柘榴は花恋 -近頃、私、愛したい-   作:純鶏

14 / 14
12話 初心と書道

 宇垣(うがき) 涼平(りょうへい)。12月11日生まれ。いて座。性別は男の子。

 石川県加賀市霞ヶ丘町に住み、宇垣(うがき) 雄太(ゆうた)宇垣(うがき) 亜矢子(あやこ)の夫婦の第一子として誕生した。予定日よりやや早く産まれ、体重も生まれてくる赤ん坊の平均より200グラムほど下回る大きさ。成長しても病気になりがちで、何度も通院や入院を繰り返していただけあって、体が丈夫な方ではなかった。幸い、脳や体に障害はなく、生死をさまようような大きな病気にかかることもなかったため、3歳になった頃には人並みの体格にまで育っていた。

 

 ところが、宇垣 涼平の母親。宇垣 亜矢子は育児ノイローゼにかかっていた。マタニティブルーといったように、子育て経験の無い母親にとっては、初めての子育てはとても辛いものであった。融通の利かない子ども相手に生活のほとんどが縛られ、自由な時間がだいぶ減っていったため、亜矢子の心は酷く擦り切れてしまう。

 ただでさえ亜矢子の母親は早死にしており、19歳で雄太と結婚し、20歳になったばかりで子どもを産んだのだ。友人とは疎遠になり、人付き合いが苦手な性格だったため、周りの人間にも頼ろうとはしなかった。さらには宇垣家の親類の反対を押しのけて結婚したために、もう頼る相手も、話し相手もおらず、子育てによる知識も少ない状態であった。

 

 最後の希望であり、一番そばにいて支えるべき存在であった亜矢子の夫。父親の宇垣 雄太は、仕事を優先する人間であった。子育てや子どもに対して苦手意識を持っていた宇垣 雄太は母親の亜矢子に育児を全面的に任せ、仕事の方に熱心に打ち込むことが家族を支えることになると考えていた。そのおかげで、雄太は出世することは出来たが、そのせいで妻の亜矢子はおかしくなってしまい、雄太が気づいた時にはもう手遅れになっていた。

 

「ねー、パパ?」

「ん、どうした?」

 

 宇垣 涼平は3歳になり、おそるおそる父親に尋ねた。

 

「ママは、なんで帰って来ないの?」

「だから言っただろ? ママは、オオカミに食べられちゃったんだって」

 

 涼平は母親のことを詳しく聞いてはいけないことではあると何となく気づいてはいた。不機嫌そうに答える父親に対し、詳しく聞くべきでないことは態度から察することができた。それでいても、子どもの好奇心による行動は止められず、相手のことを考えて話せる年頃ではない涼平は、もう一度父親に尋ねる。

 

「でも……お腹を切れば、帰ってくるんじゃないの?」

「それはな。子ヤギは噛まずに食べたから生きてたんだ。お母さんは噛まれて、ちっちゃくなったから、もうオオカミさんになっちゃったんだよ」

 

 宇垣 涼平は明らかに、“七匹の子やぎ”という童話の影響を受けていた。オオカミに食べられた6匹の子やぎを、母やぎと7匹目の子やぎがオオカミの腹をハサミで切って救い出し、石を腹の中に詰めて池に落として殺すという話の流れである。年齢的に童話の内容を理解できるようになった涼平は、もしかしたら、母親は帰って来るのではないかという希望を持ち始めていた。

 しかし、この世に3年ほどしかまだ生きていない息子に対し、父親は救いのない残酷な事実を告げる。息子が原因で精神がおかしくなって、2人の前からいなくなったという真実を語らない辺りは残酷ではないのかもしれない。それでも、3歳の男の子にとっては、母親は食われて、細かくなって、オオカミになったなんて話は受け止めにくい話である。

 

「なんで? なんでなんで? じゃあ、どうするの? どうしたらいいの?」

「それは……その……」

 

 息子の涼平に対して突き放すかのように答えた父親の雄太は、泣きそうになっている息子の様子に、動揺してしまう。さすがに自分が大人気なかったことに気づき、もう少し言葉を選ぶべきであったことを反省する。

 けれども、現実は変わらない。涼平の母親がオオカミのように気性が荒くなり、人ではない何かに取り憑かれた人間になったことは事実である。育児を放棄するようになり、何かあれば息子の頭や体を噛んで虐待を行っていたのだ。ついには、別の男と不倫し始め、妻であることすら放棄してしまう。その結果、雄太は母親の亜矢子と離婚し、家族の関係を断ち切ったのであった。

 

「その、な……ママはな。オオカミさんになったから、涼平を食べちゃうんだ。だから、まともで普通の人間になるまで。オオカミからいつものママになるまで待ってような」

「……うん」

 

 雄太は息子の体を優しく抱きしめ、慰めるように息子の耳元でささやく。息子の涼平は父親に抱かれ、母親がいない不安よりも父親に優しくされていることに幸せを感じていく。泣きそうになっていた心は、父親の優しさによって満たされていった。

 その反面、父親の雄太は泣きそうな表情を堪えていた。本当に、なんで。なんでこんなことになってしまったのだろうという気持ちで、雄太の心はきつく締めつけられていた。

 

 宇垣 雄太は愛する人と結婚し、待ちに待った息子が生まれ、仕事では頑張った成果もあって出世することができ、今後はもっと幸せになれる未来が待っていたはずであった。それなのに、最愛の妻である亜矢子に雄太は裏切られた。愛の結晶である息子を傷つけられた。

 

「だか、ら………それまで、パパ……涼平のために、頑張るからな」

 

 息子と2人だけという望まぬ現状が。息子が自分に母親がいないことで悲しみを抱いているという苦しみが。愛していた人に裏切られたと分かっていても、元妻である亜矢子が昔の亜矢子に戻ってほしいと。息子が生まれたばかりの頃に戻りたい。あの頃に戻ってほしいと願ってしまうことが、雄太の心を酷く締めつけ、涙を流させてしまっていた。

 

 そして、雄太は固く決心する。たとえ自分が廃人になっても。まともな父親になれなくても。息子のために、生きようと。恋愛感情なんていらない。かけがえのないたった一人の愛する家族のために、生きようと。裕福で十分な人生を送れるように、幸せに生きていけるように。よりいっそう仕事を頑張ろうと。宇垣 雄太はそう誓ったのだった。

 

 

 

 その頑張りが、妻がおかしくなり、息子もおかしくなり、自分さえもおかしくさせ、宇垣家の家族を崩壊させていく原因となっていたことも知らずに。

 

 

 

 ×      ×      ×      ×

 

 

 

 2002年4月11日。霞ヶ丘中学校の書道室。

 霞ヶ丘中学校に書道部の部室でもある書道室で、今年入った1年生の体験入部が行われていた。

 その中の1人に、入学したばかりの幼げな顔をした宇垣 涼平もいた。

 

「それでは、始めます」

 

 体験入部に来たのは、男子4人と女子2人の合計6人。彼らの前で、3年生の書道部の部長が半紙に筆をのせ、奥ゆかしい姿勢を崩さないまま筆を走らせ始めた。

 やや茶色がかった長髪で、顔立ちは書道部の中では一番に整っている女性の部長。右手で筆を持ち、すらりと流れるように筆を動かして、半紙に文字を書いていく。墨汁で書いていく様子はとても綺麗で、体験入部にきた生徒の目を魅了し、視線を釘付けにさせている。宇垣も例外ではなく、書道部の部長の可憐な姿も含め、字を書く動作に目を奪われていた。

 

「終わりました」

 

 書道部の女子部長がそう口にすると、筆を硯の上に置き、文鎮を横にずらしては、体験入部に来た生徒達に見えるように両手で掲げる。

 半紙には、小学校で習うような楷書の字体で「精神一到(せいしんいっとう)」と書かれてあった。お手本のような、まっすぐできれいな字に、1年生達の中で驚嘆(きょうたん)の声を口から漏らす生徒もいた。

 

「この四字熟語を知っていますか?」

 

 書道部の部長である3年生の女子生徒の質問に対し、体験入部に来た1年生の生徒達は誰も答えない。首を傾げて分からない者もいれば、視線を逸らして答える気がない素振りを見せる者もいる。自ら答えようという生徒は、誰もいない。

 宇垣も同様で、部長の質問に上手く答えられる自信はなく、黙ったままでいる。書道部の部長の柔らかな顔と部長が持っている字を眺めているだけであった。

 

「じゃあ、あなたに答えてもらってもいいですか?」

 

 部長の女子生徒と宇垣は目が合い、宇垣はそわそわした様子で焦り始める。

 ところが、口を開いたのは、宇垣のやや斜め後ろにいた男子生徒。当てられたのは自分だと察したのか、宇垣が言葉を発する前に口から言葉を発していた。

 

「んーっ、なんか精神統一……とか? 集中するとか、そんな感じですかね?」

 

 宇垣と同じで、体験入部に来た1年の生徒は、やる気のない感じで適当に答える。分からないのだから仕方無いといった雰囲気で喋るのは、1年の利谷(としたに) 侑治(ゆうじ)。そんな利谷を、宇垣は答えなくて済んだという安心感を抱きつつ、すぐに答えられない自分に対して少しだけ嫌悪感を抱いていた。

 

利谷(としたに)くん、かな? イメージはそんな感じで合っているのだけれど、意味合い的にはもう少し踏み込んでいる熟語ね」

 

 “利谷”と書かれてある制服のネームプレートを見ながら、書道部の部長は優しく答えていく。

 

「実はこの精神一到という熟語はね。どんなに困難で苦しいことがあっても、精神を集中すればどんなに難しいことだって出来るってことを意味しているんです」

「へー、そうなんですか」

 

 部長に対して適当に相づちをうつ利谷。

 宇垣は後ろを振り向いて、表情を曇らせたまま利谷の顔を見る。利谷の先輩に対する態度が、なんだか感じ悪いなと思ったからである。

 

「私は、この四字熟語が書道においてとても適している言葉だと思っています。私自身、この熟語を念頭に入れて書道に打ち込んでいます。それに書道は、いつだって自分自身と相対するものですから」

「ああ。つまり、書道も結局はスポーツとかでよくある、自分自身との勝負とか戦いとか。そんなマンガみたいなやつですか?」

 

 悪態つくように発言する利谷に対して、宇垣はよりいっそう表情を険しくさせるように目を細める。

 周りの人間も利谷の態度から分かるように、利谷自身、書道部に入る気はないのだろう。なにせ今日は、体験入部の第三希望日。今日来ている体験入部の1年生は、体験してみたい部活の中で3番目に希望を出した部活である。前日に第一と第二に希望していた部活を体験して、入部する部活が心に決まった1年生にとっては、今日の第3希望の体験入部は興味がないのも仕方がない。

 

「たしかに、書道には評価による優劣や競争。また自分自身との戦う部分はあります。ですが、私は書道に対してはもっとシンプルに考えてもいいと思っています」

「え? どういうことですか?」

「私は単に、綺麗で美しくなりたいと思って書いています」

 

 書道部の部長である女子生徒の発言を聞いて、1年生達は困惑の色が表情に出始めていた。それは利谷も同じで、まさかの返答に呆気に取られていた。

 ただ、宇垣だけは書道部の部長の真っ直ぐな発言に、心惹かれていた。

 

「書道に限った話じゃないのですが、自分が書いた字というものは、自分の心を写し、自分という人間を表した、自分そのものであったりします。それは鏡に映る自分自身の姿のようなもので、時には自分の汚い部分も、心の乱れさえも字に表れたりすることがあります」

 

 さきほど筆で四時熟語が書いた半紙をそばの机に置き、部長は手を重ねるように膝の上に置いて正座し始める。畳の上でキレイに座る姿に、体験入部に来ていた1年生たちは無意識に心を引き締めさせられてしまう。それくらい、女性の部長が正座をしている姿が綺麗で、視線だけでなく心さえも魅了させていた。

 

「なぜなら書道は、自分を見つめ直すことが出来る手段の1つとなっているからです。特に私達の行っている部活では、字を見つめ直すことを大事としています。そうすることで、自分の精神を統一させたり、自分の心を清めたり、自分自身を磨いて綺麗にすることが出来るからです」

 

 真剣な眼差しで書道を語っていく書道部の部長。体験入部にきた誰しもが書道に深く興味があるわけでもないのに、部長の語る言葉を耳で聞き、部長の姿を目でしっかりと見つめていた。

 

「もし、みなさんの中で自分自身を変えたい、自分の中にある変えたい部分があるという方がいましたら、ぜひ今日の体験入部だけでなく、仮入部もしてみてはどうでしょうか。もしかしたら、書道をすることで私のように自分が思い描く自分になれるかもしれませんよ」

 

 書道部の部長はそう告げると、最後には柔らかくも優しい、大人が子どもに向けるような温かな笑みを浮かべる。まるで大和撫子のような3年生の先輩を見て、宇垣は一目惚れしたように憧れを抱き始め、利谷は悪態つくことが出来なくなっていた。

 

 その後、宇垣と利谷を含め、体験入部に来ていたほとんどの1年生が書道部に入ることを決意することとなる。結果的には、その年に10人以上も1年生が入ることとなり、書道部が創られて以降、初めての入部する生徒数の多さを記録した。そうなったのも、霞ヶ丘中学校の3年生の女子生徒であり、書道部の部長である“豊条(ほうじょう) 菜月(なつき)”という名前の生徒のおかげであった。

 

 

 これが、宇垣と利谷との出会いであり、豊条先輩との出会いである。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。