「あなたの方から声を掛けてくれるのは珍しい。一体どのような心境の変化でしょう、いえ僕としては嬉しい限りなのですが」
翌日の放課後のことだ。
俺は早速、先日の件を古泉に伝えていた。取り急ぎの用事でもなかったのだがばったりと校舎の渡り廊下で古泉と出くわしたため、一応だが話をしておいてやることにしたのだ。
教室の呼び出し文に先日の眼鏡少女が落としていった入部届の用紙。それに三名の名前が書かれていて、その中に古泉の名前が書いてあったことなどだ。出来得る限りの正確な内容を伝えたつもりで、その中には『涼宮ハルヒ』なる人物のことも含めてある。
古泉はなるほどと言って明朗快活な微笑を浮かべると、キザったらしく前髪をかき上げた。ムカつくがその仕草が様になっているのが何とも言えない絶妙さで俺を苛つかせた。
そんなに前髪が気になるなら切っちまえ。
「長門有希さんから、もうアプローチを受けていたのですか」
「もうってことはお前は知ってたのか」
「ええ、あなたが勘違いしたのは間違いではなかったということでしょう。彼女は入部届を落としたのではなく、あなたに見えるよう置いていったのでしょうね」
なんでそんな面倒なことをしやがるんだ。
お前といいその長門有希と言い、随分と回りくどい奴が多いんだな。もう少しストレートに言葉を発するってことをして欲しい。そんな遠回しに暗号を伝えるみたいなことされたって理解出来るのは事前にやり取りを交わした者達だけだ。
ちょっと俺にはよく分からん。それに呼び出されはしたが、結局俺が伝えられたのは『涼宮ハルヒ』ってのだけだ。最後まであの眼鏡少女が何を言いたいのかさっぱり分からなかったし、こうしてお前に聞いても半分は理解出来んね。
「申し訳ありません」
全く申し訳なさそうな笑顔だな。
古泉はどこぞの仏様が浮かべるアルカイックスマイルのように口角を上げ、言う。
「ですがあなたを部活動に勧誘しているのは確かでしょう。長門有希さんはあなたが文芸部に入部することを望んでいます。良いお返事が聞けると僕も嬉しいですね」
ううむ。まあ、それならそれで俺も考えておくとするさ。文芸部に興味があるわけでもないが、全く無いわけでもないからな。
「もしよろしければこの後文芸部室に足を運んでみて下さい、旧館の文化棟にありますから」
俺は丁寧に折り畳まれた入部届を懐から取り出し、古泉に手渡す。
とりあえずこれは返しておくから入部すると決まったら改めて書けばいいだろ。気が向いたらまた立ち寄ることもあるだろうさ。
今のところは候補の一つとして考えておくだけだがな。
「おや、他にも気になる部活動がおありで?」
ない。
即答にてそう答え、俺は渡り廊下を去ろうとしてふと足を止める。
単純に気になったことがあったといえばあったのだろう。頭の片隅で奇妙に残り続けるその単語を拾い上げて、俺は喪失してしまった記憶の一片でも語るように疑問をぶつけてみせた。
「涼宮ハルヒ、ってのは誰なんだ?」
古泉は俺の言葉を聞いた後、しばらくその場に縫い付けられたように固まっていた。心なしか笑顔が崩れたような気もしたがそれは気のせいだったのだろう。
見ているだけで疲れそうな微笑をそのままに、古泉は顎に手を当てつつ口を開いた。
「どうお答えすればよいのやら。しかし僕達の大切な御友人だったということだけは、確かですよ」
俺は文芸部室に足を運んでいた。
何となく気になったのだ。何がどうなって気になったのかと言えばそれを説明することも一切合切出来ないわけなのだが、とにかく俺はここに来ていた。古泉の説明通り旧館に来てみれば迷うこともなく文芸部室はそこにあって、古ぼけたプレートがドアの上で斜めに傾いている。
さて来てしまったがどうしよう。と考えてもみたが結局することは一つしかなく、俺はこんこんとドアの中央部をノックする。
すると、
「どうぞ」
との返事が確かに聞こえてきた。
声からして昨日の眼鏡少女であることは間違いないだろう。
あまり期待はしていなかったのだが返事があったことに少々の驚きを感じつつ、これから面接を受けるバイト希望者のごとく中へと入ると、殺風景な文芸部室の端にて当の彼女はいた。
本棚に敷き詰められた多種多様な本。真ん中に長テーブルと幾つかのパイプ椅子があり、その奥でパイプと一体化したように座っている。
少女は眼鏡の縁をくい、と上げる動作を一度だけして俺を見たきり、すぐにその視線を下へ落としてしまった。文芸部とだけあって彼女、長門有希は本を読んでおり、人形みたいな白く小さな手の上には分厚いハードカバーの本が半ばで開いている。
あれ、それだけ?
と俺が思うのも無理ないだろう。
古泉曰く俺に直接部活動の勧誘を行った張本人が勧誘した本人を目の前にしての反応がそれかと。
昨日の会話を思い起こしてみれば長門が口にした台詞はほとんど一言だった気もするが、それにしてももっとあるだろう。
「来てくれたんだ」とか「入部希望者ですか?」とかさ。うわ言わなそー。
「古泉から聞いたんだが、俺を部活動に勧誘したいって?」
「そう」
「入部届けはアイツに渡しちまったんだけど」
「そう」
頷くだけの機械かこいつは。
「……ええと、どうして俺なんだ?」
静謐な空気の中、ページを繰る音が途絶えた。
長門はぎぎぎと顔を上げると俺の方へ首だけを回し、闇色の瞳が俺を凝視する。首以外は表情すらも全く動かない完璧な無表情だ。ボブカット気味の髪の毛も揺れることすらしていない。
何この空気、聞いちゃいけなかった? だとしたら何故。ホワァイ。
「あら、キョンくんじゃない?」
その時背後からこの空気を真っ二つに切り裂く救世主の声がやってきた。
俺が咄嗟に後ろを振り返れば、そこには谷口的AAランクプラスの朝倉涼子。なんでこんなところに居るんだか知らんが助かったありがとうと心の中で叫びつつ、俺はドアから横へと逸れる。
「もしかしてあなたも入部希望だったりするの?」
「え、ああ、そうなんだ。朝倉もなのか?」
無遠慮に顔を近付けてきた朝倉に若干のドギマギを隠せない俺は後ろに引き下がりつつ、動揺をなるべく隠したまま対応する。
男なら誰でも分かってくれるだろう? 髪の毛のシャンプーの匂いがもうそこまで、平静を保っているだけで処理速度を超えてエラー寸前の脳内CPUを早く冷却しなけば、誰か冷水をよこせ。
近くで見るとより気の良さそうな美少女だ、谷口が言うだけはある。そして谷口には勿体ない。が、別にそれは俺には勿体あるというのを意味しているつもりではなくてだな。
「うん、そうなの。良かった、あたし一人だけじゃどうにも心配だったんだけど、同じクラスのあなたがいるなら少しは安心出来るかな」
話したこともないのにそんなことを言われてしまった。どう返答していいものやら分からないけど光栄なのは確かである。
ざまぁ見ろ谷口。
入部届に名前は書かれていなかったようなので朝倉がここへ来たのは初めてか。もしかすると長門に紹介された口かもしれん。
「朝倉、お前もあの子に勧誘されたのか?」
「あの子っていうのは長門さんのこと? そうなるかな。考えて欲しいって言われてね、最初はどうしようか悩んでいたんだけど特に入ろうとしていた部活もなかったから」
精巧な彫刻の微笑みよりもいっそ綺麗と言ってしまってもいい笑みを浮かべ、朝倉のセミロングが左右に揺れた。
「まぁでも、委員長の仕事で参加できないこともありそうだし、その時はあなたに頼んじゃおうかな。お願いしてもいい?」
「委員長の補佐をか?」
「部活よ。その日何やったか教えてくれるだけでいいから。ね?」
心配ってのはそういうことだったか。
てっきり寂しいとかって意味の不安だと勘違いしそうにもなったのだが、まあ妥当なラインと言えるだろう。
俺は別に構わないが、そもそも文芸部が何をやるのかもまだ知らないんだけどな。
本を読んだのは小学校低学年以来のことだし、最近では読むことすらしなくなっている俺が文芸活動など出来るかどうか。
文字なんか書けんぞ、小学校の漢字ドリルなら話は別だがな。
「ありがと。それじゃあたしは用があるから先にお暇するわね。キョンくん、また明日」
「お、おう」
来てすぐ帰るなら何しに来たんだ。
朝倉は俺の横を通り過ぎる際、後ろ手で俺の手を上から握り込むようにしてきた。それが唐突過ぎて反応できず、俺は朝倉が手をひらひらと振りながら去った数十秒も後に気付く。
「栞……何で?」
いったいどのタイミングで俺に握らせることに成功したのか、花柄模様の栞が俺の右手に張り付くようにすっぽり収まっていた。上から暖かい朝倉の手の感触が残っていたお陰で気付くのに時間が掛かった。
女の子らしく可愛らしい栞だ。俺はふと栞を裏返し、目を見開くことになる。
『一年五組の教室で待ってるね』
と、裏側には丸い文字でそう書いてあった。
ちょっと待て。これはなんだ。
脳裏に電流が入ったような感じがして後頭部を押さえた先、偶然にも開かれたドアの奥で座っている長門と目があった。
彼女は氷のような無表情をこちらに向けていて、寸分違わず俺を突き刺す闇色の瞳はじっとそこで静止している。
「あー……その、なんだ。入部したいんだが」
「分かった」
「あ、ああ。明日古泉にも伝えるから」
それだけ言って勢いに任せてドアを閉めた時、俺はやっちまったと思ったね。確かに気になるとは言ったが入部すると決めたつもりなんてこれっぽっちもないし、というか何だこれは。
デジャブのような光景が脳裏に浮かぶ。
今回はとても直接的な呼び出しだ。長門の時とは打って変わって、でも口じゃなく栞で呼び出しとはな。
しかし用意周到じゃないか、あらかじめ書いてなければならないはずなのに。え、ひょっとして今ここで俺に会わなかったら下駄箱かそれとも机の下にでも入れておくつもりだったのか?
分からん、全然意味が分からん。俺は朝倉とはほとんど喋っていないから仲良くもないのだし普通こうして呼び出されるわけがない。
ということは、つまり。告白? ラブレター的な?
ないない、絶対にあり得ないとまでは言わないがない。
俺は朝倉が立ち去った方角をぼんやり眺め、一人頬を掻いた。
この文面が本当なら朝倉はこれから一年五組の教室で俺を待っているということだが一体なんのイタズラだ? 谷口か国木田が出てきて盛大なドッキリでしたみたいなことだったらただじゃおかんぞ。
一体何の用事だろうか。
俺は若干の期待とそうでなかった時の落胆の先取りを行いつつ、ひとまず文芸部室の前から離れることに。
ファンシーな栞をポケットに突っ込みうむむと頭を抱える。
でも……これは、行くしかないよな。
よし行ってみよう。ちょっと顔出すだけ出して誰もいなかったら帰ればいいのだ。そうしよう、それがいい。
原作とアニメを読み返したり見直したり、そんなこんなでいつのまにか8月手前ってことにさっき気が付いた。時間の流れは早いですね。