【習作】アイツが転校してこない世界で   作:死んだ骨

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 残された時間はもう、無い。
 今までのように毎日を笑いながら生きていける日々を送ることができなくなってしまうかもしれない。
 まだ、覚悟は固まっていない。
 覚悟は出来てると、自分に嘘をついているだけ。
 怖くて仕方がないんだ。何か別のことに意識を割いていないと逃げ出したくなる。
 まだ、赤信号だ。
 車は止まらない。
 道は閉ざされている。
 引き返すならそろそろだ。
 
 後悔のない道を、ちゃんと選べるのか。
 選べなかったとき、神崎護はどうなるのか。
 視えていたのかもしれない。




赤信号

「制服取りに行くのに、お前も早起きする必要はなかったんじゃねえの」

 明け方。

 まだ雲が暗く、街でも起きている人間は数える程の時間帯。吐く息はすぐに色をだしていて、外の温度がいかに低いかを教えてくれている。

 護は遊園地に出向いた私服で左手にギプスを嵌め、洋館を背に彼女をなだめるように言う。包帯がとれたおかげか、軽く腕を回していながら。

「いつ何処で有珠が罠しかけてるか分からないから。気をそらさないで」

 青子の視線は鋭い。

 もう庭のど真ん中を過ぎた地点だというのに警戒を怠らない。

 青子にとってはこの明朝でさえ有珠がなにかを仕組んでいるかもしれない。それぐらいはやってもおかしくないという認識だ。

「流石に朝早くから魔術の罠が飛んでくるとは思えないんだけど?」

 欠伸をしながら目に溜まった涙をこする。

 そんな護の様子にただでさえピリピリしている青子は、目の色を変えて激情を押さえ込んでいる。噴火寸前の山みたいだ。と、どこか他人事みたいに今の状況を把握した。

 道中、両者とも眠気は隠しきれないのか意識は呆然としている。――青子のは眠気ではなく入念に道沿いに何かが仕掛けられていないかと必死に探索をしているのだろうが、申し訳なくも護はそんな彼女の姿を認識は出来ていなかった。否、そんな余裕は護にはなかっただけのこと。外に意識を向けるのでさえ困難な状態なのだ。

 洋館の出入り口である鉄の門にたどり着き、青子は唐突に話かけてきた。

「で、護は――。……いや、さっさと家に帰って仮眠でもとってきなさいよ」

 言いかけた言葉を飲み込んで、護の身を心配した。

 彼女が言いたかったことは判っている。

 有珠の件をどうするか、という質問なはずだが、それを飲み込みどうして彼女は家で仮眠を取れなどと言ったのか。

「まったく、幼馴染ってのは怖いよな」

 感心したようにため息を付く。隠しけれなかった己の未熟さを笑いながら。

「本当に、隠すならもっとうまく隠しなさいよ。私には見え見えなんだから」

「ああ、悪い。青子も寝とけよ。ただでさえ顔酷いんだから」

「余計なお世話よ」

 気恥かしさからか、護は頭を掻いた。

「……んじゃ、またな」

 これ以上、こんな自分を見せていたくないと逃げるようにその場をあとにする。

 青子もまた、必死こいて自分の体のことを隠している様子を見て、しょうがないわねえとこぼして、足早に家に向かう護の姿は強がりで塗り固められた背中にしか見えなかった。それは、いつかの遊園地での彼女自身にとても似ていた。

 

 足は自然と速くなっていった。のそのそと歩いていた歩が、心拍数に合わせるように早くなり気づけば駆け足に変わっていた。

「……くそっ!! くそ、くそ、くそ――!」

 どうして気がつかなかったのか。自分の見解の狭さを実感する。

 首に下げられたアクセサリーの本当の効果を、今になって実感し始めた。少し頭を働かせれば違和感にはすぐに気がついたのに。

 なにが呪いの無効化だ。一定以上の効果は流せなくとも、軽い魔術的要素なら跳ね返せる? とんだ勘違いだ。このアクセサリーは、この魔術媒体はただの。

「――ただの、延滞効果じゃねえか……!」

 おかしいとは頭の隅で考えていた。自分が特別だとでも勘違いしていたのか。

 あの爺さん――宝石爺がくれたアクセサリーがいくらなんでも全魔術的要素を持つ影響を跳ね除けてくれるわけがないと。確かに、あの遊園地で魔弾を目で確認して直に体に直撃したとき実際そこまでの威力はなかった。ただの人にど突かれた程度ですんでいた。

 燈子姉が送り込んできていた青子人形、あれが放つ呪いも効果にバラツキはあったが護自身の身に降りかかる要素は薄まっていた。回路が開いておらず、閉ざされた状態では免疫力も何もない状態であるのに。

 それを思い出せば、こんな痛みはまだ耐えられる。熱を発症しているように、頭がボーっとするが堪えられないほどではない。あくまで一時的なモノのはずだ。人形の呪いに加え、青子の魔弾のダメージ。本来あったはずの傷害もあの時には軽減されていたが、その軽減されていた分が今になってフィードバックしてくる。

 額から垂れる汗を気にする暇もなく、朦朧とする意識の中自宅であるアパートが見えてきた。

 あと少し。

 家が見えるあたりまで行けたことによる反動か、急な安堵感で視界が大きくぶれる。否、護の体が傾いただけのこと。

「――――ル君!」

 倒れ掛かる護の体は、か細い誰かの手に収まっていた。

「……あ、――つか、さん」

 色のない景色。ノイズが走ったように途切れた映像が映し出されている。

 自分を支えていてくれる人物のシルエットを見て、ああ、この人だけには会いたくはなかったと薄れゆく意識の中で思っていた。

 いや、この時期に出会えたことを幸運に思うべきだろう。この時点では、彼女は枷をハメられていないのだし、出会えなかった(・・・・・・・)場合もあったのだから。

 

「なあ護。社長出勤だなんてうらやましいな」

 いつもと変わらない。

 護の席の前にいる木乃美芳助。

 彼の平常時と変化のない挨拶になんだか気が抜けてくる。

 つい先程までは張り詰めた空気の中、一度たりとも見たことのない遊びのない彼女との会話で、ある意味良い息抜きとしては十分以上の活躍だろう。

 護の気分を除いては。

「こちとら気絶してたんだよ、まったく。ここ最近で無遅刻無欠席がともにパアだ」

「学校のトップである会長を侍らせておいて夜遊びか?」

「もうしねえよ、夜遊びなんて。そんなことしたら今度こそ生還できないから」

 「夜遊び」という言葉の中には、含んだ意味があることは互いにわかってる。

 だから、芳助が言葉を選んでいるのか言葉のキャッチボールには間がある。まあ、それが本当に命に関わることだなんて考えてはいない。

「ったくよ。普段からこういうふうに気を使えば嫌でもモテるぞ、ワカメ」

「わかめってひどくね? いや、確かにオレ髪はテンパだよ? でもこれ持ち味なんだけど?」

「そんなことは分かってんだよ。たださ、なんでワカメってイケメン設定なのかすっごく納得いかないってだけだから」

 イケメンという言葉に即座に反応し、芳助は調子に乗る。

「オレってやっぱりイケメン? さすが、護はよくわかってんな」

「うん。俺が言いたかったのは別のワカメなんだけどな。口さえ閉じれば芳助も辛うじてイケメンにはなるんじゃね?」

「神崎君と木乃美君! せっかく試験範囲の総まとめしてるんですからノートには書き写しといてくださいよ。神崎くんに火の粉も降りかかるでしょうし」

「へ?」

 授業中。授業に関係のない話は教師にとっては嬉しくない。

 それに加え、この総まとめの現況といえば、このクラスに在籍する神崎護の幼馴染のお言葉によって実現されたのだから。多少の責任の転換はしたくなるのが人間だ。

 当然のように火の粉は降りかかってくる。幼馴染という肩書きによって。

「皆さんが選んだ全生徒代表の方がですね、これが恐ろしいのなんの。”テストの点数が低いのは生徒ではなく教育する側が無能だからで。教育委員会の準備はいつでもできていますので”と日夜脅してくるんですよ。それでも生徒たちが治らないようなら、その時は直接私が監督します、とか。生徒としてどうなんですかね、アレ」

 瞬間、クラスに充満していたほんわかな空気が冷めた。

「あー……そっか、山城センセ生徒会顧問だもんね、お疲れ様」

「流石は応援団を立ち直らせた女傑。教師一人退職に追い込むことなど造作もねえ……」

 クラスメイトの何人かが、山城先生に対し哀れみを持って言葉を交わす。

「それにしても、そんな彼女の幼馴染をしている神崎君が僕には感心してしまいますね」

 ゾロゾロと、人数分の視線が護に集まる。

「そういえば、その噂ホントらしいね」

「知ってる。中学校から結構仲いいらしいし」

 耳を塞ぎたくなるような会話が飛び交う。

 すかさず、芳助も会話に飛び入ってくる。

「やっぱりなあ、会長、絶対歳サバ読んでるって。あの迫力、同年代とは思えねーし! ほら、うちの女子と比べると特に、こう、おっぱい的に」

 思わず、幼馴染である神崎護ですら芳助の言葉に頷く。

「確かに、いくらなんでもバスト88はとんでもねえよな」

 瞬間的に、教室の空気が氷点下まで落ちた。

 女子は冷ややかな目で、男子は言葉の意味を解釈してはすぐに静なる怒りを目に滾らせる。そんな空気の中で、切込隊長として活躍したのがお調子者、木乃美芳助であった。

「…………………。おい、護。なんで知ってる?」

「…………あ、…………今のなしで」

 思わず口走ってしまったことを後悔する。

 迂闊なことをするべきではなかった。もっと口を慎むべきだった。

 そうであれば、これからの学園生活は平和を保っていられたであろうに。

「――せんせー、あの二人ともA組に送還しちゃえばいんじゃないですか。木乃美はサルですけど、神崎は野獣ですって。しっかり飼い主のもとに返してあげないと暴走しますって」

「さすがの女史も、飼い犬の面倒で成績が良くないのか? 中の上くらいだよな?」

「そうそう、けど別にそれでいいんじゃない? 塾も行ってないし、生徒会仕切ってバイトもたまにしてるんだから。ただでさえスタイルもいいのに。あれで学年トップだったら逆に気持ち悪すぎ」

「だよなー。首位は副会長に任せとけばいいんだよー」

「はっはっは。まあまあ皆さん。噂話はそのあたりで。地獄耳という言葉もありますし。じゃ、それなりに復習をよろしく。あんまり点数が悪いと冬休みがなくなりますからね。あ、それと神崎君、ちょっといいですか?」

 山城教論は教材をまとめると、護に手招きをしながら廊下に出ていった。

 

 休み時間だというのに、廊下に生徒の姿は見られない。

 生徒たちの騒ぎ声は聞こえるものの、廊下は人気がなくひっそりと落ち着いてる。

 窓がなく閉塞感があるし、なにより陽の光が限りなく遮られているためだろうか。

 生徒たちにとって休み時間の憩いの場所は教室内か、そのベランダになっていた。一部、生徒会室を憩いの場として使う連中もいるが、それが役員の特権とも言えるか。

「なにか大事なことでも?」

「いえ、そう大した用事ではないんですけどね。試験前にこんな話もデリカシーがないんですが、担任として気にはしていたので。どうだろう、体調の方はもういいのかな?」

「ええ問題ありません。担任として、という言葉さえなければとても優しい担任と言っても差し支えないのに、言葉で損してますよ先生」

「軽口を言えるくらいは元気と見た。それとね、試験の方は楽しみにしてるよ」

 山城教論の言葉に首をかしげる。護には楽しみにされる意味がよくわからない。特別成績がいいわけでもないに。

「またまた。部活に精を出して、常日頃からバイトもこなして成績が蒼崎くんより上ときてる。これは期待してもいいんじゃないのかな?」

 担任だから。護が部活をやめたことをしていてもおかしくはない。

 話は青子を通じて共有されてる可能性もある。

「そうですね。現国はどうとでもなるとして、問題は数学ですかね」

「へえー、あまりいい点取れてた記憶はないのですが」

 彼の言葉に思わずニヤリと笑ってしまう。

「まあ、高校の範囲内であれば満点はいけるかもしれません」

 護の自信ありげな、まるで絶対に揺るがない確信に満ちた目を見て驚く。

「これは本当にありえそうですね。良かった。引き止めてごめんね」

 軽く手を振ってその場をあとにする。

 護も軽く会釈で返して教室に戻る。

「あ、それと言い忘れてましたが、不純異性行為はしっかりと避妊するんですよ。何事にも過ちはありますから」

「…………ちょっと!! まだしてませんって!」

 まだってことは予定でもあるのかな? アハハハ、と。初心な青年をからかって何が面白いのか。

「……そんなこと考える余裕もないってのに」

 壁に寄りかかる護の顔は険しかった。共に、あるのはやりきれない無念だけ。 

 

 そうして、

 

『ちょっ、女のことで相談だあ!?』

 と、”アイツ”ならばそのままあの勘違いワカメに見当違いな教えを頂く事になるのだろうが、生憎護は微塵もそんな考えは持ち合わせていない。

 護が芳助のことを見ていたからなのか、視線に反応してどうした? とバカ全開で近寄ってくる。

「……、ああ、間違ってもお前には相談なんてしないから」

「へ? 相談? なんだなんだ。会長以外にも落とそうとしている子でもいんのか?」

 何て奴だ。己の意思とは関係なくとも額にシワが寄る。素直に言おう。何故わかった。

「お前には関係のない話だ」

 適当な言葉であしらい、追い返す。

「でも、モノで釣るってのは意外と良い手ではあるよな」

 放課後にてさぞ、女子の心をつかめそうなご馳走を捜索にでも行こうかと決めた。

 

 

「あらまあ、これは、パンなんて切れ目入れて挟むだけですごく見栄えが変わるのに」

 褒美を片手に、夕御飯をマッドベアの賄いですまして予めリサーチしていた店で二人が喜びそうな――女の子が喜びそうなものを選んで買って帰ってきたというのに。

 家庭能力の欠片もない無造作に盛り付けられたレタス。

 少し視線をずらせば形のまばらなハムが並んでいる。

 なんだろうか。この気持ちは。

 出鼻をくじかれた? 落胆したのか? いや、心構えはあったはずだ。

 今日の当番が有珠であるのなら、彼女が家庭科で習う事を何一つ活かせてないことは明白だ。

 いや、そもそも有珠はどんな学校に通っていたのかは知らないが、仮にも礼園女学院に通うお嬢様だ。もしかしたら家庭科なんて科目すらなかったのかもしれない。

 率直な意見として、手を抜いていると簡単に判断したほうが良いのかどうか。これが素である可能性は十二分にありそうだ。いや、でも料理の心得はあったと覚えている。だったらこれは本当に最大の手抜きではないのか。現実が目の前にあっても、どこか女の子らしさを意識せずに望んでいたのかもしれない。

 サンルームで食事をとる二人には護のことは眼中にないらしい。

 まあ、数日で仲睦まじくなれるとも思っていないので保冷剤の効果が切れる前に褒美を冷蔵庫に入れておく。

 バイト帰りが楽しみだ。護にとって甘いものは好物だ。とくに洋菓子は簡単には作れない分、至福を味わえる。護は自然とほくそ笑んでいた。

「何かいいことでもあったの?」

 興味本位で青子が聞いてきた。

 その反応を待ってましたと、青子に近づく。

「そうそうあったんだよ。デザート買ってきてあるんだけど、青子と有珠の分もあるから食後にでも食べて良いよ。ただ、俺の分は手をつけるなよ」

「ほんと? やった! 護もたまには気がきくじゃない」

「たまにで悪かったですね。それと、二人共週末空いてる日探しといてくれないか」

「どうして?」

「新しくできた店。連れてくって言っただろ。確か回転寿司だよな?」

 護の確かめるような言葉に、青子はただ目を見開いているだけ。

「だから、ちゃんと三人で行く日は空けといてくれよ」

 話はそれで途切れ、護は居間から退室する。

「なんか、無視されてるのわかってて攻撃してるように見えるんだけど、護なかなかうまいと思わない?」

「別に私は意識なんかしてないわよ」

「けっ、嘘ばっかり。アイツ、人の感情察するの上手なんだから多分有珠の考えも見え見えよ」

 そんなまさか、と。護が消えていった通路をただ睨みつけていた。

 

 翌朝。仲良く二人で登校する姿を何人もの生徒が見たとか。

 噂はウイルスのように学年に蔓延した。

「どうせ午前授業だし、終わったら生徒会室で待ってるから来なさい」

「わかった。じゃあな」

 教室の前、ちらほらと人気がある廊下にて約束が交わされる。

 青子も軽く手を挙げて自分の教室に帰っていった。

「ねえ」

 青子の後ろ姿を眺めていると、突然護の真後ろから女の子の声が聞こえた。

「……えーと、なにかな?」

 随分と小柄な、言ってしまえば一瞬だけ()()さんをイメージするような彼女。

 同じクラスということは分かっているが、地味な方なので名前を覚えてはいなかった。

 そんな彼女は恥ずかしそうに目を伏せたりあげたりを繰り返して、小さな手をギュッと握って何かを決心したように口を開いた。

「仲直り、したんだね。青子ちゃんと」

 一瞬だけ息が詰まるほど、彼女の言葉は脳内で反響していた。

 そういえば、今日みたいに二人で登校するのは確かに中学校以来だ。

「――――」

「私、これでも中学校でも神崎くんと青子ちゃんと同じクラスだったんだよ。だから、高校に入って二人が変わってるのがすぐにわかちゃったんだ」

「……そうだな。確かに、変わってたさ」

「でも、良かった」

 花のような笑顔を浮かべて、彼女はニッコリと笑った。

「ありがとう。――さん」

 彼女一人の存在に特別意味はない。ただ、そこにいるだけの普通の人だ。

 魔術師でもなければ、特殊な能力を持つわけでもない。至って普通の人。ただ、だからこそ、その普通の彼女に神崎護という存在が肯定されていると実感できてどこか安心できたのかもしれない。

 神崎護にとって彼女には何の興味もない。でも、この神崎護の殻をかぶる自分が確かにその場にいると証明されたみたいで、初めて世界の歯車に噛み合った気がした。

 ――その意味は、後戻りは許されないということを。示していたのかもしれない。

 

 放課後。

 生徒会室にて青子を回収した護は買いたいものがあると言って少し長い道のりを歩かせた。

 買い集めたのは箒、鎌、軍手、ゴミ袋と、掃除に使うことだけはわかるが、どこでそれを使用するのか薄々青子は感じ取っていた。

「家政()にでも目覚めた?」

「いや、まあ、有珠の目を引く事に意味があるからな。それに庭自由に使っていんだろ?」

 青子から許しのお言葉をいただいて、洋館にて護は一部分だけ、草を刈り取り満足げに寝そべっていた。手にはノートが開かれている。

 それはとても古ぼけていた。

「これ、焦って書いたからか中途半端だな。書き直すべきかな、汚いし」

 書ききれなかったことがまだ有り余っている。それに書く事はこれからも増えていくことだろう。生きているのならば、きっとノートに書かれた歴史を変えてしまいそうだから。

 生きてさえいれば、きっと何人もの人間を抱え込まなければ。

 この世界は不幸でいっぱいだ。偶然で死徒に殺されるのなんて御免被りたい。

 手の届く範囲であれば救えるだけすくいたい。こう考えるのは間違っているのか。護は正義の味方になるつもりはない。これだけは言っておかなければならないだろう。護は決して一番大事な人を捨て置き、見ず知らずの人を助ける選択だけはしない。

 けれど、余裕があるのならしてあげたい。という願望を持つくらいはいいだろう。

 ――そんな事は、たった一人の彼女を守れた後で、ゆっくりと考えることにしよう。

 ノートを閉じて、覚めてきた体温を危惧して洋館内に入る。

 

 そして、洋館で過ごす以前と似たような日々を送る。

 変わったことは些細なこと。

 部活に精を出していた時間はそのままランニングにあてていた。

 気休めだってことはわかってる。たった数日、数週間で今まで走り続けていた脚が速くなるわけでも、強靭にでもなるわけがない。体力だけはつくだろうが。

 ただ、走り続けていることは辛い。喉が熱くなって、体が水を欲し、唾を飲み込むことが喉の痛みを訴える。足は鉛のように重くて、今すぐにでもやめてしまいたい。慣性によって前に進みたがる体を抑えて倒れ込みたい。ついでに言えば、治りきっていない左腕が振動が響いて疼痛が走る。でも、それだけは許されない。

 だってそうだろう。そうしてしまえば走り続けることの意味がなくなってしまうのだから。

 ああ、あと何時間走れば(精神)は強くなるのか。

 上手く事を運べるのか。

 この目は、ただ長く続く道を映すだけ。終わりは見えない。

 チラリと視界をかすめる赤信号を見て、なんだか心がざわつく。

 

 時間の流れとは恐ろしい。

 まだまだ残された期間はあると、楽観的に考えていたのかもしれない。青子と過ごせるだけで、知らずに浮かれていたのか。はたまた、あえてまだ余裕はあると考えていたのか、足音のない決戦の日刻々とが近づいてくる事に護は驚くしかない。

「ところで、あれから動きはあった?」

 数日前から、神崎護と蒼崎青子は仲良くこの洋館に帰宅したあとのことだった。

 既に久遠寺有珠は冬休みに入っていて、ゆったりと午後を過ごしている。

 いや、そんなわけないよな。と、護の頭が告げてくれた。

 二人の敵――橙子姉のことについての話だろう。

 青子に問われた有珠は、カップを顔の前に持っていった状態で首を横に振る。

「そう。なら、敵側(あっち)も次の手を考えているんでしょうね。魔術師本体の居場所は見当ついてる?」

 返答は変わらず。

「なあ青子」

「黙って。関係ないんだから口出ししないで。これ真面目な話だから」

「いや、でも……」

 言葉を続けようとするが、護は静かに口を閉じた。

 青子の関わって欲しくないと、悲しげな瞳を見て干渉を止めた。

 護にはちゃんと判っている。神崎護が知られたくないことがあるように、蒼崎青子にも関わって欲しくないことがある。

 何よりも、やっぱり青子だけには最後まで隠し通すほうがいいと考えていた。

「で、どうなの有珠?」

「……分かってる。今夜から、そっちもやるから」

 張り詰めた空気の中、彼女は席を立つ。

 その後ろ姿を見て思う。

 切羽詰ってきている。状況はどんどん悪くなってきている。青子はまだ気丈に振舞ってはいるが、内心焦りも感じてるはずだ。

 二人にとっては未知の敵。

 そしてもっとも身近な人物。姉として、元同居人として。二人にとっては近しい人。

 冷徹な面を持つ者の、魔術師としてはあるまじき優しさを持ち合わせる人。

「……八つ当たり、か。したくもなるよな普通」

「なにが?」

 何も知らない。未だに敵の造形さえつかめていない。青子がいる。

「……さあな。俺は俺で勝手にやるさ」

 有無を言わせずに居間から去る。

 洋館での自室に戻る途中、階段に接する壁に体重を預ける。

「あと、二週間しかないのか」

 脳裏に今日の日付がかすめる。決戦の日は確か、世では楽しみなクリスマス。

「クリスマスには赤がシンボルってか――、逃げるならまだ間に合いそうだ」

 だが、それは叶わぬだろう。

 胃の中にある錠剤が、継続して飲み続けないと毒と化して体を蝕む。

 確実に死ぬだろう。それに、覚悟は決めていたはずだ。

「決めてるのに、外れないってことはそういう事なんだろう、()

 その問には護は答えられない。

 視線は胸元へ落ちる。

 首に投げるアクセサリーが、夕日に反射して赤く光った。

 

 

 

 




 

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