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翌日。
嵐の一晩を乗り越えて、第七学区の天気は憎々しいほどの快晴である。
「――今日オマエ達が受けた小テストの結果を参考に、これから俺が受け持つ科目の個別カリキュラムを組んでいく。この俺がここにいる以上、とりあえず全員の成績向上は約束してやる。だからオマエらは安心して机に向かえ。……何か質問は?」
「はい質問! せんせー、高位能力者だって噂だけど実際レベルいくつなの?」
「それ知って何になるンだ馬鹿か。オマエらは全員自分のレベルの向上にだけ関心持ってりゃ良いンだよ、余所見すンのはそれからだ」
「はーい、じゃあ私クラスの全女子の期待を背負って聞いちゃう! カノジョはいますかー?」
「学校生活に無関係なことに答える義務は無ェな」
「えー、じゃあ彼氏は?」
「張り倒すぞ」
就任初日でいきなり抜き打ちテストと決め込んだ謎の冷血実習生は、それでもやっぱり人気者であった。
現代的なデザインの杖を小脇に、しかし教科書を片手で広げて黒板の前に立つその細身からはおよそ弱々しい印象は与えられない。ただでさえ目を惹く容姿の彼がスーツで身を包む姿はなんとなくアウトローな香り漂うものだったが、いかんせん相手は中学生。目の前の青年に対しては畏れよりも憧れが勝ってしまうようで、男女問わずクラスのほぼ全員が授業そっちのけで彼に注目していた。
はーい、と手を上げたお調子者の男子生徒が、再び『せんせー』に下世話な質問を繰り出す。
「じゃあさ、せんせーの能力ってどーいうの? 俺らの能力向上の参考になるかもしんないし、ヒントだけでも教えてよ」
「……はァ?」
怪訝な顔をする
実のところ、彼が学園都市最強の
ちなみに、彼の関係者たちの間では周知の事実だが――
一瞬だけその瞳に苦々しい色を浮かべた彼は、しかしまぁこれも実習の一環かと思い直し、黒板に備え付けてあるチョークを手に取った。
「……一応、実習期間には守秘義務っつーモンがある。詳しいことは言わねェからな」
「「おおーっ!!」」
杖を突いている都合上、利き手ではない左手で板書きをする必要があるわけだが、
盛り上がる生徒たちから背を向けた青年が黒板に淡々と記したのは、現役中学生の彼らにとっては非常に見覚えのある図柄だった。
「鏡の、反射角……?」
「理科で習ってンだろ。このA地点から鏡を見ると、B地点の物体の像はどこにあるよォに見えるのか、みてェな他愛もない問題。細かい意義は今は置いとくが、俺の能力はひとまずこの反射角を任意に弄くることが出来る。それだけ覚えてりゃ上等だ」
鏡の中央と地点A、Bを結ぶ線の間、垂直な点線と実線の角度を示す曲線を黄色いチョークで塗り潰す彼を前に、真面目そうな女子生徒が首をひねる。
「せんせーの体が、像を歪めて写す鏡になるってことですか?」
「間違っちゃいねェが、俺が操作出来るのは何も可視光線だけの話じゃねェ。電気、熱、光、重力……視認できるか否かに関わらず、そこに『向き』があるモノなら、何だって意のままの『向き』に変換する」
「???」
いまいちピンと来ていないらしい生徒達の前で、彼は黒板からふと目を外して振り向いた。
カチリと。
指をあてがった首筋のチョーカーから、何か硬い音を響かせながら。
「あー……、要するに、方角が決まった物の『流れ』を捉えてコントロールするチカラってことだ。基本式自体は
言いながら、彼が指先で適当に弾いた白のチョークは――。
音もなく空中に一直線を描き、最後列にいる呆け面の
パァン!! という破裂音と共に、少女のソプラノの悲鳴が上がる。
「あ痛ぁっ!? ってミサカはミサカは理不尽な暴力に苛まれて――ッ!?」
「……
おおおおお……!! と感心しきった少年たちの声がクラス一帯でこだまする。
スタイリッシュチョーク投げの妙技に拍手喝采な教室の中で、
「ひっ、人のおでこを勝手なパフォーマンスに使うなーっ!! こんなこと言いたくないけどね、誰がその素敵な能力の代理演算してあげてると思ってるんだ誰が! ってミサカはミサカは抗議してみたり!」
「どォした面白ェ面しやがってこの石頭。つーか授業中に人の顔眺めて百面相してンじゃねェよ、笑わせる気か」
「お、乙女の顔になんてことを……! ってミサカはミサカは……ッ、あーはいはいそうですねあなたが笑顔なんか見せた日にはせっかく過ぎた大嵐がまたやって来たりしてね! ってミサカはミサカはなんてつまらないジョークだと鼻で笑ってみる!!」
まったくもう! と火照る顔を誤魔化すようにむくれながらもとりあえず席に戻ろうとする
「……『
幽鬼のように立ち上がるフロイライン=クロイトゥーネの瞳がぐりぐりと蠢いたのを察し、一気に血の気が引いてしまった。
「わっわああああああああああお姉ちゃんストップ! ストップ!! ってミサカはミサカは背中から腕を回してみる!!」
『うわあああフロたんがキレたーっ!?』というクラス全体の阿鼻叫喚を耳にして、
――あぁ、やはりこの天の邪鬼は早めに治すべきか。
「にぎぎ……離して、ください。彼は、悪い人、です。だから排除、しないと」
「ミサカそんな重傷じゃないよ!? 大丈夫! あの人のデコ攻撃は小さい頃からのお約束みたいなものだから! ギャグ漫画の爆発アフロヘアーみたいなものだから! ってミサカはミサカは宥めてみる!」
「相変わらず言動の根本からぶっ飛んでやがンなこの化物は。イイ加減目障りだ、矯正してやるよ」
「あなたもあなたで余計に煽るなッ!! ってミサカはミサカは治安維持の敵を叱ってみたり!」
「というか……
「幼馴染みとかじゃない? それかカテキョ」
「まさかの兄妹とか」
「いやいや似てなさすぎでしょ、天使と悪魔みたいな組み合わせじゃん」
「えーやだそれ可愛いー」
「そこの女子たちは何を和気あいあいとしているんだ! ってミサカはミサカは――ああもう! お口全開で捕食スタンバイするのはみっともないからやめなさいお姉ちゃん! ほらチャイム鳴ったよお昼ご飯食べよう!? ってミサカはミサカは悪食さんなお姉ちゃんを説得してみる!」
「む、……そうでした」
小さな口を鯉のようにぱくつかせる銀髪の少女にそう言い聞かせることで、
他のクラスからも見物に群がる子供たちをしっしと解散させ、隣の席のフロイラインと机をくっつける。
手提げから出したお揃いの包みを、二人一緒に仲良く開く。ここまではいつも通りの光景。しかし、今日のお弁当はいつもと違う――なんといっても、
放課後には『仕事』もあるからしっかり腹ごしらえしないと、ということで今朝は少し多めのお弁当を作ろうとしたわけだが、
「……そりゃあ、半日置いといても炭は炭だよね、ってミサカはミサカは絶望しかないパンドラの箱を開けて落ち込んでみる」
「時間を置いた分、おぞましさが増した気がします」
ただでさえ料理慣れしていないというのに、少し多めに作ろうと肩に力を入れてしまったのが敗因だったのか。
とりあえず火を通せば安全なのだという乱暴な理念に捕らわれ、野菜炒めやウインナーは見事な炭へと変貌している。そのくせ人参やじゃがいもはまだ生煮えで、玉子焼きなどはもはや煎り卵と呼ぶのもおこがましいほどのダークネスっぷりであった。
「はぁ……我ながら先が思いやられるなぁ、ってミサカはミサカは肩を落としてみたり」
「まだ初日です。次からは私と一緒に頑張りましょう」
アホ毛を萎れさせて落ち込む少女を励ますようにそう宣言したフロイラインは、そのまま箸でメインディッシュの肉団子(のようなもの)を摘み、小さな口に勢いよく放り込む。
むぐむぐ、と俯いた彼女の口元からしばし可愛らしい咀嚼音が響く。
「ど、どう? ってミサカはミサカは……実はまだ味見してないんだけど……」
「……………………………………………………二つ星。好きな人にはたまらない味、だと思います」
「目泳いでるよお姉ちゃん」
親友の優しさにほんのちょっぴり涙をこぼしたところで、彼女の耳に飛び込んできたのは。
「――せんせー! そんなところに居ないでウチらと一緒にご飯食べてよー!」
「あァ? うるせェよ、飯ぐれェ落ち着いて食わせろ」
「っていうかヤバっ! そのサンドイッチ売り物みたいにキレイなんだけど!」
「えっそれ手作り!? すごーい! せんせー料理できるんだー!」
「とか言いながら何故こっちに来るかキサマらーっ! ってミサカはミサカは嫌な予感が……!!」
やる気のない表情の
「……、何言ってンだ? オマエ」
「……知らないもん、ってミサカはミサカはそっぽ向いてみる……」
教室の一角に連れてこられた彼の目から隠すべく、机ごと抱き締めるように弁当を覆う。
真っ赤になった彼女のうなじに同級生たちの奇異な視線が突き刺さるが、
あぁ――こんなことになりたくないから、さっさと食べてしまいたかったのに。
「……」
「……」
(……沈黙が痛い……ってミサカはミサカは……)
結局、なんだかんだと要らぬ気を使った友人たちのおかげで、見事
「……いつまでそォしてるつもりだ? いちいち人の挙動気にしてンじゃねェぞ見苦しい」
「そういう問題じゃ……あーもう」
地中海風の赤いソースが掛かった
それにしてもこの男、相変わらずよく分からん横文字の料理ばかり作りたがるものである。
元同居人たちのお説教の甲斐あって自ら肉以外のものも食べるようになった分、以前よりははるかにマシなのかもしれないが。いい食事のおかげか、昔より随分と背が伸びたし、細身の上にうっすらと筋肉も付きだして均整の取れた体つきに――いや、それは今は置いておこう。
パカッと開かれた弁当箱の中の死屍累々を横目に、
「……、新手のアートかよ」
「……生徒の頑張りを認めないなんてサイテー、ってミサカはミサカは憤慨して……というか見ないでよっ」
もっとも、いくら
炭だ……、と何度目か分からない嘆きを繰り返しつつ、とりあえず常識的にあまり失敗しなさそうな玉子焼き(の残骸)を一口かじる。
「うぐっ……こ、これ、お砂糖入れたつもりだったのに、ってミサカはミサカは……」
「砂糖と塩間違えたってか? 随分とまたベタな――」
「塩ではありません。重曹、です」
「何をどォしたらそンな悲劇になるンだ」
「……ううう……ってミサカはミサカは言い返せなかったり……」
先にあらかた毒味を済ませておいたらしいフロイラインの訂正に、学園都市第一位は思わず哀れなものを見る顔付きになった。
美味しくないよぉ……と瞳にうっすら涙を浮かべながら奇妙な形に膨脹した卵をかじる
己の怠惰の結果とはいえ――フロイラインの美味しいご飯に慣れきっていた彼女の舌には、あまりに手酷い拷問である。味覚と精神をいたぶる相乗的な自滅行為に、もはやなけなしのプライドはズタズタだった。
(うう、ミサカが料理できないの、早速あの人にバレちゃったし……。実習生が自分の教室でお昼食べるだなんて慣習すっかり忘れてたよ、ってミサカはミサカは意気消沈してみる……)
そういえば去年は
そんな彼女の弁当箱の蓋に、横からポンと置かれたのは――カツとチーズが挟み込まれた厚切りのサンドだった。
「……半分やる。オマエもこっちに半分寄越せ」
「ふぇ!? ちょ、いいよそんなことしなくて! ってミサカはミサカは……!」
「まだ二時間も授業残ってンだぞ。わざわざ自分から腹ァぶっ壊しに行きてェのか?」
ため息をつきながら
息をするように暴言を吐く青年の赤い瞳が細くなるのを見て、彼女はぐっと言葉に詰まる。そんな
「えー!? ずるーい御坂だけせんせーの貰ってる!」
「贔屓だ! 身内贔屓だっ!」
「せんせーウチらにも分けてよー! 交換しようよ!!」
「あのなァ……オマエらこの炭化しきったメシ食う覚悟があってそォいうこと言ってンのか?」
こちとら当面の胃腸の安否が掛かってンだぞ、と失礼すぎる文句をブツクサ漏らしながら、それでも彼はいつもどおりの憮然とした表情を崩さずに、見た目の悪いおかずを淡々食べ進めていた。
「ま、不味くないの……? ってミサカはミサカはちょっぴり心配してみるんだけど……」
「……誰だって最初はこンなモンだろ。形になってるだけまだマシなんじゃねェか」
「うっ……」
あえて味への言及を避けるあたりが、元来毒舌である彼らしくない気遣いに思えて、なんとも腹立たしい。
いや、腹が立つのはこの場合、自分自身に対してなのだが。
(はぁ……何してるんだろうなぁミサカ、ってミサカはミサカはため息をついてみる)
誰だって最初はこんなもの、と彼は言うが、そんなものは真っ赤な嘘だと分かっていた。
だって、目の前の彼は実際、最初から何だって完璧にこなせる人だったから。
『あの人は弱い人だからミサカが守ってあげなくっちゃ』――かつてそう意気込んでいた幼い少女は現在、そんな夢見がちなヒーロー願望に浸れるほど子供ではいられない、いわゆる思春期真っ盛りだ。
背が伸びて、見える世界がぐんと広がって、最終的に彼女が学んだのは――今まで、いかにヒーローに守られてばかりいたのかということ。
周りの人たちはみんな強くて優秀で、自分よりずっと大人だった。それだけだった。
そりゃあ、
つまりは、悔しいのだ。
優しくて脆くて、大好きだったあの少年が今や、孤独な怪物ではなくなりつつあるということが。
ちっぽけな
その事実そのものが、多感な年頃の彼女には悔しくて――寂しくて仕方ない。
「……私は、譲りません。この子の手料理はすべて私の血肉にします」
「気持ち悪りィことほざきながらこっち睨むンじゃねェぞクソ化物が」
長い髪の毛を猫っぽく逆立てて威嚇していたフロイラインが、やがて意識を切り替えるように、負けじとおかずを頬張りはじめる。
あんなに張り切られるとお腹を壊してしまわないか心配だが――すぐに杞憂だと気がつく。ピーマンだってグリーンピースだって警備ロボだって、隙あらば何でも捕食してしまう腹ペコ具合が彼女の凄まじいところである。
それでも、美味しくもないものをああやって勢いよく食べてくれるのは、
しゃく、と千切りにしたキャベツとハムカツの歯触りが、嫌味なほどに心地いい。
「うぐ……滅茶苦茶おいしい、ってミサカはミサカは……」
「当たり前だ」
誇るわけでもなくそう言い放つ青年の様子に軽くムッとした表情を作りつつ、騙し騙し自分の料理をついばむ。
(……あなたのことだから、どうせ、お礼なんか言われても嬉しくもなんともないって顔をするんだろうけど……)
――ありがとうって、言い損ねちゃったじゃない。
喧騒の中そんなことを考えながら、
……ちなみにこの時、『実は肉団子は傷んでいる』という事実を
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「……ま……まぁ、大体あれだ。誰にでも失敗はあるからその、フライパンで料理するときはもう少し火加減を意識した方がいいぞ。お弁当のおかずならしっかり冷まさないと傷みやすいから、大体夜の空き時間に作っておいて、朝まで冷蔵庫で保存しておくべきだし。あと調味料は落ち着いてゆっくりと足して……、な、何故泣くッ!?」
「……だ、だってあの人、み、ミシャカの代わりにぃ……えぐっ」
「にゃあにゃあ落ち着け! たかが食あたりの一つや二つで葬式みたいにハンカチを濡らすな! にゃあ!!」
夕焼けの赤が瞳に眩しい暮れの時刻。
腕章を腕に巻いた
帰りの会にて
「大体、お姉ちゃんもお姉ちゃんだし……。一体どこでそんな悪知恵を覚えた、にゃあにゃあ」
「悪知恵、ですか……?」
一方、ライバルの鮮やかなる撃沈に成功した策士フロイライン=クロイトゥーネは、相変わらずの無感動な瞳で首を傾げている。
フレメア=セイヴェルンは一人思う。大体、自覚が無いのがヤンデレの恐ろしきゆえんだ。もっとも、例の親御さんも端から見ればまた然り、自覚の無い厄介な保護欲と拘束癖の持ち主だと思われるが。
先の思いやられる怪物トライアングルに、蚊帳の外のフレメアはげっそりとため息をつく。
「……大体、もう知らないぞ私は。願わくは、今後フロイラインのお姉ちゃんにこの子供以上のヒーローが現れるのを祈るばかりだよ」
「願うと祈るじゃ表現が重複してる、ってミサカはミサカは言いたいことはよく分からないけど突っ込んでみる」
「そこ今気にする所か?」
真っ赤に染まった目元を気にしながらごにょごにょ呟く少女に、呆れたフレメアが低い声で問いかけたところで、
「はっ、はいもしもし! ってミサカはミサカは慌てて応じてみたり!」
弾かれるように背筋を伸ばして通話ボタンを押す
掛けてきたのは白井か
「……なゆちゃん! 元気してた!? ってミサカはミサカは満面の笑みを浮かべてみる!!」
『――うん、私は元気だよ。久しぶりだね御坂ちゃん』
張りのある凛としたソプラノの持ち主、その正体は――
第一七七支部とはまた別の学校に所属する、高校二年生の
『御坂ちゃん、今パトロール中だよね? 黒子お姉ちゃんから連絡が回ってきたから、そちらにも伝えようと思って。こっちの担当区域の第七学区北西エリアは特に問題無し。私も今そっちを手伝ってるから、御坂ちゃんには南西エリアを中心に見回りお願いするね』
「そうなの? 了解したよ、ってミサカはミサカは元気にお返事してみる!」
泣いたカラスがもう笑った、と
この街における『木原』という名の価値など、フレメア=セイヴェルンは知らないし興味もない。
だが――この木原那由他が掛け値なしに善良な少女であることだけは、知っていた。そうでなければ、この
「にゃあ。そういえば、大体そっちは那由他のお姉ちゃんに頼み事をしなきゃいけなかったんじゃないのか?」
「わっ忘れてた! ってミサカはミサカは……! なゆちゃんあのね、ミサカのお願い聞いてほしいんだけど……、ってミサカはミサカは恐る恐る切り出してみる」
『……? どうしたの? 大事な話なら後で直接聞きに行くけど……。ねぇ、大丈夫? なんとなくいつもより元気が無いような……』
「……………………………天使か、ってミサカはミサカは感涙をほろほろ流してみる……」
『ど、どういうこと!?』
那由他の良識的で平凡な気遣いの言葉が、日頃変人ばかり相手にしている
ごほんと咳払いしつつ慌てて体勢を立て直し、彼女は本題に戻ろうとする。
「ううん、全然大したことじゃないから大丈夫だよ、ってミサカはミサカは前置きしてみる。ミサカ明日非番なんだけどね、片付けなきゃいけない書類がまだけっこう残ってるらしくて……本来なら休日返上でやるべきなんだろうけど、 でもミサカ、どうしてもそろそろ買い出しに行っておきたいの! ってミサカはミサカは我が家の生活用品の困窮を強調してみたり! それで、良かったらなゆちゃんにピンチヒッターしてもらえないかなって思ってたんだけど……」
『えっと、明日? ……うん、分かった。私は大丈夫だよ。こっちの管轄は今そんなに忙しくないし。その代わり……私たちもそろそろ遠出して遊びたいねって
「もちろんだよ! ありがとうなゆちゃん! ってミサカはミサカは感謝の意を述べてみる!!」
『ふふっ、どういたしまして。それじゃあまた後でね』
突然の申し出に気持ちよく応じてくれた先輩の声に、
ここのところ買い物する暇がなかったので、明日休暇をもらえるのは本当にありがたかった。
それというのも、先週のゴールデンウィークでさえ、半人前の
ティッシュや家庭菜園の肥料のストックがそろそろ危うくなってきていることに気付いたのは、つい数日前のこと。同居人のフロイラインに買いに行ってもらうというのも一つの手ではあるのだが――彼女には目を離すとすぐ興味本意で要らない物を買って来てしまう悪癖があるため、まだ単独でのおつかいを任せるには少々不安があった。
「本当に良かった、ってミサカはミサカはそっと胸を撫で下ろしてみる。これでようやくミサカ専用のエプロンが買えるぞ、ってミサカはミサカはこれからのお料理上達に前向きな考えを示してみたり!」
「にゃあ、大体その意気だし! いつまでも落ち込んでるのは似合わないからな! ……ところで、今日のパトロールっていつものとは何か違ったりするのか? なんか街じゅうで一斉にやってるみたいだけど」
通話の切れたケータイを眺めながらいつも通りの勝ち気な笑みを浮かべる
ドラム缶型の清掃ロボがあちこちうろついているのはいつものことだが、それなりにアングラな案件に触れる機会の多い彼女はそれ以外にも、
訊ねられた
「……昨日、すごい暴風雨だっただろ? アレって実は学園都市を中心に起こった『異様に局地的な大嵐』だったんだって、ってミサカはミサカは白井先輩からの受け売りをそのまま口に出してみる」
「異様に……ってことは、大体何か人為的な原因が疑われてるってワケか?」
「そこまではまだ分かってないけど……少なからず怪我人も出てるし、風力発電のプロペラにもいくつか被害があったみたいだから、もし人為的なものだとしたら放っておくわけにもいかないんだよね、ってミサカはミサカはひそひそ声で明かしてみる」
能力者のイタズラか、はたまたどこかの研究所が無許可で進めた災害実験か。
軽微といえど被害がある以上は、いずれにせよ原因を突き止め、これ以上の騒動になる前に『穏便に』食い止めなければならないわけだ。
「……けれど、その仕事はどちらかといえば
澄んだ声音でそう問い掛けたのは、どこからか拾ってきたカマキリと指先で戯れているフロイラインだ。
「
「このコンクリートジャングルでお姉ちゃんが毎度どうやって小動物を見付けてくるのかもミサカ疑問なんだけど……。もちろん、具体的な調査は
「うげっ」
後片付け。
その言葉を聞いて、制服姿のフレメアはとっさの嫌そうなリアクションを隠そうともしなかった。
「にゃあ……うかつに手伝うなんて言うべきじゃなかったな。どうせ路地裏でドロドロになった
「……ミサカだって制服だし大丈夫だよ、ってミサカはミサカはお子様の正直すぎる反応に白けてみたり。瓦礫なんてほとんどに鉄分が混ざってるんだから、ミサカの能力で簡単に持ち上げられるし、それに――」
と、彼女の言葉を遮ったのは、三人の背後からぬっと現れて傍らに停車した、一台のトラック。
見るからに業者のものだと分かるゴツい外観の大型車の窓を開け、顔を出してきた運転手は、
「よう、久しぶり。今日の『仕事』はお前らと一緒にやるみてえだな」
「――にゃあ!?
……およそ、フレメアがジャージ姿なんかでは絶対に会いたがらないであろう人物だった。
路上に車を停めて降りてきた作業着姿の浜面
「全く参るぜ、妙な嵐のせいで街が散らかり放題になっちまってる。瓦礫が邪魔になって路地裏に警備ロボが立ち入れない状態なんだろ? だから代わりに人の目で監視してるって話らしいけど、お前ら
「まさに風が吹けば桶屋が儲かるってことかな、ってミサカはミサカは……ハッ!? まさか浜面のお兄ちゃんが仕事欲しさにわざと風を吹かせたわけじゃないよね、ってミサカはミサカはぶるぶる戦慄してみたり……!」
「おいコラ
フレメアいわくの『はまづら団』の際どい人脈を考えるとあながち不可能でもなさそうなのが恐ろしいところだが、カタギの高校生活に馴染むべく奮闘中の窒素コンビあたりに頼み込んで無理矢理暴風を巻き起こした――なんてことは流石に無いだろう。
かつて
ステファニー=ゴージャスパレスからの指導を受けた『バイト』などのコネを利用して多種多様の車両を仕入れ、ロードサービスからスパコンの輸送、果てには災害救助まで、『誰かを傷付ける』内容で無い限りはどんな仕事も引き受けるというフットワークの軽さを売りにしている。多少後ろ暗い仕事も無いわけではないが、ひとまず
青を基調色としたジャンパーに袖を通しながら、久々に大好きな保護者の顔を見られたフレメアはテンション高めでこんなことを訊ねる。
「にゃあにゃあ! 浜面、大体
「元気元気。そろそろ理后の体調も元通りになってきてるからさ、お前らも今度ウチに遊びに来いよ」
見やがれ我が家の天使を! と誇らしげに差し出されたケータイの画面には、部屋着姿の
「ふあああ……し、しありちゃん可愛い……! ってミサカはミサカは身悶えてみたり……!」
「さながら、ラファエロの聖母子像のようですね」
「にゃ、にゃあ! ぜぜぜ絶対行く! 絶対に私もしありを抱っこしに行くからな! 理后に首を洗って待ってろと伝えておくように!! 大体今まで沈利たちばっかりお世話しまくっててズルいと思ってたんだ! にゃあにゃあ!!」
目を輝かせる
やだもー可愛いこの写メ転送してよー、とかしましさ全開で浜面に迫る女子中学生たちだったが、再び鳴り出した
『――御坂! 業者の方とはいい加減に合流できましたの!? 先ほどから全くそこを動いていないのは分かっていますのよ! 木原から連絡が回ってきたのならさっさと仕事しやがれですの!!』
「ご、ごごごごごめんなさい白井先輩っ!! ってミサカはミサカは大慌てでジャンパーを羽織ってみたり!!」
那由他とは対照的に怖すぎる先輩の喝に気圧され、彼女たちは早足で路地裏へと足を進めていく。
3
「んっ、よいしょ、っと。よくもまぁ大体こんなところにまで瓦礫が入り込むもんだな」
「……D区画の北側標識に亀裂あり。リストに記録します」
ドラム缶が入り込みにくい植え込みに軍手をはめた手を突っ込み、
一方でフロイラインは、タブレット端末を小脇に抱えて周辺をきょろきょろと見渡していた。もちろん、彼女もただ悠長に遊んでいるわけではない。破損している公共施設や看板をリストアップして、後々別業者に修繕依頼するためのチェックをしているのだ。
適当に引っ張り出した大きな瓦礫を靴で踏み砕いたのち、金髪の少女は背後に控えるドラム缶の足元にポイポイとそれらを投げ込んでいく。
「にあー、まさか学園都市製の清掃ロボがあの程度の大雨でセンサーの調子を悪くするとはなぁ。まぁ大体、普通の天候ならこんな大物のゴミに出くわすことも無いだろうし、仕方ないっちゃ仕方ないのかな。ねーお姉ちゃん」
「フレメア、そのように無防備にしゃがむとスカートの裾が」
「ん? ……ってぎにゃああああ!? このポンコツ、ゴミと一緒に私のスカート食ってる!! やっやめろ離せ大体どういう馬鹿げたバグ起こしたらそんなことになるんだ!? 女子中学生のパンツでも回収する変態業者の回し者かっ! こらモーターフル稼動させて引っ張るな! そんなにぶっ壊されたいのかクソ機械め! にゃああああああああああやめろアホーっ!!」
ドラム缶の足元に無造作に
センサーの調子が悪いらしい清掃ロボは清掃ロボで、どうあがいても目の前の『ゴミ』を吸い込まなければ気が済まないらしい。ギュウウウウウウウウウウン!! とアホらしいほどにパワフルな駆動音と共に、いたいけな少女のスカートを剥ぎ取ろうと荒ぶっている。
そんなわけで、地べたに座り込みつつスカートの前を両手で必死に押さえることしか出来ない不憫なフレメア(パンツ全開)だったのだが、ちょっと赤くなりつつズカズカ駆け寄ってきた
「……こら止まれ、ストップ、ってミサカはミサカは暴走ロボットにチョップを喰らわせてみる」
パチン! と軽い火花が散る音と共に、ハッスルしていた清掃ロボは酔いから醒めたかのようにピタリと停止する。
眉根を寄せてため息をつく
「にゃ、にゃあああ……悔しいけど大体ものすごく救われたぞ……」
「別にいいよ……それより、お子様のお尻のドアップとかいうとんでもない画像がコイツのメモリに保存されてるだろうから削除しておくね、ってミサカはミサカはドラム缶をふん捕まえつつ確認を取ってみる」
「ぶふッッ!?」
全くこのトラブルメイカーは、とでも言いたげな親友の目線と言葉に、瞳を潤ませるフレメアは再び赤面してバッとスカートを押さえた。
「……だ、大体誰も見てないよな……? 今のところ人気は無いし……って……、ああっそうだ浜面っ! その距離からじゃ大体見てないよね見えないよね見てないって言え! にゃあ!!」
「んあ!? な、何だいきなり!? 何があったんだよ別に俺は何にも見てねぇ――」
「……浜面仕上、お好きな色は?」
「やっぱピンクかなーってぎゃああああああああああああああああああ!? やめろフロイライン頭から窓ガラスにダイブしてくんな!! 何の鎌掛けたんだよ俺は単に理后のジャージの色言っただけだよ!! いだだだだ馬鹿フレメア髪の毛引っ張んじゃねえ! ちくしょう何なんだよ理不尽すぎだろテメェらあああああああああああああああああああああああああああ!!」
少し離れた場所に停めたトラックの中で待機していた浜面は、直後、弾丸ばりの速度で迫り来る少女二名にボコボコにされる。
……名誉のために言及しておくが、家族のために働く男・浜面仕上は本気で何もやましいものなど見ていない。
実を言うと、フレメアの絶叫によって先程何が起こっていたのかについてはなんとなく察しがついている訳だが、そこに不用意に突っ込むとどこぞの大将よろしく特に理由の無い暴力に襲われることは必至であるため知らぬ存ぜぬを貫こうとしていたのだ。
しかし結局のところ今こうして商売道具のトラックごと愉快なオブジェに変えられかねない女子力(物理)に晒されているため、浜面仕上の女難もやはり上条当麻に負けず深刻だったりする。
どうかこの騒動が尾ヒレ付きで奥さんの耳に届きませんように――小市民なヤンパパの願いは、現実逃避による失神の彼方に消えていった。
「……はぁ、ってミサカはミサカは相変わらずの光景にちょっぴり哀れんでみる。さっさと終わらせて次のエリアに行かなくちゃ、ってミサカはミサカは一人決心を固めてみたり」
両腕で抱き着いて動きを封じていたドラム缶のメモリをすっかり改竄しきってから、魚でも放流するかのようにパッと解放する
そそくさと逃げていく清掃ロボット(ついでにセンサーの不具合箇所も能力で修正済み)を適当に見送りつつ、彼女はポケットからシャーペンほどの長さの棒を取り出す。
それは伸縮式の
学校とかで使われていそうな、先端や持ち手にゴムが巻かれているような安全仕様ではなく、金属製の味気ない外観のものである。
もちろん、
話が逸れたが――つまり彼女の
こいつは、オリジナルの御坂
「ふむふむ、あらかたの瓦礫はもう集められたよね、ってミサカはミサカは満足げに頷いてみる」
足元にどっさりと盛られた鉄パイプやらプロペラの羽根を眺めてにんまりと笑う
カシュン! という軽い音と共に。
柄の中に収納されていた六〇センチほどの細長い針が、即座に展開された。その長さは、持ち手を下に垂らすと地面にぶつかる程度である。
彼女は腕の調子を確かめるような動作でその
たったそれだけの、小さな動き。
だがその一瞬で、金属製の柄を伝いパチリと光った電気が、鉄分を含む瓦礫の山に伝導していく。
「せー、の……っ!」
あたかも腕に力を込めているような掛け声は、単に演算に集中するための無意識のものか。
とにかく――彼女が振り上げた
腕力でも根性論でもない、この街の限られた子供にだけ許された特別な才能、すなわち超能力によって。ズシリと重たい瓦礫クズは磁力でいくつも連結して、まるで蛇か鞭のようにうねり、空中を躍った。
近距離から放たれる『電撃の槍』以外の技は、対象物に直接触れないと全く威力が無い。例えば彼女は、磁力のみで極端に重いものを持ち上げることはできない。触れずに持ち上げられるのはせいぜい、自分の体重より軽い物ぐらいだ。
そのため彼女は特注の
この作戦によって、
(……まぁ、演算速度っていう点での威力不足なら『底上げ』する方法も無いわけじゃないんだけど。あんまりそれに頼ってばかりなのはミサカ気乗りしないんだよな、ってミサカはミサカは一人頷いてみる)
鉄の雲を思わせる巨大な塊を空中に浮かべつつ、彼女は唇を尖らせる。
この
能力の自由度の高さや強大さゆえに『基準点』を定める必要がある
鼻歌混じりで能力を運用していた
「あっしまった! お子様とお姉ちゃん早くそこ退いてー! ってミサカはミサカは大声で警告してみたり!」
「にゃあ! 多分浜面は頭叩きまくれば忘れる……ん? って子供お前大体そういうのはもっと早く――ぎゃあああああああああああ!?」
トラックの荷台へ一直線に飛んで来る鉄塊の山に、運転席にいる浜面の頭皮を苛めていたフレメアの表情が一気に引きつる。
ドガガガガガッ!! と。
重く硬い音を立てて荷台へ落ちてきた衝撃で、トラックのドアにしがみついていた少女たちはあっけなく吹っ飛ばされた。
「にぎゃあっ!!」
「わ、っ」
二人仲良く団子になって、地面にべしゃりと落ちたフレメアとフロイライン。
何が起きたのか分からずボーッとしているフロイラインの肩を抱きながら、フレメアは腰に手を当てつつ眉をしかめた。
「あ、あいだだだだだだー……。大体、今日はお尻が呪われてたりするのか? にゃあ……」
「っつーかこれ俺の! 俺の車!
衝撃にしばらくの間がっくんがっくんと揺さぶられていた浜面仕上が切実に抗議するが、残念ながらこちらはあまり聞いてもらえていない。
どうせ元々丁寧な乗り方してないんだからいいじゃんかーってミサカはミサカは、と運転手に適当に言い返しながら、それでもちょっぴりバツが悪そうに、地べたに転がる友人たちに歩み寄る
ズキズキ痛む臀部を庇いながらそれを見上げていたフレメアは、やがて大量の塩でも口に含んだような表情でこう言い捨てた。
「バケモノめ」
「……誉め言葉として受け取っておこう、ってミサカはミサカはお子様とお姉ちゃんの手を掴んで引っ張りあげてみる」
仲がいいんだか悪いんだか、と諦めの吐息混じりに苦笑する浜面だったが、ふと一人だけどこか遠くを見ていた少女の様子に気が付いた。
「おい、どうしたフロイライン?」
「……今、誰かの視線を感じたような……」
「にゃあ!? ま、まさか大体さっきの盗撮とかされてないだろうな!?」
「いい加減にお子様は落ち着け! ってミサカはミサカは無慈悲なツッコミを繰り出してみる!」
再三騒ぎ出すフレメアを黙らせるべく繰り出された
「……気のせい、だったんでしょうか……?」
4
――暗い、暗い研究所の地下には、冷えきった色彩の無機物が乱雑に並んでいた。
リノリウムの床には染み出した冷却水がマーブルを描き、足元から寒気を蒸散させる。その光景そのものが、潔癖なまでに清潔なはずのこの場所を、何か湿っぽいもので汚れた灰色の雰囲気に染め上げようとしていた。
沼に沈む獣の群れのように、がぱりと揃って大口を開けているのは、人間ひとりを丁度飲み込むサイズの装置。
その一つ一つの中では例外なく、手術着姿の少年少女たちの影が、気味の悪い蛍光色の人工羊水に浮かんでいる。その色彩の群れは、さながら悪趣味な美術館のオブジェだ。
『――検体ナンバー二八、インストールを開始します』
『おい、暴れさせるな。弛緩剤の投与を急げ』
『すぐに
カツン、カツン、といくつもの靴底が床を打つ。
研究者たちに囲まれた一台の装置には、今まさに、新たな『実験台』の少女が押し込まれようとしていた。
これは――
ヒーローの勝利に伴い、腐りきった学園都市の上層部がまとめて制裁を喰らった――その過程で中止撤回された、つまらない悲劇の一端だった。
『……や、だ……』
小さく、泣きじゃくる声。
機械仕掛けの胎内に全身を取り込まれ、今まさに容器を満たすべく水位を上げる液体に、呼吸を侵されようとしているちっぽけな子供の悲鳴。
麻酔で薄れ行く曖昧な意識の中、それでもその子供は、明確に怯えていた。
『やだよ、わたし、こんなのやだ……怖い……っ』
『――少しの辛抱だ。ほんの少し眠ってさえいれば、キミのチカラはもっと強いものに変わる。憧れの
応える声は、容器の外側から聴こえてきた。
黒い髪に、白衣を着込んだ小柄な体格。白衣、というだけならこの街においては珍しい服装でもない。現にこの部屋では、幾人もの大人たちが揃って白ずくめの格好で作業に没頭している。
ただ、そういった科学者たちと比較して、その人物はあまりにも幼すぎた。
カプセル型の機械の外で佇み、ごぼごぼと沈みはじめた小さな少女を見つめるその瞳は、どこまでも平静だった。
恐怖に喘ぎ、苦しむ子供を目の当たりにしておきながら。それでも、白衣を羽織った華奢な背中は揺らがない。この『実験』が数多の悲劇を産むことを分かっていながら――自分の果たすべき役目もまた、痛いほどに
『大丈夫、ここにいるから。安心して目を閉じるんだ』
『……、だ、って』
諭すように語り掛けられて、それでも少女は首を縦には振らなかった。
打ち込まれた薬品の作用で強烈な眠気を誘発されながら。
彼女は、全幅の信頼を預けることを疑いもしなかった存在であるその人に、細い声を枯らす。
『わたし、強くなんか、なりたくない。そんな、の、いやだ……助けて、おねがい……!』
『……』
水中をもがいた細い五指は強化ガラスを力無く撫でるが、それを見守る研究者たちはそんなことには関心を示さなかった。皆、悲劇には慣れきっている。モルモットの鳴き声にいちいち神経を割いていられるほど、彼らは甘ったれた素人ではない。
『――……たすけて、……』
その嗚咽は、誰にも届かない。
いずれ、どこかのヒーローによってこの街の悲劇が取り払われる時が訪れるとして。それはたった今『闇』に呑まれようとするこの少女を救うには、あまりにも遅すぎる。
それでもただ一人――白衣の学生だけはいつまでも、ガラス越しの少女から目を離さなかった。
『……さあ、次の実験の準備だ。スケジュールに従って指定の実験場に向かえ』
『……』
氷のような表情で
実験台の意識はとっくに途絶えていた。とある革命的なデータを脳に上書きして、新たな
それを分かっていながら、ここに留まっているその行為は、研究者たちからしてみれば無駄以外の何者でもない。
『いつまでもそこで何をしている。そこにいる子供に、今さら情でも沸いたというのか?』
『……』
『警告しておくが、たかが検体にいちいち思い入れを持つのは感心しないぞ。ヒトの脳に宿る「
『……分かっているさ』
『どうだかな』
嘲笑。
返事など最初から期待していないとでも言いたげな横暴さで、中年の研究員は稼働している機械を横目に追い抜いた。
ひどく、ひどく、冷えきった言葉だけを残して。
『忘れるなよ。「素体」たる君も本来彼女らと何も変わらない、
5
時は現代に戻り、ヒーロー達の最終決戦を乗り越えて数年後の、平和な学園都市の夕暮れである。
「……うぐぐ、ってミサカはミサカは釈然としなかったり……」
第七学区のとあるコンサートホール前の広場にて、
あの奇妙な嵐が明けてすぐの放課後ということもあり、そこそこ目立つ立地にあるこの広場では、日が暮れ始めている時刻にも関わらず遊び回る小学生たちがちらほらと見受けられた。
クラスで集まって合唱の自主練習をしているらしき幼い子供たち。一体どこで貰ったのか、大量の風船を持ってはしゃぎ回る少年少女。各自の行動はまちまちだが、いずれにせよ学生達の秩序を守る
そこまではいい。
口酸っぱくお説教して子供たちの恨まれ役を買って出るのは
しかし、だ。
「……いい加減にミサカの
「まだだ! まだ終わらんよ!! にゃあにゃあ、左舷声小さいよ何やってんの! そんな歌声で合唱コンクールの金賞が獲れると思ってんなら、まずは大体その幻想をぶち殺す!! にゃあ!!」
愛用している金属製の
きっかけは、
『――ねぇ、そこの
いつの時代も合唱というものは、しっかり者の女の子が『ちょっと男子ー!』と声を荒げるのがお決まりであるようだ。
そういうわけで、委員長タイプの女子たちに涙ながらに訴えかけられ、困り果てたパトロール中の
その結果がこれである。リズム感に自信があるというフレメアが有無を言わさず
ちなみにフロイライン=クロイトゥーネはというと、ソプラノの左側でただ一人突っ立っている――わけではなく、ピアニスト役を務めている。お得意の声帯模写――もはや彼女のそれは物真似の域には収まらない気もするが、とにかくこの短時間のうちにまた余計な『羽化』を遂げてしまったフロイラインは、自身の喉を震わせて完璧なピアノの音色を再現させていた。ご丁寧にも、十本の指は空中を蠢き、正確に鍵盤を叩く真似をしている。つくづく反則的な同居人を持ったものだ。
「にゃあ! お姉ちゃん、Cパートを二小節前からもう一回弾いて! 私は大体こいつらが立派に歌えるようになるまで、諦める訳にはいかないんだ!」
「はい。任せてください」
「フ、フレメアお姉ちゃん! フロイラインさん! 私たち、二人のためにも頑張ります!」
「おいお前らもっと声出そうぜ! こうなったら絶対に金賞獲るぞ!!」
「「おーっ!!」」
(……そりゃあ、あらかた後片付けは終わって、浜面のお兄ちゃんに引き取ってもらったから別にいいんだけどさぁ、ってミサカはミサカは文化祭前日の教室みたいなテンションのお子様たちから目を逸らしてみる)
今日は学校帰りの軽装のままなので、予備の
さて、
「……がたつき無し、破損の有無の確認もオッケー! えーと、軋みが出てきてるから近いうちに油を差してもらった方がいいかもしれないね、ってミサカはミサカは一人で頷いてみる」
端末を片手で操作しながら、彼女は公園に設置されたブランコの点検箇所を順番に指差し確認していく。
嵐の影響で、こういった遊具に少しでも不具合があった場合、幼い子供たちに甚大な危険が及ぶ。そのために、彼女は今までそれらで遊んでいた子供たちに一旦どいてもらい、点検しているのだ。
実際に修理するのは
こう見えて
そんな働き者(またの名をお節介焼き)の背中を不思議そうに見つめていた幼い少年少女たちが、柵に浅く腰掛けながら間延びした声を投げかけてくる。
「ねーねー
「おねーちゃん、もうブランコで遊んでいいのー?」
「はいはーい、あとはここのねじれを直すだけだからもうちょっと待っててね、ってミサカはミサカは磁力で鎖を持ち上げつつ……どこのどいつだ公共物を台無しにしやがって、って愚痴を漏らしてみたり」
地面に足が着かないスリリングを味わいたかった悪ガキの仕業か、明らかに一度ぐるぐる巻きにされたであろう痕跡を残すチェーンのねじれ。それを能力でガシャガシャと強引に直しつつ、彼女は柔らかそうな頬を思いっきり膨らませる。
(……
「――わー見て見てお兄ちゃん! あのおねーちゃん前髪がビリビリしてるよ!」
「うわっアレひょっとして『ときわだいのレールガン』じゃねえか!? 怪物でんせつサイトに載ってたヤツ!!」
「ミサカは
公園の入り口を通り掛かった見知らぬ幼い兄妹からの声に、
というか怪物でんせつサイトって何事だ学校裏サイトの親戚みたいなモンか、とキナ臭い新出ワードに内心うんざりする
「……む? それはそうとキミ達どこで手に入れたんだその大量の風船、ってミサカはミサカは眉をひそめつつ歩み寄ってみる」
「あ、あうあ……お、お兄ちゃん、このおねーちゃんこわいよう……!」
「な、泣くなよ馬鹿! レールガンだろうがダークマターだろうが、お兄ちゃんが絶対にぶっ倒してやるって!!」
「……えーと、ってミサカはミサカは……」
……とりあえず、何やら知り合いの
帰ったら早急に、初春のお姉ちゃんにでも調べてもらうとしよう。子供たちの間で身内がこういう扱いだと知るのは、なんというかちょっとキツいのだ。
チビッ子たちに本格的に怯えられていることをようやく自覚した少女は、少々赤面しつつごほんと咳払いで誤魔化した。地面にしゃがんで子供たちに目線を合わせてから、平時よりも丁寧な言葉遣いで語りかける。
「……あー、いきなり大声出してごめんね、別に取って食ったりしないよ、ってミサカはミサカは笑顔で諭してみる。ええと、妹さんがいっぱい風船持ってるみたいだけど、これはあなたたちの私物だったりするのかな? ってミサカはミサカは仕切り直してみたり」
「えっ、えっと……これね、貰ったの」
「貰った……?」
涙目でぷるぷる震えながらも
「ハヤミってヤツが……」
「はやみ? ってミサカはミサカは首をひねってみる」
「放課後、たまにここら辺の公園にいて風船とかミニカーとかくれるんだよ。『実験』が何とかって言ってたけど」
「……ふむ……どこぞの研究所がそんなキャンペーンを開催するなんて話は伝わってないけどなぁ、ってミサカはミサカは腕組みして考え込んでみたり」
話を聞くに、開発中の子供用玩具の試供か何かだろうか。自販機に並ぶ学園都市名物のゲテモノジュースなんかと理屈は同じである。『実験都市』の異名は伊達ではないということだ。
しかし、学園都市とてそういう実験は、当然ながら一企業や個人が独断で実施できるものではない。無許可の営利行為かもしれないというのもさることながら、
ここらの少年少女たちはそのハヤミとかいうのを信用しているようだが――テロリストか変質者か、そういった危険人物である可能性さえ存在する。
「ねぇ、そのハヤミってのは――」
どういう人なの? と訊ねようとした
細い腕にくくりつけた数本の紐の先に、あらゆる形の風船がふわふわと浮かんでいる。ヘリウムでも詰めているのか、大振りなその外観からは彼女の小さな身体さえ持ち上げてしまいそうな印象を受けるが――
ぷっくりとした楕円のフォルムの上に、長い耳がふたつ。
真っ白なその風船に描かれたのは、むっつりと閉じられた小さな口――そして、ギロリと光る鋭い赤目だった。
他でもない
「とりあえずそのハヤミとやらに会わせてもらおう、ってミサカはミサカは真剣に要請してみたり」
「いや、あの、おねーちゃん?」
再び危ういオーラを発生させながらゆらりと立ち上がる
……いや別に彼女は、証拠品として押収するどさくさに紛れてうさぎ型の風船をいくつか着服できないかなーなどと魔が差すような悪党ではない。断じて。ないったらない。
そんなこんなで二分後。
ビビり気味の兄妹に連れられた
子供たちと駄弁っていた渦中の研究員(?)ハヤミはそんな彼女の目の前で、ぼんやりとベンチに腰掛けたまま指先で風船を弄くっている。
「……あなたが、変な試供をやってるとかいう研究者? ってミサカはミサカは訊ねてみる」
「ん?」
さらりと黒い前髪を揺らして、ソイツは気だるそうに顔を上げる。
意外というかなんというか、そのハヤミとやらは女性だった。付け加えると、ワイシャツと黒いスラックスの上から男物のくたびれた白衣を羽織っただけの、見るからにまだ歳若い女子高生であった。小学生が医者のコスプレをしたって、まだ幾らかクオリティを上げられそうなものだ。それくらいには実用的な白衣が似合わない、可憐な顔立ちを分厚い眼鏡のレンズで隠した少女である。
「……」
「……」
しばしの沈黙。
右肩の腕章を強調する指先に、無意識ながらも力が入る。
やっぱりちゃんと
そして一言。
「……、第三位の
「違う意味でキサマをひっ捕えたくなったなー!? ってミサカはミサカは肩を怒らせてみる!!」
逆立った髪の毛からバチバチと紫電を迸らせて激昂する
その様子に、白衣の学生の周辺をうろちょろしていた子供たちがキャーとか何とか言いながら蜘蛛の子散らしで逃げていく。
落ち着け落ち着け、とお祭り騒ぎの少年たちの首根っこを掴んだ研究員ハヤミ(仮)は、飄々とした態度で再び
「まったく、そうムキになるなよ
「あなたが変質者ライクにニヤニヤしながら子供はべらせてるのが悪い! それに元々
「人聞きの悪いことを。別にこれはどこぞのお偉い機関の息が掛かった御大層な研究とかじゃないんだぜ? 開発大好き匂風速水さんの愛がこもったオモチャを純真無垢な幼児たちに試してもらってるだけ。まぁ要するに僕の趣味だ」
「余計にヘンタイ指数が増したよね今!? ってミサカはミサカはわなわな震えてみる!!」
んあー? とか言いながら小指で耳をほじくる少女改め匂風速水に、正義の
一人称もさることながらすっかり女らしさを感じさせない残念少女は、怪しさ全開ではあるものの、当初想定していたようなマッドなサイエンティストでもロリータがコンプレックスなオジサンでもないようだった。それはいいのだが、この飄々さは違う方面で危険人物の香りを漂わせている気がする。ラスボス特有の薄気味悪い余裕というアレだ。
(おちゃらけた態度のヤツほど強キャラの法則……! ってミサカはミサカは持ち前のゲーム脳を発揮させて……ってまぁ、我らが学園都市最強はヘラヘラどころかムッツリなんだけど)
ともあれ、彼女が『趣味』で子供たちに配り歩いているという玩具が本当にマトモなものなのか、それを見極めないことにはどうしようもない。
「……なんでもいいけど、本当に怪しいモンじゃないっていうならミサカがこの場で確かめます、ってミサカはミサカはその風船をこっちに渡せと要請してみる」
「構わないよ。別にやましいことなんか何も無いしな――今のところ」
「テキトーに罪状付けて今すぐ
「面白い冗談だ。だが、女の子として産まれたんならもう少し言葉遣いを正した方がいい。率直に言ってモテないぞ」
「あなたには言われたくないっ!」
頭の上に浮かぶ白うさぎちゃんの風船に若干絆されて表情を緩めながら、新米
「何のガスを入れたの? ってミサカはミサカは問いかけてみる」
「ただの空気だよ。ただし、こいつのキモはむしろ、一緒に注入した薬品の方に仕込んである」
「?」
「AIM拡散力場を測定する専用機材なんかで使用される化合物を、微量に調合した水だ。もちろん人体には無害だけど。能力を感知すればたちまち揮発して、特殊ゴム製の風船内部の気圧が変化する。その能力の質量やパターンに応じて風船全体が浮かんだり揺れたり、膨らんだりする仕組みになっている」
「……それってものすごく無駄に画期的なんじゃ、ってミサカはミサカはあまりのコスト度外視っぷりに呆れ返ってみたり」
「そんなこともない。まだまだ開発段階でいまいち不確かな反応しか示さないし、それに元々僕一人の自由研究だからな。その辺でテキトーに配り歩くのが精々ってレベルだよ。でもまぁ、子供の遊び道具には丁度いいんじゃないかね」
つまらなそうに講釈を垂れる匂風だったが、話を聞くに、少なくともその辺の学生が簡単に作れるような代物ではないはずだ。
まじまじと観察しても、やはりただの水風船にしか見えない。そんな白うさぎちゃんたちがくっついた紐を弄びつつ、
「じゃあ、当然このミサカの能力にも反応するんだよね? ってミサカはミサカは電磁波でスキャニングを開始してみる」
「あ、おい待て
パリッ、と指先に静電気を発生させて風船にチカラを注ぎ込むのは、匂風の制止よりもほんのわずかに早かった。
パパパパパパンッッ!! と。
みるみるうちに白うさぎちゃんがグロテスクに膨らんだ一秒後、耳をつんざく破裂音が広場一帯にこだまする。
それと共に、
「みゃあああああああああああああああっ!? ってミサカはミサカは――っ!!」
「きゃっ」
「にょわッ!?」
びちゃびちゃべしゃー!! と冗談みたいな勢いで降りかかった液体をモロに浴び、全力でビビった
そして、少なからず自身もまた手製の薬品を被ってしまった匂風速水は、濡れた前髪を鬱陶しそうにかき上げながらベンチから重たい腰を上げた。どこからともなくホースを引っ張り出して歩み寄る先は、広場に設置されている小さな水飲み場だ。
「……ほら、開発中と言っただろ?
「……ちょ、ちょっと待ってそのホースはまさかおいこら待て、ってミサカはミサ」
「というわけでホレ喰らえ」
「ぶふうっ!?」
勢いづけて捻られた蛇口から噴き出す水道水を、あろうことかホースで直接顔面に叩きつけられる。
匂風はその後も立て続けに、ホースを子供たちに向けて容赦なしで多量の水を浴びせていく。無邪気な少年少女らは水遊びとでも思っているのか、キャッキャと悲鳴を上げつつ楽しそうにはしゃいでいるが、借り物の作業着もろとも制服をずぶ濡れにされた
「なななっ……何をするんだー!! ってミサカはミサカは全力で声を荒げてみる!!」
「……無毒とはいえ、今キミ達が被ったのは開発中の薬品だからな。肌荒れぐらいするだろうし、服に付着すれば結晶化して取れにくくなるぞ。ならその前に、ためらいなく洗い流してやるのが開発者としての責務だ。そうだろう?」
しれっと回答する発明家少女を前に、びしょ濡れの
だが、そんな彼女のパニックはまだまだこんなことでは終わらなかった。
「……〰〰っ!?」
バッシャー!! と、自らも真顔で冷水のシャワーを浴びだした匂風を前にして、青ざめていた
「……さすがに冷えるな。しかしお手製の特殊ゴムをこんな簡単に割られてしまうとは、困ったもんだ。次はもっと揮発性を抑えるか、それとも風船本体の方を強化するか……」
「――……し、っ、した」
「?」
しゃがみこんだままこちらを凝視してぱくぱくと口を開閉する
真っ赤っかの顔の
「――下着ッ! ブラジャーぐらい付けろ!! ってミサカはミサカは全力で叱りつけてみる!!」
「……、ブラジャー?」
そう。
どこからどう見ても完璧なノーブラが、透視もしてないのにあけっぴろげのすけすけみるみる状態なのであった。
ぎゃあああ!? とにわかに赤面して騒ぎ始めたのは当の本人ではなく周囲の幼い少年たち(目を隠そうとする女の子にもみくちゃにされている)で、匂風はそれをうるさそうに一瞥してから、至極真面目な様子で、シャツ越しにばっちり透ける自らの肌色を見下ろしていた。
そしてまた一言。
「……いや、僕には必要ないだろ。セクハラのつもりか?」
「そーいう台詞はバストサイズをもう一回確認してから吐けやコラァ!! さてはケンカ売ってるな!? ってミサカはミサカは――っ」
ドカーンと頭に血が上った新米
彼女の視界が不意に、グラリと傾ぎ出した。
「……ふにゃあぁ、ってミシャ、ミシャカは……?」
「「わああああああああああああああお姉ちゃーん!?」」
足元のチビたちの絶叫を遠くに聴きながら、働きづめのせいかとうとう臨界点を越えてしまったらしい
張り詰めた意識が、情けなくもぶちぶちに千切れ霧散していく。
かくして、眩暈に倒れかけた彼女の肩を軽々と抱き止めた濡れ鼠の匂風速水がポツリと冷淡に漏らした一言は、
「……『
(――ふ……不穏だー、ってミサカはミサカは……こっそり愚痴ってみた、り……)
ツッコミにも疲れ果て、億劫な思考を停止させた
「……うう、なんだかとんでもなく下劣かつ腹の立つ夢を見たような、ってミサカはミサカは……」
「ん? あぁ、ようやく起きたか待ちくたびれたぞ」
「現実だったよちくしょう」
意識を取り戻した
すっかり夕闇が侵食しきった空と、自らを見下ろす少女の眼鏡をかけた顔を視界に収めて、げんなりとため息をついた。
何に使ったやら、スポーツ用の酸素吸引器を手の中でくるくる回して、半笑いの匂風は嘯く。
「疲れと軽い貧血だろう。昨日今日で気圧変化も激しいしな、おまけに、あれだけ激しく大声を上げたんだから無理もない」
「……本当に、あの薬の作用じゃないんだよね? ってミサカはミサカはジト目で見上げてみる」
「気になるなら調べろよ。サンプルぐらい幾らでも持っていっていい」
瓶に入った無色透明の液体を見せびらかされたが、さすがの
元々
ふんわりとした太ももの感触に気恥ずかしさを感じながらも、彼女には気になることがあった。
「あの子たちは……? ってミサカはミサカは訊ねてみる」
「帰らせた。最終下校時刻に口うるさそうな
「忘れてるようだけど、あなたも学生でミサカが叱りつける対象だからね、ってミサカはミサカは言及してみる。寮の人に迷惑でしょうが」
「心配ない、夢見て飛び出した家出少年だからな」
「……余計にお説教する要因増えちゃったんだけど、ってミサカはミサカは……あーもういいや」
というか少女だろ、という野暮な指摘も放棄して起き上がり、ふらつく頭をブンブンと左右に振る
「……あなたは、よく分からない人だ、ってミサカはミサカはため息をついてみたり」
「?」
「一見……というかどう見ても変態さんなんだけど。でも、悪人ではない。悪いヤツなら、あんな小さな子たちがあそこまで懐いてるはずないもん、ってミサカはミサカは断言してみる。あなたみたいな才能ある人が何処にも属せず、子供たちの輪に拘るのは、一体どうして? ってミサカはミサカは問い掛けてみたり」
「……買い被りすぎだろ。僕はキミの思い描くようなヒーローでも善人でもないし、御大層な目的があって行動しているわけじゃない」
ただの、子供好きな発明家だよ。
匂風は口元だけで小さく笑うと、のっそりと緩慢な動作でベンチから起き上がった。
「……だがまぁ、お人好しな
「垂れ込み?」
ふと笑みを引っ込めた両者の間に、新たな情報が提示される。
「――
「……!?」
人さらい。つまりは暗部による拉致、誘拐。
それが本当ならばもちろん大変なことだが、あまりに突拍子も無くそう言われても、無闇に信じる気にはなれない。
「……万一それが本当だとして、あなたがそれをミサカに伝えることのメリットは、何? ってミサカはミサカは……」
「ただのお節介、じゃ少し不足かな? ……というか、単にテスター役の子供が怯えっぱなしだと僕も困るからね。
「……」
懐から取り出した風船に、今度は唇から直接息を吹き込んで。
パンパンに膨れ上がった白いうさぎの口を結び、彼女はそれを
「わっ!? ってミサカはミサカは慌ててキャッチしてみる!」
「手土産だ。お仲間はこっちで呼んでるから、キミはそこで座って休んでいるといい。僕はそろそろ寝床に戻るとするよ。……
そう呟いて、ひらひらと手を振りながら広場を後にする白衣の背中を、
ミサカの正体知ってたのかよ……、と改めて相手の底知れなさを感じていた彼女だったが、その後背後からパタパタと駆けてきた足音にようやく心を取り戻す。
「――こっこここ子供ーっ! 大体倒れたってどういうことだ大丈夫なのかー!? にゃあ!!」
「お、お子様? それになゆちゃんも、ってミサカはミサカはびっくりしてみる」
「風船持った小さい子達が走り回ってたから慌てて来てみたら……御坂ちゃん、もう身体は平気なの?」
「あははー……。全然平気、ただの貧血だもん一晩寝たらスッキリ解消だぜ、ってミサカはミサカはガッツポーズして――ぐおっ!?」
フレメアに連れられた金髪セミロングの先輩・木原那由他に気を取られていたところを、ものすごい勢いで腰にタックルされる。
「お、お姉ちゃん……」
「
「ぎゃあああああああ勢い余ってサバ折りしないでぇ!! 落ち着いてお姉ちゃん目玉がぐるんぐるん暴れてるよ!? ってミサカはミサカは悲鳴を上げてみたりーっ!!」
すっかりいつも通りのじゃれあいを披露する少女の姿に、実は一番心配していたらしいフレメア=セイヴェルンはほっとしたやら不満やら、複雑な表情を浮かべていた。
「……まったく人騒がせな。全然平気そうじゃないか! にゃあ、大体そんなに元気ならさっさと詰め所に戻るぞ!」
「ご、ごめんってば……。そうだね、白井先輩たち今ごろやきもきしてるだろうし、ってミサカはミサカは急いで手荷物を確認してみる!」
「……もう、そんなに慌てたらまた倒れちゃうよ。明日せっかくの非番なんでしょ?」
慌ただしく支度を整えて走っていく三人娘を後ろ側から眺めて、年長組の那由他はただクスクスと無邪気に笑っていた。
だが、
(……、あれ?)
ふとした違和感に気付き、可愛らしく小首を傾げる。
しかし、今にも稼働しようとしていた『木原』の優秀な思考回路は、十メートル先からのソプラノの呼び声にあっけなくかき消されてしまう。
「――那由他のお姉ちゃん! どうしたの早くしないと置いてくぞ! にゃあにゃあ!!」
「え、……わわっ待って皆! 監督不行き届きで怒られちゃう! うう、というか私もまだ絆理お姉ちゃんに報告してないのに……!」
ギュン! と駆動音を人工関節から密やかに鳴らして、フレメアたちから催促された那由他はそのまま、機械仕掛けの身体を滑らかに駆けさせていった。
……そうして。
とっぷりと日も暮れた街の中で、久々に再会した後輩との戯れに明け暮れているうちに。
『