藤の花の盛りを迎える   作:ruuca

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邂逅

 ____迸る閃光。

 棋院から足を踏み出して外に出た瞬間、大量のフラッシュが焚かれた。棋院の前に詰めかけたのは、新聞やテレビなどのマスメディア。何人もの報道陣を前にして威風堂々と立つ男性は、今回の本因坊リーグで見事防衛を果たした進藤ヒカル本因坊だった。

 彼は以前19歳という若さで本因坊のタイトルを取った日本を代表する棋士だ。その後何度か他のプロたちにタイトルを奪われるということがあったが、その度に彼は本因坊を奪取し、今や本因坊といえば進藤ヒカルとまで言われるまでになった。現在は三期連続防衛中である。

 そして今日の棋戦で、挑戦者であった塔矢アキラと接戦を繰り広げ見事本因坊位防衛を決定付けたのだった。

 隣に今日の対戦相手だった塔矢アキラが並び立つ。負けてもなお、悔しさを表に出さずメディア向けの微笑みを称えている。

 フラッシュがさらに激しさを増す。

 進藤は内心、頭を使ったから早く帰って休息させて欲しいと思っていたが、プロの務めを全うするためそんな本心を隠そうと試みていた。しかし、彼自身は上手く隠せたつもりでも周囲には進藤の疲れた様子が手に取るように伝わってきていたため、やがて棋院の職員が気を利かせて報道陣を退かせ、取材はまた後日ということになった。

 塔矢は呆れたように溜息をつくが、彼は出会った頃からこんな調子のため今更何か言う気にもならなかった。

 

 勝負後の検討は後ほど、と約束を交わすと進藤は早速踵を返し、関係者達への挨拶を済ますと真っ直ぐ自宅へと足を向けた。彼は成人してから一人暮らしを始め、現在は亡くなった祖父の家を相続してそこに居を構えている。

 改築も経て整えられた純和風建築の家は、普段の彼の雰囲気からはそぐわない、しかし肩書きを考えると違和感の無い装いだ。美しい植物が季節ごとに移り変わる風情たっぷりの庭は意外にも進藤の趣味で、腕のいい庭師を呼んでは整えさせているらしい。

 彼は自宅に着くなり家には上がらず、庭の横にある蔵へと足を運んだ。蔵の中だけは祖父の生前の頃から手をつけておらず、若干黴臭いにおいが漂っていた。その中で、柔らかな光に包まれた碁盤が数々の調度品の中で異彩を放っている。

 進藤はその碁盤に近づくと、そっと手をかざし物思いに耽るように目を閉じた。

 

「____佐為、勝てたぜ」

 

 ただ一言、彼は何者も存在しない空間で今日の勝利を報告した。

 彼が棋士になってから続くこの儀式めいた習慣。この世でたった一人の、進藤の碁の導き手となった存在への感謝を示していた。

 その存在は、彼の碁にはなくてはならないもので、また彼の碁そのものでもあった。そして彼にとっては神格でもあり、自らの半身でもあった。

 この儀式を行うことで、彼は戦いの世界に身を置く覚悟を新たにし、さらなる研鑽への志向を持つことができるのだ。

 進藤は一旦碁盤の前から離れると、近くに置いてあるバケツに水を入れた物と清潔な布巾を持って戻り、碁盤を磨き始めた。碁盤以外はまともに掃除もしていないため、数日も放っておいたらすぐに埃がたまる。

 足まで綺麗に拭き取ると、進藤は満足そうに息をついた。

 勝負の余韻で張り詰めていた気分が解かれ、自然と笑みがこぼれた。

 

「ふうっ、腹減ったな。なんか食うか」

 

 蔵を後にし、家の中に入ると何か空腹を満たしてくれるものがないかと冷蔵庫を開けた。

 

「げっ」

 

 しかしそこで、冷蔵庫の中に食べられるものが何も入っていないことが判明した。

 あるのは、ご近所からもらった味噌と缶ビールが数個。これでは腹の足しにはならない。多忙でなかなか買い物に出かけられなかったことに気づき、進藤は後悔する。棚にインスタント食品の類がないかと探してみるが、こちらもここ最近の忙しさで全く補充していないことに気がついた。

 仕方がない、と少し遠くにあるコンビニまで歩いていくことにする。

(ゆっくり休むつもりだったのによお・・・・)

 祖父の家を相続したはいいが、コンビニまで歩いて結構距離があるのが残念だ。

 もう大分日は落ちたが、昼間の熱を引きずるような暑さを残していた。蝉の声もただ煩く感じられる。

 買う予定のなかったアイスを買って帰路につくが、この暑さではすぐに溶けてしまいそうだなと思い途中にあった公園に立ち寄り、そこでアイスだけは先に食べることにした。

 まだ囲碁も知らなかった幼い頃、よくこの公園で遊んでいた。様々な遊具があって幼い頃のヒカルを楽しませてくれていたものだが、今やそのほとんどが危険だからという理由で使用禁止になっている。

 もう残っているのは、お年寄りが散歩の途中で腰掛ける石のベンチか、錆の味がしそうな水飲み場くらいだ。広場で元気に走り回る子供も見かけなくなった。

 しかし、おかげでこうやって一人で静かに休むことができるのだが。

 ベリベリとアイスの包装を破いていると、突然後ろからガンッと何かを投げつけられたかのような衝撃を受けた。

 

「うっ!!?」

 

 転々と進藤の目の前に青色の球体が転がってきた。

 幸い頭に当たったものは柔らかいゴムボールだったようだが、それでも不意に後ろからぶつけられて無視できるはずもなかった。

 

「ったく、誰だよ!おい!」

 

 進藤は声を荒げて後ろを振り向くが、そこにはそれらしい人影が見当たらない。しかし、どこかに隠れているはずだと思い、飛んできた方向である方に声を飛ばした。

 

「おい!そこにいるんだろ!」

「・・・・・・・」

 

 すると、控えめな仕草で木の後ろから子供の顔が覗いた。怯えたような目で進藤を見ている。そこでハッと子供相手に大人気なかったかと思い至り、深呼吸して苛立ちを鎮めた。

 そして、できるだけ穏やかな声色で子供に対し言葉を投げかけた。

 

「・・・怒鳴って悪かったよ。怒らないから出てこいよ」

 

 ゴムボールを手に持ち、子どもに向かって笑いかけると、恐る恐るといった様子で木から姿を現した。

 

(・・・・女子?)

 

 と、一瞬進藤はそう思った。艶やかな少し長い黒髪に、中性的な美貌。どことなく育ちの良さを感じさせる優美な仕草。だが、微妙に女子のものとは違う体格から、恐ろしく顔立ちが整った美少年であることが察せられた。

 

「あ、あのっすいません!本当に!お怪我はありませんか?」

「ゴムボールだったし別に平気だよ。ていうかお前、何やってたんだよ?ハンドボールの練習?」

「さ、サッカーです・・・・」

「サッカー?」

「はい、あまり上手くなくて、いつも仲間はずれにされるから・・・・」

 

 悲しげに言った少年に、思わず同情する。あまり上手くないと言っているが、蹴って進藤の頭に誤って当ててしまうあたり、かなり下手なのだろう。

 そして、少年の姿にどこか昔の彼の面影を重ねてしまい、放っておけない気持ちになってきた。チラリと破りかけの包装から覗く一対のアイスを見る。

 中からそれを取り出すとパキリと二つに折って、片方を少年の方に差し出した。

 

「元気出せよ」

「・・あのっ・・・・」

 

 躊躇っている様子を見せたが、進藤の邪心のない笑みを見て安心でもしたのか割と素直にアイスを受け取ってくれた。

 

「ありがとうございます」

「おう」

 

 そして二人揃ってベンチに隣り合ってアイスを食べた。少し溶けたが、ちょうど食べやすい頃合いになっていたのでするすると嚥下することができた。

 

「お前、いつもここでサッカーの練習してるのか?」

「・・・いえ、今日が初めてです。実は、本当はサッカーは好きじゃないんです。仲間外れにされても、別に構わないくらい・・・でも、それを両親が心配してて、友達作らなきゃって・・・・それで」

「練習、か。でも、好きじゃないことをいくら頑張っても、対して身につかないんじゃないか?お前、何か好きなことはあるのか?」

「はいっ!最近は囲碁というものを始めまして・・・!」

 

 囲碁という単語に、進藤はピクリと反応した。当然だ。進藤はその囲碁のプロで、普及活動も積極的に行っている。俄然進藤はこの少年に興味が湧いてきた。

 

「へえ、囲碁か。強いのか?」

「お爺様としか打ってないので、よく分からないんですが、でも、お爺様にも勝てるようになってきたんですよ」

「へえ、じゃあそれなりに打てるのか」

「・・・もしかして、貴方も囲碁を・・・・?」

「ああ、やってる。それも超強いぜ」

 

 なんせ今日トップ棋士たちの戦いを勝ち抜いて本因坊防衛を決めたところだ。進藤が胸を張って言うと、少年は目を輝かせた。

 

「そうなんですか!?あの、あの、良かったら打ってくれませんか!?」

 

 まさかいきなり対局を申し込まれるとは思っていなかったため、進藤は一瞬目を丸くした。

 少年のこの様子だけで、彼がかなり囲碁に入れ込んでいるのが見て取れた。そして、その姿に微妙な既視感を覚えながら進藤は答えた。

 

「今からは無理だぜ。もうこどもは帰る時間だからな」

「い、一局だけ」

「(食い下がるのか)別に打つのがダメとは言ってねえよ。土曜の昼ごろ、できたらここに来いよ。そんときなら相手になってやるぜ」

「本当ですか!ありがとうございます!」

 

 進藤が言うと、少年は花も綻ぶような笑顔を浮かべた。

 気分が良くなった進藤は、ふと、彼の名前を聞いてないことに思い至った。

 

「そういえば、お前、名前はなんていうんだ?」

 

「さいと・・・・彩人です」

「そうか、俺はし・・・」

 

 進藤は自分も名乗ろうと口を開いて、ふと思い立って一瞬言葉を止め、それから続けた。

 

「・・・ヒカルだ」

「ヒカル・・・さん。約束ですよ!」

 

 


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