どっこい私は生きていた。
死に至る痛み。その痛みも緩やかに失われていく最期。撃ち抜かれ、撃ち砕かれ、指一本すら動かなくなったあの瞬間を私は覚えている。
二度と開くことのないはずの目を湿った夜風がやんわりと撫でる。何とはなしに月へと伸べた手にはほんのわずかな傷もなかった。
見渡す限り何もない。誰もいない。月だけが私の呆けた顔を見ていた。
命と引き換えの帰郷は失敗に終わってしまったようだ。生きることも沈むことも下手だなんて、私はどれだけ不器用なのか。
誰かが私に生きていてほしいと願ってくれたから私はまた海を往ける。そんな風に考えるなら、涙の行方が今の私であるなら、それはとても素敵な話だろう。私以外の誰かにとっては。
珊瑚の海。仲間想いのヒーロー。頬を濡らした青い燐光。生きたいと望んでいたのは私ではない。死に場所を求めたのは彼女達ではない。
海に投げ出した身体には命を感じない白さがあるばかりで、どこにも傷の痕はない。仄暗い鉄の艤装には一つとして損傷はなく、深い海の滲みた服もまた同じ。穿たれた胸でさえも、まるで何もなかったかのように。
沈みたいと願った私は一度沈んで、望んでもいない奇跡に救われた。浮かない顔をしている私の身体は浮いたまま。
なんて、笑えない冗談。相も変わらず奇跡は使い所を間違えたまま。神様がいるとしたら不器用具合は私といい勝負だ。
逃げ惑う人間。空が割れて落ちるようなサイレン。白藍の滲む水面を仰いだ。あの日の記憶は鮮明に残っている。全部、なかったことにされてしまった。胸に穴でも空いたような気分だ。
私の生を願ったのは誰だろう。余計な事とは言わないまでも、勿体ない事をするものだとは言わせてもらおう。その奇跡で私の命一つ分だけ、他の誰かを救えただろうに。
艦娘も私達も同じ海から生まれた。人の形に人ならざる力を持ち、異形の鉄を背負い、撃ち出す砲火は同じ色。月を見て綺麗だと思う心も、きっと同じ。けれど私達は同じ海を見ることができない。向かい合ってしか同じ海にいられない。
綺麗な眼は時に澱の舞う水底のように濁り、海色に滲む眼は時に蒼穹のように透き通る。私達はあまりにも違っていて、少しだけ似ていた。
彼女達は最期をどこで迎えるのだろう。やはり海に還るのだろうか。それとも沈まない最期があるのだろうか。願わくば、私達にはない選択肢がありますように。
昇り始めた太陽に背を向けて、馬鹿の一つ覚えのように足は故郷へと向かう。私達の最期は一つしかないけれど、終わり方を選ぶ自由だけは残されている。
射抜くような光が私の姿を浮かび上がらせる。夜闇に紛れた帰郷は、今度は見逃されなかった。
黒鉄の葬列は誰も列を乱したりしない。月明かりに柔く浮かぶ顔に迷いは見られない。奇跡はもう誰にも望まれていない。
二度目の葬送曲も指揮は私だ。舞台照明に焼かれながら腕と主砲とを振り上げればそれが始まりの合図になって、轟音と共に夜が砲火に彩られる。
数拍の後に訪れる衝撃を、ただ待った。今度こそ沈めますようにと祈りながら。
言い損ねたままの言葉はもう言わないままでいい。誰も聞いてはくれないだろうし、聞きたくもないだろう。
別れの言葉も必要ない。海の悪魔はただ沈めばいい。誰もがそう望んでいて、私もそう望んだのだから。
赤く熱を帯びた光は私の顔を貫いて、どんな顔をしていたのかわからなくしてしまうだろう。こんな幽鬼の顔に誰かの面影を見出すようなこともなくなるはずだ。
彼女は。私を見て涙を流していたあの人は。
もう泣いていないだろうか。どこか懐かしく思えたあの顔は、涙に濡れていないだろうか。
あの涙が私のためだったと自惚れていいのなら。あの手が深海に差し込む光だったなら。
悲しくない。寂しくない。水底にも救いがあってくれるなら、これ以上のことはない。
断末魔の声など挙げるものか。死に際の怨嗟など吐くものか。泣き言など誰が並べるものか。私の航海は最高だ。故郷の海で終わりを迎えられるのだから。
口の端から息が漏れる。夜を裂く鋼鉄に身を委ねて。もう何も、望むことなんて。
あぁ、でも。本当は、
おかえりって、言ってほしかった。
当話で完結です。
読了ありがとうございました。