私の名前は山中 美波 一見どこにでもいるような普通の高校生だが、私には人と違うところが一つだけある。
私は子供のころから、しゃべることができない。
幼稚園の頃から、言葉がうまく出てこず、周りからはそれはまだ子供だから。
もう少し成長すれば、きっとしゃべれるようになるからと言われ、私もその言葉に納得してしまった。
しかし、時がたっても状況は変わらず、むしろ私の言葉はますます失われていく一方だった。
そんな状況に周りの大人たちは焦りを感じたのか、私を大きな病院に連れていき、いろんな検査を受けさせた。
数時間に及ぶ検査の結果、医者から出た言葉は娘さんは失声症にかかってる疑いが強いとのことだった。
失声症というのは、心因性の原因から起こる病気らしく、これとは違う形の失言症というものがあるらしいが、私の場合は脳のほうには異常はなく、言葉も聞き取ることができるから、失声症だろうとお医者さんは言っていた。
両親は私がそんな病気にかかっていることに絶望し、親戚たちは医者に具体的な解決方法を問い詰めていた。
具体的な治療方法は服薬、カウンセリング、発声練習とあるが、まだ幼かった私に服薬投与はリスクが高すぎると却下され、しばらくの間はカウンセリングと発声練習で様子を見ることになった。
そして、小学校の間は発声練習とその後のカウンセリングで声の状態を確認していき、中学生になってからは徐々に服薬も投与していった。
しかし、数年たった今も私の声は戻ることはなかった。
そして、高校の進学先を決めるとき、両親が私に尋ねてきた。美波は一般の学校に行きたい?それとも、福祉の整った学校に行きたいと尋ねてきた。
私はしばらく悩んだ後、筆談でこう返事を返した。
(普通の学校に行きたい)
両親はその返答に驚いていた。
「美波はほんとうにそれでいいのかい?お父さんたちのことを気にする必要はないんだよ」
お父さんが私にそう語りかける。隣ではお母さんが泣いていた。
しゃべれない私のせいで二人には苦労を掛けていることを私は知っている。
福祉の整った学校に行けば、周りとの差に苦しむこともないし、二人にも余計な心配を与えずに済む。
でも、それで私は本当にいいのだろうか。それは今の状況から逃げるということにならないか?
そう思うと、私は逃げたくないと思った。今は苦しいし、逃げ出したい思いもある。でも、世の中には私と同じ年代でもっと苦しい思いをしている人たちもいる。
幸いなことに私は言葉を発することができないだけで、それ以外の機能は問題ない。
(私は大丈夫だから。普通の学校に行く)
そして、私は高校の進学先を家の近くにある総武高校に決めた。
❋❋❋
ある日の総武高校職員室にて
「どうですかな。先生。彼女の様子は?」
私は机の上で書類を整理していると、校長が尋ねてきた。
「彼女というと、山中さんのことですか?」
「はい。しゃべれないから、クラスで孤独に陥っていないか心配になりましてな」
山中さんは子供のころから失声症にかかり、言葉を発することができない。
それは山中さんの担任になった時に聞いたし、入学式の日の朝の職員室にて、山中さんにはある程度の配慮をもって接するようにと校長が全職員に告げていた。
「そんなことないですよ。クラスの子も山中さんのことは理解してますし、彼女なりにクラスになじもうとしてます」
「そうですか。それは安心しました」
「校長先生が山中さんのことを気にかける理由をお聞きしてもよろしいですか?」
校長先生が一人の生徒のことをなぜこんなに気にかけるのか私は疑問に感じ、質問をすると。
「私の知り合いが同じ病気なんですよ。同じ境遇の人間が近くにいる身としてはほおっておけないという感じですね」
なるほど……
「私は山中さんを見て、人と会話ができないということがこんなに辛いものだと初めて知りました」
「そうですね。我々はこうやって会話をし、意思を共有できているが、彼女はそれができない。自分の正しい意思を伝えることができない。時には相手に間違った考えをもたれてしまうこともあることでしょうね」
山中さんが入学してから、私は一度だけ山中さんと面談した。
彼女が苦しんでいないか、何かできることはないかという思いから面談という形をとった。
面談の中で私が感じたことは、思った以上に山中さんは今の現状を受け入れている。前向きに生きていこうという強い思いを感じた。
(私は大丈夫ですよ。ありがとうございました)
面談が終わった後、山中さんは小さな紙にそう書き記して、小さく笑いながら、教室を出て行った。
「いつか話せるようになるといいですね……山中さん」
「そうなるように、我々もサポートしていきましょう」
リハビリと服薬で声を出すトレーニングはしていると山中さんは面談の時にいっていた。
担任の私にできることは何だろう……今はそう考えることしかできなかった。