柘榴は花恋 -近頃、私、愛したい-   作:純鶏

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9話 愛想

 2007年7月23日。相田が椎名に告白をした日から2年ほどの月日が経ち、相田と椎名は霞ヶ丘高校の3年生となっていた。学校生活を楽しみつつ、今は日々のテストや進学に向けての勉強に勤しんだりしている。

 

「ねぇ? ねぇってば、政!!」

「え? どうした?」

 

 椎名に呼びかけられ、うつむいていた相田は気づいたように顔を上げた。すると椎名は眉を寄せて、相田に顔を近づける。さきほどから話半分にしか聞いていないような相田の反応に、椎名は相田に怒り気味に尋ねる。

 

「どうした? じゃなくてさ。ちゃんと私の話、聞いてる?」

「……ごめん、何だっけ?」

「だからね。私の父さんがね、政と一緒に食事に行きたいって言ってるの」

「へ、へぇ……そうなんだ」

 

 椎名は2年前の相田の告白を受けてから、相田と付き合うこととなった。今では相田と椎名は恋人の間柄として、日々を過ごしている。

 そして今日は、相田と椎名の2人が付き合い始めて2年目の記念日であった。椎名の提案で、椎名の家で記念日のお祝いをすることになり、椎名の部屋で簡単なパーティを開いていた。

 

「……って、え? 今なんて?」

「ああもう! バカなの? 知らない!!」

「ご、ごめん、ちょっと考え事していたから」

「いいよ、もう!」

 

 椎名はふくれっ面になりながら、相田から背を向けるようにそっぽ向いてしまう。機嫌を損ねた椎名を見て、相田は慌てて椎名のそばまで近寄っていく。椎名の横顔を見ながら、申し訳なさそうに頭を下げて謝った。

 

「ほんとごめんって。今度こそはちゃんと話聞くからさ」

「……ほんとうに?」

「うん、ほんとほんと!」

「じゃあ、次こそ私の話をちゃんと聞かなかったら、父さんに言うんだからね。政は銭湯か温泉宿に行って、男同士で裸の付き合いがしたいって」

「やめろ智華! それだけはやめてくれ!!」

 

 相田の表情がより真剣なものに変わり、非常に慌て始める。慌てている相田の態度が椎名にとって予想以上に可笑しく、少しだけ笑っては、相田に問いかける。

 

「え、そんなに嫌なの?」

「嫌っていうか、なんか怖いんだよ」

「恐い? 私の父さん、そんな恐くないよ?」

「いや、気味が悪い方の怖いって意味で」

「……うん? どういうこと?」

 

 椎名は不思議そうに頭を傾げる。相田が言っていることの意味がいまいち分からないでいた。

 なぜなら、椎名とは違い、相田は椎名の父親とは他人である。他人であるからこそ、相田に対する椎名の父親の下手くそな関わり方に違和感を抱いてしまう。馴れ馴れしさや何を考えているのか分からない雰囲気が、相田に怖さを感じさせていた。

 

 ところが椎名は家族であるが故に、その怖さが感じていない。父親がどんな人間か分かっているからこそ、相田の感じているものが分からない。

 

「と、とりあえず、智華の父さんと2人きりは嫌だから。もう絶対に」

「ふーん、まぁいいや」

 

 相田が父親を嫌がる態度に、椎名はそこで話をやめる。

 椎名とて、相田に嫌がらせをしたいわけではない。むしろ今は、お祝いをしている時である。だからこそ、相田には気分を盛り上げて欲しいところであった。

 

 しかし、相田は心ここにあらずといった雰囲気で、さきほどから表情が硬い。椎名は相田のお祝いすることが気乗りでない態度が気になり始め、相田に問いかける。

 

「そもそも、なんでそんなにテンション低いの?」

「え? テンション低いか、俺?」

「だって、さっきから全然嬉しそうじゃないもん。目の前にジュースとかケーキとかあるのに」

「いや、嬉しいよ? 特にマカロンなんて普段あんまり食えないから、めっちゃ嬉しいし、めっちゃ美味しいよ。うん、めっちゃ!」

「本当? なんか、わざとらしいけど……」

 

 椎名は相田を疑うように、疑惑の視線を相田に向ける。それに気づいて、相田は視線をどこか別の方に向け、マカロンを口に頬張る。見ている感じでは、本当に美味しそう食べているようには見えない。

 

「せっかく、私達が付き合い始めて2年のお祝いなんだからね。辛気臭い顔はやめてよ」

「……ごめん」

「どうしたの? なんか私に言いたいことでもあるの? それとも悩み? 用事? 何?」

「えっと……その……」

 

 相田は微妙そうな表情を浮かべる。言い辛そうに、どもっているように、椎名にどう言おうかと言葉を探している。

 相田の頭の中で、椎名に言っていいのか、言っては良くないのか、頭の中でせめぎ合っていることが見て分かる。

 

「あんまりこんなこと言うのもあれなんだけどさ」

「何? え? 政、もしかして、何かヤバめなことしちゃったの?」

「そうじゃないんだけどさ」

「じゃあ何なの!?」

 

 椎名は苛立ちを覚えたのか、少し怪訝そうな表情に変わる。相田の煮え切らない態度に、椎名の声がだいぶ怒り気味になってしまう。

 そこで相田は、これ以上椎名を待たせてはいけないと感じ、椎名に言うことを決心する。

 

「えっと、宇垣(うがき) 涼平(りょうへい)のことなんだけど」

「うがき、りょうへい……」

 

 ばつの悪そうな顔で、相田は弱々しく言葉にする。椎名の前では言いたくなかった名前。今まで言うことを阻んでいた名前を、相田は椎名に対して言ってしまう。

 相田が久しぶりに口にする名前を聞いて、椎名は怪訝そうな表情のまま、沈黙を貫いていた。しばらくして、黙っていた口を開き、相田に向かって言葉を放つ。

 

「誰それ? 同じ高校の人?」

「…………は?」

 

 相田は、予想していなかった返答に、言葉が出なくなってしまう。椎名が宇垣の名前を聞いて、宇垣という人物のことを相田に問いかけるとは思ってもみなかったからだ。

 

 椎名は相田の反応を見て、考えるように自分の記憶を思い返してみる。しかし、思い出せない。宇垣という名前の人物が自分の身の回りにいたか覚えていない。いくら考えても思い出せないので、椎名は考えるのをやめた。

 

「で、その人がどうしたの?」

「どうしたのって……宇垣 涼平だよ。1年の時にいた、同じクラスだった、あの宇垣 涼平! 智華、忘れたのかよ!!」

「ちょっと、そんな怒鳴らないで。えっと、たしか……1年生の時の秋に転校した人だっけ?」

「違う! 1年の夏休みの終わりの頃に、自殺したやつだよ!!」

 

 相田は声を荒げて言ってしまう。2年前に相田が椎名に告白をした1ヶ月後、宇垣が自殺をしてしまったことを。椎名にはなるべく思い出させたくなかった出来事を。つい、口にして言ってしまう。

 

 ずっと相田は気にしていた。もし、宇垣が自殺したことを言えば、椎名がどう反応するのか。嫌なことを思い出させてしまうのではないか。触れてはいけないことに触れて、椎名を悲しませてしまうのではないか。そういった気持ちを抱いていただけに、相田は宇垣の名前を言わないようにと気をつけていた。

 

 だが、椎名は忘れている。それは、相田が今まで口にしなかったおかげなのかどうかは分からないが、今の今まですっかり忘れていた。

 逆に相田は宇垣のことを今まで忘れることが出来ずにいた。特に今日は、椎名と交際し始めたことを思い出させる記念日。嫌でも宇垣のことを思い出してしまう相田は、今年も宇垣のことを思って考えていた。

 

「……ああ。そういや、そんな人いたね。もういないから忘れちゃってたよ」

「忘れちゃったって……おまえ」

「そういや、そんなこともあったね。たしか私、その人に告白してフラレたんだっけ」

「その後に、俺が智華に告白したんじゃないか」

「そうそう! それで私、次の日にオーケーしたんだよね。懐かしいなー。ふふふ」

 

 椎名は相田と交際するようになってからの経緯を思い出し、懐かしむように微笑む。でも相田は、椎名と違って和やかに懐かしむ気持ちにはなれないでいる。

 

「でも、良かったなー。その……宇垣、だったっけ? 私、その人と付き合わなくて」

「……なんでだよ?」

「だって、自殺するような人だよ? なんか、絶対重そうじゃない。きっと長くは続かなかったと思うな」

「それは……そう、なのかも」

 

 相田は椎名の言葉を聞いて、頷いた。それは相田があの頃の椎名と宇垣のことを覚えているからこそ、相田は頷いて同意した。

 2年前、実際は椎名と宇垣は両想いであった。あの頃の椎名は本気で宇垣のことを想っていた。宇垣もまた椎名のことを想っていたことを相田の前で口にしていた。相田がいなければ、2人が交際していた可能性は高い。

 

 しかし、宇垣と椎名が本当に付き合っていたとしても、両想いになって愛を確かめ合っていたとしても、最後には破綻していた。きっと長くは続かなかった。そういう風に相田と椎名が思えてしまうのは、宇垣が自殺してしまったことが原因であった。

 

「それに……」

「それに?」

「なんで好きだったのか、ほんとに好きだったのか。それこそ、その宇垣って人に対して本当に恋心を持っていたのか。今思い出してもよく分かんないから」

「どういうこと?」

 

 相田は、椎名が本気で宇垣に恋をしていたことを知っている。むしろ宇垣に対して恋心を抱いていたと思っていたからこそ、椎名の曖昧な発言がどういう意味なのかを問いかける。

 

「なんだろう。なんて言えばいいんだろうね。恋に恋してたって感じなのかな? なんか、誰でもいいから愛したかったというかね。うーん、やっぱりよく分かんないや」

「……そっか」

 

 相田はそれ以上喋ろうとはせず、天上を見上げた。見上げて、少し考えて、なんとなく悟ってしまう。椎名が宇垣のことを今まで忘れていたのは、きっと忘れることで自分の心を守っていたのだと。

 

 だがそれは、結局のところ椎名が椎名自身の中にある宇垣という存在を殺し、消し去ったのと変わらない。宇垣に対して燃えていた自分の気持ちも感情も何もかも、椎名は捨て去り、火が消えたようにすべてを忘れたのだ。

 それに加えて、椎名は相田という存在で宇垣を埋め尽くした。恋人である相田の存在で埋め尽くし、再び恋心を相田に向けて燃やした。宇垣に対する恋は焦げ尽くした灰となって消え、今は相田に対する恋で椎名の心は焦がされている。

 

「てか、その宇垣って人がどうしたの? もしかして、政の枕の上に化けて出た?」

「そうじゃねーよ。ただ、ちょっと思い出したからさ。なんか、気になって」

「そんなの気にせず、食べようよ。今は死んだ人のことを考えるのはやめてよね」

「それもそうだな。ごめん」

 

 相田は椎名の言葉を聞いて、宇垣のことを考えるのをやめようとする。グラスにオレンジジュースを入れ、一気に飲み干していく。酸味と甘さの効いたジュースが、相田の喉と共に気持ちをも潤していった。

 気持ちが軽くなったような相田の表情に、椎名も気持ちが軽くなっていく。椎名もビンに入ったシャンパンのような飲み物をグラスに入れ、口に入れていった。

 

 

 しばらくして椎名は宇垣のことをすぐに忘れ、用意してあったケーキを口に含み、美味しいという幸せを噛みしめる。相田も、ケーキを食べて、甘いという味覚に心を満たしていく。

 

 

 それでも、相田の心に。相田の頭に。相田の記憶に。

 宇垣の存在が消えることはなかった。

 

 

 

 ×      ×      ×      ×

 

 

 

 2005年8月24日。相田は霞ヶ丘高校の制服を着て、宇垣の家を訪ねていた。

 正確に言うなら、相田だけではない。相田以外の人間も黒い喪服で宇垣の家を訪ねて来ている。

 

 相田はクラスメートであり、親友であった人間。宇垣 涼平の写真の前まで来ると、線香をあげては、両手を合わせて頭を下げる。お坊さんが低い声で唱えている呪文のようなお経を耳にしながら、しっかりと心の中で別れを告げていく。

 

 頭を上げるとすぐに相田は振り返って、宇垣の写真から背を向けるように歩いて行く。それは、相田が宇垣の写真を直視することを避けようとしての行動であった。

 相田は少し歩いて、宇垣の親族がいるところまでやってくると、慣れない言葉を口にして挨拶をしていく。

 

「この度は、本当にご愁傷さまでした」

「……たしか、君は涼平の友達だった子だね?」

「はい。涼平くんの友達の相田 政と言います」

 

 相田は言葉を添えて、40代後半の男性にお辞儀をする。相田は何度か目にしたことがあったから知っていた。

 やや身長が高めで、やつれたような顔つきの男性。そして、涼平という名前を口にする男性は、宇垣 涼平の父親であった。

 

「今日は息子のために来てくれてありがとうね」

「いえ、俺は涼平くんの友達として……その、当然ですから」

 

 相田の表情は引きつっていた。悲しみと悔しさが混じり、父親に対してどんな表情をすればいいのか分からないような感じで、目を細めて、口角を上げる。

 宇垣の父親は、相田の微妙な表情を見て、相田の言葉を聞いて、優しく微笑む。疲れていそうな雰囲気をしていても、しっかりと息子の友人を労わろうとしていた。

 

「そっか。本当に、今までありがとう」

「…………すみません」

 

 親友の父親の前にいた相田は、その場にいることが堪えきれなくなって、父親の前から足早に立ち去っていく。黒い革靴を履き、玄関を出て、宇垣の家の外に出る。

 空は晴れ、太陽の日差しが相田の全身に刺さる。宇垣の家の前で立ち尽くし、相田は青空を見始める。相田の中で失ったものが、青空の中へと飛び立っていくように。相田はただ、晴れ渡る青い空を見つめていた。

 

「お、相田じゃねぇか」

「ん? あ、利谷(としたに)。おまえも来てたのか」

 

 相田に声をかけたのは、相田の隣のクラスの生徒。名前は“利谷(としたに) 侑治(ゆうじ)”と言い、相田とは高校の中で数少ない他のクラスの知り合いである。

 

「そりゃあな。同じ霞ヶ丘町に住んでいて、来ないわけにもいかないだろ?」

「でも、涼平となんか関わりあったっけ?」

「そりゃあ、中学一緒だったからな。1年だけ同じクラスだった時もある。それにあいつとは」

「お、おい!?」

 

 利谷の話を相田は遮って、どこかに視線を向けながら人差し指を指さす。

 

「なぁ、あれって!?」

「どした?」

 

 相田が見ている方へ利谷が視線を移すと、そこに日傘を差しては喪服姿の女性が歩いて来る。しばらく歩いて来た後、大学生くらいの女性は傘を閉じた後、宇垣の家の中へと入って行く。

 今までに目にしたことのある女性が宇垣の家に入って行く様子を、相田はずっと見ていた。女性の姿が見えなくなった辺りで、相田は口を開いて、利谷に質問する。

 

「あれ、宮越(みやごし) 菜月(なつき)か?」

「ああそうだな」

 

 女性の正体は、相田がよく知っている女優の宮越 菜月。テレビのドラマでも、高校のポスターでも、いつもよく見ているだけに相田はすぐに気づくことが出来た。

 

「なんで? なんで、宮越 菜月が?」

「そりゃあ、宮越菜月はここ出身だからな」

「は? 聞いてないぞ? って、え? マジで!?」

「そりゃあ、わざわざ名前変えてるくらいだしな。俺は先輩と同じ書道部だったから、知ってるけど」

「え? どういうことだよ?」

 

 信じられないものを目にして、相田は思考の回転が鈍っていく。利谷の事実を聞いて余計に動揺が大きくなり、相田は落ち着かなくなっていく。

 

「宮越……いいや、実家の性は豊条って言うんだけどな。あの豊条先輩は霞ヶ丘中学校の書道部にいたんだよ。卒業と同時に東京の方に引っ越してしまったけれど」

「えっ!? 今なんて?」

「ん? 何がだ?」

 

 相田は目の前にいる利谷に問いかける。聞いたことのある名前を耳にして、ある名前を口にする。

 

「今、豊条って言ったか?」

「ああ。あの先輩がここに居た頃は、豊条菜月っていう名前だったんだ。今では、名前が宮越 菜月に変わったみたいだけど」

「豊条、菜月……」

 

 豊条という名字を、相田は覚えていた。“豊条(ほうじょう) 月菜(つきな)”という女性が、宇垣の先輩の女性であり、憧れの女性であったことは、記憶に残っていた。

 そこで、相田の頭の中で1つの疑問が浮かび上がる。

 

「てことは、姉妹に月菜って人もいたのか?」

「月菜?」

 

 相田が利谷に尋ねると、利谷の目が細くなる。そして、少しだけ考え込んだ後、相田の問いかけに答える。

 

「豊条先輩は一人っ子だったはず。あ、でも、母親の名前かな?」

「え? いや、書道部に豊条 月菜っていう名前の先輩がいたって聞いたんだけど」

「は? そんなやついないぞ。俺が1年の時に豊条 菜月先輩はいたけど。もしかして、菜月先輩と勘違いしてるんじゃないのか?」

「いや、そんなはずはない。だって……涼平は……」

 

 宇垣が確かに、“豊条 月菜”という女性の名前を口にしていた。それに宇垣は、相田にその女性の字文のお手本まで見せていた。字文に書かれた名前を、相田はしっかりと目にしている。

 

 そこで相田は、思ってしまう。

 遂に相田は、1つの謎に到達してしまう。

 宇垣が死んだ今、答えが見つからないであろう1つの疑惑を頭に浮かべる。

 

「じゃあ、豊条 月菜って……誰なんだ?」

 

 

 

 ×      ×      ×      ×

 

 

 

 2007年7月23日。椎名の部屋の時計が午後7時40分を示している。

 椎名は自分の部屋のベッドに横たわっていた。食べ過ぎからくるお腹の辛さから耐えるように、お腹に右手を添えて気持ち悪そうに目を閉じている。

 椎名がベッドで横になっている間、携帯電話にメールが来ていた相田は、ベッドに座りながら友人の利谷にメールを返していた。しばらくして、メールを返信し終えると、ベッドで横になっている椎名に体を向ける。

 

「気分はだいぶ良くなったか?」

「……………」

「って、寝てるのか」

 

 顔を近づけた相田は、椎名の顔を見つめる。聞き耳を立てていると、椎名の寝息が聞こえてくる。しばらく椎名の顔に視線を向け続け、本当に寝ていることが分かると、相田は微笑みながらため息を吐く。

 

「ケーキとアイスとお菓子を交互に食べたら気持ち悪くなるって言ったのに、まったく……」

 

 相田は微笑みながら、椎名の頭から足先までしみじみと見下ろしていく。

 2年前、相田は椎名に告白した時のこと。また、それまでの椎名をよく見ていたので、2年前の椎名の姿はよく覚えていた。あの頃の椎名と今の椎名を脳内で見比べてみる。

 すると相田は、苦笑いを浮かべては頭を上げて腕を組んだ。そして、またため息を吐いて、椎名に対してぼやくように小さな声で呟き始める。

 

「うーん、やばいな。やっぱこいつ。あの頃よりも太ったなぁ。あれ? てか、2時間前より太ってね?」

 

 相田がため息を吐いたのは、明らかに椎名の今の体型が2年前より太っていたからだ。理由は色々あるが、俗に言う“幸せ太り”というやつであることは間違いない。

 

 相田が呆れたような表情をして、ベッドの上で眠っている椎名に目を向ける。すると、椎名が寝がえりをうつように体が動き始める。

 もしかして、今の発言を聞かれたのではないだろうかと、相田は少し焦りを覚える。だが、椎名が寝がえりをうつと、それ以降動く気配はない。眠ったように、また寝息を立てていることが分かる、相田は安心して椎名から視線を逸らす。

 

「……っと、危なかった。本人に聞かれたら怒られるな。気をつけないと」

 

 女性の限った話ではないのかもしれないが、女性は体重というものに特に敏感であったりする。椎名も同じで太ったことにより体重を以前にも増して気にするようになっていた。2年前よりも体全体が太ったこと、高校にいる女子達の体重の平均よりも少し超えてしまったこと、そろそろ痩せないといけないということは椎名も自覚していた。

 だが、それを椎名は直そうとはしない。痩せようと努力したり、これ以上太らないようにと我慢したりすることはなかった。毎日体重を測ったり、ウエストをいつも気にしたりはするが、単に敏感であるだけ。気にしてはいるが、行動に移さない。それこそ気にしているだけなのである。だから、椎名が太ってしまったのには椎名本人に原因があると言える。

 

 それに、相田もまた椎名が太ることをあまり気にしないでいた。食べ過ぎや運動をしないと太ってしまうことは口にしていたが、椎名が太ることに対して、嫌がることはなかった。椎名に痩せてもらおうと、相田が行動に出ることは今までに一切ない。

 しかしなぜ、2年前に椎名に一目惚れまでした相田がそうしなかったのか。小柄で割と細身の椎名を好きになった相田が、何もしなかったのか。

 その理由は、相田が椎名を愛しているが故にしなかったこと。愛していたからこそ、彼女の意思を尊重したからこそ、それを強要することができなかったである。

 

「でも、そっか。あれからもう2年が経つのか。そりゃあ、変わるか」

 

 椎名の体重が変わっていったように、相田も椎名に告白した日から変わった。椎名を本気で愛することを誓った相田は、椎名を受け入れ、椎名の気持ちに寄り添うようになった。椎名が願えば、その願いに同意し、そのために頑張る。椎名が諦めれば、それを許容し、椎名のためにできることをする。そういったように、相田は自分の欲望を押しつけるのではなく、椎名の全てを受け入れ、それを愛して生きてきた。

 

 人によっては、相手をただ受け入れて愛するという考えは、愛ではないと言うのかもしれない。相手のため。相手のことを思うなら。相手にとって、相手のためになることをしてあげること。それが愛であると。そう考える人は多いのかもしれない。

 だが、それには自分の欲望が混ざっていないだろうか。誰しもが相手に対して、相手にそうあってほしいという願望が混ざっていないとはきっと言えない。なにせ人間は、相手のためにならないことを受け入れることは自分のためにならない。相手が堕落の道に陥ることは、自分も堕落の道に陥ることと一緒である。

 

 しかし、相田は違った。相田は椎名を愛しているからこそ。本気で愛することを誓ったからこそ。その過程で椎名の全てを愛してしまったからこそ。相田は愛を自分の欲望で塗りつぶすことが出来ない。愛することも愛されることも私利私欲の感情を混ぜることが出来ないでいる。

 つまりそれは、悪く言えば自己犠牲の愛。自分が相手を思いやり、自分が相手を受け入れるという、自分を摩耗させる愛だと言える。その結果、椎名を太らせ、甘やかし、そして傲慢にさせていったとしても、相田は受け入れる。受け入れるしか出来なくなっていた。

 

 はたして相田の愛は、愛であると言えるのかどうか。本当の愛と言えるのかどうか。もしかしたら、大多数の人間が持っている愛の価値観とは違い、世間一般では認められないものなのかもしれない。

 それでも、少なくとも相田はそれを本当の愛であると。本気で愛するということが相手の全てを受け入れることであると。相田はその愛を基に、椎名を愛することを決めていた。

 

「………………」

 

 相田は椎名の全身を見つめる。愛おしそうに、愛する女性の全身を何回も舐めるように見回す。視線が髪の毛、顔、胸、お腹、腰、足、つま先と何度も移ろいながら、少しずつ近づいていく。

 しかし、相田は少しずつ悲し気な表情になっていく。いつしか、ベッドに横になって寝ている椎名のすぐそばまでくると、手を伸ばして、椎名の体を触った。ややふくよかな胸、くびれのない腰、太ましいふともも、そしてもっちりとした顔の頬に触れ、椎名の髪の毛の匂いを嗅ぐ。

 

 相田は自分の中にある何かを感じようと、目を閉じながら自分の気持ちや心の衝動を感じることに集中する。だが、相田は何も感じない。

 むしろ、大事にしたい。優しくしたい。汚したくない。そういった、愛しているものへの感情が強くなっていくだけで、愛したいといった感覚が湧き起らない。

 

「……ふっ、やっぱりダメか」

 

 相田は諦めるように、ぼそりと呟いた。椎名が寝ている横に寝転がり、仰向けになりながら白い天井を見つめ、気難しそうな表情を浮かべ始める。ベッドに体を預けるように全身の力を抜いて、目を閉じて考えることに集中し始める。

 

 相田は頭の中で疑問が浮かびあがり、心の中で自分に問いかける。

 なんで? どうして? なぜ自分だけなのか? 相田は疑問を問いかけて、自分の中からその答えを探すように考え込む。

 相田は悩んでいた。2年前の椎名に告白をした日から。椎名と付き合うようになってから。相田が椎名に対して何かを失ってしまった原因を。もしくは、自分に備わっているはずのものを見失っている理由を。相田は悩みながら考える。

 

 相田が失ったものが何か。それは、欲求であった。無性に愛したいという感情。本能的に愛したいという欲求が、何故か芽生えて来ない。俗に言う、性的欲求というものが相田は椎名に対して湧かないでいる。

 相田自身、性欲というものが湧いて欲しいと願っているわけではない。だが、生理的現象が湧かない理由が何なのかが不思議でたまらない。何が、どうして、自分にある生理的欲求を椎名に対しては起こらないのかが、相田には疑問であった。

 

「やっぱり、俺って……おかしいのか?」

 

 相田は声に出して疑問を問いかける。自分だけがおかしいのか。それとも、他人と自分は違って当然なのか。相田には分からない。

 もしも、相田と同じように。相田の周りの人間達にも愛する人に対して性欲を感じていないのであったなら、相田は気にすることは無かったのかもしれない。

 だが、高校生で付き合っている異性に対して性欲を感じない人間など、相田の周りにはいなかった。元々、性欲があまりなく、誰に対しても性的欲求を感じない人間はいた。しかし、そんな人間には恋人がいないのが大半で、例え恋人がいたとしてもそれは恋人と呼ぶには薄っぺらな関係であった。

 

 恋愛感情を抱いているのであれば。恋をしているのであれば。それこそ、相手のことが好きならば、少なからずも本能による欲求めいた感情が出てくるはず。性的な情欲というものが湧いてくるはずなのだと。相田はそう思っていたし、相田の周りではそれが普通であった。だからこそ、相田自身、自分がおかしいのではないかという疑惑を自分に対して抱いてしまう。

 

「……なぁ、智華」

 

 相田は自分の隣で眠っている椎名に顔を向けて、優しく問いかけるような声で名前を呼ぶ。でも椎名は、相田が呼びかけたところで、眠りから覚めない。寝息を立てている音が隣にいる相田に聞こえてしまうくらい、椎名はぐっすりと眠っている。

 

「もしも、あの時。俺が……」

 

 相田は椎名が眠っていることを分かっていて、問いかける。

 今まで椎名に問いかけようにも問いかけることが出来なかった言葉。相田はずっと前から思っていたことを、椎名の前で言葉にする。

 

「智華に涼平のこと、本当のこと言っていたら……智華に嘘をつかなかったら」

 

 相田が今でも忘れることが出来ないこと。未だに後悔して、過去に囚われていること。そして、宇垣が相田に残していったもの。それは……

 

「あいつが死ぬことにはならなかったのかな」

 

 それは2年前の告白をした日のこと。椎名に対して相田が取った行動。椎名のために嘘をつき、宇垣の願いを受け取って、椎名に自分の想いを告白したことである。

 

 相田は、宇垣を思い出す度に思っていた。もし、椎名に告白をしたあの日。椎名に対して違った選択を取っていたら。宇垣のために、相田が犠牲になっていたら。宇垣と椎名が付き合えるように行動していたら。宇垣が相田と椎名が付き合ってほしいという想いを裏切っていたなら。宇垣を失わずに済んだかもしれない。きっと、宇垣の前で誓った決意を捨てられたかもしれない。相田はそういった宇垣を失ったことへの後悔と葛藤を抱えていた。

 

 昔の自分に対する後悔が、相田に宇垣が自殺してしまったことをずっと忘れられなくさせている。忘れられないから、囚われてしまう。囚われてしまっているからこそ、後悔する。後悔しているからこそ、相田は宇垣のことを忘れられずにいる。そんな相田だからこそ、宇垣が自殺せずに済んだかもしれないという方法。また、自分の取るべき選択が他にもあったのではないかと考えてしまうことがあった。

 

「……でも、仕方無かったのだろうか」

 

 しかし、考えたところで、過去は変わらない。自殺してしまった宇垣を救う方法など、今は残されていない。相田に残されているのは、宇垣の言葉と宇垣に対する後悔だけ。結局相田はいつも、仕方無かったという言葉で意味のない思考を停止させる。

 過去の相田の選択が正しいかったのかどうかは分からない。でも、椎名のことを思えば、相田がしてきたことは一番良かったことなのだと。宇垣が死んだということ以外は、相田が選んだ行動は間違いではなかったのだと。きっと最善であったに違いないと、後悔から目を背けるように相田は自分に言い聞かせる。

 

 相田は椎名の顔を見つめながら、愛情を込めるように椎名の髪を優しく撫でる。ベッドの上で横になりながら、感じている不安を和らげるように、椎名を愛でていく。その度に相田は、椎名を可愛がるように撫でられることに幸せを感じていた。

 

「いいや、やっぱりこれで良かったんだよな。だって、こうして椎名と一緒にいるんだから」

 

 結果的には、相田は想い人であった椎名と付き合っている。椎名も、自分のために色々と尽くしている相田に好意を抱き、今でも2人は付き合っている。恋人として椎名と今も共にしていることを考えると、相田の取った選択は良かったのだと言えるだろう。

 それこそ、好きな人と一緒に居て、好きな人を愛することが出来て、好きな人と共に人生を歩んでいける。それだけ言えば、十分に幸せなことである。相田はその幸せにケチをつけることは傲慢なことなのだろうと、椎名を撫でながら思ってしまう。

 

 相田は椎名のすぐそばまで近づく。椎名の手を両手で握り、額に近づける。椎名に触れながら、椎名の存在を心の底から感じていく。

 

「本当に、好きになって良かったって………思いたい」

 

 好きになって、こうやって恋人になって、本当に良かったと懇願する相田。

 きっと相田は、これからも変えようとはしない。今の相田だからこそ、自分から変わることが出来ないままでいるのだろう。

 

 愛したいという情欲がない。

 性的欲求が湧き上がらない。

 湧き立つ感情が起こらない

 

 きっと、相田が変わらない限り、誰かがその答えを気付かせない限り、ずっとその悩みを抱えたまま相田は生きることになる。

 

「……智華、ごめん。ごめんな。俺はおまえの気持ちに、応えられないのかもしれない」

 

 相田は一生言うことはないだろう。宇垣が抱えてきたものを。宇垣という人間のことを。自分の本音を。

 そして、度々後悔するのだろう。宇垣が自殺してしまったことを。椎名に本当のことを言えなかったことを。

 

「それでも俺、あの頃から今もずっと智華を愛しているから」

 

 けれど、相田は愛している。椎名智華という女性を今まで愛していた。

 そこに恋愛感情はもうない。異性としてではなく、1人の人間として愛している。

 大切に想って、たくさんの時間を共に過ごして、愛を育んできた。

 大事な人として、愛する人として、真剣に彼女を想ってきた。

 

 だからこそ、欲望にまみれた愛情が湧かない。もっと愛したいという欲望のようなものよりも、今目の前にいるこの愛している人を、真剣に愛することを決めている。

 好きだからこそ、愛しているからこそ、かけがえのない大切にしてきたからこそ。相田はそれを汚すことができない。欲望よりも、大事にすることを心から願ってきたからこそ、椎名を真剣に愛してきた。それ故に、相田はこれからもずっと変わらずに生きていく。

 

「これからもずっと……俺、愛しているから」

 

 それでも、相田には残酷な運命が待っている。いつか、相田が壊れる日が来る。

 それは相田の愛が自己犠牲の愛だからこそ、いつか摩耗して、擦り切れて、愛が引き裂かれてしまうことになるからだ。

 例え、どれだけ本人達が変わらずに生きていても、その愛が変わらないことはない。相手を大切にしたところで、自分が壊れてしまえば、その関係は崩れてしまう。

 

「…………うん」

 

 相田のそばから、小さい声が漏れる。震えた声ではあったが、確かに、相田の耳に聞こえた。

 握り返してきた手を、相田はさきほどより強く握る。

 

 相田は椎名の全てを受け入れ、椎名を思いやり、椎名のことを本気で愛している。

 けれどもし、相田を救えるとしたら。相田を変えることが出来るとしたら。

 それはきっと、椎名という恋人ただ一人しかいない。

 

 

 相田と椎名の2人が共に付き合い、共に恋人として生きて、共に人生を歩んでいくために。そのために何が必要なのかを、2人はいつか直面することになる。

 でも結局必要なのは、椎名が相田の全てを受け入れ、相田を思いやり、相田のことを本気で愛することなのだろう。

 

 だって恋愛は、片思いでは実らない。

 両方が思いやり、両方がお互いを想うからこそ、恋は実って、愛が育まれていく。

 

 もしこの世界で一番素敵なことがあるとしたら。

 それはきっと“好きな人に好きって伝えること”ではなく“好きな人を好きになって想いやれること”。

 

 お互いが想い合う“()()()”であるに違いないのだろう。

 








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