柘榴は花恋 -近頃、私、愛したい-   作:純鶏

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10話 自殺

 8月20日の夕方。今は17時を過ぎた辺りの時間である。宇垣 涼平は早くも自室のベッドの上で目を閉じて眠りにつこうとしていた。

 宇垣は病気で床に伏せたように辛そうな表情を浮かべる。布団の下にもぐりながら、苦しそうにもがき続ける。恋愛という名の病気を患わっている宇垣は数分前に睡眠薬を飲み、苦しみから逃げるように眠りの世界へと入ろうとしていた。

 だが、いつまで経っても宇垣は眠れないでいる。思考はぼんやりとしながらも、お腹の中からくる気持ち悪さが眠気を消していき、眠ることを邪魔していた。ついには胸やけを感じ、今にも胃の中のものを吐きそうな気分になると、目を開いては片手で口元を(おお)い始める。

 

「う……ううっ」

 

 ベッドの上で横になっていた宇垣は、布団を払い除けて、すぐに立ち上がった。学習机のそばに置いてあるゴミ箱に顔を向け、胃の中にあったものを胃液と共にゴミ箱の中へとぶちまけていく。

 

「ぅぉっ………うぇぇっ……ぇっ」

 

 口から流れ出る胃液と消化しきれていない残飯物。そして、胃液で溶けきれていないたくさんの錠剤の睡眠薬が吐き出され、ゴミ箱の中に溜まっていく。酸味のある強い異臭が宇垣の鼻を刺激させていくが、今の宇垣自身はそれを気にしているどころではない。

 

「……うそ、だろ? ……ぉぇっ」

 

 嗚咽を吐きながら、宇垣はゴミ箱の中身を恨むような目をして顔を歪ませている。

 宇垣が口から溢れるように出ていったものは、さきほど服用した睡眠薬である。今日というこの日のために、宇垣は事前に市販の睡眠薬を買っておいた。そして今日、1箱分ほどの錠剤を水で飲用し、より溶けるようにと水もたくさん飲み込んだ。その後に宇垣はベッドの上に横になり、ついさっきまで布団をかぶっては睡眠薬が効いてくるのをずっと待っていたのだった。

 

 だが、人間の身体というものは思い通りにはならない。特に人間の体内にある臓器の1つである“胃や腸”というものは割と繊細かつ鋭いものであった。

 いつもと違うという異変を感じた宇垣の胃は、飲み込んだものを追い返してしまう。飲み込んだものを消化することに対して拒否反応を示してしまった。そのため、消化されるはずの睡眠薬は溶けてしまう前に体内からの体の外へと出て来てしまうこととなった。結果的に薬を異物として認識し、それを追い出してしまった胃は、今ではまるで万引き犯に商品を盗られたばかりのショッピングセンターのように、より厳重な警戒態勢を整えてしまっている。

 

「なんで……だよ……っ」

 

 宇垣自身にとっては、飲み込んだ睡眠薬をほぼ全部吐きだしてしまったことは思惑に反していた。本当なら、睡眠薬を飲み込んで、消化して、体内に睡眠薬の成分が効いて、安らかに死ぬ予定であった。

 だが、宇垣にとっては予定外なことに、睡眠薬の錠剤のほとんどが体の外に出てしまっている。今の状況的に、睡眠薬は余っていない。また、ゴミ箱の中にある吐きだした睡眠薬をまた口に入れて飲み込める状態ではないことは見て明らかであった。

 

「くそっ! なんで!? なんでだよっ!!」

 

 宇垣は怒りながら、自分のお腹を叩く。自分に対して憤りを感じてしまっているだけに、自分のお腹にある胃に対して怒りをぶつけてしまう。何度も何度もお腹を叩いてはみるが、宇垣の中にある怒りは消えない。腹部に痛みは感じても、自分に対する憤りは無くならないでいた。

 

 はっきり言ってしまえば、宇垣は色々と失敗していた。予備も含めて睡眠薬をたくさん買うことを忘れていたこと。事前に睡眠薬を飲んだりして、体の中で少しは睡眠薬を慣れさせていなかったこと。睡眠薬の錠剤を細かく砕いて、溶けやすいようにしなかったこと。胃に対して負担にならないように、ある程度食べ物を入れ、胃液がたくさん出て消化しやすくしなかったことなど。宇垣は自殺するという点で言うと、色々な面で詰めが甘かったと言える。

 

「……もう、どうすれば。どうしたら……ううっ」

 

 結局、怒りは消えないまま苛立ちを抱えていく。悲しみと悔しさが込み上げていく中、宇垣は吐き気が弱まったところで立ち上がり、よろめきあいながらも歩き始める。嘔吐した辛さで思考が麻痺しながらも、とりあえず部屋を出て廊下を進んでいった。

 

「とりあえず、なにか……ないかな」

 

 宇垣は壁伝いに歩きながら、ふと宇垣の部屋を出てすぐの家の階段に目を向ける。ぼんやりとした頭の中で、父親のことを。1階にある父親の部屋にある物のことを思い出す。

 

「……父さん」

 

 宇垣は壁に寄りかかりながら思考し、立ち止まったまま虚ろな目をして想像する。

 他に自殺できる方法を。自分を殺す方法を。殺さなくてはいけない存在を殺す方法を。

 

「……ダメだ。それは、父さんを……殺してしまうのといっしょだ」

 

 父親の部屋にある物で自殺する方法を考えついた宇垣ではあったが、すぐに思い留まる。もし、父親の部屋にある薬を使えば、父親を不幸にしてしまう。最悪、社会的に殺してしまう結果になりうるかもしれない。そういった思いから、宇垣は自分に言い聞かせるように言葉を呟きながら、他に自殺出来る手段を考え始める。

 

 宇垣はまた壁を伝いながら2階の廊下を歩いて、現在は父親の寝室となっている部屋と向かう。その部屋は、元々は宇垣の母親が家に住んでいた頃の母親の部屋であり、また両親の寝室でもあった部屋。宇垣は扉を開けて、部屋の中にある薬箱を探し始める。

 

「…………あれ?」

 

 部屋の中に昔からある大きい棚。宇垣は棚の上に置かれている物に、薬箱らしきものがないか探す。しかし、昔はあったはずの場所に薬を入れてある箱はなく、いくら棚の上を見渡しても、目当ての物が見当たらない。宇垣は少し戸惑い始めながらも、部屋の中を見渡し始めた。

 

「どこだ? どこにあるんだ?」

 

 テーブルの上、引き出しの中、タンスの上、テレビのそば。夕暮れの太陽の光が窓から入って来てはほんのりと照らされている部屋の中を、宇垣は必死になって探していく。

 宇垣はしばらく探していて、ベッドのそばの棚の下にある木製の箱を見つけ、手を伸ばす。木箱のフタを開けてみると、そこには市販で売られているような薬やら、病院でもらった薬などがたくさん入っていた。

 

「あった。えっと……」

 

 宇垣は箱の中をまさぐり、薬の1つ1つを確認する。床に適当に置きながら、薬の袋や箱を散乱させていく。その中に、睡眠薬は1つも含まれてはおらず、宇垣が思っていたものは箱の中には無かった。

 

「………ない、か」

 

 宇垣は落胆するかのように大きく溜め息を吐く。しかし、本当に落胆したわけではない。顔色は絶望の色に染まってはおらず、自殺することは諦めていなかった。

 

「そっか。粉末状(これ)なら……」

 

 確かに睡眠薬は存在しなかった。だが、睡眠薬でなくとも、睡眠薬と似た効果のある薬は存在する。特に、病院でもらったまま飲用しなかったものや市販の薬でも粉末タイプのものがそこにはあった。それは宇垣の父親が風邪を引いた時、頭痛が止まない時など。全部を使い切ることなく残っていた薬である。

 宇垣の表情が少し緩む。宇垣にとっては、父親が病院でもらったり、薬局で購入した薬こそが自分の求めていた物であったと感じたからだ。父親が残しておいてくれたおかげだと思うと、つい自分の父親に対して感謝の念を抱いてしまう。

 

「……いかないと」

 

 宇垣は床に置かれた薬の袋や箱を薬箱の中に戻し、それを持ちながら父親の寝室を出る。今度は壁を伝うことなく、宇垣の部屋へと歩いて向かう。

 

「はやく……しないと、手遅れになる」

 

 宇垣は少し慌て始めていた。理由は急がないと自殺することを邪魔されるからだ。それも自分自身。自分の中にいる自分に、である。

 足早に歩きながら、宇垣の頭の中に不安がよぎっていく。時間も運命も親も自分も他人も。その全てが、宇垣が自殺することへの未来を閉ざそうとしてくることは、宇垣自身にとって想像に難くなかった。時間が経てば経つほど、宇垣は自分という存在を殺す前に自分の意識や意志が殺され、自殺することが叶わなくなっていくことを知っていた。

 つまり、自殺出来なかったという結末を想像し、自殺を諦めてしまう状況に至ってしまうことを、宇垣は恐れた。その想像が、不安と焦燥が混じった感情を抱かせ、宇垣の足取りを早めていく。

 

 自分の部屋に入った宇垣は、学習机の上に薬の入った木箱を置いて、箱の中に入った薬を取り出していく。今から飲み込む薬を学習机の上に集め、イスに座って目を閉じては思考し始める。

 宇垣はさきほど、自殺することに失敗した。だからこそ、自殺するためにはどうすればいいか、完全に自分を殺すためにはどうしたらいいか。もう一度考え直し、イメージする必要が宇垣にはあった。

 

「…………ふう。簡単にはいかないね」

 

 宇垣は自分自身の頭の中で想い描いた自殺のイメージに対して、少し息を吐きながら皮肉めいた声色で呟く。表情に不気味な笑みを浮かべ、窓の外に視線を向けては夕焼け色に染まる外の景色を見つめる。

 

「甘かったのかな、楽に死のうなんて。やっぱり……自分からじゃなきゃ、自分さえも殺せないのか」

 

 現実の辛さに嘆くように、しみじみと言葉を呟く宇垣。口から吐いた言葉が宇垣自身に重くのしかかっていき、自分の中にある弱い部分を押し殺さなければいけないことを実感させる。

 

 今日、宇垣が実行しようとしていたこと。それは、比較的楽に死ねるという理由から、睡眠薬を多量に摂取しての自殺であった。

 誰だって自殺する時に苦しみたくはない。宇垣も同じで、焼身自殺や一酸化炭素による中毒死。心臓を貫いたり、静脈を切ったりなどの出血多量による自殺は、宇垣自身にとってハードルが高かった。自分を殺すという意志は固まっても、いざ実際に苦しみを堪えながら自分を殺すことは、そう容易ではないのだ。

 

 人は無意識にでも痛みや辛さから逃れようとする。反射的に避けようとしたりして、死ぬという行為に拒否反応を起こしてしまう。だから宇垣は、眠りながら死ねるという睡眠薬による自殺を選んだわけだった。

 だが、痛みや辛さが無かったとしても人は生きようとする。人は人間の本能や生物の性からは、決して逃れられない。そうなると、自分を殺すことに必要なのは確実性と本能ですら抗えない不可抗力によるものであった。

 しかし、宇垣のしようとしていた睡眠薬による自殺は確実性を欠いていた。普通なら死んでいたのかもしれないが、宇垣自身に備わる生命力が意志に反して宇垣を救ってしまったわけである。

 

 自殺に失敗したことで、宇垣は思い知る。楽に自分を殺そうなんて、間違っているのだと。中途半端な思惑で自殺をしても成功しないのだと。身を持って経験したからこそ、宇垣はそう痛感した。

 そこで宇垣は、確実性を持つためにも自分の手で自分の命を絶つことを決心し、自分を殺すイメージを頭の中で浮かべた。けれど、宇垣がイメージしていた自殺は用意ではなかった。さきほどの睡眠薬によるものとは違って、生半可な気持ちでは出来ない。だからこそ宇垣は、薬によって死ぬのではなく、薬の効果を伴った上で自殺することを考えていた。

 

 

 宇垣は立ち上がり、学習机の上に置かれたコップを手に取って、自分の部屋を出ていく。2階にあるトイレへと向かい、手洗い場の水道から水を汲んで少し飲む。減った分をまたコップの中に汲んで、自分の部屋にもどっていく。

 そして、自分で考えた自殺を実行するための準備を始めていた。

 

「さて、と。準備は、これでいいはず……だよね?」

 

 しばらくして、自殺の準備を終えた宇垣は、再びイスに座った。窓を全開に開き、机の上にあるものを確認する。

 封が開けてあるいくつかの薬。水の入ったコップ。音楽プレーヤーとイヤホン。鉛筆。封筒から出した、遺書の手紙。そして、コンセントの延長コードとダンボールカッター。

 宇垣は延長コードを持ち、窓から2階の屋根へと出て、エアコンの室外機に延長コードを固く結んでいく。そして延長コードの長さを確かめ、先端に頭が入るくらいの輪っかを作っていった。

 

 宇垣の行おうとしている自殺は、首つりによるものである。

 薬を多量に飲み、ダンボールカッターで手首を切った後、部屋の窓から出てすぐにある室外機にコンセントの延長コードをくくりつけて、2階の屋根から地面へと飛び降りる。宇垣の考えている自殺の計画はそういう内容であった。

 ただ、首つりをする時点で、薬を飲むことと手首を切る必要はない。けれど宇垣には、もう自殺は失敗したくないという想いがあった。念には念を入れて自殺することを考え、死ねる可能性を少しでも高くしようと大量の薬とダンボールカッターを用意していた。

 

「これで、完成かな」

 

 宇垣は家の屋根の上で延長コードの輪っかを首に入れたり、締まるか軽く試してみたり、簡単に取れないか強度を確かめたりする。自殺出来ることに確信が持てると、すぐに自分の部屋へと戻り、学習机の前にあるイスに座った。

 

 学習机の上にある薬は合計で8つ。宇垣は少し水を口に含んだ後、袋や箱に入った薬を2つずつ口の中に入れ、水と一緒に飲み込んでいく。6つほど飲み込んだ辺りで、もう一度水を汲みに水道へと向かい、また薬と水を飲み始めた。そうやって薬を全部飲み込んだ後、宇垣はコップを学習机の上に置いて一息つく。

 

「…………ふう~っ」

 

 軽く目を閉じながら、宇垣は胸を膨らませるように大きく深呼吸する。息を出し切ると、目を開いては学習机の上にある音楽プレーヤーに視線を移した。音楽プレーヤーとイヤホンを手に取り、電源スイッチを押して起動させては、イヤホンを両耳につけていく。イヤホンのプラグを音楽プレーヤーに繋げ、中に入っている音楽フォルダを選んでいき、「ベートーベン」の文字が出て来たところで操作を止めた。

 

「さて、始めるか」

 

 音楽プレーヤーを学習机の上に置いて、宇垣は右手で再生のボタンを押す。すると、イヤホンからベートーベンの曲が流れ始め、宇垣は耳から音が漏れるほど、音量を最大にしていく。

 宇垣は音楽を聞きながら、学習机の上に置かれた遺書の入った封筒を手に取り、中に入っている紙を取り出した。学習机の上に紙を広げ、右手で鉛筆を持ち、空白のある部分に文字を連ねるように書き始める。

 

 宇垣が遺書として残しておいた手紙に文字を書き始めたのは、生きたいという想いや自殺することへの恐怖心を麻痺させるためであった。文字を書くことで思考を鈍らせ、自分に呪いをかけることで、躊躇(ちゅうちょ)なく自殺に挑めるからだ。

 そして、紙を空白の部分を文字で埋め、書くスペースを失った瞬間。宇垣は自殺し始めることを心に決め、文字を書き終えることが自殺へと踏み出す区切りとして、遺書の紙に文字を書き始めていた。

 

「……仕方無いんだ。無理じゃない。するしかない。めんどう。いや、動くだけ。いっしゅんだから。だからやれよ。なんで、やるしかない」

 

 言葉を口ずさみながら、宇垣はひたすら文字を書き連ね、書くことに集中していく。自分に言い聞かせるように自分に対して呟きながら、自分の世界に入っていく。

 宇垣が音楽プレーヤーの中で選んだ曲は、ベートーベンが作曲したと言われるピアノ曲。「熱情」や「告別」、「悲愴」や「月光」などのピアノソナタがある。その中でも、「熱情」という曲を耳にしながら宇垣は曲の勢いに乗って紙に乱暴に文字を書いていた。勢いに任せ、自分に暗示をかけるように一心不乱に書く行為が、宇垣の心を満たし始め、自殺へ向かうための準備を整えていく。

 

「いけいけいけいけいけ、いげいげいげぇぇっ!!」

 

 宇垣は喉が荒れるような声で、声を大きくしていく。頭を軽く揺らしながら、目が乾燥するかのように見開いて紙を見つめている。

 ひたすら、休む間もなく、速く、流れるように、宇垣は文字を書く。文字を見ながら書いて、書きながら言葉を口に出して、自殺するための言葉を頭の中に埋め尽くしていく。

 

 遺書である紙の隅まで文字を書ききった瞬間。宇垣は鉛筆を適当に壁に向かって投げ、学習机の上にあるダンボールカッターで手首に勢いよく切り込みを入れる。力にまかせて引いたことにより、手首の中の血管は切断され、血があふれるように垂れ始めていった。

 

「ぅぅ、うがああああああああっ!!!」

 

 宇垣は痛烈な痛みを味わい、笑みと痛みが混じったような顔。歪んでいる表情を浮かべ、うめき声を口に漏らしながら、窓へと走り出す。窓に乗り出し、延長コードの結んである輪を首に入れ、地面へと向かって跳んだ。

 宇垣は首つり自殺を行った。自分を殺すために、誰かを殺す前に、愛する人を想って。

 

 

 

 その後、宇垣 涼平という人間の自殺は、成功した。

 

 

 

 ×      ×      ×      ×

 

 

 

 2005年8月27日の夜。時刻は20時を過ぎ、宇垣の家のほとんどが真っ暗である。今は先住者である人間の一人が部屋にいることを除いて、宇垣の家には他に誰もいない。

 先日まで葬式やらお通夜やらと色々と人通りの激しかった宇垣家ではあったが、今では人気の無い寂しい状態である。まるで、誰もいないという雰囲気を醸し出しているかのようだった。

 

「すぅー…………っ」

 

 宇垣 涼平の父親。宇垣 雄太は茶色のタンクトップのシャツに黒い色の短パン姿で、自室のイスにゆったりと座っている。部屋の中は暗く、明かりは机の上に置かれたパソコンの光によるものだけ。そこに、小さな火の光がぼんやりと現れる。

 壁に備え付けてあるエアコンが部屋の中の暑さを冷やしていた。だが、普通の人間ならばシャツと短パンだけでは肌寒い室温ではあった。それでも、父親の雄太は気にせずにいる。筒状のものを口にくわえ、ライターの火でそれを燃やしては、煙を口の中に充満させている。

 

「…………ふぅ~~っ」

 

 父親の雄太は自室の天井に顔を向け、一気に体内の空気を口から吐き出した。ついさっきまでパソコンを触っていたのだが、今は一段落するように手を止めて休憩している。

 

「はぁー……疲れた」

 

 椅子に背中を預けたまま、父親の雄太は気だるそうにぼんやりと天井を見つめる。今日までのことを思い出していきながら、とうとう明日が迫っていることに嫌気が差してきていた。そのせいで、今は明日のことで頭がいっぱいになっている。

 

「明日から仕事かぁ……休みもあっという間だったな」

 

 宇垣 雄太の息子。涼平が死んで6日が経とうとしている。仕事を休んでいた父親の雄太ではあったが、明日はいつものように出社しなければならない。携帯電話会社の社員である雄太に、携帯電話が普及しているこのご時世で休みを多く取れる余裕はない。

 

「……あー、面倒臭いな」

 

 宇垣が自殺をした日。8月22日以降、父親の雄太は葬式とお通夜。その他に親類や身内の人間への挨拶、警察やマスコミの接待などの日々に追われていた。そして、今日になってやっと時間を自由に取れるようになっていた。

 父親の雄太が休む暇もなく、忙しく過ぎていったこの数日間。その全ては、宇垣涼平の自殺が要因である。それだけに、雄太はストレスを感じていた。

 

 しばらく休憩していると、父親の雄太は頭が段々とぼんやりしていく。そこで、眠気を覚ますためにテレビの電源をそばにあったリモコンのボタンを押して入れる。何回かチャンネルを変えたりしながら、今の時間帯にやっている番組に目を通していく。

 

『次のニュースです。先週、石川県加賀市の霞ヶ丘町在住の16歳の高校生が、解熱剤や風邪薬を多量服用し、車に()ねられて死亡した事件で、霞ヶ丘高校の』

 

「ちっ!!」

 

 だが、父親の雄太は舌打ちをしてすぐにテレビのリモコンで電源のボタンを押す。ニュース番組で自分が関わっている事件のことが報道されていることを知ると、すぐさまテレビの電源を切った。

 

「まだ、やってんのかよ。いい加減やめてくれよな」

 

 雄太は苛立ち気味に、テレビのリモコンを机に力強く置く。しばらく目を閉じて、苛々している頭を冷やす。しかし、雄太の機嫌は良くならない。むしろ、表情に段々と怒りを露わにし、機嫌は悪くなる一方であった。

 

「……くそっ、もっかい吸うか」

 

 雄太は自分の机の引き出しを開け、手探りで何かを探し始める。しかし、そこに目当てのものはない。そこで雄太は、ついさっき吸っていたものが最後の1つであったことを思い出す。

 仕方無さそうに、雄太は椅子から立ち上がって、近くのタンスに手を伸ばす。下着が入っているところの中から、片足しかない靴下を手に取り、その中から1つの鍵を取り出した。そして、タンスの一番大きい引き出しの奥に隠してある頑丈そうな箱を取り出し、鍵のロックを外していく。

 

「ん? これは?」

 

 雄太が箱を開けると、そこに見慣れない封筒が入っていた。不思議そうな表情でその封筒をパソコンの光の前で照らすと、雄太は納得した様子で表情を緩める。

 

「ああ。涼平のか。そういや、これを渡すの忘れてたな。たしか……相田くんだっけか?」

 

 その封筒は、宇垣 雄太の息子である涼平が、友人の相田 政に宛てた手紙であった。厳密には、自殺する前に書き残した相田に対する遺書のようなものである。

 ところが、涼平の残した封筒を1番最初に見つけた父親の雄太は、すぐさま中身を確認し、その封筒を誰にも見られないようにと隠してあった。書いてある中身が雄太にとって困る内容ではなかったが、遺書を残していたとあっては自分に都合が悪くなると思ったのか、その手紙はまだ相田に手渡されていない。

 

「あいつにも、やっぱり友達はいたんだな。ったく、紹介くらいしとけよ。そうだったら、その時に……」

 

 頑丈そうな箱の中に入っている薬の袋に目を向けながら、雄太はぶつぶつと呟いていく。不満を抱える雄太ではあるが、息子の涼平があえて友人をいない素振りをしていたことに気付かない。涼平が父親にバレないようにするために、相田を家に呼ぶことはしなかったこと。学校でのことを父親にはあまり話さなかったこと。宇垣は相田に迷惑がかからないように、あえて相田の存在を隠していたのだった。そのおかげで、父親に雄太には今まで気付かれずにいた。

 雄太はぶつぶつと呟きながら、涼平の残した封筒の中身を取り出し、手紙の内容にもう一度目を通していく。いざ、落ち着いて読んでみると、友人に対して宛てる手紙にしては、酷い内容であった。むしろ、友人に重荷を与えるような手紙の中身に、雄太は息子の涼平の真意が恨みや後悔によるものであったことを感じ取ってしまう。

 

「まあ、いいか。とりあえず………」

 

 息子の残した手紙を雄太は机の上に適当に投げて、施錠出来る頑丈な箱の中から粉末の入った1つの袋を取り出す。またしても、怪し気な薬を火で(あぶ)っては筒状のもので吸い、口から体内に入れていく。

 幸福感と癖になる感覚に酔いしれながら、雄太は目をつむって椅子に体重を預ける。

 

「……ふぅ。ああ、本当に静かだ。もう1人なんだな」

 

 雄太は虚ろな目をしながら、静寂に包まれた自分の家に誰もいないことを実感する。昔はいた嫁も、この前までいた息子も、つい最近まで家に来ていた人間も、今はいない。家に自分以外の人間が誰も存在しないという事実が、雄太に開放感を与え、雄太の心を躍らせる。

 

「この家には、もう誰もいない……っふ、ふふふふ、ふはははははっ」

 

 雄太は笑わずにいられなかった。嬉しさが表情に(にじ)んでいき、楽しさで声が大きくなっていく。部屋に笑い声が響いて、子どものように雄太ははしゃいでしまう。大人が子どものように、気でも狂っているかのように、部屋の中で有頂天に騒いでいる。

 

「やったぞ! やっと自由だ。やっと、俺は自由になれたんだ。これで、もう俺を縛る人間はいない。俺だけの人生をやっと歩められる!!」

 

 雄太は幸せの感情を込めるように、喉から次々と言葉を吐き出す。決して、後悔も懺悔(ざんげ)も呟かない。

 これで良かったのだと。これで幸せなのだと。これで自分は、何も縛られないのだと。雄太はただ、ひたすら現在を肯定していく。

 

「よかった……本当に、よかった。はははっ、これで俺は、きっと幸せになれる」

 

 雄太は満面の笑みを浮かべ、幸福の感情を声に込める。幸せの絶頂を感じている。

 しかし、喋れば喋るほど雄太の胸は辛くなっていく。気持ち悪さが、体の中から悲鳴を上げるように湧き上がってくる。

 

「ありがとう涼平。死んでくれて、ほんと、う、に………ぅぅっ。うええぇっ」

 

 幸せそうに涙を流しながら、雄太は最後まで言葉を絶やそうとはしない。心の奥底に感じているものを閉じ込めるように、幸せだけを感じていく。

 しかし、身体は堪えきれず、雄太は机の上に全てをぶちまけてしまう。涙を流し、胃液を吐き出す苦しみに堪えながら、体の中で押しやっていたものが溢れ出て来てしまう。

 

 

 いつの間にか、雄太の机の上は吐露した残骸(ざんがい)まみれになり、雄太自身のお腹に入れたものが全部出し尽くした。自分のお腹の中に何も無くなったことで、雄太は気付いてしまう。気付きたくないものを、雄太は気付かされてしまった。

 息子を失ったことで、自分が失ったもの。雄太に残されたものは、何もないこと。自分以外、何も残されていないということを。雄太はそれに気付いた時には、椅子から起きる気力さえも無くなっていたのだった。

 

 

 宇垣 涼平が書き残した手紙。相田 政に宛てた遺書は、後日ゴミ箱と共に捨てられる。

 決して相田の目に届くことはなかった。

 

 

 

 ×      ×      ×      ×

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

「い、がぁ……ぃ……」

 

 8月20日。夕方の5時42分。

 宇垣 涼平は、家の前の地面に寝転がっていた。

 

「あ………んで……じな、なぃ」

 

 ちぎれた延長コードが首に巻かれながら、宇垣は地面を転がり、絶望の中で泥のような感情がとてつもなく湧き起こっていた。

 

「じゃ、あ……ばぃ、あ、ああ……ぁ」

 

 目が虚ろになりながら、宇垣は理性を失っていく。

 逆に、首つりで命が絶えなかったことによって、宇垣の本能が爆発的に解放され、抑制していた隔たりは消えた。

 

「ぁ………あは。あひゃひゃはやああああ!!!」

 

 気でも狂ったかのような。宇垣は狂人染みた声を上げ、瞳孔が開き、指全体に力が入っていく。

 本能に赴くままとなり、理性が消えた状態となった宇垣は、土を掻き分けて奇声を大きく上げていく。

 

「うぎゃああああぃいいやああぁぁ、うぇぇっ!!」

 

 嗚咽し、胃液を吐きだす。吐きだし終えると、顔を上げて、白目を半分ほど向きながら、宇垣は外の世界を見る。

 

「ひぇ、へへへ……ぉぅ、ぃぃや。いいいいいやああああはああっはっはあぁぁ!!」

 

 本能が。人間の性が。生理的欲求が。

 宇垣 涼平という人間性を。宇垣 涼平という人格を。

 微塵もなく押し殺して消滅させる。

 

 宇垣は右手で何回も髪の毛を引きちぎり、湧き上がる衝動を抑えることなく、宇垣ではない宇垣という人間へとなっていく。

 

 

 人はみな、名前、記憶、性格、顔、身長、指紋、その他諸々が存在し、定められ、備えられている。

 しかし、何があれば人は別の人間に変わるのだろうか。何が変われば、何が無くなれば、人はその人でなくなるのだろうか。

 

 例えば、記憶。もし記憶を全て失えば、それは別の人間となり、別の人格となって、今までの元の人間ではなくなってしまうのだろう。

 だが、記憶を全て失ったところで、名前も顔も指紋も変わらない。別の人間として周りから認識はされない。たとえ、別の人間になったとしてもだ。

 

「なんでぇ、死にだぐない! あああ、愛したい! こ、ろじだい!!」

 

 人は人でしかない。

 個人がどうあがいても別の人にはなれない。

 個人の中に別の人格があったとしても、その個人が別の人にはならない。

 

 だから人格は、1人に集約する。

 

 たとえ、人格が2つであっても、それは1つでしかない。卵の中に黄身が2つあったとしても、卵が1つなのは変わらないのと一緒である。

 そして、その卵が割れた時、2つだった黄身をかき混ぜれば1つになる。

 

「ごぉろず! ごろじだい! 殺してぇあいじでぇぇっ、ころぉしたぁいいいぃっ!!」

 

 今の宇垣は、別の自分という人格が混じった新たな自分となり、理性が定まらないでいる。そのせいで、宇垣は抑えていた欲望に忠実になり、素直に受け入れてしまう。

 それは宇垣が一番避けたかったこと。宇垣自身が今まで恐れていたことが、宇垣の身に起こっていた。

 

 愛したいという欲望。殺したいという欲望。欲求は強くなるばかりで、止まることも消えることもない。

 ついに宇垣は立ち上がり、家の前の道路へと狂った足取りで力強く駆け出していった。

 

 横からスピードを出してやって来る車の存在も気にせず、宇垣は幸せそうに道を横断してしまう。

 恐れることも、留まることのない宇垣を、自動車を運転している人間には避けることは出来なかった。 

 

「あいじ、だい! 私、愛しだっ、があぁっ!!!」

 

 

 

 

 だから、宇垣 涼平は

 結果的に言えば、自殺を成功させたのだった。

 

 


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