8話 失恋
夜も更け、空は星の見えない真っ暗な夜空へと変わっていた。
そこにまるで穴でも空いたかのような。黒い夜空の中できらびやかな月が光を放ち、外を少しだけ照らしている。しかし、満月の明るさであっても、電灯の明かりがなければ周りに何があるのか分からない。そんな夜空の下のことだった。
夜中の霞ヶ丘町の霞ヶ丘公園。時刻が20時頃なのもあってか、霞ヶ丘公園の周りには人影が見られない。唯一、公園の中に制服姿のままの相田 政と私服の水色のワンピースを着た椎名 智華の2人が外灯の下で立っている。
椎名は相田に、何で相田が宇垣の家にいたのかの理由を問いかけた。その問いかけに対して、相田はその答えを考えている。2人は息を切らしてはいるが、少しずつ呼吸を落ち着かせていく。
相田は咳払いをし、目を閉じて深呼吸をする。昼の告白の時のように勢いにまかせて言うのではダメだ。まず、今は落ち着くことが大事だと。相田はそう感じていた。
思いっきり息を吸い、たくさん息を吐くと、相田は緊張していた表情を緩ませ、優し気な雰囲気で口を開く。
「実は、今日のことを言いに行ったんだ。涼平に会って、言わなくちゃいけないなって」
「何を?」
「俺が椎名さんに告白したってことを、だよ」
「それで宇垣くんは?」
「涼平は、えっと……その」
椎名は鋭い視線と怒り気味の口調で、相田に問いかける。相田は恐い雰囲気の椎名を見て、余計なことは言わないようにと考え、必死に言葉を頭の中で選んでいこうとする。
宇垣と会ったことで、何が分かったのか。何が起こったのか。相田は椎名に言っても大丈夫であろうと思われる事実を告げる。
「俺のこと、応援してくれた。椎名さんと付き合うべきだって」
「……そっか。宇垣くん、そう答えたんだ」
椎名はさっきよりも弱々しく、少し気落ちしたような声を漏らした。相田の言葉を聞いて、宇垣がどういった反応をしたのかを知り、少なからずさっきまでの元気を失う。
椎名としても、宇垣の反応を予想出来なかったわけではなかった。だが、あまり考えたくはなかった。もしかしたら、椎名にとって期待できる反応を宇垣がするかもしれないと。椎名自身、考えずしてそう思っていた。
だからこそ、椎名はやや悲し気な表情を浮かべ、それを見た相田は罪悪感を抱き始めてしまう。
「あのさ、椎名さん」
「ん?」
「今日は本当にごめん! 本当は涼平に告白して傷ついているのに、急に俺が告白をしてしまって」
「ううん、そんなことないよ。その……あの時はちょっと、驚いちゃっただけだから…………えへへ」
相田は今日の昼、椎名に告白してしまったことを謝罪した。
さきほど感じた罪悪感が、相田に対して椎名に告白したことへの後悔を感じさせていた。相田は椎名を困らせてしまったという罪の意識から少しずつ堪えきれなくなっていく。
今日の告白のことを。勢いにまかせて椎名に告白したことを。相田は謝罪することで、椎名から許されようとしていた。
そんな相田の姿を見て、相田の言葉を聞いて、椎名は我に返る。戸惑いつつも、さっきまで怒っていた自分を取り繕うための言葉を吐き出していく。相田が顔を上げた時には、椎名は可愛らしく笑っていた。その笑みを見て、相田は椎名に許されたような気持ちになり、罪悪感が和らいでいく。
「やっぱり、椎名さんは笑ってる方が良いと思うよ」
「え?」
「だって椎名さん。やっぱり辛そうだったから」
「え、そう? そうなの……かな」
相田が優しく微笑んでそう言うと、椎名は苦笑いを浮かべる。
椎名にとっては、今になるまで自分が辛いとは感じずにいた。好きな人のことをいつも考えながら、無我夢中に日々を過ごしていたからこそ、辛いと思うことなく今までの日々を過ごしていたわけである。
しかし今、相田の言葉を聞いて、椎名は気付いてしまった。辛さを感じなかったのは、辛いということに目を背けていたからであると。辛いと思わないようにしていただけで、本当は辛かったのだと。それに気付いて、椎名は心の底から苦笑いしか出て来ないでいる。
「俺が涼平に会いに行ったのは、本当は知りたかったんだ。涼平が椎名さんのことをどう想っているのかを」
「……うん」
「椎名さんが涼平のことを好きだってこと、分かってる。それに椎名さんが告白する前から、涼平のことが好きだっていうのは……知ってた」
椎名が宇垣に対して何かしらの好意を抱いていることくらいは、普段から椎名を見ていた相田にとっては分かることであった。
でも、相田は見ようとしなかった。椎名のことが好きであるからこそ、盲目になっていた。椎名が宇垣のことを好きだって思うことを、やめていた。それを認めてしまうことは、相田にとって容易なことではなかったからだ。
「今日の昼、椎名さんと会って、涼平のことが本当に好きなんだって分かって。それで俺、涼平に言ったんだ。椎名さんの気持ちに応えてくれないかって。あいつが、本当は友達の俺に遠慮してるんじゃないかって。そしたら……」
椎名に話していた相田の口が止まり、相田は視線を下に向けたまま、難しい顔をする。その後のことを、椎名にどう言うべきなのか、相田は悩んでしまっていた。
「そしたら?」
「そしたら……その、涼平は……」
相田はまた口が止まり、言い淀んでは考えている。涼平の言った言葉を、涼平の本心を、相田はどうしても口に出して言えない。
今日、宇垣に会ったことで、相田は知った。宇垣が椎名と付き合う気はないこと。相田が椎名と付き合うべきであると思っていること。そして、相田が椎名と付き合おうとしなければ、宇垣は椎名を殺してしまうかもしれないということを。
宇垣は椎名を殺したくないと思っている。最悪の事態にならないために、相田に椎名を本気で愛してほしいと。相田と椎名が結ばれて欲しいと、そう願っているわけだ。
だがそれは、椎名と相田が結ばれなければ、宇垣は椎名を殺してしまうということ。椎名に宇垣のことを諦めてもらわないと、椎名が殺される可能性があるということであった。そんな現状であるからこそ、今どうすべきなのか。今、椎名に対して何を言ってあげるのが良いのか。それを相田は思考していた。思考して、悩んで、ひたすら沈黙の中で必死に相田自身がどうしたいのかを心に決めた。
「今は、椎名さんの気持ちに応えることは出来ないって。その……無理なわけじゃないけど、今は………好きな人がいるって」
「………そう、だったんだ。その好きな人って?」
「えっと……その」
「いや、やっぱりいいかな。相田くん、ありがとうね。私……なんとなく分かったから」
相田が選んだ言葉は、椎名のことを想っての嘘であった。目の前にいる椎名のために、真実を隠して嘘をついてしまう。言いたい本音を隠し、かけてあげるべき言葉を選んで言った。
これ以上、傷つけたくない。本当のことを言ってしまえば、きっと不安にさせてしまう。そもそも、殺そうとしているなんて、納得してくれるわけがない。相田はそういった想いから、嘘をついてしまう。椎名に嘘をつくことしか、今の相田には出来ないでいた。
相田の心情を知らず、椎名は悲しそうに笑う。椎名の悲し気な表情を見て、相田は胸が余計に苦しくなる。苦しくなって、すぐに言い訳をするように口を開いた。
「ごめん! 本当に俺、椎名さんに何もしてあげられなくて」
「なんで相田くんが謝るの? いいんだよ、もう。なんとなく、宇垣くんのことは分かったから」
「いや、でも……」
「それに、相田くんが私のことを想ってしてくれたのは嬉しかったから」
「それは……だけど」
相田はまた、椎名に謝罪をする。椎名が悲しそうな表情をしたことで、まるで相田自身が椎名を悲しませてしまったように感じてしまっていたからだ。それによって、相田の中で消えかかっていた罪悪感がまたしても押し寄せて来てしまう。
だが、今回はさっきの罪悪感とは違っていた。相田は謝罪の言葉を椎名に告げても、気持ちは晴れない。相田の心はどんどん苦しくなっていくままであった。
なぜ相田の気持ちが晴れないのか。それは、椎名に対して嘘をついてしまったからである。嘘のことを告げたことで、余計に罪悪感に苛まされ、相田自身を苦しめていたからであった。
椎名の優しく微笑んだ表情。椎名の優しく告げる言葉。普段の相田なら、椎名にそうしてもらえるだけで、とても嬉しい気持ちになっていた。だが、今の相田にとっては、椎名の優しさが相田の気持ちを複雑にさせ、余計に苦しめてしまう。
「むしろ、私が相田くんに迷惑かけちゃったね。私こそ、ごめん」
「そんな、椎名さんは何も悪くない。悪いのは……いや、違う。本当は誰も悪くない。これはもう、どうしようもなくて……」
「そうだよ。もう、どうしようもないの。どうしようもないから、私……わた、し……」
椎名に謝られ、相田はとっさに言葉を返す。その途中で相田は、昼に告白した時のことが脳裏によぎり、言葉を訂正した。
特に相田は、告白をした後に宇垣と会い、宇垣のことを深く知った。葛藤してきた宇垣に対して、またしても“宇垣が悪い”と言うことは相田には出来なかった。
椎名は相田の言葉を聞いて、少し泣きそうに声を震わせ、顔をうつむいてしまう。相田にとっても、椎名にとっても、“どうしようもない”という言葉は“諦めるしか他にない”と同じであることを知っていた。それだけに、その言葉が椎名にとって残酷なものであることを2人は痛感する。
「ねぇ、相田くん。今日のこと……あれは、本気だったんだよね?」
「……それって、告白のこと?」
「うん。私ね、相田くんに告白されて分からなくなったの。あ、べつにね。相田くんのことは嫌いじゃないよ。ただ、相田くんって宇垣くんといつも一緒にいたし、その、えっと……私、相田くんが羨ましかったというか、でも、その……えっと」
椎名は話を続けようとするが、言葉がまとまらず、落ち着かない様子で言い淀んでいる。
椎名の心の中では、相田に対して自分が感じていたことを相田本人に言っていいのか。それを自分の口から相田に尋ねてしまっていいのか。そういった、心の迷いが生じてしまい、どう言葉にしていいか分からなくなっていた。
「落ち着いて、椎名さん。頭の中でまとまってから話せばいいからさ」
「いや、でも」
「とりあえず、あそこのベンチに座って落ち着こうか」
「う、うん」
椎名は視線を泳がせて困ったように言い淀んでいた。それを見ていた相田は、椎名に落ち着いてもらおうと公園のベンチに座ることを提案する。椎名が頷くと、相田が誘導するように先を歩いては公園内にある屋根付きのベンチへと向かっていく。
相田と椎名の2人はベンチのそばまで来ると、椎名はベンチに腰をかける。しかし相田は、そのまま立った状態で近くの自販機を見つめている。
「ちょっと、飲み物買ってくる。椎名さんはお茶でいい?」
「え? う、うん」
「じゃあ、ちょっと待ってて」
椎名にそう告げて、相田は自販機の方へと駆け足で向かって行く。
相田は自販機の前に立つと、制服のズボンのポケットから財布を取り出し、小銭を入れてお茶のペットボトルを2本買う。出てきたお茶のペットボトルを手にすると、それを持って椎名が座っているベンチへと向かい、椎名に1本手渡した。
「ごめんね、相田くん。お金……」
「いやいいよ。あげるつもりだったから。それより、少し落ち着いた?」
「うん、落ち着いた。ありがとうね、相田くん」
ペットボトルのフタを開け、椎名は少しお茶を飲む。お茶を飲んでいる椎名の様子を見ていた相田は、少し気持ちが軽くなったような緩んだ表情をする。
相田はそれほど喉が渇いていたわけではなかった。だが、慌てていたとはいえ、先ほど椎名を無理矢理走らせてしまったことに負い目を感じていた。だからこそ相田は自販機で飲み物を買い、その飲み物を椎名にあげた。結果的には、椎名が落ち着いてくれていたので、そんな椎名の姿を見て相田はホッとする。相田の心も安らいでいき、落ち着いていく。
相田もペットボトルのフタを開け、お茶を飲む。さきほど宇垣の家で飲み物をたくさん飲んでいたとはいえ、この公園まで椎名と走ったので、多少は汗をかいていた。失った分の水分を補給するように、お茶を美味しそうに飲む。
「私、本当に宇垣くんのことが好きなのかなって」
「んんっ?」
お茶を飲んでいる途中で椎名が話を始めたので、相田は口に含んでいたお茶を飲み込み、ペットボトルに口をつけるのをやめる。キャップを締め、椎名を見つめた。
「相田くんに告白された後にね、考えたの。私、本当に宇垣くんのことが好きなのかなって。なんか、分からなくなって」
「分からなくなった?」
「そう。それで不安だったから、宇垣くんに会えば……自分の気持ち、分かるかなって」
「それは……」
「だから今日、宇垣くんと会うことにしたの。会って、自分の気持ちを確かめようって。そしたら相田くんが……」
その続きは相田も知っているため、椎名はそこで話すのを止める。
相田は不安そうに語る椎名を見つめ、何故椎名が宇垣の家に来たのかの理由を知って納得していた。
だが、その理由を聞く限りでは、まるで椎名が宇垣に会うことを決めたかのように思える。宇垣の部屋で宇垣が椎名を呼び出したかのような素振りを見せていたことを思い出せば、椎名に対して疑問を抱くのが普通ではあった。
しかし、相田はそのことに気づかない。椎名のことを気にする余り、その言葉の違和感に気づけないでいた。
「ねぇ。そういえば、なんで相田くんはあんなに慌ててたの?」
「それは、椎名さんが宇垣に……その、なんていうか…………」
「ん? なんていうか?」
「…………」
椎名からの質問に相田は戸惑いを隠せず、言葉に詰まってしまう。視線を他のどこかへと向けている相田を椎名は見つめ、相田からの答えを待つ。
相田は必死に考える。事実を言うことは出来ない。なんて言えば納得してくれるのだろうか。相田はそう思えば思うほど焦りを感じてしまう。慌てていた理由をそのまま椎名に伝えられないのだから、相田はまたしても嘘をつくしかない。
だが、下手な理由では椎名に怪しまれてしまう。だから相田は、しばらく難しそうに悩んでいる表情のまま、頭の中で都合の良さそうな理由を模索し続けていた。
しかし、椎名は難しそうに考える相田の様子を見て、何故そんなに悩んでいるのかと疑問に思ってしまう。相田が悩んでいる理由を考えていると、椎名はひとつの理由にたどり着き、相田に問いかける。
「もしかして、私が宇垣くんにまた告白するとか思ったの?」
「えっ? あ、ああ。そう、かな」
「そんなことしない。だって私、宇垣くんに告白して1週間も経ってないんだよ。何度も告白なんてできない。そんなこと、普通ならできないよ」
「……そう、だね」
椎名の言葉を聞いた相田は、小さい声でそう呟きながら弱々しく頷く。それは、告白の辛さを今日初めて痛感し、身を持って知ってしまったからである。
告白したからこその、もどかしさ、煩わしさ。その辛さは、告白をしたことがある人間にしか分からないものである。椎名の場合、相田と違うのは、その告白の結果を告げられたこと。告白の答えを相手から聞いたという点では、相田と違って告白の答えを待ち続けるという不安な気持ちはない。
しかし、椎名の場合は相田と異なり、希望を持つことが出来ないことである。頭では分かっていても、自分の中にある自信や目標が脆く霞んでしまう。好きなものに対する活力は失われ、失われるのと一緒に人間として弱くなる。心は衰弱し、思考は鈍り、普段通りに動くことが出来なくなる。弱体化した人間がもう一度同じ人間に告白をするという行為は、それなりの希望や自信や理由がなければできることではない。
「でも私。これで良かったのかなって思う」
「へ? どういうこと?」
相田は椎名の言った言葉の意味を理解出来ず、その答えを求めるように椎名に問いかけた。
何を言っているのか分からない。そう言いたげな雰囲気の相田を見て、椎名は自分が言葉不足であったことに気づき、言葉を付け加える。
「あ、宇垣くんに会わなくて、かえって良かったかなって」
「ああ。そういうことか」
椎名が発言した言葉の意味を理解し、相田は納得した表情で頷いた。
相田はてっきり椎名が、宇垣に告白を断られて良かったという意味で言ったのかと思っていた。だが、それが勘違いであったのだと知ると、相田は安堵して表情を緩ませる。
「だって、こうやって相田くんと話していたら……なんか私ね、気持ちが落ち着いてきたんだ。だから、今日は会うのはやめておこうかなって。もし今から宇垣くんに会いに行っても、きっと何を話せばいいのか分かんなくなると思うから」
「……うん。そうかもしれないな」
「それに、ね……」
そこから椎名の口は止まり、なにか思い詰めたような表情へと変わっていく。
相田は暗い表情の椎名を見つめながら、しばらく待ってみる。しかし、待ってみても椎名は相変わらず口を開こうとしない。なので、相田は不安に思い、椎名に問いかける。
「……それに? どうしたの?」
「ううん、何でもない」
「何か他に不安なことがあるの? 何なら聞くけど」
「そういうわけじゃないんだけど……」
相田の問いかけに、椎名は苦笑いを浮かべながら何でもないと答える。何でもないとごまかす椎名に対して相田は不安になり、心配するようにもう一度問いかける。椎名が何を言おうとしていたのか、相田は気になってしまっていた。
「なんとなくなんだけどね。もし、今日宇垣くんに会ってたら……私が私じゃなくなってたかもしんないなって」
「それはどういうこと?」
「きっと、私が私自身を見えなくなっていたのかなって。なんか、今はそう思うの」
「え、つまりそれって、椎名さんが自分を」
「うん。もしかしたら、私……殺してたかも」
「そ、そんな……っ! ダメだ椎名さん!!」
相田は慌てて、椎名の顔に近づくように前のめりになる。椎名が自殺を考えていたと思い、それを止めようと必死な表情になってしまう。それくらい、椎名の言葉には本気が混じっていた。
そんな相田を見て、椎名は驚く。驚いて、相田の顔を少し見つめた後、椎名の表情は笑っていた。
「うふふっ、冗談だから」
「え?」
「失恋したからって、そんなことしないよ。相田くん、本気にし過ぎだからね」
「あ、ああ。冗談か、びっくりした」
「相田くん、驚き過ぎなんだもん。つい笑っちゃった……ふふっ、ふふふふ」
椎名は相田の反応を思い出しては、また笑う。さきほどの思い詰めたような表情とは変わり、柔らかな表情で可笑しそうに笑っていた。
相田はそんな椎名を見て、自分の中で芽生えていた緊張が緩んでいく。椎名の様子を見ている限りでは、椎名の笑いは作り笑いではない。本当に笑っているように思えた。本当に笑っているのであれば、自殺する気などないのだろう。相田はそう感じたので、不安な気持ちは薄れていった。
そもそも椎名は、自殺する気など全くない。今も自殺する気などないからこそ、椎名は自分自身で言ったことを。以前までそんなことを本気で思っていたことを。椎名の言葉を聞いて相田が本気で驚いたことを。椎名はそれらに対して笑った。
そして、それを思い出す度に椎名は可笑しく感じてしまい、しばらくの間、笑うことを止めることが出来ずにいた。
「だって、椎名さん。本当にしそうだったからさ」
「私ってそんな風に見えてた? そこまで私、おかしくないよ」
「でも、もしかしたらってこともあるからさ」
「もしもの話だから。相田くんに会う前に宇垣くんに会ってたらの話だからね。今はもうありえないし、そんなこと絶対しないから」
「そうなんだ。それならいいけど」
絶対にしないという言葉を聞いて、相田の表情は余計に緊張が解け、心の底から安堵する。
なにせ相田は、椎名が宇垣のことを本気で好きでいたことを知っている。宇垣を想うあまり、思い詰めてしまうことはあるかもしれない。最悪の場合だと、自傷行為や自殺までするかもしれない。その可能性が少しでも感じられていたからこそ、相田は焦ったのだ。
「でも、相田くんに会えてよかったかな。私って考え過ぎちゃうとこがあるからさ。きっと今みたいにすっきりしなかったと思うの」
「そうだね。なんか椎名さん、さっきよりもだいぶ元気になったと思うよ」
さっきまで思い詰めていたような雰囲気は消え、表情もだいぶ柔らかくなっている。相田がいつも学校で見ている、普段の椎名の表情。むしろ、それ以上に落ち着いたような、辛さも毒気もない表情が、相田には椎名がだいぶ元気になったように思えた。
「前から……というか最近は特にだったんだけどね。宇垣くんといるといつも気が張って辛かったんだ。それに、宇垣くんってなんかちょっと偉そうじゃない? しかも、あんまり気配りできてないっていうか、ちょっと冷めてない?」
「まぁ、たしかに。涼平ってそういうとこはあるかもしれないな」
「そうでしょ? そのくせ、私の気配りに気づかないっていうかね。鈍いのか、冷めてるのか分かんないけど、私にクラスの仕事を押しつけてばかりでさ。正直言うと私、ちょっとムカついてたんだよね」
椎名は素のままの表情でそう言った。作り笑いや苦笑いとかはなく、そのまま思っている感情を表情に出していく。今までの学校生活を振り返りながら、宇垣に対して抱えていた本音を語っていた。
「う、うん。涼平ってわりとうまく出来るヤツなのに、そういうことあんまりしたがらなかったりするよな」
「そうそう、そうなの! 私が本当に色々と頑張ってるのに、宇垣くんって結局何も応えてくれないっていうかね。対応がいつもまちまちだったの。何かと冷めてたり、偉そうだったりするんだけど、なんかたまに優しかったりしてさ。変に私に気をつかったりもしてて、宇垣くんって私を見てるのか見てないのか分かんなかったの」
今まで宇垣と一緒だった時のことを思い出せば思い出すほど、椎名は宇垣のことに対して話す口が止まらなくなっていく。
そんな椎名に対して、相田は苦笑いを浮かべていた。そこまで不満が溜まっていたとは知らず、同調するように笑みを作っていく。
「それでね、私もさ。宇垣くんのこと色々と考えたり、もっといっぱい知ろうとしたんだけど、宇垣くんって何考えてるのか分からないの。だからね、なんか辛いっていうか……そう。疲れるって感じだったの」
「まぁ、椎名さんの気持ちは分からないでもないよ」
「でも相田くんといると、なんか気分が落ち着くね。なんていうかね、気難しくないっていうか……そうそう、気楽! 気楽って感じ!」
「き、気楽? そうなんだ。なんか複雑だけど……そっか。椎名さん、そうだったんだ……くくっ」
相田は椎名との会話の途中で、つい堪えきれずに笑いを口から吹き出してしまう。ここで笑う場面ではないことは分かっていても、笑うのを止めることが出来ないでいる。
相田が笑ってしまったのは、椎名の本音を聞いたから。特に、椎名が宇垣に対して何を思っていたのか。自分に対して言った言葉を聞いて、笑っていた。
「くくっ……あははははっ」
「えっ?」
相田は笑う。心の底から笑った。
椎名さんが本当はどんな人で、どんな性格で、どんなことを想っていたのか。実は椎名さんのこと、本当は何も分かってなかったんじゃないか。そう思った相田は、自分自身が何とも可笑しく感じていた。
結局、相田は目の前の椎名について深く知らないでいた。ずっと見てきたのに、椎名に対して想像と妄想ばかりが膨らむばかりで、本当の椎名のことが見えていなかったのだ。憧ればかり抱いて、恋心ばかり募らせて、その結果自分が暴走し、告白をした。相田はそんな自分が、何ともおかしくて笑ってしまう。
「ど、どうしたの? 相田くん」
「ごめん、椎名さん。笑うつもりはなかったんだけど、なんかおかしくて」
「え? 私、なんかおかしかった?」
「ううん、違う。椎名さんは悪くないよ。何もおかしくないから」
そう。おかしいのは自分。おかしくなっていたのは自分。自分が自分じゃないように思えて、そんな自分に対しておかしくて笑ってしまう。そう思った相田は、心にわずかな恐怖を感じてしまう。
恋愛とは何なのか。相田は初めて恋愛というものに触れ、痛感した。恋愛の恐ろしさ、誰かに恋をすることの怖さ。そして、自分がいつの間にか異常になっているという気味の悪さを、相田は知った。それが、相田の心の中で感じた恐怖の正体であった。
誰かに対して一目惚れや恋心を抱くこと。その時点では人としてまだ平常であり、何かしらのきっかけによって誰かに好意を抱くことはおかしいことではない。その結果、人が誰かを愛そうとすること。愛されようとすること。それら自体をおかしいと思う人間はいない。
しかし、そこで妄想や欲望を膨らませたり、恋心や葛藤を募らせたり、好意や愛情を歪ませてしまうことがある。恋愛感情を抱くことで、湧き起こるその感情に堪えきれなくなってしまえば、いつしか人は異常になる。また、人間という生物の本能の1つが、人間の理性や思考を狂わせ、おかしくさせてしまうこともある。
だからこそ人は、恋をすることを“恋患い”と呼び、まるで恋を病気のように言ったり、また病気の中でも感染症のように言ったりもする。また、医者でさえも恋を精神病の一種であると言う人さえいるのだから、それは大きく当てはまっていると言える。
「俺も椎名さんと会えて、なんかすっきりした。俺も涼平のことで悩んでいたから。ほんと、会えて良かった」
「私も、宇垣くんのこと話せて良かった。だって、宇垣くんのこと分かってくれるの相田くんだけだから」
「一応、涼平とは友達だからね」
「……うん、そうだよね。宇垣くんにとっても、相田くんは友達だもんね」
「そうそう。でも、今となっては友達以上に恋敵ではあるけれどね」
相田が言った言葉。宇垣とは友達であることを伝えた言葉。それを聞いて、椎名は納得したように頷いた。
なぜなら、今まで椎名が相田に聞きたかったこと。相田に対して聞くことが一番怖かったこと。それは、相田が宇垣のことを友達と思っているかどうかであった。だから椎名は、相田の言葉を聞いて納得し、もう一度尋ねる。
「それなら、明日は恋友になるの?」
「え? どういうこと?」
「よく“昨日の敵は今日の友”みたいなことあるでしょ? 相田くんも宇垣くんに恋したりするのかなって」
「え? ええ!? 俺が涼平を?」
相田は椎名の質問の意図が分からず、何が言いたいのか分からないでいた。なんとなく、もし昨日が恋敵なら、今日は恋友になるのではないかと。椎名がそういう意味で言っていたことは、深く考えれば気付くことであった。
だが、椎名が尋ねた言葉を聞いて、相田は混乱する。自分と同じ男に対して普通は抱くことのない感情。その恋愛感情を友人である宇垣に抱くのではないかという質問。相田は少しだけ考えるが、すぐに理解できないと言ったように首を振る。否定するように大きく右手の手の平を左右に振った。
「いやいや、そんなまさか。俺が涼平を好きになるとか、そんなこと絶対にありえないよ」
「本当に?」
「そりゃあ、友達としては好きだけど、あくまで涼平とは友達としてだから。例え、敵になっても、女になったとしても、涼平とはずっと友達だから」
「そうなんだ。はぁ、良かった。ちょっと安心したな」
椎名が安心したように、少し息を吐く。心の荷が少しだけ軽くなった様子だ。
相田は少し大袈裟に言いすぎたかなと思ったが、椎名の安心している様子を見て、それ以上は言葉を連ねるのを止めた。
「でも、なんかそういうのっていいね。ずっと友達でいるとか。そういうの憧れるな」
「椎名さんにもいるでしょ? そういう友達」
「ううん。私にはそういう友達いないよ」
「え、でも」
「仲の良い人はいるけど、相田くんと宇垣くんのような。そんな友達は私にはいないかな」
椎名は少し寂し気に、自分には心から信頼する友達がいないことを告白する。その告白は、学校の知り合いにも自分の家族にでさえも言ったことはない。それだけ、椎名は相田に対して心を許し始めていた。
「だから私、相田くんのような……本音を言い合える友達がいることが羨ましいかな」
「そんなことないよ。下手したら、ケンカしちゃうし」
「誰だってケンカはするよ。気持ち悪いのは、何考えているのか分からない人。そういう人、多いから。私……」
椎名は思い返す。今まであってきた人間。自分の父親。同級生の女子達。先輩や後輩。そして、自分に好意を抱く男子。みんながみんな、自分に対して微笑みと憧れの視線。また、優しい言葉と自分に対して共感できるといった態度を向けていた。そのうえで、周りの人間は椎名のことを深く知ろうとしていた。
椎名は親しくしようとして、自分のことを知ろうとする人間が怖かった。椎名を知ろうとする行為が、椎名にとっては気持ち悪く感じさせていた。そうなってしまった原因が、過去に椎名に対して恋愛感情を抱いていた人間達によるものであった。
椎名はいつしか、本音を隠した自分を演じることで、自分を守ることができる。例え、自分が傷ついても、それは偽りの自分であるからと。傷がつかないようにと保険をかけるようになっていた。そして現在、初めて恋をした相手である宇垣を心の拠り所として、椎名はおかしくなっていったのであった。
「じゃあさ」
「うん?」
「まず、椎名さんが本音を言うといいのかも」
「私が?」
椎名は少し驚きの混じった声で、相田に聞き返す。
相田の提案は、たしかに一番手っ取り早い方法である。本音を言えば、相手も本音を言ってくれるかもしれない。相手に対して、何を思っているのか分からないのなら、本音でそれを聞けばいい。少なくとも本音を言えば何かが変わるだろうと、そう考えるのは決して間違いではない。
しかし、事はそう単純ではなかった。
「怖いかもしれないけれど、本音を言えばきっと友達も本音を言ってくれると思うよ」
「それは……」
「とは言っても、それが出来ないから悩んでいるんだもんな」
相田は腕を組み、しばらく考え始める。
相田の言う通り、椎名は今までそれが出来なかったから、信頼できる友達がいないのである。むしろ椎名は、自分から本音を隠してきた。本音を言う自分が嫌だった。誰かに対して本音を言うことは、相田が思っているように簡単には出来ないことではあった。
だからこそ椎名に必要なのは、それが出来るきっかけか出来事。椎名が自分自身で自分を変えようとする何かを相田が与えてあげることである。それに気付いた相田は、椎名に対して1つの提案をする。
「だから、まず俺が椎名さんの本音を聞いてあげるよ。さっきも涼平についても椎名さん言えていたし、俺のことでも何でもいいからさ」
「う、うん。じゃ、じゃあね……えっと……その」
椎名は少し考え、言いにくそうに本音を言おうとする。
今まで椎名が抱えていたものはつい先ほど相田の言葉を聞いて消えた。なので、椎名の中で不安があるとしたら、相田が椎名についてどう思っているのか。今、相田に対して自分が聞きたいと思っている本音を椎名は問いかける。
「相田くんは私のこと、本当に好きなんだよね?」
「……うん。本当だよ」
「それは本気で?」
「うん、本気でそう思ってる」
「じゃあ、相田くんは……私のどこが好きなの?」
「えっ……と」
告白したとはいえ、好きな相手に好きな理由を答えるというのは、核心と自信がなければ簡単に言えるものではない。特に相田は勢いで告白したのだから、その質問に対してすぐに答えられるほど、頭の中で言葉の整理ができていない。
相田は真剣な面向きのままでしばらく考えた後、自分が椎名に対して好きになった理由と今抱いている本音を、言葉にして伝える。
「笑顔、かな」
「笑顔?」
「俺、初めて椎名さんと会った時。椎名さんが他の女子と笑ってるのを見て、なんて可愛らしく笑うんだろうって。そう
思ったんだ」
「え、そうなの?」
「うん。それがきっかけなんだと思う」
誰かが誰かを好きになった理由。特に相手を好きになったきっかけなんてものは、案外曖昧だったりする。その中でも、相田の中で印象に残っているのは椎名の笑顔。椎名を好きだと思い始めたのも、椎名の好きなところも、椎名が笑っている姿であった。それを思い出した相田は、好きになった理由が笑顔であると告げた。
でも、本当にそれだけなのか。椎名さんに対して抱いている感情は笑顔からくるものだったのだろうか。相田はそう思い、今日の告白のことをふと思い出した。
「それから、椎名さんが笑顔になると、俺も元気づけられてさ。その度に椎名さんのことを段々と好きになっていったんだ」
「……そうなんだ。それが、理由なんだね」
相田はそう告げると、椎名の好きな理由を語っていた口を閉じる。目を閉じ、何かを思い出して、微笑んだ。
椎名は相田が告げた言葉を聞いて、弱々しい声で答えた。やや悲し気な雰囲気で、首を下にうつむく様に垂れ、自分の足下を見る。誰がどう見ても明らかに嬉しそうではないことが分かる。
なぜなら、相田が椎名のことが好きな理由が笑顔であったこと。普段の学校生活で見せる笑顔だけなら、椎名にとってはとても複雑なものであった。笑顔だけで椎名のことが好きになったのなら、それは椎名の上辺の部分しか好きでないのと一緒であるからだ。
うつむいている椎名に、相田は目を開け、閉じていた口を開き、言葉を続ける。優しく語りかけるように、椎名に伝わるように、相田自身の本当の想いを告白し始める。
「でもね、今思うと……それは違ったのかもしれない」
「え?」
「俺、椎名さんとこうやってたくさん会話したこともなかったし、こんな風に一緒になったことも今まであんまりなかったと思う。けど今、椎名さんと一緒になって気付いたんだ」
「……何を?」
「椎名さんが、本当は笑顔が可愛い以上に、誰かのために健気に頑張れる頑張り屋さんだってこと」
「…………」
相田は今までのことを振り返り、本当に自分が椎名に対して心を動かされたものが何なのかを考えた。そして今、椎名と一緒に居て、相田はそれに気付く。それは、椎名の健気さであり、誰かを想って頑張れることであった。
相田は椎名のことを思い返せば、いつだってクラスの仕事をひたむきに頑張っている姿が思い浮かんでいた。それも好きな相手のためにと一途に頑張っていたことを相田は知り、そんな椎名に対して恋愛感情を強く感じてしまう。それは、勢いではあるが椎名に告白してしまうほどであった。その結果、椎名の健気さと誰かのために頑張ろうとする姿勢が、相田の心を魅了し、心をつき動かしたのだ。
相田の言葉を聞いた椎名の表情から、動揺が隠せないでいる。
言葉が出ない。なぜ、その言葉に自分の心が揺れ動かされるのだろう。そう思いながら、椎名は相田を見つめる。
「昼にも言ったけど、椎名さんがクラスのことも涼平のことも、本当に色々と頑張ってたのは知ってる。全部分かっているわけじゃないけど、涼平の分まで仕事していたことは俺分かってるから」
「………うん」
「だからこそ俺、涼平のために頑張る椎名さんを見て、椎名さんのことをもっと知りたいと思ったんだ。椎名さんのそばにいて、力になりたいって。椎名さんのことが本当に好きなんだって。そう思えたんだ」
「うん」
「だから、今は難しいかもしれない。涼平のこと、忘れられないとは思う。それでも俺、椎名さんのために頑張りたいんだ。椎名さんのことをもっと知って、椎名さんの力になりたい。だから俺……」
たしかに椎名は、自分の本音を隠して生きてきた。だが、宇垣に恋をしたこと。今まで宇垣のためにと頑張っていたことは、椎名自身が偽ることの出来なかったものである。それは椎名の本音による行動であり、本来の椎名自身の姿であり、椎名の本当の部分。その椎名の本心からの行動を、相田は見ていた。見ていたことで、相田の中で椎名に対する好意と愛情が大きく芽生えたのである。
だが、それは相田が椎名を見ていたことで知ることが出来た。宇垣の近くにいたことで知ることが出来た。ずっと椎名を見てきて、椎名と今を過ごしたからこそ、それに気付くことが出来たものであった。
相田の言葉を聞いて、椎名は相田が自分をしっかり見ていたのだと気づく。すると椎名の胸の奥が締め付けられ、何とも言い表せない感情が押し寄せる。それはまるで、切ないような、嬉しいような、何とも苦しい感情。
たしかに、相田は椎名を好きになったきっかけは“笑顔”であった。でもそれ以上に椎名を好きになり、愛したいという感情が芽生えたのは、宇垣を想う椎名のひたむきな姿を見ていたこと。ちゃんと見て、椎名の本当の部分を受け入れて、それを好きと言ってくれたこと。それが、椎名の心を大きく揺れ動かす原因であった。
「椎名さんと一緒にいたいんだ!」
相田は真剣に椎名を見つめ、椎名の手を握っては、言葉に自分の強い意志を込めて言い放つ。段々と苦しそうな表情へと変わっていく椎名を見て、相田は切ない気持ちで胸が辛くなっていく。
抱きしめたい。守ってあげたい。笑ってほしい。一緒に居たい。苦しい。好きだ。愛したい。そういった様々な感情が相田の中でひしめきあい、相田を苦しめていく。段々と堪えきれなくなりそうになるが、一瞬にしてその感情を消え去ってしまうものを相田は目にする。
「えっ?」
相田は硬直する。椎名の後ろから宇垣の姿が見えた。息を切らしながら、自分達を見つけたように、2人のいるベンチへと歩いてくる。
宇垣は2人を見ている。辛そうに、苦しそうに、表情を歪めて、呼吸を整えながら、足を動かして2人のそばにやって来る。
「涼平!?」
「宇垣くん!? なんで、ここに?」
椎名は宇垣の姿を見てすぐに握られた手を離そうとするが、相田はよりいっそう強く握り締める。相田は椎名の手を決して離そうとはしない。
宇垣が来たことで、相田の中で緊張が走る。椎名は単に驚いているだけだが、さきほどの部屋にいた時の宇垣を目にしていた相田にとっては違う。今の宇垣は何をするのか分からないのだから、一瞬も気が抜けない状況となっている。
「……そっか。2人はやっと……いや、なんでもない。さっき、政が走って出て行ったからさ。心配になってきたんだよ」
「え、えっと……宇垣くん」
「涼平! 俺、涼平に椎名さんは」
「大丈夫だよ、政。自分はもう、ここから消えるから」
「え?」
相田は宇垣の言葉を聞いて呆然となり、言おうとしていた言葉を止めてしまう。どういうことなのだろうか。何を考えているのだろうか。そう思いながら、相田はずっと宇垣から視線をそらさず、椎名の手を握ったままでいた。
しかし、宇垣は苦笑いの混じったような微妙な微笑みを浮かべていた。まるで、相田と椎名の2人に気を遣うかのように、この場から立ち去ろうとしているようだ。宇垣の部屋にいた時、特に椎名を殺すと言っていたあの時の宇垣とはまるで雰囲気が違う。
「じゃあね、椎名さん。政」
「待って、宇垣くん!!」
椎名は宇垣を呼び止める。相田に手を握られたままベンチから立ち上がり、ツバを飲み込んでは、動揺していた表情から意を決したような表情に変わる。
「宇垣くんが本当に好きな人って誰なの!?」
「うっ!」
宇垣に対して、椎名は好きな人間について問いかけた。その椎名の問いかけを聞いた相田は、心臓が止まったような感覚に陥り、つい声が口から漏れてしまう。
椎名が宇垣にした質問は、相田にとって宇垣に一番問いかけて欲しくないことであった。相田はつい先ほど、宇垣には好きな人がいると椎名に言ってしまった。また、宇垣の本心を椎名に知られてしまえば、この後良くない方向へと行ってしまうと想像出来ていた。宇垣の返答次第では、最悪の事態まで発展してしまう。そう思った相田は今までで一番心臓が跳ね上がり、宇垣が椎名の問いかけに答えるまでの時間がとてつもなく長く感じてしまう。
「……本当に、好きな人……か」
宇垣はそう呟くと、椎名と相田の2人を見つめる。見つめれば見つめるほど、泣きそうで辛そうな表情を浮かべ、宇垣の口は震えていく。いかにも辛そうにしている宇垣を、2人は見つめるだけ。見つめるだけしか出来ないでいる。
少しして、宇垣は左手で頭を抱えるように体を震わせ、何かに堪えるように唇を噛み締める。目を閉じ、ぼそぼそっと誰にも聞こえないような声を吐くと、宇垣は再び2人を見て、微笑み始める。
「自分が好きな人は……私。愛したいのは君じゃない。自分だ」
「そんな……宇垣くん」
「だから、これで終わり。もう、終わりなんだ。終わりにするしかないんだよ!」
「…………ううっ」
椎名はショックを受けたように後ずさりしては、足に力が入らなくなったようにベンチに座り込んでしまう。弱々しく、涙を堪えるような表情で、空いている片手で顔を隠すように手の平を覆う。その手の平のすき間から、椎名の涙がこぼれ、流れていく。
そんな椎名の様子を見て、相田の手を強く握っている椎名の手を感じて、相田は口を開いた。
「涼平……おまえ」
「政はさ。政はそのまま彼女と生きてくれ。自分はもう終わりにするから」
「でも!」
「だって、自分と政は……友達だろ? 自分に愛はいらないんだ」
「そんなの」
「本当に選ぶべき相手は誰か。本気で一緒にいるべき相手は誰か。政は分かっているはずだろ?」
宇垣は相田を諭すように、優しく、友達を想うように、落ち着いた声で話していく。
しかし、相田にはそれが、叶えられない何かを諦めるかのような。どちらかと言うと、宇垣が宇垣自身に諭しているような。そんな気がしていた。
「政……自分が家で言った質問は覚えてる?」
「何をだよ」
「彼女を本気で好きになって、本気で愛する覚悟はあるのかってことだよ」
「それは……」
「政の、政自身の答えを聞かせてくれ。本当に、本当に好きなんだよな?」
「……ああ、当たり前だろ!」
相田は宇垣の問いかけに答える。相田は自分自身に問いかけるまでもなく、宇垣に答えた。自分の中の想いを込めて、宇垣に言った。
「本当なんだよな? 勢いじゃなくて、感情だけじゃなくて。本気で考えて、本気で愛する覚悟が。政にはあるんだよな?」
「ああ! 俺は本気で愛したい! 本気で愛してみせるよ!!」
椎名と宇垣の前で、相田は誓う。
言葉にして、強く誓った。真剣な眼差しで、心に誓った。椎名を本気で愛することを、相田は本気で誓ったのだった。
「わかったよ。それなら、自分達はこれからも友達だ。それだけは変わらないし、自分も変えるつもりはないよ」
「……っ!」
「おやすみ」
そう言って宇垣は、この場から立ち去ろうとするように自分の家へと向かって歩き始める。言いたいことは、聞きたいことは、もう何もないといった雰囲気で、宇垣は足を歩ませる。
「待ってくれ、涼平!」
相田は立ち去ろうとする宇垣を呼び止める。
なんとなく、腑に落ちない。分からない部分がたくさんあるからか、不安な気持ちが募っていく。相田は宇垣にそのまま帰られてはいけない気がしていた。帰ってしまっては、後悔するような、そんな気がして宇垣を呼び止めた。
振り返った宇垣は、相変わらず微妙な微笑みを崩さない。嬉しいような悲しいような、複雑な感情が混じったその表情が、相田に何かを気づかさせてしまう。
「もしかして涼平は、俺のために……」
「それ以上は考えちゃいけないよ。政は、自分のことじゃなくてさ。これからは彼女を愛することを、愛したいという気持ちを、本気で考えていくべきなんだ」
「でも、俺……」
「政は、政自身が決めた覚悟を無駄にしちゃいけない。だからさ、これで良いんだ。これで……良いんだよ」
「…………涼平」
「おやすみ、政」
宇垣は優しくそう告げると、相田と椎名の2人の前から立ち去っていった。宇垣が立ち去っていくのを、相田はただ見送っていた。
相田は宇垣の本心は、結局は分からない。何が目的で、何がしたかったのか。本当のところで、宇垣の本音が何だったのかは分からないでいた。
だが、相田は、宇垣が友達である自分を想ってくれていたことは伝わった。宇垣は自分のことを考えて、行動していたように思えた。そう感じたからこそ、相田は宇垣に何も言えなかった。宇垣が自分を犠牲にしてまでしたことを、取り消すことは出来なかった。
「相田くん」
「椎名さん、大丈夫?」
「どうして? 宇垣くんは……どうして」
「……ごめん」
相田は頭の中で思う。きっと涼平のことを言うべきなのかもしれない。涼平がオレを想って、椎名さんから身を引いてくれたことを。オレのために、発破をかけてくれたことを。涼平がオレのためにしてくれたこと全部。椎名さんに伝えるべきなんだ。そう思って、相田は言葉にしようとした。口に出して、椎名にすべてを伝えようとした。
だが、相田の口は止まった。口に出して椎名に伝えることが出来ないでいる。椎名の顔を見て言おうとすればするほど心は揺らぎ、宇垣のことを想えば想うほど、言葉が出て来なくなっていった。
相田が言おうとしていることは、椎名を傷つけてしまう。それ以上に、宇垣の想いを無駄にすることになると、相田は察していた。椎名を想って身を引いたこと。相田を想って、大事なことを気付かせてあげたこと。相田は、宇垣の想いから裏切ることも、相田には出来なかった。
だから相田は、ただ謝る。ごめんという言葉しか、椎名に告げるしか出来ないでいた。
「どうして相田くんが謝るの? どうして? もう、分からない。分からないよ」
「ごめん椎名さん。本当に、ごめん」
「何で、どうして……うううっ」
相田の体に椎名の頭がよりかかる。涙を流しながら椎名の体が震えているのを見て、椎名を抱きしめる。しばらくそのまま、椎名を抱きしめ続けた。
何も言えないけど、胸を貸してあげること。ただ抱きしめてあげることしか出来ない。だから今はこのままでいるべきなんだと。相田はそう思って、椎名の涙を受け止めていく。椎名の涙が止まるまで、ずっとそばにいた。
相田は見上げる。真っ暗な夜空に、満月が見えた。黒い夜空に穴が空いたように光を照らす満月を、相田はずっと見つめる。ただ1つ、夜空の中で照らし続ける月。星が見えず、月だけが見える今日の夜空。孤独に輝く月が、なんとなく寂しげであるように感じた。
そんな満月の下で、相田と椎名は霞ヶ丘公園のベンチに座って時を過ごす。静かな時の流れが、2人に今日という1日の終わりを感じさせていったのであった。