<夕刻>
伊丹耀司
ロンデル・老師ミモザの居宅
「伏せろ!」
己の背後で起きようとしている事を瞬時に認識した伊丹の行動は素早く、躊躇いが無かった。
有無を言わさず目の前のアルペジオのローブ、その胸倉を引っ掴むと彼女を巻き込むようにして横へと身を投げ出す。
「きゃあっ!」
衝撃の事実を告げられ驚愕に思考が停止したせいで伊丹の背後の窓に出現した襲撃者の存在を認識していなかったアルペジオが、突然の伊丹の蛮行に短い悲鳴を上げた。
風切り音。2人の体が存在した空間を通過していく物体。それは短い矢で、的を外した矢は積み上げられた分厚い学術書の背表紙へ突き刺さる。火が付いた煙草を揉み消した時のような、矢が突き刺さるにしては些か不吉な音が生じた。
伊丹とアルペジオの肉体が資料の山にぶつかる。小さな物置の中で本の崖崩れが発生した。
倒れた本の山が次々と隣の本の山へ襲いかかり、別の崩落が更なる崩落を生む。中には天井近くまで達する資料の塔がどさどさどさと崩れ落ち、洗濯の為分けておいた徽章類や護身用の武器を置いていた机の上や物置の入り口前に小山を作った。
無論自ら身を投げ出した伊丹と、彼に無理矢理引きずり倒されたアルペジオにも、製造方法や使われる素材の違いから地球の物よりも大きく重く分厚く固い装丁の本が次々と降り注ぐ。
「痛った~い! 急に何するんですか!?」
アルペジオの怒りの声に答える余裕などない。
伊丹が背後から矢による奇襲を回避したとみるや、下手人は容易く服の下に隠し持てる弓銃を捨てて短剣を手に窓から物置内に飛び込んできたのを察知したからだ。
暗殺者の手には刀身が前腕ほどの長さもある緩やかな波型の曲刀。夕日を浴びて鋭利な刃がギラリときらめく。
咄嗟に伊丹は床に置かれた木桶を暗殺者の足元へと蹴り飛ばした。
床を滑ったお湯入りの桶に足を取られた暗殺者の動きが鈍るが、それも一瞬の事。僅かに稼げた時間を使って伊丹に出来たのは立ち上がって体勢を立て直す事ぐらいだ。
暗殺者が突きを放つ。速く、鋭く、躊躇いが無い。マントとターバンで顔は分からないが、身のこなしと雰囲気から相手がこの手の荒事に極めて慣れた危険人物であるのは明らかだった。
仰け反って回避。すぐに喉めがけ横薙ぎの斬撃が追いかけてくる。地球の軍隊式とは別の形で洗練された淀みない刃物の扱い。
バックステップで逃れるも首筋に刃が掠める感覚。文字通り薄皮一枚の差で頸動脈を切り裂かれずに済んだが、流れは明らかに暗殺者に握られてしまっている。
しかも後退してしまったせいで武器を置いていた机との距離も開いてしまった。尤も机の上にも本の山が崩れたせいで武器の在処も埋もれて分からなくなっているのだが。
ナイフを持った敵を想定した徒手格闘も散々訓練は積んできた。だが暗殺者が振るう得物はリーチが長く、ナイフ戦のセオリーである左腕を前に出しての防御を行おうにも刃が長い為払うよりも先に胴体の急所を引き裂かれかねない。
扱っているのがド素人ならまだしも、目の前の敵は間違いなく刃物の扱いに習熟したプロだ。
意識は暗殺者に集中させたまま、周囲の環境を瞬間的に認識し分析する。
狭い物置の外に出て仕切り直したくても崩落した資料の瓦礫で入り口は封鎖されてしまった。
更に後退ろうとした伊丹だが背後はもう壁だ。正確には壁際に積まれ、崩落を免れた別の本の山がこれ以上の後退を阻んでいる。
下手に間合いやタイミングを図って伊丹に余裕を与えまいと相手は次の攻撃モーションに入りつつある。その体の動きがやけに鮮明に、ゆっくりと伊丹の目には映った。
次の行動を一つでも間違えれば、或いは遅れれば間違いなく次の瞬間には暗殺者の刃が伊丹の急所へ突き立てられているだろう。
どうすればいい?
武器はないのか?
振り向く事無く伸ばされた伊丹の手が背後に在る物を掴んだ。
刃が空気を切り裂く。
(左上方から袈裟懸けに鎖骨下動脈狙い!)
瞬時に曲刀の軌道を判断。自ら前へ踏み込みながら、手に掴んだ物を軌道上へ割り込ませる。
資料の山から抜き取った特地の学術本。特地の本は地球のそれよりも大きく、重く、分厚く、固い。それこそ武器として刃を受け止め、殴り殺せそうな程に。
がっ、と紙の塊で受けたにしては硬質な音を立てて刃と学術本の背表紙がぶつかり合う。
刃が本に対し垂直に当たらなかった事もあり、暗殺者が振るった曲刀は学術書に刀身を食い込ませる事無く弾かれた。
「!?」
ローブとターバンの隙間から覗く暗殺者の目が驚きで見開かれた。
敵は動揺している。ボールが伊丹側に移った。この機を伊丹は逃さない。
両手で持ち直した学術書を暗殺者の顔面へ叩きつける。相手の鼻を潰し、頭蓋骨を揺らす確かな手応え。続いて右手に持ち替え最も固い本の角でもう一度顔面を突く。今度こそ鼻の軟骨が砕け鮮血が暗殺者の顔面から飛ぶ。
今度は暗殺者がたたらを踏む番だ。距離が開いたら有利なのは相手の方である。
逃がさない。伊丹の右足が持ち上がり、半長靴の踵でもって思い切り暗殺者の足の甲を踏み抜く。
内臓や手首などの動脈とは違って傷つけられても致死に至らしめない部位ではあるが、痛めれば激痛を与え重要な機動力が奪われる足の甲もヒトにとって急所のひとつなのだ。
出血で汚れたターバン越しでも暗殺者の表情が苦痛で歪んだのが伝わってくる。
「がぁっ!」
ここで初めて暗殺者が短くも確かな声を発した。威嚇目的で発したであろうその声は鼻から溢れる血に気管が塞がれているせいで酷く濁って聞こえた。
暗殺者の反撃。顔面を狙っての刺突。
最初よりもモーションが荒い。相手の足の甲を踏みしめたままの右足を軸に半身になって回避。伊丹の目の前を切っ先と、そして伸ばされた右腕が通過していく。
暗殺者が腕を戻すよりも早く伊丹の両手が伸びきった右腕に絡みつき、本を握ったままの右手は伸びきった暗殺者の右肘の外側に、左手は掌底を打つ要領で曲刀を握る右手首へ。右手は手前へ引き、左手は逆に突き出す。
無理矢理背屈させられた暗殺者の右手から刃物が弾き飛ばされると同時に、てこの原理と互い違いに加えられた力が重なった右肘が破滅的な悲鳴を奏でた。ターバン越しに暗殺者は今度は短い悲鳴を漏らした。
すると暗殺者は踏みつけられたまま動かせない右足の代わりに左足でもって蹴りを放った。
苦し紛れに近い無理矢理な蹴りだったが伊丹の右膝裏に命中。衝撃でバランスが崩れ右足から力が抜ける。
『ちょっとぉ何の騒ぎぃ?』
騒ぎを聞きつけたのだろう、本の雪崩で塞がれた入り口の向こう側からロゥリィの声が聞こえた。
一瞬生じた隙を見逃さず暗殺者は踏まれていた足を引き抜くと、不自然な角度でダラリと垂れ下がった右腕を押さえながら反転し、唯一開け放たれたままの窓へと駆け出した。
弓銃による狙撃は失敗し、不意を突いての刃物を用いた襲撃も失敗に終わった。武器を失い、右腕も使い物にならなくなり、外にも異変が伝わった。これ以上の攻撃は不可能と判断しての撤退である事は明らかだ。
「待て!」
伊丹が叫ぶが待つ筈もない。ネコ科の肉食獣を思わせる身のこなしと瞬発力で暗殺者の姿は一瞬で窓辺に到達。窓枠に足をかけ、勢い良く飛び出す。
そのまま路地に舞い降りて姿を消してしまう……と、流石の伊丹も覚悟していたのだが。
次の瞬間、特大の曳光弾じみた光の球が暗殺者を追いかける形で窓を通り抜け、暗殺者の背中へと命中した。直撃であった。
かんしゃく玉よろしく派手なエフェクトを伴い光弾が弾ける。暗殺者の体は空中できりもみ回転しながら顔面から地面に落ちた。
「へ?」
ゆっくりと首を回してみれば、何時の間にか立ち上がりそれぞれ材質が違うのであろう三色の錘を細い鎖でつないだ
ボーラはアルペジオにとっていわばレレイの杖的存在、つまり彼女にとって魔法を発動する為の媒体である。
それでもって放った魔力弾の抜き撃ちを、アルペジオは見事宙に飛んだ狼藉者に直撃させたのであった。
「どうよっ! 攻撃魔法の重鎮リンドン派の魔導師の家を襲っておいてタダで帰しますかってぇの!」
「いやぁお見事。レレイのお姉さんだけあっていい腕してますよ」
「えへへへそれ程でも、って、イタミさん血が!」
勝気な顔から瞬時に愛想笑いに切り替えるアルペジオだが、伊丹の首筋から流れる血に気付いて表情を一変させる。
「大丈夫、もう血は止まってます」
加護によってロゥリィと繋がった伊丹は疑似的な不死身も同然と化している。手の甲で首元を拭えば雑に拭い取られた血痕の下から現れた肌には既に傷一つ残っていない。
「まずはアイツを拘束して情報を聞き出しましょう。ええっと銃は……あったあった」
本に埋もれていたホルスターから抜いた拳銃を手に伊丹も窓を通って外へ。ちょうどハルバードを手にしたロゥリィも出てきたところだった。続いてテュカやミモザ、髪から雫を滴らせ上半身にタオルを巻きつけただけという格好で杖を手にしたレレイまで路地に姿を現す。
アルペジオの魔法が呼び声になったのだろう、人気の無かった夕日差し込む路地には今や表通りから騒ぎを聞きつけた野次馬らが集まり、遠巻きに状況を眺めている。
「そこに転がってるのは何者ぉ?」
「それを今から聞き出すんだよ」
照準を地面に転がる暗殺者にポイントしたまま言い返す。
ジリジリと距離を詰める。暗殺者は横たわったまま身動きしないが油断は出来ない。これが地球の戦場なら手榴弾か爆弾ベストでの自爆も警戒しなければならないシチュエーションだ。
「んんん?」
不意にロゥリィが訝しげな声を漏らしたかと思うと、無造作に動かない暗殺者の下まで近付き、ハルバードの石突で暗殺者の体を転がした。
亜神の口から深い嘆息が出た。
「ヨウジィ、コイツもう事切れてるわよぉ」
「マジか」
駆け寄って覗き込んでみれば、顔面から落ちた際にターバンが解けて露わになった口元は血の泡で溢れ、冷たい殺意を宿していた眼球からも光は失われていた。
念の為呼吸と脈も調べるがどちらも感じ取れない。
伊丹の視線は自然とボーラを手に窓辺で佇んでいたアルペジオに向いた。続いてロゥリィが、更にテュカにレレイにミモザに野次馬達の視線までもが揃ってアルペジオへと注がれた。
アルペジオの魔法が命中する寸前まで暗殺者がまだ生きていたのは間違いないのだから、状況証拠から彼女の放った魔法のせいで暗殺者が死んだという推測が最有力候補になるのは当然であろう。
伊丹らが何を思い浮かべているのか悟ったアルペジオは必死な形相で手と顔を何度も横に振った。
「わ、私のせいじゃないからね!? ちゃんと死なない程度に威力は抑えたから! ……多分」
アルペジオ自身も割と自信がなさそうだ。
と、バスタオル1枚のレレイが暗殺者の亡骸へと屈み込み、血の泡に覆われた口元に顔を近づけてくんくんと鼻を鳴らした。すぐに顔を上げて言い放つ。
「彼が死んだのは毒のせい。口からある種の猛毒特有の臭いが微かにする。おそらくアルフェの魔法を受けて逃げられないと判断し、自ら毒を呷ったと思われる」
「ホッ」
直接的に死に至らしめたのではないと分かって豊かな胸を撫で下ろすアルペジオ。
しかし直後、物置内の惨状を認識して絹の裂くような悲鳴を上げる事になるのだが。
被害を受けた資料の数々に頭を抱え七転八倒する彼女を無視して、伊丹とロゥリィは暗殺者の亡骸を建物の影に運んで調べにかかった。レレイは格好が格好なのでミモザとテュカに促され居宅内へと戻っていく。
「だけど情報を聞き出せなくなった事には変わりないんだよなぁ。何者だコイツ。問答無用で襲い掛かってきやがったぞ」
マントとターバン、その下の服装そのものは特地の旅人と大差ない。
物置内に飛び込んでから伊丹に対して振るった凶器の曲刀も、よく磨がれてはいたが似たような武器は簡単に入手出来る。野生の獣や盗賊が跋扈する特地で旅をするなら護身具が必須であるのでこの手の武器は一般的に流通しているからだ。
物置の窓の近くに転がっていた弓銃は刃物と違い特地の一般には流通していない。板バネの強度と大きさ、反発力の強さが威力と射程に直結する弓矢の類では小型になるほど威力が低下してしまうからである。
懐に隠し持てる拳銃サイズの弓銃ともなれば小動物が精々で射程も短い。それこそ標的に忍び寄っての暗殺用だろう。急所に当たらない限り即死も難しいので毒を塗った矢を使い殺傷力を上げる必要もある。
分析を証明するかのように暗殺者の死体からはボールペンサイズの短い予備の矢と異臭を放つ毒々しい液体の小瓶が発見された。
「コイツはハリョよぉ」
暗殺者の顔を一瞥したロゥリィが断言する。
「ハリョ? 悪所街のゴンゾーリとかベッサーラみたいな悪党をまとめてる連中の組織の名前か?」
「そういうのとはちょっと違うわねぇ。ハリョはヒトと亜人、亜人と別の種族の亜人というようにぃ異なる種族の間で生まれた混血が集まって構成された集団の事よぉ」
伊丹も死体の顔を覗き込んでみる。ターバンの下に隠れていた顔立ちは純粋なヒト種とも亜人とも似ているようで違う、言ってみればヒトと亜人―それもゴブリンやオークなど怪異に近い―それぞれの特徴が中途半端に混じり合った、どっちつかずな容貌をしていた。よく見てみれば耳の形状もヒト種のそれとは微妙に違う。
「白人と黒人のハーフや在日二世三世みたいなもんか」
「別に異人種の混血そのものは全く珍しくないわよぉ。でもぉ血統を重んじる種族の中にはぁ異なる種族との間に生まれた混血児の存在を受け入れなかったりする部族も多いのよぉ。そうして迫害された混血児達が徒党を組んで生まれたのがハリョなのぉ」
地球でも混血児が迫害を受けるという事例は全く珍しくない。
別の人種の血が混じっているだけの理由で追い立てられ頼れる人も持たぬ彼らが、やがて身を護る為に
、或いは食い扶持を稼ぐ為に、またある者は迫害の土壌となる社会そのものを憎むが故に、少数の徒党からやがて一定規模の組織を構築するという事例もまた同様である。
えてしてそのような経緯で誕生した組織というのは裏社会との関わりも深いものだ。YAKUZAとして何故か世界的に有名な反社会的勢力も、元は地元を護りたい人々が集まって結成された町火消や自警団が原点なのだから。
そもそも出生や血統を発端とした偏見はむしろ一般社会の方が色濃いと言える。暴力の才能であれ、人を騙す才能であれ、金稼ぎの才能であれ、表社会以上の実力主義であるが故に、出生に左右されぬ立身出世を成し遂げ易いのだ――最悪1つのミスで金や立場どころか命を失うという代償を除けば。
ロゥリィによれば。迫害された混血児の集団であるハリョの中にも伊丹の想像通り悪事によって生計を立てている一派の少なからず存在しているという。
「で、そのハリョが何で襲ってきたんだ?」
「そんなの分かるわけないでしょぉ。ヨウジの方こそハリョから恨みを買うような心当たりないのぉ? 例えば何処かでハリョの女を弄んで捨てたとかぁ」
意地悪っぽい口調でそんな事を言ってきたロゥリィへ「悪趣味な」と言いたげに伊丹は表情を歪めた。
「心当たりはないしそんな甲斐性も俺にはありませんっての」
「5人も女を侍らせておいてぇ?」
「だからその5人でいっぱいいっぱいなんだってば。俺にはお前達だけで十分さ」
「うふふふふふふふ」
ロゥリィの喉から漏れた笑い声は死体の前でなければ聞き惚れてしまいそうな程に涼やかだった。
死体の身体検査をしながら甘い言葉を囁くってのもなんだかなぁ、と何とも言えない気分に襲われる伊丹である。
「隊長ご無事ですか!」
そこへ書海亭から戻ってきた栗林とヤオが野次馬を掻き分けて姿を現した。
部下の女性自衛官と所有物のダークエルフは2人の客を連れていた。栗林とヤオに続いて禿頭の男性騎士と高校生ぐらいの年齢の少女騎士が伊丹の下へ歩み寄り、片膝を突いて頭を垂れた。
男の方には伊丹も見覚えがあった。
「確かアルヌスでピニャ殿下と一緒に居たグレイさん、だっけ?」
「覚えておられて頂き光栄でございます。ピニャ殿下の下で騎士補を務めておりますグレイ・ド・アルドと申します。イタミ殿、聖下、こうしてお目にかかる事が出来て光栄です」
「グレイ殿と同じくピニャ殿下の下で薔薇騎士団員を務めているシャンディー・ガフ・マレアでございます」
頭を垂れたままの2人の視線がチラリと暗殺者の死体へ向けられる。
目をやった時の彼らの態度に驚きや困惑といった感情が読み取れなかったのが伊丹には引っかかった。
「どうも2人は
「イタミ殿の慧眼、恐れ入ります。我らも姫殿下の名を受けとイタミ殿に警告と身の安全を護る為、こうして参った次第でありまして」
「つまり、俺を殺したい奴が暗殺者を雇ったと」
「まさしくその通りであります」
またかよ、と伊丹は天を仰いでガックリと肩を落とすのであった。
『2度ある事は3度ある』 ――昔からのことわざ
なお標的はほぼ不死身の模様(再生能力的な意味で)
次回はCoDらしい内容の幕間予定。
執筆の励みとなる感想をお待ちしております。