何の前触れもなく、俺は此処に落とされていた。
本当に前触れはなかったのかと問われると、素直に頷くことはできない。
正直に言ってしまえば記憶なんてないのだ。
有るのは隔たった知識だけ。出会う以前のことなんて何も覚えてはいないし思い出せもしない。有るのは自分は外からやってきたのだとそれだけだ。
間違いなく、この世界で俺はひとりぼっちだということ。
俺と彼女の出会い。
かくいう彼が、どのようにして彼女と巡り合えたのかはまだ誰も知らない頃。
正に、彼は突然現れたとしか言い様のない状況に落とされたのだ。
不安はもちろんあった。ここがどこで、家に帰れる距離なのか、でなければ警察にでも相談するか。
現状を打開する方法は一通り頭には浮かんでいた。
だがら、とても少年と言える精神年齢でなかった彼は人に聞けば手間は省けると思っていた。見覚えのない地域なのであれば、その地域に在住している住民たちに聞き込みをすればいい。
けれど、あまりに見知らぬ土地。テレビで取り上げられるような有名どころとはとても思えず、ひど田舎臭さが身にしみる。所々に建っている一軒家はどれもかしこも、見慣れたものより一つ古かった。
成熟している筈の彼は見慣れない世界に、涙腺に雫を貯めていた。
精神は成熟していても、体に引きずられて年相応に近くまで下げられた基準の線。
よくよく考えれば、世界は大きかった。
家も、塀も、電柱も、自転車も、建物も、道路も、何もかもが大きかった。
――俺が縮んでるんだ。
バスケットボールを片手で持てた掌。缶やペットボトルは最高で三本も片手で掴むことができた。
なのになんだこれは。
確実に小さくなっている。なんども感触を確かめるように握って離すを繰り返す。呆然としたまま、体中いたるところを確認する。
手や足も、随分と長かったはずが、足も28はあったのに。
小さすぎる。
当然、培われていた筋力も、折れやすそうなゴボウに成り下がっていた。
ふらふらと、塀に手を付きながら歩く。
足元がおぼつかない。注意力が散漫している。それを教えてくれたのは遥か上空に真っ直ぐに直立する電柱であった。
額をぶつけ、赤みがかったことを合図に頬には雫がたれていた。
いつしか大声を上げながら公園にいた。
鉛のように重たい足を引きずり、人がいそうな公園で辺りを見回す。
誰かと話したい。助けて欲しい。俺のことを聞いて欲しい。
この陽がでている時間帯ならば誰かがいる。きっと子供だけじゃなくて大人もいる。助けてくれる。
そこに一人、女の子が砂場で遊んでいたのを視界におさめた。
夢中になってそこまで歩いていく。いや、駆け足だった。
こちらに気がついた小さい、小さい少女はどうしたのと、気遣いながら理由を聞いてくる。
俺はただ迷子になったとしか言えず、泣き止むまで背中をさすってくれた彼女。
名前を、聞かれて、無意識に言った名前は自分とは違うものだった。
その違和感に気がつかず、私の名前はこういうのと、砂に書かれた名前は一生忘れることはない。
『あおこ。わたしのなまえはあおざきあおこっていうの! しっかりおぼえなさいよね!』
その名前に驚くことなく、素直に受け入れた。
彼女の言葉を始点に、夢が崩れていき、眩い光が視界を覆う。
ヤケに色素が抜けた映像は吹き飛び。
場面は、一年後へと飛んでいた。
暗い路地裏。時間を短縮するために通った脇道でその偉大な"クソ爺"に出会った。
たった数事の会話。と思ったら背後にいつの間にかいて、無理矢理に開かれた神経。
声すら上げられない状況で、選別をくれてやったと、プレゼント感覚で死んだほうが楽なほどの激痛をお見舞いされた。目の前の爺さんに覚えはない。だというのに印象だけはインパクトがあった。
子供の俺から見てもデカすぎる爺さん。口元がにやりと歪み――
――早送りするように流れる時間。
『――お前に、命を賭けるだけの覚悟はあるのか?』
「…………ある」
間のある力のない回答だった。
当時の彼はそんな答え方はしていなかった。
もっと自信アリげに、俺がヤらなきゃいけないならその覚悟はある。
力を込めて言ったのだから。全霊を込めて、代わりは俺がしてみせる。世界に訴えかけたのだから。
「まだ、迷ってるのかよ……!」
その運命の時が迫るに連れて、希望は薄れていた。
その問いかけを最後に、過去の映像は崩壊する。
そして、絶叫を上げた。
ひとつ、キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグの名だけははっきりと思い出せた。
死よりも苦しい苦痛をくれたクソ爺。
たったの数時間分で、俺はその日に十も年を食った。
封じ込められていた年数分を補うために。