机に灰皿が叩き付けられる。
鈍重な音を立てて床に落下する灰皿には煙草の灰が目立ち、その場所を汚していた。
窓に映る空は暗い。時刻が如何程であるのかは不明であれど、先ずもって夜であるのは確実だ。
そんな場所で灰皿を机に叩き付けた張本人は、革張りの豪勢な椅子に座って憤慨している様をこれでもかと見せていた。
組んだ足は苛立ちで揺れ、目尻は尖り、およそ数分間隔で舌打ちが飛び出す。一般的にあまり近付きたくはない様子であるものの、今の彼の反対側では一人の男が落ち着くのを待っていた。
海軍・北方海域を任せられた鎮守府。苛立ちを多分に含めた男の役職は提督であり、先の戦いで全滅させてしまった四部隊を率いていたトップだ。
数ある鎮守府の中でも飛び抜けて戦績も高く、本人もそれに合わせたプライドの高い性格。上に登る事を常に考える野心家でもある彼は、典型的なまでに艦娘を道具として扱うタイプの提督だ。
此度の出撃に際し、彼が四部隊に伝えた命令はそれほど多くはない。
労いを省き、努めて冷酷に伝えるべき内容を抽出したような言葉は所属していた艦娘には不快でしかなかったが、己一人では生き抜く術を持たない彼女達はそれを素直に聞くしかない。
曰く、例え最後の一人となろうとも敵側に大和達を渡してはならない。
曰く、最悪の場合は特攻を行ってでも止めろ。
曰く、俺の為に死ね。
上司としては最悪も最悪。今まで反逆が起きなかったのが奇跡と表現すべきものだが、逆に言えばそう伝えたとしても絶対に裏切る事は出来ないという歪んだ信頼があった。
野良艦娘としての生活は余程の覚悟がなければ出来ない事だ。不安は勿論何時襲われるかも解らない海の上で生活する事も多く、だからこそ一人で活動する際には眠ることすら出来ない。
そうなれば最終的には己の神経は鈍化し、いざ敵に遭遇したとしてもそのまま撃沈するだけ。
沈む事を何よりもトラウマとして認識している彼女達は、だからこそ他の選択肢を選ぶ他に無かった。
そこには最早海軍としての期待は無い。諦めきった彼女達は、もう日本という国に対する愛国心ですらも擦り切れて無くなってしまったのだ。
「異常個体か……クソが」
舌打ちをした男が、率直な自分の心境を露わにする。
以前までは存在すら確認出来なかった個体が、まさか今になって出現した。大和姉妹が脱走するのに合わせたと考えても都合が良い出現の仕方には、怒りを通り越して逆に感心すらしてしまいそうだ。
その異常個体に西方側の艦娘は足を止められ、しかし異常個体自体は西方側に止められる形となっていたのだ。
もしも異常個体に全てを潰されたのだとしたら、それはそれで納得も出来た。
アレに勝てるのは不可能だったと、直ぐに諦めて次にいけただろう。しかし北方の部隊が潰されたのは、異常個体でも何でもない艦娘達による攻撃だ。
つまりは、純粋な練度差によって勝負が付いた事になる。それが何よりも男には悔しく、そして理解したくはなかった。
単純な戦力だけで言えばこの鎮守府はそれなりに上位に居る。提督自身の階級も相応に高く、それ故に大規模作戦が発動した場合も一番槍を取らせてもらえる可能性も十分に有り得た。
精強なのだ。練度だけで言えば十二分に活躍出来るのである。
ならばそれを覆した北方のあの艦娘達は、現在のこの鎮守府を潰せるだけの戦力を保有しているという事になるのだ。
今まで無視してきたツケがやってきた。
それだけなのだが、それを認識したくないと男は内心で喚く。――――そしてその内心を、反対側に立つ西方鎮守府の提督は冷徹に見抜いていた。
北方と西方の派閥が組んでいる。その情報は西方の提督だけが保有し、そして北方には伝えていない。
知らせてくれた金剛達にもその件については緘口令を敷き、現在の優位は西方側だ。
何が起きたのかは不明であれ、あの北方部隊は負けた。生き残ったのは金剛達西方側と、例の異常個体となってしまった江風に贈られた朝潮と菊月のみ。
彼女から何かしらの伝言を受けているのではないかと尋ねてはみたが、江風の名前を出した瞬間にあの二人は震え始めていた。
「北方側の戦力は大部分が消失しました。回復するまでは、私の部隊が哨戒に当たりましょう」
「……そうしてくれたまえ。中佐の方は余力がまだあるのだろう?」
「はい。第一部隊は消耗が激しいので帰還させますが、第三と第四の部隊は無傷ですので一時的にそちらに回します。此方が担当している海域も複数の鎮守府と協力して調査及び撃滅を開始し、戦力を削ぐつもりです」
項垂れている時間は無い。
北側は他の鎮守府の力を借りつつ状態を元に戻し、西側は早速海域の調査を行わなければならない。
頭を下げ、西方提督は退出する。扉の先では秘書艦の代わりとして付いて来ていた金剛が居り、見られているだろう事を見越して互いに敬礼を交わす。
そして扉を閉めれば、互いに浮かぶのは苦笑だ。
廊下を無言で進む彼等の間に、明確な溝は存在しない。北の提督と艦娘の間にあるような嫌悪の壁は存在せず、寄り添い合う彼等は傍目からすれば恋人のようにも見える事だろう。
「金剛。皆はどうだ」
「朝潮と菊月がやっぱり怯えてるネ。江風に何を言われたのかは解らないけど、警戒感は高いヨ」
「そうか。まぁ、あっち側の事を考えればそれもそうだよな」
顔を上げ、天井を見る男の顔は優れない。
江風からは明確に拒絶され、しかも異常個体となってしまった。何が原因でそうなってしまったのかは不明であれ、最早そうなってしまったのであれば保護するのは絶望的だ。
故に諦めざるをえない。向こうが此方を積極的に攻撃してくる性格ではないのが救いであり、しかして素直に諦めきれる程彼の執念は安くもないのである。
諦めきれる材料は揃っている。されど、それは彼には材料になり得ない。
駄目ならば他の手だ。何せ彼は数少ない艦娘との和平を望む側で、その中でも期待されている人材だから。
自分しか出来ない訳ではないが、かといって自分以外に出来る者の数も少ない。
早くどうにかしなければ日本が敵の手によって沈むのは確かだ。既に北海道近辺には集積棲姫の姿を確認し、他の鎮守府が今も尚敵との資源の潰し合いをしている。
近々多数の鎮守府による大規模作戦が予定されており、彼の自由に出来る日数は非常に少ない。
備蓄はそれなりにあるのが救いと言えば救いか。
「……今は江風の事は諦めよう。俺とて藪をこれ以上突付くつもりはない。それに、あの言葉はやっぱり早計過ぎた」
「当たり前でショ。ケッコンは女の夢なんだから、安く言っちゃ駄目ネ」
提督の苦笑に、呆れた声を出しつつも金剛の顔にも笑顔が浮かぶ。
何処か浮ついていた顔が今回の一件によって元に戻り、鎮守府を優先する男に変わった。
つまりはこれで漸く彼の本気が出るという訳だ。今の今まで手加減をしていたつもりは無かっただろうが、大規模作戦という言葉の羅列によって緊張感も出ている。
顎に手を当てる様子からは今後の見通しについての計算をしていると見れるし、鷲の様に尖った目には真の意味での熱が込められていた。
艦娘を人類の仲間と認め、海軍の方針を破壊すると決意し、その為だけに命を消費しようとする男の顔。
何時かは頂点で輝いて欲しいと彼女は願い、何も言わずに金剛は隣に寄り添った。
懐かしい気配だ。ずっと居たいと思わせてくれる空気だ。まるで
彼女達は今後更に強くなるだろう。強くなって、やがてあの限界にまで到達する。
そうなった際にこそ、地獄は始まるのだ。彼女達の本当の試練は、まだ始まってすらいないが故に。
最初に気付くのは誰だろうか。
提督か、金剛か、第一部隊の誰かか――――それとも今この光景を見ているかもしれない見知らぬ誰かか。
夜は耽る。新たな一ページが、此処に刻まれた。
※reverse※
空は青い。海も青い。青くないのは島だけで、世界はそれを除けば青ばかりに包まれている。
ベッド代わりのハンモックは静かに揺れ、心地良い眠気を誘って俺を起こさせない。何処までも何処までも深い場所まで意識を落とそうとして、けれども時間が時間なだけにそれを振り切って起きなければならなかった。
頭を振って、己の意識を強制的に元に戻す。
視界には鬱蒼とした森が広がり、此処がどのような場所であるのかをよく表していた。
視線を胸元に向ければ、赤い幻影となっている江風が抱き着いて寝ている。この世界のどんな物にも触れない筈なのに、そうやれる彼女は実に器用なものだ。
暫し空を眺め、過去を思う。今回の事態は正直俺達には旨味が少ない。
資源は元通りになるだけだし、それだって俺達側の消費までは補填されないので実質資源はマイナス。
質の良い装備が手に出来た訳でも無い。大和と武蔵は西方派閥の所属となるので、まぁ此方が得るものは単純に向こう側に貸しを作れた程度。
それ自体響は活用しようとはしまい。それは仲の良い者同士の協力であり、関係の無い者からすれば不満だけだ。利用されただけと納得しない者も出るだろう。
だから、その点については俺みたいな打算ばかり考える奴が止めるしかない。
昨日は無事に何の関係も無い島に到着し、大和姉妹と挨拶を交わした。ゲーム通りの性格そのままの様子に安堵を覚えたのは随分久しく、握手をした時の顔は随分緩んでいたことだろう。
被害は最大でも中破程度。その状態で四部隊の攻撃をどう凌いだのかを尋ねれば、比叡の強引な力技で全てを突破してしまったという話だ。
戦艦は壁役にもなるが、オリジンに到達している比叡は通常の戦艦よりも遥かに硬い。
実際目にした時のダメージは殆ど無いに等しく、それ故に彼女の装甲を突破すると考えたら現状存在する中で最も攻撃力の高い試製51cm連装砲くらいでなければ無理だろう。
それでも明確なダメージを刻めるのかは不安が残る。そう思うに、やはり戦艦の強さというのは並ではないのだなぁと思わせられた。
彼女に警戒感を覚える子達も居たのは、万が一を考えているからか。普段陽気な川内が確りマークしている時点で、彼女の戦闘方法は察してあまりある。
そんな彼女達とのこの後の話し合いは、特筆すべきものが何も無かった。
当初の予定通りに帰還し、その日は島に泊まって補給してから明日に帰る。資源は別の艦娘が運んでくるそうなので、曙は早速頭を抱えながら計算をしていた。
その中で、俺は一人勝手な事ではあるものの大和と話をした。
彼女の所属していた鎮守府の情報が欲しかったのと、後は保険が欲しかったからだ。特に西方の奴の情報は欲しい。力の差は見せつけたので追われる心配はもう無いと考えたいのだが、何か突飛な事をしでかしそうなのだ。
それが悪い事に繋がらないのであれば放置するのであるが、もしも状況が良くない方向に転ぶのであれば前もって気構えくらいはしておかなければならない。
相手の性格。相手の手段。傍で見ていたかどうかは解らないので予想の範疇でも構わないと伝え、大和は西方の提督の印象を実に予想外な形で教えてくれた。
曰く、真面目ではないが決めるべき所は決める男。普段は陽気な性格をしていて、およそ軍属らしくない。
そうであるのは彼自身海軍に所属となった経緯が特殊であるからだそうで、その辺は大和も知らないらしい。
その鎮守府での方針は命を大事にだそうで、特に艦娘の生存を第一に考えるような特殊種だったとか。まったくもってあの時の発言には結びつかない印象に正直困惑するが、大和としては逆に俺の持っている印象の方がまったく理解出来ないそうな。
普段から艦娘には優しくて、そんないきなりケッコンをしようだなんてのは言わない性格をしている。
恐らくは他の子達も揃って同じ事を言うだろうと言われ、最早あの男の全体像が何処にも見えなかった。
自分が間違っているのか、それともあの提督の近くに居た艦娘が間違っているのか。
重要であるからこそ、見落としはしてはならない。迂闊さだけは絶対に無くしておきたいから。
結局、その結論は出なかった。
俺には情報が不足しているし、例え全て解ったとしてそれで何か変化が起きることもない。
俺は俺のまま活動し、向こうも向こうで活動するだけ。そこに何の変化も有りはしないのである。
その後には個人的な友好を深めて冗談半分にピンチになったら助けてくれよと告げ、俺達は全員島に帰還した。
響と古鷹の安心したような表情につい笑みが零れてしまったのは、本当に仲間だと思っているからだろう。
帰った俺達に対して出来うる限りの料理を振る舞い、小さな宴会の状態となった。
今回の行動によって西側の派閥は随分強力になり、俺達北側もその強力となった派閥の力を借りれるようになる。双方にとっても良い条件であることから、宴会をしている中の空気は決して悪くはなかった。
唯一気になった事といえば、響と赤城がやけに真剣な顔で話し合っていた点か。
これからの未来について言葉を交わしているのではないかと俺は考えているが、果たしてそれだけだったのだろうか。
響が真剣になるのは基本的に懸念事項がある場合のみだ。
さてそうなると、俺が気にしなければならないのは響の懸念をどのように考えるべきかだ。
何が予想するか、何を準備するか、何が相手か。
起き上がり、抱き着いている江風を放置してそのまま向かうは朝食の机。
今の正確な時間は不明であるものの、陽が上っている現状もう皆が集まり始めているだろう。
団体行動は基本。俺もそれに倣うのは当然。何故か殆どの者が近寄らないのは悲しいが、それでも初期メンバーや数少ない者達だけは隣に座ってくれる。
やって来た木曾に手を上げれば、向こうもそう返してくれ、そのまま俺の隣に座り込む。
食料を運んでくる潮の両腕には二食分のカレーが存在するも、どうしてか木曾側にカレーを置いて全力で離れて行ってしまった。
「……なンだ?」
本当に何だったのだろうか。
不思議に思う俺に、噴き出して笑う木曾が周りを指差した。それに従い周囲を見れば、皆が俺を見ては直ぐに視線を逸らしている。
その反応に、やはり俺は疑問を感じるばかり。用意されたスプーンでカレーを掬い、口に運んで素直な疑問を再度零す。
「本当になンだってんだ?」
「解らないか?……ま、俺もいきなりここまで反応が変わるとは思っていなかったよ」
「その口振りから察するにお前何が原因か知っているな。さっさと話してくれ」
「簡単に言えば、那珂達の部隊が広めちまった話を聞いて畏怖を抱いているって訳だ。何せ話によれば西方の第一部隊が来ていたって話じゃねぇか。そこから赤城達が編成を伝えて、はい完成。こうなったってこった」
「何だよそりゃ……」
西方の部隊の編成は、確かに赤城達が知っているだろう。
そしてそこから当時の状況と照らし合わせると、金剛のような明らかに駆逐艦に勝てる筈の無い艦隊に対して戦うのは自分一人。
成程、そうなってしまうのも致し方無いと思う。駆逐艦が戦艦を潰すだけでも難しいのに、一部隊丸ごと敵だ。
納得して然るべきか。頷き、カレーを更に掬って食べた。
自分が周囲から浮いた存在になる。まさかそんな経験をこんな形で受けるだなんて、最初の頃ではまったく考えられなかった。
だからというべきか、今はこの距離感を寂しく感じる。
まるでゲームの頃の皆に嫌われてしまっているようにも思えてしまい――――無性にオリジン達に囲まれたくなってしまった。
何時の間にかお気に入りが二千超えていてビックリです。本当にありがとうございます。
ずっと書き続けられるかは解りませんが、可能な限りは楽しく書いていきたいと思いますのでどうかよろしくお願いします。