涼宮ハルヒの損失   作:無類くん

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 朝。

 

「キョンくーん、起ーきてー!」

 

 そんな声と共に、瞼を開こうとしない俺の下腹部に大ジャンプからののしかかりを披露してくれるのは月曜日のこと。朝の宿命である。

 俺が半ば強制的に跳ね上がると間の抜けた声でのそのそと布団の上から退き、俺が二度寝と洒落込まないようにとご丁寧に布団を剥がしてしつこく肩を揺すってくるのは、家の可愛い目覚まし時計だ。

 妹よ、毎度のように思うのだが、もう少しばかり優しい起こし方があるんじゃないのかね。

 丸い目をぱちくりと瞬きさせ、妹は元気な調子で部屋から飛び出していった。あの元気を分けて欲しい。

 

 七時。俺は目を擦りながらベッドから抜け出し、寝惚けつつ制服に着替える。朝飯のトーストを胃袋に収め、いつものように自転車を駆り出して駅前に路駐。お馴染みになったこの長大な坂、とぼとぼと歩いていると、後ろから谷口が声を掛けてきた。

 よくもこの坂を自転車で登ろうと試みるもんだな。

 

「おーいキョン! お前なんで途中で電話切りやがったんだよー!」

 

 それはお前が下らないことを言い始めるであろうことが最初の発言で分かっていたからだ、とは言わない。どうせその件についてはとやかく言われると思っていたので、俺は谷口をスルーした。

 

「おい、おいってば! ……ケッ、連れない奴め。お前がどんなに懇願してももう誘ってやらねーからな? とびきりな美少女と俺が付き合うことになっても後悔するなよ」

 

 お前が誰と付き合うとかは心底どうでもいい。

 勝手に付き合え、俺は文句の一つも言わんし後悔の一つもしない。それにもしもお前に彼女が出来たなら素直に拍手して褒めてやるよ。その時は焼き肉でも行こうぜ、お前の奢りでな。

 

「何で俺が奢らなきゃいけねーんだ、普通逆だろ」

 谷口は言う。

 

 悪いがそんな金はないな。

 仮にあったとしても、金ってのは第一に人に奢るために使うものじゃないだろ。ああいうのはまず金に余裕があって、他人に振る舞っても自らの生活に影響が出ないほど財力を持っている奴だけが行える特権なんだ。

 俺がお前に焼肉なんぞを奢ったら餓死しちまうよ、財布がな。

 

「うるせぇ」

 

 そんじゃあなと言って先を行く谷口の背中を追うわけでもなく、俺は俺のペースで坂を登る。まぁ、そんなわけで登校だ。学校も慣れたもので、教室に入って自分の机に座るのはお手の物。友達と呼べる奴らも順調に増えていった。

 

 そういえば、どの部活動に入るとかは考えてなかったな。

 担任岡部から入部の書類を渡されてから必要以上に考えることもなかったのだが、もう六月である。これといって入りたい部活もないが、とりあえずはどこかに顔を出してみるのもいいかと――。

 

「……ん?」

 

 俺が机の中に手を伸ばして教科書を手に取ると、その上に見知らぬ紙切れが乗っていた。何気なくそれを手に取ってみると、なんとメッセージが書かれていた。

『放課後、一年五組の教室にて待つ』

 一体なんだこれは。時間指定も差し出し名も書かれておらず、機械で打ち込んだような簡潔な文字のみ。

 一体誰からだ? 健気で可愛い女の子からのラブレターだったら俺もテンションが上がったりするのだが、これはラブレターというよりかは果たし状の方が近いかもしれん。

 

「あぁ? 俺じゃねぇって」

 

 ホームルーム前の空き時間。

 先日の当てつけかと谷口に突きつけてみると、両手を大げさに振りながら否定しやがった。

 

「大体よ、なんで俺がそんなまだるっこしいことしなきゃならないんだよ」

「これは僕も谷口じゃないと思うな。キョンにいたずらを仕掛ける暇があるとは思えないし」

「おいそいつはどういう意味だ?」

 

 どうやら本当に違うらしい。俺も本気で谷口が犯人だとは思ってはいなかったが、その様子からすればこの切れ端のメッセージには心当たりすらもないようだ。

 

「んで、どうすんだ? 放課後まで健気に待ってやるのか?」

 

 そりゃあ待つだろう。誰が来るのかは知らんが、わざわざ人の机にメッセージを忍ばせてきているんだ。もし本当に俺を誰かが待っていて、その時俺がのんびり家で飯食ってるなんてことがあれば凄まじく申し訳ない。

 

「その前に怪しめっての。お前の机と誰かの机を間違えたのかもしれんし、それに相手が男か女かも分からん。もしも仮に、いや奇跡的にそれが女からの熱烈なメッセージだったとしてもだな、そいつがAランク以上の女だとは限らないんだぜ? お前を勘違いさせて騙そうとする男の犯行かもしれんぞ、悪質な。放課後まで待ってたお前にドッキリでワーッ! ってな」

 

 それをやるとすれば谷口、俺はお前の姿しか浮かばんのだが一度ぶん殴ってみてもいいか? 俺はそこまで男に恨まれることはしちゃいないぞ。

 というかAランクってなんだ、一体なんのランクだよ。

 

「勿論、顔だよ顔! 俺は一年生の女を全員もれなく調べてランク付けしてるんだ。そうだな……例えば朝倉涼子」

 

 谷口は俺に顔を近づけ、小声でその名を告げながら朝倉涼子の席へと目を移す。

 朝倉涼子。学級委員長であるところの彼女は俺も知っている生徒だ。今はクラスメイトの女子と話題に花を咲かせていて、つま先から頭のてっぺんまでゲスな男に名指しされていることなど全く気付いていない。

 

「アイツは一年の女の中でもベストスリーには確実に入るね。AAランクプラスに食い込んでるほどだ。性格まで絶対良いに違いない」

 

 お前にランク付けされている全校生徒の半分が可哀想になってくるな。もしかして谷口、朝倉を合コンに誘おうとしているのか?

 

「おうよ、よく分かったじゃねぇか」

 

 悪いことは言わんから止めておけ、谷口。

 止めておけ。

 

「なんで二回言ったんだキョン」

「あ、そうそう。僕を合コンの頭数に入れるのは止めてね。誘われても参加しないよ」

「えぇなんでだよ、お前も乗り気だっただろ?」

 国木田は苦笑いする。

「乗り気だなんて言ってないし、流石に合コンとかナンパはお断りするよ」

 そりゃそうだよな。

「ちぇっ、なんだよなんだよお前ら二人ともよぉ! いいさ、俺一人だけで幸せになってやるから!」

 

 ああ勝手になれ。勝手に幸せになってくれ。俺は応援しているとさっきも言っただろ。その時は奢ってくれよな、焼肉。

 

「ケッ」

 

 舌打ちする谷口を最後に会話は止まり、担任の岡部による定例のホームルームが始まった。

 

 さてところ変わって放課後。本日の授業もつつがなく終了し、放課後となった。

 俺は谷口に言われた言葉も思い出しつつ、半信半疑で切れ端の呼び出し文を見つめて一人溜め息を吐く。

 ちなみにここは教室ではなく、教室の前だ。実はつい先ほどまで誰かさんからの呼び出しなどすっかり忘れて帰ろうとしていたことは内緒である。

 奇しくも谷口に言われて思い出したのは悔しいことだ。

 

「……さて」

 

 俺を呼び出したのは本当に誰なのだろうか。まだ数えるほどしか知り合いはいないが、俺をわざわざ呼び出すだなんてのは古泉くらいしか存在しない。それも奴ならこんな遠回しなことはせず、直接約束を取り付けてくるだろう。

 誰もいなかったらいなかったでそれでいい。

 

 もしも誰か一途な女子生徒の告白だったら心が躍るな、などということを心の奥底で考えつつ俺は一年五組の教室の扉を開いた。

 

「……?」

 

 目の前に立っていた人物を見て、俺は思考を停止せざるを得なかった。

 教卓の前に突っ立って俺を真っ直ぐに見つめてくる眼鏡女子。彼女は微動だにすることなく俺を見続けている。

 夕焼けに染まりつつある校舎、教室の中には他に生徒はいない。ということは、この大人しそうな女子が俺を呼び出した張本人ってことなのか?

 

 クラスメイトですらなかったとは予想外だったにしても。

 ……俺と喋ったことはおろか、まだ一度も見たことがない人物だとは。

 え、告白? いやいや、そんなまさか。

 

 あのう。

 

 あの、なんで喋り出さないんですかね。

 もしかして、全部俺の勘違い?

 

「……え、えーっと。お前が俺を呼んだのか?」

「そう」

 

 短くそう返事をしただけの彼女は、俺を眺めるだけで次の台詞を放とうとしない。

 俺は非常に困惑していた。この子が誰なのかが分からないのは勿論のことだが、膠着状態が続いているのが非常に辛い。

 何が辛いって、この空気が。

 

「……で、何の用?」

「あなたが感じている既視感のこと」

 

 だから俺から口を開くことしかできず、俺の問い質に少しだけ顔を上げた彼女は――淡々と、言った。

 

「……今なんて?」

「あなたが感じている既視感のこと」

 

 二度も同じことを言えとはいっていない。

 しかし、普通ならこんなけったいな台詞を第一声に持ってこられたりすれば顔を歪めてもう一度聞き返すのだろうが、俺は彼女の発した『既視感』という単語に過剰に反応したのは確かであった。

 

「あなたはこの日常に既視感を覚えている」

「へ?」

「何かをしている時、あなたは既視感を覚えているはず。自分の姿が重なっているということが断続的に発生している状態」

「――それは」

 

 告白でもなんでもない彼女の台詞。いや、告白という言葉の見方を変えればあまり間違ってはいないのかもしれないけど、ええいそんなのはどうでもいい。

 どうして俺が思っていることを、この誰だか分からない奴が的確に当ててくる。

 

 一瞬、世界がぶれる。

 俺の視界が揺らいで全てが二重にも三重にも重なる。

 そこに見えたのは俺ではない俺と、彼女ではない何者か――誰だ?

 

 すぐに消え去った。

 俺は今までで一番強烈な違和感と頭痛を誤魔化すために頭を右手で押さえていると、彼女が機械的な動きで近付いてくる。

 

「――涼宮ハルヒ」

 

 擦れ違い様に、彼女は小さな声で誰かの名を呟く。

 

 ――ハル、ヒ、だって? ……誰だ。

 一度は収まった視界が強烈に揺らぐ。

 俺は立てないほどの衝撃に脳を刺激されて、がくりと膝を付いた。

 

「あなたは涼宮ハルヒを知っている」

 

 機械的な調子でそれだけを言って、彼女は開かれた扉を通り廊下へ出ていってしまった。

 俺はその彼女の後を追おうと廊下へ飛び出すが、既に彼女の姿は廊下のどこにも見えない。

 

「な、何だったんだよ……って。あれ?」

 

 俺の足下に、A4用紙が一枚落ちていた。

 拾い上げるとそれが入部届の用紙であることが分かる。俺が貰っている入部届と違うのは、一番上に『文芸部』と記されているのと、下の欄に三人の名前が記されていることだ。

 長門有希……朝比奈みくる……古泉一樹?

 

 なんであいつの名前が記されているんだ?

 入部届の空欄は、後二つあった。

 

 置いていったのは先程の眼鏡女子であることは間違いがないのだろうけど。

 

「勧誘……ってことなのか?」

 

 だとしたら凄いピンポイントな勧誘だな。

 なら直接文芸部に入部して下さいって言うのが定石じゃないのか? それ以外にあるのか?

 それに文芸部に誘うとしても、もっと俺より適役の人物がいるだろう。一年五組でいえば国木田とか外見的にも俺より誘われるに値するとは思うのだが。

 あのメッセージを机の中に入れるために一度俺の教室にまで足を運び、そして俺を待つために放課後の教室で一人で待っているだなんて。

 ――いや、少し混乱したが、そうじゃないだろう。

 

「落としていったって考えるのが正しいよな……」

 

 とりあえず入部届を鞄に入れ、俺は深い溜め息を吐いた。少しだけ期待した俺が間違いだった。まさかあの大人しそうな女子から放たれる台詞が古泉に続く電波発信だとはな。

 

 涼宮ハルヒ?

 恐らく人名なのだろうが、俺にはまるで聞き覚えがない。こんな回りくどいことまでして涼宮ハルヒなる人物のことを聞きたかったのなら、そいつは間違いだぜ。

 俺はそんな珍しい名前のやつなど知らん。

 

「ったく……帰ろ」

 

 下手に期待が重なった分だけ無駄骨を折った気分だ。入部届の書類は今度古泉にでも届けてやることにして、俺は夕焼けの校舎を一人歩いて帰宅の道をとぼとぼと進むのだった。


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