う自動車が撒き散らすエンジン音は爆音となって脳を揺さぶる。

 熱で意識は朦朧とし、空気すらまともに吸い込めない。手足の関節が軋み、鈍器で殴られ続けているかのように頭が痛む。

 病人以外の何者でもない一輝にとって、普段はジョギングで駆け抜けてすらいるこの距離は尋常ではないほど辛いものだった。

 

「ッげほ、カハァッ……!」

 

 死に体――その言葉は今の一輝のような状態を表すのだろう。

 この状態で《雷切》東堂刀華に挑もうなど、査問会の薬物と厳との会話によって精神の均衡を崩された一輝にも無謀だとわかっている。それどころか会場まで辿り着けるかどうかすら怪しい。

 

(もう……駄目かもしれない……)

 

 必死に足を動かしながら、しかし一輝の心は既に折れかけていた。

 体調だけではない。一輝は刀華に勝つ自分の姿を思い浮かべることすら出来なくなっていたのだ。

 思い出すのは御祓の言葉、そして刀華が背負う多くの人々の期待。高潔な魂を胸に、施設の子供たちの模範とならんと切磋琢磨する彼女の剣に、果たして自分の欲とエゴに塗れた剣が打ち勝つことなどできるのだろうか。

 いや、そもそもだ。

 

 

 ――自分が彼女に勝ってしまうなどということが許されるのか?

 

 

 仮に、万が一、いや一兆分の一の確率で奇跡でも起きて自分が彼女に勝ったとしよう。

 しかしその後に残るのは何だ?

 

 自分に残るのは一時の充足感だ。そして一人だけを満たす小さな自尊心だろう。

 では、刀華たちには何が残る。彼女の敗北に涙する施設の子供たちと、彼女に期待する多くの人々の落胆だ。

 一輝の勝利によって齎される幸福と、刀華の勝利によって齎される幸福。どう比較しても刀華の勝利の方が多くの人々を幸せにしている。だというのに自分は浅ましく勝利を求めるというのか。三年生であり、即ちもう後がない刀華の七星剣武祭の出場権を奪い取り、誰にも期待されていない自分が勝ち進んでしまうというのか。

 

(僕の勝利に価値なんてあるのか……?)

 

 誰が自分の勝利に喜ぶ。自分の愉悦のためだけに刀華を打ち破ったとして、それに何の意味がある。

 問うまでもない、そんなものに意味などない。

 

「ぁ…………」

 

 俄かに全身が震えだす。

 熱から来る悪寒――しかしそれだけではない。前進する意味を失い、剣を取ることの意味すら消失した剣士の末路だった。

 己の勝利を疑うことは良い。しかし己の勝利の意味すら失ってしまった剣士は救いようがない。ましてや過去のあらゆる繋がりを断ち、修羅の如くと走り続けてきた一輝ならば尚更だ。それは自分が歩んできた道の全てに価値を見出せなくなってしまったということなのだから。

 

(僕は……何のために頑張ってきたんだっけ……)

 

 そう思った途端、ここに一輝が見据えていた道は途切れてしまった。

 進むべき道はもう見えず、助けを求めようにも自分の周囲には誰もいない。黒鉄家の呪縛によって疫病神のように不幸を撒き散らす自分に人が寄り付くはずもない。

 

『ごめん、黒鉄。俺はもう、お前と仲良くできない……』

 

 聞こえないはずの声が聞こえる。

 これは誰の声だったか。そう、確か去年のルームメイトの声だ。

 学園からの嫌がらせが本格的になり、一輝と親しくした者は成績を落とされるという噂が広まった頃。生徒からの虐めや無視はもはや日常的な風景となったその頃、ルームメイトの彼は絞り出すような声で一輝にそう告げた。そしてそれ以降、二人の間で友人と呼べるような会話がされることは二度となかった。

 そんな彼に、迷惑をかけてしまったことをただ申し訳なく思っていたことを一輝は憶えている。

 

(寒い……)

 

 気が付けば一輝は吹雪が荒れ狂う雪原の中を彷徨っていた。その光景に一輝は息を呑み、そして視線の先に佇む二人の人影を目にした瞬間に総毛立った。

 そこにいたのは亡き曾祖父の黒鉄龍馬と、その目の前で泣きじゃくる幼き日の自分。

 ああ、憶えている。ここで自分は龍馬に生きる希望を与えられ、夢を与えられ、諦めないことの偉大さを教えられた。

 だが……

 

(こんな……こんな出会いさえなければ……)

 

 ジワリと心に浮かび上がる黒い染み。

 ここで龍馬にさえ出会わなければ、自分は分相応な人生を送ることができたのではないか。

 ここであの老人に誑かされたせいで、自分はこんな理不尽な運命に晒されているのではないか。

 あそこで諦めてさえいれば、父は騎士でない自分を認めてくれていたのではないか。

 結局、龍馬の教えは自分に孤独と苦痛ばかり齎した。

 翻って自分が得たものは何だ。

 自分は何を得た。

 

(この空っぽで軽い剣だけじゃないか……!)

 

 誰に望まれることもないこんな軽薄な剣など、勝利を得る価値すらない。

 自尊心を満たすために家族を敵に回し、社会から疎まれ、友をなくし、居場所すらも奪われた。そうして全てを捨てるほどの価値がこの剣にあったのか。

 誰に勝利を望まれることもなく、他者を貶めて浅ましい勝利を得ることしかできない剣に価値などあったのか。

 

(そんなもの、あるわけがない……)

 

 進み続けていた一輝の足が遂に挫けた。

 地面へと強かに打ち付けられた身体は鉛のように重く、自分の肉体だということが信じられないほど言うことを聞かない。

 広がり続ける黒い染みは一輝の信念すら侵し、気力だけで動かしていた一輝の身体から力を奪い去る。

 

 最早これまで。

 

 霞がかった思考に諦観が過る。

 これ以上、身を削ってまで前進することの意味を一輝は見出すことができなかった。

 進む先には地獄と絶望しかない。しかしここで立ち止まれば、それに呑まれるのは自分一人で済む。ならばそれで良いではないか。最後に『誰かのために犠牲を最小限にした』という事実を胸に抱いて倒れることができるのなら、それはきっと素晴らしいことだろう。

 それが諦めるための理由によって作られた偽善であることは百も承知。

 しかし一輝は、ここで諦めるための理由を何よりも欲していた。仕方ないのだと、そう自分を納得させるための動機が必要だった。

 

(そうだ……誰にも望まれていないんだから仕方ないじゃないか。僕がどれだけ望んでいても、それで誰も幸せにならない夢なら諦めた方がいいんだ……きっと、そうだ……)

 

 ただ「頑張れ」と誰かに言ってほしかった。しかし現実は非情で、夢は誰にも肯定されることなどなかった。

 ならばきっと間違っていたのは自分だ。自分が悪いんだ。

 だからこうして地面に倒れ伏すことで刀華に勝利を贈ることこそが一輝にできる最善の行動なのだろう。

 

(……いや、もしかしたら……今度こそ父さんも僕を認めてくれるかもしれないな……出来損ないの無能として正しい判断をしたって……)

 

 自嘲の笑みが漏れる。

 こうして這い蹲って全てを諦めることこそ、一輝にとって分相応の行動だったのだ。今までの秩序に抗う生き方こそが間違っていたのだ。

 一輝は思う。身の程を知った今の自分ならば、今度こそ誰かに認めてもらうことができるだろうか、と。

 薄れゆく意識の中、一輝はその希望を胸に目を閉じる。

 次に目が覚めた時は、今よりも少しでもマシな世界になっていることを願って――

 

 

 

『そんなことで諦めるんですか?』

 

 

 

 吹き荒ぶ吹雪の中で、その声は何よりも明瞭に一輝の心に届いていた。

 もはや顔を上げることすら辛い。それでも一輝は何かに縋る様に必死に視線を上げた。

 

 ――そこには混じり気のない“黒”がいた。

 

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

 

 選抜戦の最終戦を控えた第一訓練場は、先程までの期待感はどこへやら。困惑と不安が渦巻く混沌とした状況に呑み込まれていた。

 それもこれも、この試合の主役である一輝が会場に来ていないためである。

 あちらこちらで聞こえる騒めきを聞き、黒乃は不快そうに眉を顰める。

 

(赤狸め。この試合が終わったら憶えておけよ……)

 

 自分の座る客席から数列を空けた後ろの席に陣取る赤座に、黒乃は胸の内で密かに毒づいた。

 ここまで自分の縄張りで好き勝手をしてくれたのだ。もはやただで済ませるつもりはない。黒乃の取れるあらゆる手段を用い、必ずや合法的に、完膚なきまでに生き地獄へと叩き落としてくれよう。

 しかし当の赤座はそんなことを知る由もなく、何やら楽し気に隣に座る祝へと話しかけている。祝もそれに笑って対応しているが……

 

「クソガキの奴、相変わらず愛想笑いだけは一丁前だな」

「ひょっひょ、初めて会った頃からそこだけは変わらんの。本気で猫を被った祝にはワシも騙されかけたからのぉ。……まぁ、少しでも為人を知っている者からすれば退屈しているのは一目瞭然じゃが」

「去年の七星剣武祭の時の優勝インタビューには度肝を抜かれましたよ。あれは猫というよりも化けの皮です」

「あいつ、絶対に頭の中ではさっさと帰りたいとか思ってんぞ。ザマァ」

 

 祝の様子をこっそりと伺う三人は、その異様な光景に呆れるしかない。

 彼女がなぜ赤座にあそこまで丁寧に応対しているのかはわからなかったが、彼女がそうしている以上は大鎌にとって何らかの意味がある行為なのだろう。そうでなければ赤座が目を離した瞬間、祝は音もなくこの訓練場から姿を消しているはずだ。

 

「……本当に変わらんのぉ、祝は。ワシが初めて会った頃からまるで変わっとらん。身体つきはだいぶワシ好みになったが」

「殺すぞセクハラジジイっ! 弟子をそういう目で見てんじゃねぇ!」

「ひょっひょっひょ、だってもう祝は弟子じゃないからのぉ~? 別にどういう目で見ようとワシの勝手じゃし~?」

「ジジィー!」

 

 髪を逆立てる寧音を南郷は「冗談じゃよぅ」と笑って宥める。

 その光景に黒乃は思わず笑みを零した。しかし同時に寧音の何気ない一言に気付いてしまい、僅かにその笑顔が曇る。

 

(弟子をそういう目で見るな、か)

 

 恐らく寧音は意図してそれを口にしたわけではないのだろう。

 だがその言葉だけで黒乃には充分彼女の意思が伝わっていた。

 

(寧音はまだあいつのことを妹弟子だと思っているんだな……)

 

 黒乃の知る寧音と祝の確執は根深い。

 いや、正確には寧音が祝に抱く負の感情は筆舌に尽くしがたいと言うべきだろう。

 祝が南郷の弟子であったことは寧音から聞き及んでいる。そして南郷から武術の基礎やその技術を学ぶだけ学ぶと、祝は南郷に一方的に「辞めます」と言い放ち唐突に姿を消してしまったという。

 そのあまりにも礼儀知らずにして恩知らずな行為に寧音は激怒し、それ以来祝のことを目の仇にし続けている。

 寧音はそのことをあまり話したがらないが、しかし当時の寧音を知っている黒乃は知っている。

 

 

 寧音は誰よりも、それこそ師匠の南郷に匹敵するほど祝という少女に期待していたのだ。

 

 

 事実、初めて祝のことを知ったのは寧音の口からだった。なかなか筋のいい妹弟子ができた――寧音が口の端を僅かに吊り上げながら語ってくれたことを黒乃は憶えている。

 当時の寧音と祝はお互いに非常に良好な仲を築いていたらしく、時には物臭として知られる寧音が自ら祝に稽古をつけていたことすらあったという。

 だからこそ師匠を裏切り、他の師の下へと早々に去っていった祝に寧音は強いショックを受けたのだろう。今の寧音の悪感情は、嘗て抱いていた期待がそのまま裏返った末の感情なのだ。

 

 ――ならば、南郷はどうなのだろうか。

 

「……一つ、お聞きしても宜しいですか?」

「ひょ? 突然改まってどうしたんじゃ、黒乃くん」

「疼木のことです。先生はなぜ彼女を弟子にしようとお考えに?」

 

 それはふと思い浮かんだ黒乃の小さな疑問だった。

 寧音によれば、彼自身はそうなることを見越して祝を弟子にしていたという。しかしその一利すらない徒労のような未来を知りながら、なぜ南郷は祝を弟子などにしたのだろうか。

 

「……おい、くーちゃん。人のトコの師弟関係に口出しすんのは野暮じゃね?」

「軽率な質問なのはわかっている。しかし今の私は疼木の教師だ。これからもあいつを教え導く立場である以上、その先達である南郷先生の意見を聞いておきたい」

「ふぅむ」

「もちろん無理にとは申しません。寧音の言うことは間違っていない。それでもお許しを戴けるのであれば、お話をお聞かせしてほしいのです」

 

 髭を撫でて何事かを考え込む南郷は、やがて頭上に開かれた空を見上げながらポツリと呟いた。

 

「面白そう――そう思ったからじゃ」

 

 南郷の言葉に黒乃が首を傾げる。

 寧音だけは忌々しそうに舌打ちしたが、過去に思いを巡らせているのか南郷はそんな彼女たちに目をくれることもなく語り続けた。

 

「初めて祝と顔を合わせた時、その目に危険な光があることに一目で気付いた。この子はきっと目的のためならば迷うことなく人を斬り、その返り血を拭うこともなく修羅道を歩み続けることができる。そんな伐刀者に成長するじゃろうとは思っていた」

 

 「実際そうなったじゃろ?」と視線を黒乃に滑らせる。恐らくは例のクーデターのことを言っているのだろう。

 南郷がそのことを知っていること自体は驚くに値しない。

 

「しかしの、あれはその危険性を無視できるほどの魅力があった。恐らくは祝に教えを授けたワシ以外の師も同じものを感じたはずじゃ」

「魅力、ですか?」

「そうじゃのぉ……例えるのなら、あれは“妖刀”じゃ」

 

 南郷は今でも思い出せる。

 祝に宿る美しくも妖しい輝き。

 もちろん刀としてはまだまだ未完成に過ぎない。しかしこれを鍛錬し、研ぎ上げたならば、その先にとんでもない妖刀が生まれると確信できるほどの禍々しさを祝は放っていた。

 

 ――惜しい。ここで彼女を追い返すのが惜しくて堪らない。

 

 あらゆる武術や技術を吸収し、それを血肉として成長し、将来的に完成されるだろうこの妖刀。

 その血肉の中に自分の“技”が加わったのならば……

 

「ワシの技はどうなってしまうのじゃろう。どれほどの怪物がこの世に生まれてしまうのじゃろう。……その時はそう思ってしまった」

 

 自分が抱く感情が尋常なものではないということはわかっている。それでも南郷の中にいる“武術家”はどうしようもなくそれに惹かれた。

 自分の技術がどう昇華され、どう進化することができるのか。それが気にならない武術家は真の武術家ではない。少なくとも剣に人生を捧げてきた南郷にとって、それを見逃すことは自分の剣の発展を捨てるも同然。

 祝が怪物として完成された頃には自分も生きていないかもしれないが、()()()()()()()()()()()()。問題は自分の技がより高みへ昇れるかどうかだ。

 

「将来に祝が多くの人間の血を流すことになろうということはわかっておった。きっと最善は、今からでも祝の手足を斬り落としてしまうことなのじゃろう……いや、あるいはここで命を絶ってしまうのが世のためなのかもしれんな」

「……ッ!? 先生、それは……」

「極論なのはわかっておるよ、黒乃くん。しかしの、ワシはあの子に教えを授けることは出来ても導くことは最後までできんかった。ワシも祝の危険な光に惹かれた一人であったが故に。だからワシが取れる選択肢は、斬るか眺めるかしかないのじゃ」

 

 そして何よりも南郷が自嘲してしまうのは、自分が祝の師であったことに何一つ悔いがないということだった。

 むしろ祝をさらなる妖刀として仕上げるため、心の奥底ではもっと自分の技術を授けたいと思ってすらいる。どこまで行こうとも、自分も人の道を外れた人斬りの一人でしかないということだ。

 

「黒乃くん、君は祝に惹かれてはならんぞ。人の道を逸脱した者に、真に人を説くことは出来ぬものじゃ。君が祝のことを教え導きたいと願っているのなら、君は最後まで人の側からあの子を引っ張り続けねばならん」

「……はい」

 

 神妙に頷く黒乃に、南郷は満足げに笑った。

 もっとも、南郷は元々それほど黒乃のことを心配してはいない。彼女は元々KOKで寧音の前に三位の地位であった騎士。そして伐刀者としてのさらに高みにある《魔人(デスペラート)》の領域にあえて踏み込まなかった女性だ。己の強さへの追求を、生まれてくる我が子や愛する旦那のために断念できる強さを持つ“人”だ。

 祝を人の道に戻そうとするのならば、彼女以上の適任者はいないだろう。

 

(……まぁ、祝が今更人の道に戻る姿もワシには想像できんがの)

 

 誰よりも大鎌を愛し、そのためならば文字通り何でもしてみせる祝。

 自分の弟子として剣を振るう彼女の瞳には、いつも剣士に教えを乞うことへの屈辱感が溢れていた。長い歴史と多くの先人によって洗練された技術への敗北感に塗れていた。

 しかしそれを凌駕するほどに大鎌への愛があった。大鎌のために屈辱を飲み干し、敗北感を噛み締め、そこで得た経験の全てを大鎌に捧げようという怪物的な覚悟と信念があった。

 誰よりも剣の声を聞き、師である自分の教えを貪欲に吸収するその姿は理想の剣士として多くの人々に受け止められていたほどだ。その本心が大鎌への愛から来る献身であったということは、愛弟子である寧音にすら最後まで見抜けなかったと言えば相当なものだろう。

 

(しかしその姿勢に惹かれ、修羅の道へと引き摺り込まれてしまった者もきっとおるのじゃろう。あの子の光はちと強烈に過ぎる)

 

 人は何かを強く求めすぎた時、修羅道への(いざな)いを受けることとなる。

 しかしその先には自分以外の何もない、暗闇の世界を死ぬまで歩き続ける未来が待っているのだ。

 祝はそこに人を引き摺り込む天性の魅力を持っている。その鮮烈な生き方が何よりも愉悦と享楽に溢れていると思い込ませる美しさを放っている。人の道よりも、修羅道の方が求道者として正しい道なのだと信じさせてしまう力に満ちている。

 もしも自分の意思によるものではなく彼女の光に惹かれたがために修羅道を歩んでしまった者がいるのならば――その者は地獄を見ることになるだろう。

 

 

 

 ◆  ◆  ◆

 

 

 

 吹き荒ぶ吹雪の中、まるで夜の闇を凝縮したかのように真っ黒な少女が目の前に佇んでいた。

 ぼやける視界の中、その少女だけをハッキリと一輝の焦点が捉えている。闇より暗い深淵のような瞳に、しかし一輝の胸の内に不思議と恐怖が湧き上がることはなかった。いや、もはやその気力すらも残されていなかったのかもしれない。

 まるで天使のように穏やかな笑顔を見せる祝は、世間話でもするかのような軽い声音で語り続ける。

 

『認められることってそんなに大事なことですかね?』

「な、何を……」

『さっきから黒鉄は他人の望みとか期待とかばっかり。自尊心と満足感が得られるならばそれでもいいじゃないですか。貴方の夢は“才能を超えて自分の価値を信じ抜くこと”でしょう? 勝利を通じて理不尽を覆すことさえできれば全て解決じゃないんですか? 夢に近づいて、しかも自尊心が満たされて満足感まで得られる。これの何が悪いんですか?』

「それは……」

 

 空気を吐き出す肺が与える痛みも忘れ、一輝は祝へ思わず掠れた声を漏らしていた。

 一輝の中の何かが「耳を貸すな」と叫んでいる。しかしその警鐘に反し、一輝の目と耳は祝に釘付けにされていた。

 

『黒鉄は、実はもう自分がそこそこ強いことを自覚しているでしょう? その“強さ”と、夢を叶えようという“意思”さえあれば闘いは成立するんです。……ほら、この闘いに他人の不幸や期待が入り込む余地がどこにあるんですか? 闘いを諦めるのはまだ早すぎですよ』

「…………」

 

 確かに、その通りだった。

 他ならぬ一輝自身が厳に言ったことではないか。自分は強くなった、もう昔の自分ではないと。

 自分でその自覚がある以上、もはや一輝の目的である『才能がなくとも自分の価値を諦める必要はない』という夢への道は堅実に築かれているではないか。後はその夢をより確かにするため、七星剣王を始めとした実績を積み重ねていくというだけの話だ。

 

(…………あれ?)

 

 ふと一輝の脳裏に疑問が浮かぶ。

 どうして自分はここまで心を騒めかせていたのだろう。なぜ父親に期待されていなかったことでショックを受けていたのだろう。なぜ背負うものの有無などに心を乱していたのだろう。

 一輝の夢の前では厳を始めとした他人からの承認など、実はどうでもよい(・・・・・・)ことだったのではないか?

 

『余計なことに気を取られていませんか? 貴方がこれまでに積み重ねてきた“武”と“信念”――それさえあれば黒鉄は夢を遂げられるはず。そこにお父様や誰かの期待は必要ですか?』

「…………ぁ」

 

 そうだ。そうではないか。

 一輝の根源は嘗ての龍馬の言葉。そして自分と同じように才能の壁によって道を阻まれてしまった人々の背中を押すこと。

 その道の中に厳は本当に必要だろうか。刀華の敗北によって気を落とすであろう施設の子供たちを気遣う必要性が存在するだろうか。

 

 

 いいや、必要なのは自分の信念と覚悟、そしてそれを成す強さだけのはずだ。

 

 

 一輝が他人に求めるのは、自分が示した『才能という理不尽の打倒』という結果に首肯することだけだ。そして首肯しないというのならば、全身全霊をかけて首肯させてみせよう。破軍学園で一輝が勝ち残り、ペテンや八百長を疑う輩を黙らせたのと同じように。

 

『夢を叶える――それは“捨てる”ことです。余計な夢を削ぎ落とし、邪念を追い払い、見出した究極の一を極限まで追い求める。それこそが夢を目指すということですよ』

 

 ――即ち“求道”である。

 夢を見るだけに終わらず、叶えようともがく行為である。

 つまり祝はこう言っているのだ。夢だけを追求するために、父親や周囲から期待や称賛を受けたいと願うことを辞めろと。他者の言葉に一喜一憂する全ての感情を邪念として切り捨て、求道に徹する真の修羅になれと。

 

「…………あぁ、それは……」

 

 きっと途轍もなく気持ちの良いことなのだろう。全身の重りを脱ぎ去ったような解放感に身を浸すことができるのだろう。求めるものをなくしてしまえば裏切られることも絶望することもないのだから。

 自分の欲望や願望のためだけに全てを費やし、他の一切を全て無価値の存在に変える。それを痩せ我慢でも強がりでもなく、心底からそれを行えてしまう者――それこそが本物の修羅だったのだ。

 

『貴方は必要のないものに惑わされ、真の目的を見失おうとしています。二兎を追う者は一兎をも得ず――求める一兎のためならば他の兎を不要と断じることができる迷いなき心。それが黒鉄が持つべき心構えだったんですよ』

 

 一輝が求める一兎。

 それは龍馬に与えられた夢。

 ならばその夢を手にするため、認めてほしいと求める願望は捨て去るべき邪念でしかない。他者の幸福を慮る心など雑念だ。

 もちろん邪念や雑念に耳を貸すことは絶対的な悪ではない。しかし本望と比較するべき場に立ったのならば、迷うことなく切り捨てなければならない。夢のためならば喜んで何でもしなければならない。

 それが修羅。それが求道。

 一輝は自覚する。

 自分は今、人と修羅の分岐点にいるのだと。

 

「……闘えっていうのか……君は僕にまだ闘えと、そう言うのか……?」

『いえいえ~、もちろんここで倒れ伏すのも構いませんよ? しかしその理由は明確にしてください』

「理由……?」

『黒鉄がここで足を止める理由です。それは今後も夢に生きるための戦略的な休息ですか? それとも夢に敗れて絶望した末の挫折ですか? ……ああ、勝機があるのならもちろんさっさと起きて東堂さんを斃しに行くのがベストですけど』

 

 突き付けられた選択肢に、一輝は「何だそれ」と薄く苦笑する。やはり行き着く先が地獄なのは変わらないではないか。

 修羅道を進めば終わりも後もない断崖絶壁を登るだけの道が待ち受け、夢を諦めれば虚ろな下り坂が待ってる。現状維持は許さないと言わんばかりの究極の二択。

 しかし先延ばしにはできない問だった。

 どういう結末を迎えるかではない。どの結末を目指すのかを今は問われている。修羅へと昇るか、凡夫へと堕ちるか。それこそが祝の問い。

 

「ここで全てを捨ててしまえば……」

 

 きっと一輝はもう戻れなくなる。

 努力で才能という壁を乗り越えるため、あらゆる迷いを断ち切ることができるようになれるかもしれない。

 あれほど焦がれた父との絆に苦しめられることもきっとなくなるだろう。

 それどころか、きっと今まで辿り着くことができなかった“強さ”の境地への最短ルートを歩き出すことができるかもしれない。

 

(ああ、そうしたら……あの約束(・・・・)にも意味を見出せなくなってしまうのかな……)

 

 それは唐突に浮かび上がった疑問だった。

 一輝自身にも意味はわからない。

 何のことなのかを思い出そうにも、記憶に靄がかかったように捉えることができない。

 しかし……

 

(…………約束?)

 

 何の変哲もない、たった一つの『約束』という単語。

 その言葉を思い出した途端、一輝の心に赤い炎が灯る。

 

 

 

「ぅっ、ぁぁぁああああああああああああッッ!!」

 

 

 

 その時、掠れた雄叫びをあげながら一輝の意識が覚醒する。

 四肢の筋肉と骨を総動員し、残された体力と気力を振り絞って起き上がる。

 

(何か……僕は何かの約束をしていたはずなんだ……)

 

 一歩を踏み出す。

 その動作だけで全身が軋み、脳が嘗てないほどの痛みを受信する。吐き気が止まらない。真っ直ぐ歩くこともできない。呼吸すらも満足に行えない。

 それでも一輝の魂は身体に命じ続ける――進めと。

 

『おっ、勝機ありと睨んでの前進ですか? それとも敗けるための自滅特攻ですか?』

 

 一輝の視界が目まぐるしく転じ続ける。

 駅から学園までの道を歩いていたかと思えば、気が付けば先程の吹雪の森に戻っている。かと思えば記憶にある黒鉄家の本邸の庭を歩いており、幼い姿の自分と珠雫が笑顔で燥いでいた。しかし次の瞬間には嘗て道場破りに赴いた道場への道を歩いており、瞬きをすれば既に見慣れた破軍学園の廊下を進んでいる。

 変わらないのは隣を暢気に歩き続ける祝だけだ。

 

(どこまで付いてくるんだろう、彼女は)

『黒鉄の答えを聞くまでですよ。まだ貴方は答えを出していませんからね。ただ我武者羅に進んでいるだけです』

 

 口を開いてすらいない一輝に祝が答える。

 しかし全ての力を振り絞って歩き続ける一輝には、そのことに違和感を覚える余裕すらない。

 

『さっきから景色がクルクル変わって忙しいですね。これが巷で聞く「走馬燈」というヤツですか。こんなものを見るほど死に瀕していながら進み続けるとは……それはそこまで重要な“約束”なんですか?』

 

 それは一輝にもわからなかった。

 しかしそれでも魂が叫ぶのだ。諦めるな、歩き続けろと。

 心に灯った赤い炎が魂を奮い立たせる。奮い立った魂が肉体を動かし、限界を超えて足を前へ前へと運び続けている。

 ならばその約束は何にも代えがたく、何よりも大切なものだったのだろう。

 

『だ――、こう。――。騎――高――』

 

 ……ああ、何かが遠くに見える。

 遥か彼方に、確かにそれはある。この胸に灯った赤い炎と同じ、鮮やかな真紅に染まる長い髪。

 しかしそれを遮るように一輝の前に祝が回り込む。

 

『も~、また邪念に囚われる~。約束だか何だか知りませんけど、それに気を取られることで限りのある人生が無駄になりますよ。また勝手に期待して、それで裏切られるんじゃないですか?』

 

(……邪念なんかじゃ……ない)

 

『いいえ、邪念です。黒鉄は約束とやらを理由に決断から逃げているだけですよ。どちらも選べば後に引けないから、あえて選択を保留しているだけです』

 

(捨てることなんてできない……!)

 

『貴方の夢は、あれもこれもと手を伸ばして叶えられるほど易い夢なんですか? 才能の壁を覆すなんて、それこそ生涯を懸けて行う偉業だとわかっているはずです。貴方には余所見をしながらでもそれができると?』

 

(それでも……)

 

 祝の言葉は全て正論だ。何一つ間違っていない。

 しかし一輝には修羅の道を選ぶことがどうしてもできなかった。霞の奥に隠れたその約束の残滓、それから目を逸らすことだけはできなかった。

 

『自分の手に負えない偉業を成すためなら、人は修羅になるしかない。だから貴方は伐刀絶技に《一刀修羅》と名付けた。だというのに、ここに来て何とかなるとでも思い上がりましたか?』

 

 そうだ、祝の言う通りだ。

 身に余る偉業を成そうと足掻き、その末に修羅になるしかないと理解していたはずだった。そのための《一刀修羅》――勝利のために全てを費やす自分の最強魔術だ。

 確かに自分にはそれしかないと、そう思っていた。

 

「それでもッ……!」

 

 それでも捨てられないものが一輝にはできてしまった。

 守らなければ……いや、守りたいと思える約束ができてしまった。

 

『だから行こう。二人で。騎士の高みへ』

 

 そうだ。自分はそう約束したはずだ。あの赤い後ろ姿の彼女(・・)と、そう約束したはずだ。

 呆れる祝を押し退け、一輝は足を引き摺ってでも歩き続ける。

 きっと祝はそれを愚かと断じるだろう。修羅になりきれない半端者だと嘲笑するだろう。

 

「それ、でもッ……!」

 

 抗い続けろ――魂がそう叫んでいる。

 一輝の中の譲れない根幹が、その感情を捨てることだけは許さないと頑なに拒んでいる。

 なぜその約束にここまで魂が惹かれてしまうのか。それは一輝自身にもわからない。しかしあるいは、それこそが一輝にとっての新たな“剣を取る理由”であるからなのかもしれなかった。

 生涯をかけるほどの長大な夢ではない。その約束の相手に裏切られるかもしれない。それでも一輝にとって間違いないことは、その約束には命を懸けられると思えるほどの強い“願い”が込められているということだ。

 

「あ、ああああッ!」

 

 掠れた雄叫びを吐き出し一輝は進み続ける。

 歩いて、歩いて、限界を超えて歩き続ける。

 やがて目は見えなくなり、耳は聞こえなくなり、もはや意識すらも飛び、それでも歩き続け……

 

「お兄様!」

 

 そして柔らかい何かに受け止められたことで一輝の意識が戻る。

 自分を抱き止めるのは見慣れた銀髪の少女――珠雫だった。

 泣き腫らした瞳で自分を見上げる珠雫。そして彼女から視線を外し、前方を見据えたことでようやく一輝は自分が今どこにいるのかを知った。

 

(帰ってきたんだ……)

 

 破軍学園。駅から坂を上ったその先にある校門の前。

 気が付けば一輝はそこで佇んでいた。長い道程を踏破し、一輝は遂に破軍学園へ辿り着いたのだ。

 

「お帰りなさい、お兄様」

 

 一輝の胸元に顔を埋める珠雫は、震えを押し殺すように強く一輝を抱き止める。

 

「……私、ずっと考えていたんです。お兄様は充分に頑張った。だからこれ以上傷ついてほしくないと。これからはずっと私がお兄様を守るから、だからもう休んでほしいと」

「珠雫……」

 

 疲れ果てた一輝の耳に、珠雫の澄んだ声が染み渡る。

 本心から語っているのであろう珠雫の言葉に、しかし一輝は頷くことができない。なぜなら一輝の魂はまだ立ち止まることを許してくれないから。

 

「でも、私にはできませんでした。本当ならお兄様の意思を無視してでも引き留めるべきだってわかっているのに……でもこの学園にいる時のお兄様は、黒鉄の家にいた時と違って心の底から笑っていたから」

 

 一輝の家族として、そして彼を愛する一人の女として、ここで一輝の道を阻むべきだということはわかっている。

 しかし一輝の身を案じる一方、ここまで足掻いてでもこの場所を守りたいという一輝の意志を潰えさせることも、また珠雫にはできないことだった。

 だから珠雫は決めた。もしも一輝が諦めることなく学園に辿り着き、まだ闘う意思を示しているというのなら……

 

「その時は、精一杯のエールで見送ろうって。頑張れって言いながら背中を押そうって」

「……!」

 

 頑張れ――珠雫が口にした言葉に、一輝は電撃に打たれたかのような衝撃を受けた。

 それは激励。一輝が求めて止まなかったもの。

 そしてその激励と共に、一輝の耳は信じられないものを次々と受け取っていく。

 

「先輩、頑張ってー!」

「もう一踏ん張りだッ、諦めるなー!」

「黒鉄くん、会場まであと少しだよー!」

「もう時間がないぞ! 急いでくれー!」

 

 霞む目を凝らせば、まるで自分を迎えるかのように何人もの生徒たちが校門で声を張り上げていた。

 いや、ように(・・・)ではない。彼らは全員、一輝が戻ってくることを信じてここで待っていたのだ。疲れ果てているだろう一輝にエールを贈ろうと、ここでずっと一輝が現れるのを待ち続けていたのだ。

 彼らの顔には見覚えがあった。

 ある人は選抜戦の過程で一輝と闘った生徒だ。ある人はクラスメイトで、ある人は一輝に剣の教えを乞うてきた生徒。よくみれば去年、一輝の留年に反対してくれた教師たちもいる。

 全員が一輝と何らかの繋がりを持つ人々。

 

「これ、は……」

 

 彼らの激励に一輝は愕然とする。

 誰にも期待されず、見向きもされず、ずっと独りで闘い続けてきた――そう思っていた。

 

「は、はは……」

 

 笑みが止まらない。

 霞んでいた視界は焦点を結び、意識がこれまで以上に覚醒する。四肢の末端にまで血が巡るのを感じ、全身から力が漲ってくる。

 

「……僕は大馬鹿者だ」

 

 自分はもう独りなどではなかった。

 この学園に来て、辛いことも沢山あった。周囲が敵だらけに見えることもあった。

 しかし自分の努力と信念は確かに人々へ届き、その背中を押してくれる人たちがいたのだということにようやく気付かされた。

 いや、本当は既に気付いていたのかもしれない。

 だがこの極限の状況に追い込まれることで、一輝は改めてどれほどの人が自分に思いを託してくれていたのかという事実をより噛み締めることとなった。

 そして――

 

「イッキッッ!」

 

 人垣の奥から響くその声に一団が割れる。

 そこには荒い息を吐きながら代表選抜戦を征した証であるメダルを掲げたステラがいた。

 

「アタシは“約束”通り、七星剣武祭の代表になったわッ!」

 

 常識的に考えれば彼女はまだ試合中のはずだ。一輝が試合に遅刻していることを加味しても、まだステラの試合の開始時刻から数分しか経っていない。

 だが、ここにいるということは彼女はやり遂げたのだろう。そして彼女もまた一輝を激励するために急いで駆けつけてきてくれたのだ。

 

「だからイッキも勝って! そして二人で行きましょう! 騎士の高みへ!」

 

 胸に灯った赤い炎が燃える。

 身体は相変わらずボロボロだ。熱は酷く、関節や筋肉が軋みを上げる。吐き気は収まらず、息すらもまともに吸うことができない。きっと眠ったが最後、数日は目を覚ますこともできないほどに疲弊している。

 

 

 しかし今の一輝は、嘗てないほどに自分が最強であることを確信していた。

 

 

 もう二度と、自分の剣を軽いなどと言うことはできない。

 なぜならば自分の剣は、ここにいる全ての人々の思いを乗せた剣なのだから。

 だからもう迷わない。諦めない。自分の歩んできた道が無意味で無価値だったなどと誰にも言わせない。例えそれが父親であったとしても。

 

「じゃあ、珠雫。それに皆――」

 

 行ってくるよ、そう言おうとして一輝は思い留まった。周囲が訝しむ中、一輝は来た道へと振り返る。

 そこには舗装された道路ではなく、一輝の記憶に眠る吹雪の森があった。その中で祝が独り佇み、ジッとこちらを見つめている。

 珠雫たちが自分を迎えてくれたのとは対照的に、彼女の周りには誰もいない。何も聞こえない。ただ寒く、暗い森だけが奥へと続いていた。

 

(……そうか、それが修羅道か)

 

 確かに修羅道(そちら)へ行けば、もう父の影に怯えることもなくなるのだろう。剣を取る意味に苦悩することもなくなるはずだ。夢を追うことに没頭し、余計なことを考える必要もなくなる。

 

 だが、それしかないのだ。

 

 人と人が触れ合うことの温もりを思い知らされた一輝はようやくわかった。自分があの道を選べなかったのは、皆の声が引き留めてくれていたからだと。

 きっとあの道を踏み出せば、この温もりすらも理解できなくなってしまうのだろう。ステラと誓った約束にすら価値を感じることができなくなってしまうに違いない。きっと今になって理解できた自分の剣の重さすらもなくなってしまう。

 それはできない。確かに夢は捨てられないが、彼らの思いを捨て去ることもできない。そして半端に終わらせるつもりもない。全てを背負ったまま進み続けてみせる。

 

(だから、修羅道(そっち)へは行けない。僕は人としてこの“騎士道”を貫く)

『そうですか、残念』

 

 これが疲労感と弱った心が見せた幻覚だということはもうわかっている。一輝の心の弱さが見せた修羅道への憧憬が、祝の形を取って語りかけていただけだということもわかっている。

 それでも一輝は振り返り、己の弱さの象徴である祝へと答えを告げた。

 そして一輝が瞬きをした瞬間、吹雪の森は消え去っていた。

 もう空気を裂くような寒さは感じない。それを見届けると、一輝は再び学園へと向き直った。

 

「行ってくる」

 

 

 




戴いたイラストです。
前回の投稿から今日までの間に三つも戴いてしまいました。御三方、本当にありがとうございます。

前回に引き続き、楔石焼きさんより

【挿絵表示】



b-kenさんより

【挿絵表示】



renDKさんより

【挿絵表示】


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