涼宮ハルヒの損失   作:無類くん

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 そんなわけで、俺は一年五組の教室の前までやってきていた。

 ぴしゃりと閉められたドア。夕暮れ時のこの時間にこのドアに手を掛けるのは一体何回目だろうか、言うまでもなく二回目である。

 この時ばかりは俺も特に何も考えることなくドアを引き、教室へ足を踏み込んだ。

 

「遅いよ。何か考え事でもしてたの?」

 

 そこで彼女は待っていた。教室の教卓横、黒板の前。丁度長門と同じような立ち位置にて待っていた朝倉涼子は俺の方へ身体を向けると、やや上目遣いでそう言った。

 夕暮れの橙に差し込む陽差しが彼女の微笑を照らしている。

 これまた凄いシチュエーションだ。まるで彼女との待ち合わせに遅れたみたいな感じ。ただのクラスメイトなんだけどな。

 

「ここでしかできない話なのか?」

 俺は怪訝に言う。

「ここでしかできない話よ。一番縁の深い場所だから」

「縁?」

「まぁいいじゃない」

 

 朝倉は両手を後ろに組んだ。

 

「何か思い出した?」

「いきなりなんだ? 人を記憶喪失患者みたいに言わんでくれ」

 

 予想通りだったが、悲しくもラブ的な何かではなかったらしい。

 それにしても何だ、このタイミングで俺に接近してくるということは、もしやまた涼宮ハルヒ絡みなんじゃないだろうな。

 

「ねぇ。ちょっと訊きたいことがあるんだけど」

 神妙な顔で朝倉は言う。

「アサガオの観察日記って知ってるよね?」

「そりゃまあ知ってはいるが、呼び出してまでする話なのか?」

「じゃあさ、そのアサガオが途中で枯れちゃったりして観察出来なくなってしまったとするなら、あなたはどうする?」

 

 俺の話はスルーかそうかい。

 

「何の話だよ。弟か妹が育ててるアサガオが途中で枯れでもしたのか?」

「あたしに兄弟なんていないわ。でね、どうにかして観察を続けたい。だってまだ枯れてしまっただけで、アサガオはちゃんとそこにいるんだもの。そうでしょ?」

「でも枯れちゃったんだろ。だったら後は腐って土に還るだけじゃないのか」

「それがそうでもないの」

 

 何がそうでもないんだ。

 夏休みですらないのに何でアサガオなのかは脇に置くとしても、後の日記の内容には『今日はアサガオが枯れた。明日も枯れているだろう』という記述が延々と述べられることになるだろうな。そんなもん誰が見たって手抜き日記だ、親にも先生にもそんな宿題見せたところで苦い顔されるぞ。

 

「刺激を与えるのよ。そうすれば何かが変わるかもしれないから」

「水を与えるんじゃなくてか? 確かに音楽を聴かせたりするといい刺激になって、植物もよく育つとは言うが」

「違うわ。それじゃ今までやってきた観察と何も変わらないじゃない。現状維持ではこれからを変えることはできない。けど、何をやってもいいか分からなくなった時、そうね。たとえば――」

 

 その時だ。

 朝倉がまるで消滅するかのように、ふっと居なくなったのは。

 

「――な」

 頭が痛い。視界がぶれる。

 ――目の前には。

「思い出した?」

 小型のナイフを逆手に構えた朝倉が、それを俺の首元にあてがって制止していた。ギザギザの、人を殺すためだけに作られたようなおっかないナイフが、だ。

 ひやりとした刃先の感触が右の首筋に伝わり、冷や汗がだらりと流れる。

 

「待て。ちょっと待て、止めてくれ。冗談にもならない!」

「こっちのあなたも同じようなこと言うのね。あたしには分からないわ」

 

 こっち? 意味が分からん。一体何が起こってこうなっている。誰か説明できるやつがいるのなら今すぐヒーローみたいに現れて事のあらましの一切合切を説明してくれ。というかどうして俺が朝倉にいきなりナイフを突きつけられなければならんのだ。

 

「マジで洒落にならん! 今ならナイフを携帯していたことは誰にも言わないからしまってくれ、頼む」

「うーん、そうねぇ。あなたが何もかもを思い出してくれたのなら、考えてあげる」

「だから何を」

「涼宮ハルヒ」

 

 大方予想はついていた俺がそれについて驚くことはなかった。もう何度も違う人物にされているのだ、全く同じ問いを。

 

 やっぱりお前もそうなのか朝倉。

 だから誰なんだそいつは。俺はそんなの全く、

 

「どうしてあなただけが涼宮ハルヒのことを覚えていないのかしら」

「だから!」

「だからあたしはあなたを殺す。そうすれば何かが変わるかもしれない」

 

 俺が悠長に固まっている暇はなかった。咄嗟に後ろへ下がった俺の目の前を銀色の残像が走り、確かに空を斬り裂いたのだから。

 もしも今俺が避けようとしなかった時のことなんて考えてる場合じゃない。今のを避けられたのはほとんど奇跡みたいなものでしかないんだ。

 

 朝倉のその笑顔が、冗談ではないことを物語っていた。

 

「もしあなたが死んでしまっても同じことは繰り返されるよ。ならいいじゃない。死んでも」

「全く意味が分からない、繰り返すってなんだ、いいからその危ないもんをしまってくれ」

「……」

 

 俺は背後のドアに手を掛け――その手は無機質でひんやりと冷たいだけの壁を擦るだけだった。なんで? 朝倉から離れつつ俺は後ろへ振り向くと、そこにあるはずのドアや窓は跡形も無くなって一面コンクリートの壁に変貌を遂げていた。いつの間にか教室は暗く、校舎側の窓も、ない?

 何が起こってやがる。

 

 机と椅子を蹴飛ばして朝倉から離れゆく俺を、朝倉は観察するようにじっと見つめていた。右手に掴んだナイフをだらりとスカートの横で垂らし、じりじりと詰め寄ってくる。

 

「もう諦めたら? 抵抗しても無駄よ、この部屋の情報はあたしの制御下にある。分子結合情報をいじってこの空間を密室にしたから。絶対にここからは逃げられない」

「分子結……お前は、一体」

 

 いつの間にか点灯していた蛍光灯の薄暗い明かりだけが教室を照らしている。薄い影を落としながら朝倉は歩いてくる。逃げられない。どこもかしこもコンクリートの壁が覆っていて、そこにあるのは机と椅子と俺と朝倉のみ。

 俺は既にコンクリートの壁と壁の端にまで追いやられ、朝倉は歩調をそのままにゆっくりと歩いてきた。

 

「それじゃあ――」

 朝倉がナイフを天高く掲げる。

「死んで」

 それを一度後ろまで振りかぶった後、飛び込んでくる。床と垂直に、人間を超えているとしか言いようのない速度で。

 俺は咄嗟に目を閉じ、死を。

 

「そこまで」

 

 何秒待っても、その死は訪れなかった。冷たい刃が俺の肌にめり込んで突き刺してくイメージだけはあれど、何も。

 何も起こらない。

 うっすらと俺は瞼を開く。

 

「これ以上は危険」

「そうね。あたしとしては変化が訪れることを祈っていたのだけれど、そう易々と変わるわけがないかあ」

 

 半分ほど開いた目には朝倉の姿が映っていて、朝倉は憂鬱な表情で俺を見下ろしていた。手元のナイフは既になく、その隣にまた別の誰かが居る気がして。

 

「っ、なん、だ……!」

 

 急に、視界が揺らぐ。それまで鮮明に見えていた朝倉も水の中から見上げる外のようにぼやけて、段々意識が薄れていく。

 一度は開きかけた俺の瞼も自由を失って再び重く閉ざされていく。ごん! と固い物と物がぶつかる音がして、俺は薄れかけていた意識を完全に閉ざしたのだった。

 

 

 

 

 

 午後七時ジャスト。

 これが何を指すかと言えば、ゲンコツ広場の椅子でぐっすりと居眠りをしていた俺が起床した時間のことである。

 暢気なもので、それまで何をやっていたのか俺は全く覚えちゃいなかった。

 

 確か古泉と話して、それから? ええっと、考え事でもしようと広場まで歩き、そのまま椅子に座ってうとうと……大方そんな筋書きだったのだろう。

 確か文芸部室に行こうとはしたんだっけか? でもまあ、学校ももう夜だ。こんな時間まで校舎内に残っているのは体育会系の部活動をやっている連中ばかりだろう。

 

 というわけで、俺は寝惚けた頭をがしりがしりと掻きつつ今日のところは帰ることにした。

 それは何故かと問われてみれば古泉にしつこく言われたから気になっただけであって、俺は文芸活動自体には興味なんてものは粉々に割れたガラスの欠片程度しかなかったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「涼宮ハルヒ、涼宮ハルヒねぇ……」

 

 という一連の話を、俺は谷口に伝えていた。

 そして最近のお決まりとなりつつある疑問を放つと、谷口は何やら腕を組みながら散々に唸った挙げ句、結構考え込んでいた割には「いや、そんな奴知らねぇな」とあっさり答えやがった。

 だが全校生徒の女子を調べ尽くした谷口が言うのだ、信頼はないが一定の信用は持ってやってもいい。この学校には在籍しちゃいないのだろう。

 

「そんなことよりお前、どういうことだよ」

「何がどういうことなんだ?」

「お前を呼び出したのって、あの長門有希なんだろ?」

 谷口は続けて言う。

「俺様的美的ランクAマイナーの長門有希。そして誰とも接点を持ちたがらず教室で誰が話しかけても返事すらしないほどの変人っぷりだ。そんなやつがどうしてお前をいきなり、しかも文芸部なんかに誘ったりするんだ?」

 

 よくあるRPGゲームでサブキャラの位置に立つ解説役のような説明をしてくれた谷口は、弁当箱を持ち上げて米をかっ食らう。

 ちなみに今は昼休みである。俺、谷口、国木田の帰宅部三人組は教室の端で机を寄せ合ってこじんまりとした昼食タイムだ。

 

「俺だって知らん」

「あはは、でも昔からキョンは変な女が好きだったからね。波長でも合ったんじゃない?」

「おい待て国木田。根も葉もないことを言うな、俺は世間一般で言うところの普通人だぞ」

「そうかなあ」

 

 国木田はプチトマトを口に放り込む。

 

「まぁ、自分で普通って言ってる奴ほど普通じゃないもんだ。そもそもだがな、あの長門有希から声を掛けられる時点でお前は普通人じゃないんだよ」

 心の底からお前には言われたくない台詞だね。

「んで、どうするんだ? 結局文芸部には入るのか?」

 

 どうする、ねぇ。

 俺はふと昨日の出来事を思い起こしてみる。あれから結局文芸部に足を運んではいないのだが、何となく身体が行きたくない行きたくないと叫んでいる気がするのだ。

 恐らくは俺の中で働きアリとナマケモノが真剣勝負をしているに過ぎないんだろうが。要はただただ面倒臭いのである。

 

 興味があったら来てくれよってことは興味がなかったら行かなくてもいいってことだろ? 思い立ったが吉日だ、その日に行かなかったのであれば結局次の日もその次の日も行かないんだろうよ。

 我ながら怠惰だとは思うがね。

 

「それじゃあお誘いは断るの?」

「どうだろうな、また気が向いたら行くかもしれんが」

「へえー、キョン好みだと思うけどなあ」

「だから変な誤解を生むな」

「ねぇねぇ、あなたたち一体何の話をしてるの?」

 

 その時。背後から爽やか且つ軽快なボイスが聞こえてきて、何故だか俺は一瞬総毛立った。

 今のはと振り返ると、そこには微笑を浮かべる朝倉涼子が。先ほどまでは遠くで数名の女子グループの輪に入って会話をしていたと思われる彼女が、何故ここに?

 

 俺がちらりと左右の二人へ視線をやると、谷口は驚愕が半分と興奮が半分といった奇妙な顔をしていた。実に間抜けである。

 国木田は俺の背後に視線を向けたまま固まっている。間抜けだ。

 

 かく言う俺も二人に並んで間抜け面を晒していたのだろう。

 朝倉はそんな俺たちの様子にくすりと笑むと、次に衝撃的な言葉を放った。

 その時の俺はきっと、鳩の落としたフンが頭のつむじ辺りに落ちた時のようなどうしようもなく微妙な感情になっていたに違いない。なにがどうしてこうなったと言ってやりたいくらいには、俺は驚いていたのだ。

 

「あたしには文芸部の話題が聞こえてきたんだけど……キョンくん、部活には入るって言ってなかったっけ?」

 

 と。

 それを言ってきた相手が古泉なら即座に「言ってない」と言い返すような台詞が、朝倉涼子の口から放たれたのだった。


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