魔法科高校の劣等生と優等生、加えて問題児   作:GanJin

83 / 86
ご無沙汰しております。
リアルで環境が変わって中々更新できませんでした。
楽しんでいただけたら幸いです。


忘れてしまった記憶

 その日、初めて血溜まりを目にし、鼻を刺すほど強い血の匂いを嗅いだ。

 近くではいくつもの悲鳴が木霊している。その悲鳴が一つまた一つ消えるにつれて、人の形をした肉塊が横たわっていく。目の前の血溜まりは徐々に広がり、血の匂いが更に強くなる。最早、他の匂いとの違い分からなくなっていた。

 私はその光景を見ているだけしか出来なかった。

 すると、その血溜まりの中を音を立てて歩いている人影が目に映った。

 

―――――やめて!

 

 人影の正体に気付き、止めさせようと声を出そうとするが、呼吸すら出来なかった。

 代わりに手を伸ばそうとしても体は一切言う事を聞かない。

 自分の体であるはずなのに、人としての機能が一切働かないことに私は戸惑った。

 呼び止めようとしたその人影はこちらに目も向けず、自身よりずっと大きな人影に飛び掛かり、小さな手に持っているナイフで躊躇いもなく刺した。顔、喉、胴体を我武者羅に刺し、人影が動かなくなれば、また別の人影に襲い掛かる。

 それを繰り返していく内に血でべったりと濡れたナイフが手から滑り落ちると、周囲にいた人影達は狂ったように自分達より小さな人影に襲い掛かる。

 小さな人影は迫りくる大きな人影達を掻い潜り、細い指先で目を抉り始め、大きく口を開けて喉元に噛みついた。肉を引き千切る音が聞こえると、再び血溜まりが大きくなっていく。

 その小さな人影は人の皮を被った鬼にしか見えなかった。

 いくつもの人影が倒れていくと、自分の体が勝手に後ろに下がり、両手で耳を塞いで目を閉じた。その所為で目の前で何が起こっているのか分からなくなってしまう。

 目を逸らしてはいけないと心が叫んでおり、それに従って藻掻こうとするが、体は言う事を聞かない。ただこの体が嗚咽を発していることだけしか分からなかった。

 それからどれだけの時間が経ったか分からないが、ようやく目が開いた。ゆっくりと立ち上がり、恐る恐る前に進むと、そこには先程よりもずっと多くの大きな人影が横たわっていた。

 その中でポツリと立つ人影があった。間違いなく彼だ。

 だが次の瞬間、視界にノイズが走り、小さな人影は本当に人ならざる鬼に変貌していた。

 先程まで人だと認識していたはずなのに、今では人の形をしていることが異様であると感じている。

 ふと、鬼の目が此方に向くと、ゆっくりと歩み寄って手を伸ばしてくる。

 それを目にした直後、少女の悲鳴が木霊した。

 その声に反応して鬼は足を止める。

 その直後、目の前にいた鬼は人影に戻っていた。人影は伸ばしていた手をゆっくりと引き、こちらに背を向けて離れていく。

 その後ろ姿を見て、私は全てを思い出した。

 これは悪夢ではない。現実に起こり、最も後悔した出来事だ。あの時、彼を最後まで人として見れなかったあの事件の一部始終だ。

 一気に後悔の念が込み上げてくる。悲鳴を上げるべきではなかった。そんなことをしなければ、彼はああならなかったかもしれない。

 

―――――行かないでっ!

 

 彼を呼び止めようとしても声が出る筈もなく、手を伸ばそうとも体は動かない。

 徐々に見えなくなっていく小さな人影の背中をただ眺めるだけしか出来なかった。

 

 

 

 

 

 

 

「ん……」

 

 雫はゆっくりと瞼を開けた。

 何か夢を見ていた気がするが、それが何なのか思い出せなかった。だが決していいモノではないだろう。頬が涙で濡れているのだから間違いない。

 

「……またあの夢かな」

 

 夢で泣いたことは滅多にない。それほどまでに精神的ショックが大きかったのは人生でも『あの事件』だけであり、今回もそれに関する夢を見ていたのだろう。

 雫は『あの事件』でどんなことが起こっていたのかは覚えていない。そんな出来事があったという知識はあるが、記憶はほぼ無くなっていた。唯一はっきりしているのは、あの場所に彼が立っていたこと。今の彼とは別人と思えるほどに変わり果てていたという視覚的情報のみだ。

 事件があってから当時の全貌を思い出すことは一度もなかった。ただし、夢でその事件を追体験していることが稀にあるらしく、何度かうなされることがあった。幸か不幸か、起きても夢について一切覚えておらず医者からは様子を見るしかないと言われている。

 

(……本当に何があったんだろう)

 

 嘗ては知るのが怖かったが、今ではあの時に何があったのか知りたいという思いが強くなっていた。『彼』なら間違いなく知っているだろうが、絶対に話さないだろう。

 ふとカーテンの隙間から空を見ると晴天であった。それを見て気分を入れ替わることは出来なかった。あの夢を見た所為か、何かしら不吉なことが起こる気がしてならなかった。

 

「何も起こらないと良いな」

 

 そんなことを呟くが、それを保証してくれるモノは何一つここにはなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 十月二十六日水曜日。一年A組は朝から少々ざわついていた。

 

「禅、大丈夫なの?」

 

 雫の悪い予感はある意味的中していた。確かに不吉な事が学校で起こっていた。

 

「……割としんどい。夜からずっと鍛錬しっぱなしで寝不足だ」

 

 ただしそれは雫にとって直接的な影響はない。

 悪いことがあったのは現在雫が話し掛けている禅十郎だ。彼は大怪我を負った状態で学校に来ていたのである。顔の半分が包帯で覆われ、襟や袖の隙間からも包帯がちらりと見えている。全身に怪我をしているのは明白だった

 

「後で授業の内容教えるから今日は保健室で休んだ方が良いよ。無理して授業に出ると皆も気になって仕方がないだろうし」

 

「あー……それも、そうか」

 

 雫の言い分が正しいと判断した禅十郎は椅子から立ち上がり、教室を後にする。体がふらつき、少々覚束ない足取りであることに心配になった雫は付き添いとして禅十郎の後に続いた。

 

「怪我してるなら無理して学校に来なくても良いのに……」

 

「後期は無遅刻無欠席を目指してるんだよ。この程度で学校休んでたまるか」

 

 妙な所で真面目を発揮するが、もっと使うべき機会はあるだろうにと雫は内心呆れていた。

 

「で、昨日何があったの?」

 

 雫の知る限り、昨日は特に荒事は無かったはずだ。真由美達と何処かに向かったことは知っていたが、戻って来た時には特に怪我をしていたわけでもなかった。

 

「千鶴姉と鍛錬した」

 

「お姉さん、引退したんじゃないの?」

 

 千鶴が現在専業主婦であり、道場の仕事をしばらく手伝わないことは雫も知っていた。そんな彼女と鍛錬したことに首を傾げる。

 

「まだ教えてなかったことがあったのを思い出したんだとよ。ただスイッチ入ると時間感覚と加減を忘れるから朝まで付き合わされた。容赦なく壁と床に叩きつけてくるし、百を超えてからもう数える気も失せた」

 

 遠い目をする禅十郎は口から生気が抜けるかのような重い息を吐き、昨日の事を思い返した。

 

 

 

 

 

 

 

 鑑別所から帰った日の夜、禅十郎は家の道場の真ん中で一人正座をし、瞑想にふけっていた。人一人いるというのに道場の中は驚くほど静かだった。

 だが耳をすませば、僅かながら少々荒い呼吸音が聞こえてくる。それに加え、ただ座っているだけなのに禅十郎の額から汗が出ており、まるで悪夢にうなされているようにも見えた。

 それを一時間以上続け、禅十郎は大きく息を吐いて目を開けた。

 

「勝率三割未満か……」

 

 拳を強く握りしめ、悔しそうに歯軋りする。

 この一時間、鑑別所での戦いを何度も脳内でシミュレーションしていた。当時の手札を使って呂と誰のサポートもなく一対一で戦った上での勝率は三割未満。十回戦えば七回以上は確実に死ぬ。そう結論が出ていた。

 

「弱いな、俺は……」

 

「そうやって何かあると自虐的になるのは禅ちゃんの悪い癖よ」

 

 背後から音もなく現れた千鶴に禅十郎はさらに重い溜息を吐いた。

 

「千鶴姉に気付けなかったんだから落ち込みたくなるさ」

 

 彼女は道場を辞めてはいないが、ほぼ引退していると言っても過言ではない。専業主婦として日々家庭を支えている彼女が、扉を開けて部屋に入ってきたことにすら気付けなかった。そのことが禅十郎を更に落ち込ませる。

 

「まったく鍛えていないわけじゃないんだからそうそう腕は鈍らないわよ。それに子供を守る為ならいくらでも強くなるのが母親ってものなのよ」

 

「へーへー、そうかいそうかい」

 

 禅十郎は投げやりに返事をする。どんな慰めの言葉を聞いたとしても、彼女に気付けなかった結果は消えないのだ。

 それ故に禅十郎は己の弱さに腹を立てる。どんなに強くなっても一人で出来ることに限りがあるのは分かる。だが、たった一人になったとしても誰かが助けてくれるという根拠のない希望を持つ気はない。

 何故なら自分は強くなり過ぎた。世界の広さからすればまだまだ上はいる。だが、子供という範囲において禅十郎は力をつけすぎてしまった。強すぎるがゆえに支えてくれる人が極端に少なくなった。周囲からは期待と羨望の眼差しを向けられるだけで、自分と横に並ぼうと考える人はほぼいなくなっていた。同じ位置に立つ者がいなかった為に、自身に足りないものが何なのか気付けなかった。

 そのツケを禅十郎は一度払ったことがあった。取り返しのつかないミスをしてしまった。

 だからこそ、同じ轍を踏まない為に禅十郎は自分にないモノを徹底的に得ようと足掻き続けている。

 それを知っている千鶴は彼の態度に少しだけ困った顔を浮かべる。しかし、彼女にとって今の彼の状態は好都合だった。

 余計な事は何も言わずに千鶴は禅十郎に向き合うように座る。

 彼女の姿を目にした禅十郎は目を丸くした。彼女は嘗て使っていた道着を身に着けていたのだ。子育てが落ち着くまで袖を通さないと決めていたにも拘らず、彼女は現役の頃とほぼ変わらない姿で禅十郎の前に現れた。

 

「珍しく静かにご飯を食べてたのが気になってお父さんと仁さんから話を聞きました。あの『人喰い虎』を捕縛したそうね」

 

 娘と嫁に対して口が軽すぎるぞ、と禅十郎は悪態をつきたくなったのを我慢した。

 

「一人で倒せなかったのがそんなに不満だった?」

 

 千鶴の問いに禅十郎は即座に首を横に振った。正直、あのメンバーで呂を捕縛したのはこれ以上とない結果だと思っている。

 

「じゃあ、真由美ちゃんを危険に晒したこと?」

 

「あの人は俺が守るほど弱くないだろ」

 

 その返答を聞いたら誰もが驚くだろう。特に第一高校では禅十郎が真由美に気があることは様々な件から噂されており、彼女の身に何かがあれば容赦なく危害を加える者を叩き潰すだろうと思われていた。

 しかし禅十郎は真由美に惚れてはいるが積極的に守らなければならないほど弱いと認識していない。寧ろ彼女は自分より強い人だと思っている。

 篝家に生まれた者はほとんどの場合、依存癖の一種として自分に勝る何かを持っている異性に惹かれやすい。それは禅十郎も例外ではなかった。

 

「それもそうね。本気であなたを怒ったのは家族以外であの子だけだものね」

 

 昔の事を思い出してクスクスと笑う千鶴に禅十郎はやや不機嫌になった。

 回りくどい話をしているが千鶴は禅十郎が何を思い悩んでいるのか、おおよその検討はついていた。だが彼の口から直接聞かなければ意味がない為に指摘しない。

 そのことを察した禅十郎はようやく自分から口を開くことを決意した。

 

「あの時、『タケミカヅチ』を使った」

 

 その短い言葉だけで千鶴は彼の悩みを理解した。本当に上昇志向の高い弟だと千鶴は感心と呆れが半々の気持ちであった。

 

「確かにあの速さは宗ちゃんじゃないと無理でしょうね。私に勝つ為とはいえかなり強引な方法を取った気がするけど……出来ちゃったものは仕方ないわね。私もあんな勝ち方をしてくるなんて思わなかったわ」

 

 当時の事を思い出し、懐かしむような笑みを浮かべる千鶴に対して、禅十郎は自分の不甲斐なさに暗い顔をしていた。

 

「何度も手合わせしたから分かる。兄貴なら奴と互角以上に戦える。なのに俺は虚を突くくらいだった。本当に格が違うことを思い知らされたよ」

 

 今なら断言できる。宗士郎の最強たる所以を理解できてもその領域に入ることは自分では不可能であると。だからこそ、自分だけの持つ力を使ってその最強を打ち破らなければ、先に進めないのだと結論付けた。

 

「一朝一夕でどうにかできるとは思えねぇが、今はもう少し『カグツチ』の完成度を高めるしかないな」

 

「研究所の人達も大変ね」

 

「あのおっさん共にとって研究こそがやりがいじゃねぇか。頼めば嬉々としてやるだろうさ」

 

 どうやらこの件について心配する必要はなさそうであると千鶴は判断した。それ故にもう一つの禅十郎が帰ってから一度たりとも表に出さない悩みを指摘することにした。

 

「禅ちゃん、タケミカヅチを使っても攻撃が上手くあたらなかったでしょう?」

 

「……何でそっちまで分かるんだよ」

 

 今日一番の苦い顔を浮かべる禅十郎に千鶴はクスクスと笑った。

 

「伊達に門下生から『怪人』と言われてないもの」

 

 禅十郎は千鶴本人が最も忌み嫌う二つ名を口にしたことに目を丸くした。

 彼の反応に千鶴は肩をすくめた。

 

「そう呼ばれても否定出来ないことをしてきたんだもの。それにあの子達の前でその程度の事で頭に血が上ったら教育上に悪いでしょう? 少しは妥協しなきゃね」

 

 母親になると丸くなると言うが、本当に昔より性格が穏やかになったようだ。

 

「あ、でも調子に乗って連呼したら容赦はしないわよ。裏声が枯れるまで追い詰めるわ」

 

 聖母のような微笑みから寒気がするほどの冷笑に変わる千鶴を目にし、根っこは変わっていないようである意味安心した。それでこそ彼女と言える。

 

「で、道着を着たってことは」

 

「禅ちゃんの悩みを解消してあげるわ。ああ、そうそう、心配しなくても手加減する気は無いから……」

 

 笑顔のまま千鶴は右手の人差し指で禅十郎の左目を突きにかかった。

 

「ねっ!」

 

 咄嗟の彼女の攻撃を禅十郎は左手で掴んで防いだ。千鶴の指先は禅十郎の二センチ程前で止められる。

 

「お見事」

 

「ほんとに変貌しすぎだろ。……その顔、ガキ共に見せるなよ。マジで泣くぞ」

 

 千鶴は聖母のような微笑みも、身の毛がよだつような冷笑も浮かべていない。とても二児の母とは思えない狂気を孕んだ笑みを浮かべていた。虚ろな瞳と歪んだ口角で作られた笑みは普段と違って安心感とは程遠い恐怖心を抱かせる。その上、自分の命を本気で狙ってくる殺意が一瞬だけしか感じ取れなかった禅十郎は冷や汗を掻いていた。

 

「あらあら、そんなことを気にしてる暇があるのかしら? 余計な事を考えてたら……」

 

 千鶴の手を掴んでいたはずの禅十郎の左手はいつの間にか振りほどかれ、逆に手首を掴まれていた。その直後、彼の視界は文字通り回った。

 

「死んじゃうわよ」

 

 受け身を取ることすら許されず、禅十郎は背中から叩きつけられた。

 何が起こったのか頭では理解は出来る。あの僅かな時間で上空に投げ飛ばされ、床に叩きつけられたのだ。

 ただ彼女が自分を投げる初動に気付けなかった。虚を突かれたわけではない。彼女から相手を倒す闘志も殺意も敵意も感じなかったのだ。それ故に投げるタイミングが全く分からなかった。

 

「かっ!」

 

 肺から空気が無理矢理吐き出され、禅十郎の口から濁った呼吸音が出た。

 その直後、彼のぶれている視界に僅かに影が見えた。それが何なのか視覚より気配で察知する。千鶴の容赦のない拳が彼に襲い掛かる。

 体の痛みすら忘れて体を捻って千鶴の攻撃をギリギリの所で回避し、その勢いを利用して体勢を立て直した。そのまま千鶴の出方を見ずに肉薄して殴り掛かる。

 

「はい、減点」

 

 千鶴は禅十郎の攻撃をひらりと躱して腕を掴み、攻撃の勢いを利用して壁に向けて投げつけた。

 

「咄嗟に避けたのは良かったけど、その後も本能に頼ったのはダメね。敵意と殺意がだだ漏れ。そんなのすぐに分かっちゃうわよ。前にも言ったのにどうしてお姉ちゃんの言葉を聞かないのかしら?」

 

「……そう簡単に殺気を抑えられるかよ。兄貴は身体能力の化物なら、千鶴姉は気配が読めない怪物だよ」

 

 ゆっくりと壁をつたって立ち上がる。禅十郎は僅かな手合わせで息が上がっていた。連続で投げ飛ばされて叩きつけられ、意識は朦朧とし始めている。だが、諦めの悪い禅十郎は自分の顔を叩いて意識を無理矢理取り戻した。

 禅十郎は千鶴に向かって走り出す。正面から左足による横蹴りで千鶴の腹部を穿ちにかかる。千鶴はそれを左手で左に逸らし、即座に右手を縦に構えた。その直後、予測していた禅十郎の右の肘打ちがギリギリの所で横切った。

 

「っ!」

 

「うらっ!!」

 

 禅十郎の体は時計回りに回転し、左足の横蹴りは回し蹴りへと変貌して、千鶴の脇腹に襲い掛かる。千鶴は咄嗟に後ろに下がって禅十郎の蹴りを避ける。その後も禅十郎は勢いを殺さずに蹴り技を連続で放っていく。

 その数々の攻撃を千鶴は両手でいなし続け、カウンターで回し蹴りを叩き込む。禅十郎はギリギリの所で躱し、千鶴と距離を取った。

 

(今のはちょっと危なかったわね)

 

 攻撃が来るのは分かっていたが、先程とは異なって本気で狙ってきた肘打ちがフェイントであることを見抜けなかった。避けられることが分かっている上で本気で攻撃する。その後の回し蹴りは本命ではないようにすれば、先に来る攻撃に意識が向くのは必然であり、その直後の攻撃までは悟られない。

 昔ならこんな搦め手はしてこなかった。少し見ないうちに成長していることに千鶴は思わず姉らしい優しい笑みを浮かべた。

 

「まだまだね。でも夜は長いから今からじっくりと……調教してあげるわ」

 

 しかしそれも束の間、すぐさま狂気を孕んだ笑みに戻る。

 姉としての情けはこれまで。ここから先は手加減なしで相手をする気でいく。

 千鶴の雰囲気が変わったことに禅十郎は気合を入れ直す為に大きく息を吐いた。

 こうして禅十郎の長い夜が始まった。

 

 

 

 

 

 

 

「今日もやるんだよなぁ。……帰りたくねぇ」

 

 一朝一夕でどうにかなるはずもなく、今朝方、千鶴から合格ラインに達するまで毎日やると宣言されていた。無理してまで学校に来たのは無遅刻無欠席だけでなく、単純に少しでも千鶴に会わず現実逃避がしたくなったからだ。

 

「雫ちゃん、ちょっとしばらく匿ってくれない?」

 

「ダメに決まってるでしょ」

 

 雫は禅十郎の背中を指でつついた。

 

「い゛っ!?」

 

 濁った悲鳴を上げた禅十郎は足元がふらついてバランスを崩しかけた。ギリギリの所で踏ん張り、再び姿勢を正した。

 それを見た雫は不機嫌な顔を浮かべたまま何処か悲し気な目になっていた。

 

「そんなになるまで無茶して。周りが心配しないと思ってる?」

 

「心配どころか……お前ならこれぐらい平気だろって、扱いが日に日に雑になってる気がするんだが?」

 

「それは禅の普段の行いの所為」

 

「ああ、そうかよ」

 

 投げやりになった禅十郎は溜息を吐く。

 ふと雫の顔を見て、禅十郎は眉間に皺を寄せた。

 

「お前、何かあったか?」

 

「え……?」

 

 突然の問いかけに雫は困惑する。

 

「気のせいなら良いんだ……、いや、昨日あたりに夢に出てきたか」

 

 雫は目を見開いた。誰にも悟られないようにしていたはずなのに彼には気付かれていた。

 

「なんで……」

 

「お前が普段以上に表情が乏しくなるとしたらそんぐらいだろうが」

 

 禅十郎はそう言うが、実際の所、殆どの人は彼女の異変に気付いていなかった。親友のほのかでさえも気付けなかったほどの僅かな違いであった。

 

「今まで何回見た?」

 

「中学は見てなかった。ここ数年だと昨日だけ」

 

 それを聞いた禅十郎は軽く頷くと頭を掻いて溜息をついた。

 

「どうにかしたいんだがなぁ……。流石に記憶を部分的に忘却させるなんて器用なことは出来ねぇし」

 

 可能性があるとしたら禅十郎にも伝手があるのだが、そのカードだけは切りたくない。流石にこれ以上彼女をこちら側に関わらせるわけにはいかなかった。

 

「……禅は『あの日』の事を忘れて欲しいの?」

 

「まぁな。あんなことを無理に思い出す必要はないし、この先必要のない記憶だ」

 

 即答する禅十郎に対して雫は俯いて暗い顔を浮かべる。自分の為に言っているのだろうが、恐らく彼にとって思い出して欲しくないことがあるのだ。根拠はないが、そんな気がしてならなかった。

 

「もし思い出したらどうするの?」

 

「ま、その時の雫次第だろうな」

 

 そうなった場合は隆禅の伝手で転校するか、最悪自主退学をするしかない。こうなるから一高には進学しない方が良かったのだが、背に腹は代えられない。たった一人の為に結社の目的を蔑ろにするわけにはいかないのだ。

 

「禅、もうあんなことは起きないよね?」

 

 僅かに覚えているあの惨劇がまた起きるのではないか。また彼が傷つくのではないか。たった半年で二度も彼の身が危険に晒された事実に雫はこの先も同じようなことが起こってしまうのではないかと不安になっていた.

 

「さぁな。魔法に関われば多かれ少なかれ厄介事に巻き込まれる。それだけ貴重なんだよ、俺達が手にしてるモノはな。だからもう少し気を付けな。この世に絶対安全なんて保障できるものはない。自分の身は極力自分で守れるようにならないとな」

 

 雫の言う通り、まだこの先厄介事が起こる可能性は高い。だが、彼女にはこんな荒事に関わって欲しくない。魔法社会の中にある日向にいる方が彼女には合っている。

 あまりこちらに関わらせない為に禅十郎が出来るのは軽く注意を促すことしかしない。裏の事情を教えてしまえば、彼女は強制的にこちら側の人間と関わる可能性が一気に上がる。それだけは避けなければならない。僅かな情報だけでは彼女の不安を煽ることになるが、何もしないよりはいい。

 そう自分に言い聞かせて禅十郎は保健室に向かおうとした。

 すると禅十郎の携帯端末にメッセージの通知音が鳴った。

 

「……おい、マジかよ」

 

 内容を目にした禅十郎は口元をひきつかせた。

 

「雫ちゃん、冗談抜きで俺を匿ってくれない?」

 

「どうして?」

 

 先程まで重い空気はどこへやら、禅十郎は困惑する雫に携帯端末の画面を見せた。

 連絡してきたのは千鶴であり、メッセージにはこう書かれていた。

 

『宗ちゃんと伯父さんに私が稽古つけてるって知られちゃった。ついさっき成田に着いたみたい。今日から三人掛かりで相手するから美味しいご飯いっぱい用意して待ってるわね♡』

 

「何これ?」

 

 明るい声で話す千鶴の声が脳内に再生されるが、内容からして不穏な気配満々の文章だった。

 

「俺の死刑宣告」

 

 短い回答に雫は全てを察した。

 

「……あの三人をいっぺんに相手するのは無理だって。警備の仕事に差し障る以前に俺の体がもたん」

 

 禅十郎は確かに鍛錬が好きだが、それでも度が過ぎれば嫌気がさす。特に彼から見ても常軌を逸した実力を持った身内三人を纏めて相手にするのは不可能だ。

 

「匿うと家を襲撃される気がするから無理」

 

「だよなぁ……。あぁぁぁぁっ、もうどうすりゃいいんだぁぁぁぁっ!!」

 

 禅十郎は今日一番の悲痛な叫びを上げるのだった。




如何でしたか?
今回は雫と『彼』の過去について少し入れてみました。
今更ですが、かなり暗めにしてしまいました。
雫ファンの皆さん、本当にすみません!
予定通り原作六巻が終わって次回から原作七巻に突入します。
色々とネタを思いつきながら作っていますのでお楽しみに!
それでは今回はこれにて!









追記(読まなくても良いです)

ここまでの話の何処かの後書きにヒロインについて話していましたが、現状は予定を変更して雫と真由美のダブルヒロインで進めています。
と言いながら、ここまでの話で禅十郎と真由美の絡みが圧倒的に多いのは、二年生前半では真由美の出番があんまりないからです。
決して雫を蔑ろにしているわけではないです。
この後の話だけでなく、来訪者編で雫の出番を増やす予定なので、雫と禅十郎との絡みが見たい方はもう少しだけ待っててください。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。