飲み口の欠けたコップに透明な水が入っている。
鏡のようにその水面は俺の顔面を映し、明らか驚愕を露わにしていただろう。
共に水を持つ木曾も似たような顔をしているが、彼女の場合は別の理由だ。俺の想像している最悪なシナリオに比べれば彼女の驚き顔などコメディ同然。そう、今この場において俺が持つ感想の全てはそれに収束する。
改二は存在した。存在したが、今の海軍にはその現象を謎の病気くらいにしか認識していない。
一晩寝て起きれば、そこには見事に姿形の異なる艦娘が一体出現。成程、確かに意味不明だ。
これが順当に改装によって発現するならまだしも、いきなり何もかもが変われば驚くというものだろう。
しかし病気扱いというのが解らない。俺からすれば純粋に強くなってくれたかと歓迎すべき事態だ。
調査の一つもしていないとは考え難く、ならば何かしらの理由が存在しているのかと頭を悩ませた。
考えても考えても都合が良い結果が出てくる事も無く、時間は無情に去って行ってしまう。せめて立てられる予測への糸口を掴もうと足掻いてみるが、現状何も知らない状態ではどうしようもない。
唯一解かるとすれば、このままがずっと続けば海軍は野良艦娘と深海棲艦によって潰される。連携はせずとも、単純な質によって彼等は滅ぶ事になるのだ。
そうなれば日本は終わるだろう。いや、世界各国が終わるに決まっている。
小国の日本が今尚生存していられるのは艦娘達が最も多いからであり、その優位性が消失すれば一気に地盤が崩壊するが如くお終いだ。
そうなる前に艦娘と和平を結ぶべきである。
成功すれば結果が直ぐに出ないけれども、後々になって全てが良い方向へと傾いてくれる筈だ。今現在海軍に在席してくれている艦娘達は率先して進んでくれるだろう。
提督たる存在の選定。妖精達との意思疎通。艦娘達の地位向上。
全てが達成されれば、野良艦娘の影も無くなるだろう。
「どうしたのさ、そんなしかめっ面して」
「何でも無いさ。…………それにしても、随分とまぁ豪勢な並びだな。パーティーでもすると言われたって納得出来るね」
「全くだ、これじゃ新参者に辛いぜ」
目の前の面子の多さを利用して、俺は取り繕うような言葉を並べる。
それに対する返答は皆無。というよりかは、奇妙な物体を見るかのような眼差しを全員から受けている。
此処に居る艦娘は浜辺で確認したように、確かに七人だ。艦種が全てバラバラという訳ではなく、此処に居る割合は改二の方が多い。
駆逐艦・皐月改二。軽巡洋艦・那珂改二。重巡洋艦・古鷹改二。駆逐艦・曙。航空巡洋艦・利根改二。
曙のみが最初と同じ姿であるが、彼女は駆逐艦だ。いらないとして消されかけたのは簡単に想像出来るが、最も睨まれている理由が定かではない。
俺は彼女に会った覚えは無いし、同様に彼女も俺とは初対面の筈。利根のような何処か探るような目つきであれば違ったが、いきなり険の強い眼差しを向けられれば気になってしまう。
「――――で、どうするの?仲間にするのかい」
一触即発とまではいかないまでも、重い空気だ。
そんな空気の中で気軽な調子で聞いてくる皐月は見事だと拍手を送りたいが、直後として曙の睨みが皐月に移動した。その変化から察するに、彼女は俺達の加入を阻止したいらしい。
まぁ、異分子を入れたくないというのは理解出来る。新参者程信用し難いのは道理であるし、最初の内は彼女と似たような反応をされても致し方あるまい。
しかしその心配は無用だ。恐らくはこのリーダーである響自体も容易な加入は認めないだろう。
そう思うと、此処を選択するのは駄目だな。即座に結論を下し、接触を図る考えを止める。
即断即決が過ぎると思わないでもないが、重苦しい場所で生活なんて真っ平御免だ。信用されていないのも理解の範疇である以上、迂闊な行動が裏目に出かねない。
何より此方も信用していないというのが本音だ。彼女の話は恐らくは真実なのだろうが、それでも決定的な証拠が無いと俺は安易に彼等を信じる事は出来ない。
此処での最善は補給くらいなものか。勿論それさえ出来ないかもしれないが、そうなったらそうなったでまた近くの資源地帯から回収するだけである。
問題にはならないとは言わないが、詰んでいる訳でもない。
さてはて、どうなっていくのだろうか。静観の構えを暫くしていると、響が手を叩き皆の意識を自身に向けさせる。
顔は冷静そのもので、こうなる事は最初から想像済み。
この時点で誰が纏め役であるかは流れで大体理解していたが、やはり彼女なのだろう。
彼女の動作一つで皆の状態も変わるのだから、少なくともリーダーシップはある筈だ。そうでなければとてもこの面子を纏められるなんて考えられない。
「皆の言いたい事は解るけど、まだ仲間にしたいかどうかも決めてないからね。君達の考えている事が本当にそうなるのかはまだ未来の話さ」
「なんじゃ、ソイツ等はお前さんが連れてきた者ではないのか」
「いや、この島に自力で辿り着いたそうだよ。此処で生き残れるのなら十分戦力として数えられるだろうけど、本当にそうなるのかはこれからさ」
「……言っとくが、少なくとも俺は仲間になろうなンて思ってないからな」
彼女達の話の中ではどうやら俺達は仲間になる事が比較的前提になっているらしい。
確かにこの海域を二人だけで生き残れるとは言わないが、それでも移動だけに限定すれば今まで生き残ってこれた。一種の自負であるが、その程度には自身は強いと思っているのだ。
故にこそ、勝手に決められるというのは困る。俺に何も都合が無いにしても、それで一々予定を積み立てられる訳にはいかないのだから。
俺の言葉に皆が予想外といった表情を浮かべる。隣の木曾も少し驚いた様子を見せるだけに、どうやらこの言葉は想定外だと思われていたようだ。
まぁ、この状況で自分達は外に出るだなんてのは普通は自殺行為なのだろう。
俺が今まで生きてこれたのも運が良かっただけで、次は運悪く死ぬと考えても可怪しくない。けれど、そう易々と死ぬつもりもないのである。
舐められたままだなんてのは個人的に不快だ。駆逐艦の夜を知らない訳でもないだろうに。
「此処の外には戦艦が居るよ?」
「元から戦艦とは戦っているさ。最悪尻尾撒いて逃げれば良い」
「複数体空母が出ればどうするのよ。何も考えてないでしょ?」
「味方殺しを起こさせるさ。それに艦載機の動きを制限させれば、まぁ出来ない程じゃない」
質問に対して答えていくが、そのどれもに対して困惑した感情を向けられる。
一体どうしたというのか。わりとやってきた事だけに、出来ない筈も無いだろう。こんなのはある程度慣れてしまえば誰であっても出来る事だ。なら、俺が出来たとしても
そう考えている。そう認識している。だというのに、皆の顔は何処か妙だ。困惑の色をしたと思えば即座に真剣なものへと変わり、利根と皐月はお互い小声で何かしら話している。
無言を貫くのは曙。それに那珂と古鷹か。曙は何か考えているように見えるが、那珂と古鷹に関しては我関せずとばかりに寛いでいた。
空気が一番読めてない二名だが、元からそういう性格なのだろうか。誰も指摘しない段階で恐らくそうだと解るが、真剣な場面でそうなれないというのは誤解を生みやすい。
だがそれでも、言わなければならない相手が減るのは嬉しいものだ。こういう組織にも面倒な内輪揉めがあるだろうし、それに巻き込まれてしまえば何処で死ぬかも解らない。それなら一人で生活していた方が安心だ。
木曾も同じ根無し草だから大丈夫だが、彼女の方は少なくとも何処かに所属させておくべきかもしれない。
思い、そうして思考を重ねる。相手の動きに合わせて言葉を返し、さっさと移動したい。
夜はまだだが、安心出来る時間ではないのである。早々に退去せよと言われれば、可能な限り早めに出たいものである。
「俺が居ない方がアンタ達にも丁度良い筈だ。だからこれで去るとするよ、ちょっとしか経っていないが有意義な時間を過ごせた」
情報は多数揃った。
想定外に厳しい世界だったが、今現在において艦娘が絶対的に負けている訳ではないという事が解っただけでも十分な収穫だろう。このまま野良艦娘として活動していればまた彼女達のようなグループにも接触するだろうし、のらりくらりしながら生きていった方が恐らくこの世界では一番生き易い。
柵が多ければ多い程に不利だ。逆に俺自身の死の可能性も高くなるが、それでも一人で活動する事には個人的にも意味はある。
彼女達の反応を見る前に真後ろに向かって足を動かした。背後からは誰かが話す声は聞こえず、されど二つの足音は確かに聞こえていた。
隣に並んだのは木曾だ。向こうよりも俺を選んでくれたのは嬉しく思うが、群れないと考えている俺の近くに居るのはやはり不味い。見捨てる可能性とて決して零ではないのだから。
「――待ってくれないか」
そしてもう一つ。
此方も想定通りというか、彼女の話を聞いていた段階で予想は出来ていた。
彼女は酷く優しい。身元不明の何を考えているかも解らないドロップ艦に手を指し伸ばそうとしている。その結果周囲の仲間から怒られようと、それでも艦娘を助けようとする心意気を感じた。
それだけに、俺は彼女の思いは重い。一体何を目的として活動しているのかは定かではないが、仲間を集めていけばやがては大きな組織になっていく。
その時に何かしらの指針が無ければ、崩壊していくだろう。響もその辺りは理解している筈であり、そしてスパイを放っている以上は行動を起こそうとしている。
それは俺にとって何のメリットも無いことだ。関わるだけ馬鹿を見るだけで、故に早々に切って捨てるべきである。……しかし、生来の気質がそれを許さない。
俺は御人好しではない。それは妖精を見捨てた事で証明されているし、メリットが存在しないようであればどんな頼みであろうとも断るつもりである。
だからこうして足を止めてしまったのは、俺の中に確かなメリットがあると確信しているから。
もう散々に言ってしまっているのだ。彼女達の近くに居た方が面倒事が多くなるが、生活は良くなる。
「仲間になるかどうかは仲間達の勝手な決め付けだ。……しかし、今後活動するにあたって私達は仲間が欲しい。裏切る事の無いような、絶対的な信頼関係によって構築された仲間が」
背後で響の力の入った言葉が放たれる。
妄言によって構成されているようなその言葉は、しかして現状においては成功しているのだろう。
同じ境遇。同じ価値観。目的も同じで、まだ数が少ないからこそ意思の疎通も出来ている。会議の度に皆を集められれば、そりゃあ彼女の本気の言葉も聞けるだろう。
「俺じゃ何の力にもなれないよ。精々主砲を持って走るくらいさ。的代わりでも欲しいと?」
「的としてではないさ。君という人柄に少しばかり興味がある」
「ほう。そりゃまた何で」
くるり。踵を返して、彼女と向かい合う。
互いに目を交わし、その真意を探り合った。彼女のアイスブルーの瞳は、しかしそのイメージとは正反対の暖かみを感じさせる。艦娘同士だからこその親しみというか、似た境遇になっているが故の原因だろう。
江風自体もドロップ艦として存在していた。だからもし俺という異分子が混ざっていなければ、彼女の手を取って共に進もうじゃないかと力強く宣言していたかもしれない。
けれど所詮、俺は俺なのだ。何処までいっても艦娘とは違く、彼女達の価値観全てに共感出来る訳じゃない。
彼女達はきっと人間を嫌っている。出来る事なら関わりたくないと思い、チャンスがあれば殺しておきたいとでも考えている可能性は極めて高い。
それに、俺は適応出来ない。
相手が余程の屑ならば加減も何もしないが、良い人間だったなら庇ってしまうかもしれない。
そうだ。俺はどうしても艦娘にはなれないのだ。
意識は男で、戦い方も特殊。考え方まで合わなければ、不和を生むのは必然というものだ。
故に気になった。彼女が興味を持ったという事に関して。何が琴線に触れたのかは不明だが、そこに少しばかりの期待が籠っている。
「君は少し変だね。生まれたばかりなのに自分の事を正確に把握している。それは他の艦娘には無い特徴だ」
他の艦娘には無い特徴。
その言葉に、内心それもそうだと呟く。この身体の元の持ち主の事は把握していて、当然自分の事だってどういう人間なのかも解っているつもりだ。
生まれた頃からどころではない。生まれる前から理解は終了していて、だからそこに疑問を覚える事は無い。
冷静に考えれば、それは異常なことだ。普通に有り得ない事象であり、成程彼女が興味を覚えるのも解る。
つまり簡単な話だ。何をするかも解らない艦娘が目の前にいて、今から姿を消そうとしている。
不確定要素だ。そんな対象が何かをするのなら、自身の手の届く範囲に収めておいた方が良い。
打算を多分に含んでいるが、グループのリーダーであろうとするなら黒い事も考える筈。それを認められるかどうかはさておき、彼女がそんな事を思っていても何ら怪しさを含んでいない。
だが彼女の目は綺麗なままだ。悪事を働いた者特有の濁りが見えず、その色は陳腐な表現で言えばまるで宝石の如く輝いている。
希望的なものとなってしまうが、打算的な部分はおまけのようなものだとも考えられる。
根底にあるのが艦娘を救う事だとすれば、中々どうして少し心配になる程の優しさだ。ストッパーとして働くのは同じ改二艦くらいなものか。
特に川内あたりは何を考えているのかも読めなかった。裏で汚れ仕事を担当していると見て間違いあるまい。
断定は危険だが、彼女の不穏な雰囲気は正直無視出来ないものがある。常に笑顔を振り撒き、だというのに手元はどうしてか見えない位置に移動している。
暗器を隠し持っているよう、としか思えないのが本音だ。
だとすれば、あの川内は裏のリーダー役なのかもしれない。そして、この綺麗な目を持つ響が汚れないように自身を汚しているのだとすれば、それは悲しい事だった。
俺の知らない世界。俺の知らない艦娘達。何もかもが歪んでいて、これが現実なのかも解らない。
いっそ全てが夢であってほしいと願う。それならば目覚めろと念を送る事に集中出来るし、夢だからこそ無茶な動きだって出来るだろうから。
「私は君のような
「……大きく出たな。ンなのが普通に出来るとでも」
「強く確信している訳じゃない。だけど、今の海軍を潰して私達が占領すれば少しはまともになる。人間は汚いから、日本を守る為には私達が纏まらなければならない」
彼女もまた歪んでいるのだ。
自身の境遇の理不尽さに嘆き、今の海軍に恨みを抱え、それでも尚日本という祖国を愛している。
そこに自分が居て何の文句がある。私達こそが彼等の代わりに立つべきだろう。それが正常で、それこそが一番敵と戦う際に必要である。
今こうしている現状こそが異常なのだ。正しくそう語る彼女の眼差しには、輝く中に一種の狂気すら感じさせた。
こんな艦娘が世界各地に存在する。ならば、もう人類は詰みなのかもしれない。
新たな生物に支配権を奪われるが如く、世界の在り様は変わっていく。――――俺の背後で、何かが崩れていく音が確かに聞こえていた。