二つの湯呑みが机に置かれている。
片方は赤髪の少女の手元にあり、もう片方は反対の椅子に座る短髪の女性の少し前。
中身は緑茶。此処では比較的質の高い飲み物扱いを受けているそれがあるという事は、それだけ話すべき内容が重要であることを示している。
江風側は半分程減っているが、反対に比叡の湯呑みには緑茶が限界まで残っている。折角入れたのだから飲むべきだと江風は内心思うが、それ以前にこうなっているという事は話したくはないという認識だ。
比叡を切り株の机にまで誘ったのは祥鳳である。先に江風が待っている形で緑茶を用意し、更に懐柔を目的として響に無理を承知で菓子まで準備していた。
そして比叡と祥鳳が来て、話は何故だか二人だけの空間で行われることとなる。狙っていた訳ではないし、出来れば祥鳳に助けてもらいたかったが、響や赤城と少し話さなければならない事があるという事で退席してしまった。
よって、今この場には二名だけだ。
静かな気配が漂いつつも、その雰囲気は非常に重い。気まずいとも言えるが、比叡自身が会話を拒絶している以上この状態は半永久的に続くのだと誰もが思う筈だ。
それは江風自身も理解していることであり、だからこそ下手な言葉を使う訳にはいかない。
使っても無意味で、最悪帰られる場合があるのだから速いところ本題に入った方が事態は進む。そう認識して、彼女は両手を顔の前で組んで肘を切株の上に置く。
苦笑いも愛想の良い顔も無くし、鋭さを含めた真剣そのものの表情で比叡を見れば、流石に彼女も反応せざるをえないと思ったのだろうか。溜息を吐き、そこで漸く比叡は彼女と目を合わせた。
「――オリジン、て知ってるか?」
「ええ」
質問は一つ。そして、返る言葉は即答の一言。
嘘も何も無いような発言に少し予想外といった感想を江風は胸に抱くが、すんなり話してくれるのならば何も文句は無い。彼女が嘘を吐けないタイプの艦娘であると先程の展開で理解も出来た事であるし、それならば別に何かを隠し続けるような真似をせずとも良いだろう。
故にこそ、切株には三人目の存在が椅子に座る。
位置は三角形の形となるように江風と比叡の間であり、されどそこには実体は無い。比叡を睨む赤い幻影はそれだけで一種の霊的物体にしか認識されないだろうが、そもそもにして艦娘に見えていない以上は意味が無いのでこうして座っていても無意味だ。
されど、その時比叡の目は確実に三人目の彼女に向いた。
正しく視認し、そして彼女の存在に目を見開く。次いで彼女は江風にもその目を向け、そこには明らかな困惑が浮かんでいた。
突然の反応に些か怪訝な感情が混ざるが、そういった機微を表に出してくれるというのは有り難い。
常に無表情。常に冷静。そういった素振りをされる方が彼女個人にしてはかなり堪えるのだ。
そしてオリジンであるのならば赤い幻影が見える筈だという彼女の予測は、確かに成功を握った。
「俺もオリジンだ。あっちに居るのは誰だか解っているよな」
「ええ。……ですが、何故混ざっていないのですか?オリジンがオリジンとして世界に存在するには同一の存在と混ざるしかない。なのに、どうして貴方は」
『決まってンだろ。
微妙なニュアンスの違いに、比叡は眉を顰める。
まるで相手は自身の事を知っているような、最初から旧知の仲だったような、そんな気配があった。ただし、幻影の漂わせているものは決して良いものではない。
表情で言えば不機嫌。態度も腕や足を組んだ失礼なものであり、少なくとも初対面の相手にすべき事ではない。
それでもそれを続けるという事は、確実に彼女は何かを知っているということだ。
江風はそれをわざと知ろうとしない。何もせずとも勝手に事態は進んでいくだろうし、一体どうなるのかという少々の好奇心も持ってしまっている。
今この場には三人だけだ。誰も聞いていないのは気配で解る。
そうだからこそ、荒れても別段問題ではない。問題になるのは、本当の全力戦闘状態になってからだ。
「私は貴方を知りませんよ」
『下手な芝居は止めとけよ。それともあれか、同類相手でも隠したいってか。……性格悪いなぁ、
「あの人はそうは思いません!!」
突如として激昂した比叡の声。机を叩き立ちあがった彼女に、幻影は厭らしく笑う。
漸く表に出したかと顔には出ていて、正にそれこそが比叡が最も触れてほしくない事だった。拳を握り締め、今度こそ彼女は殺意を含めた眼差しで幻影を睨む。
先程までの無表情はそこには無く、故にこそこれで比叡は江風の事を知っていると繋がった。
後はその関係性を明瞭なものとすれば、それである程度の話は分かるだろう。
いや、この段階で既にある程度の予測は立てられる。江風もまたそれについて考え、想像していた通りであればと背中には冷や汗が浮かび上がる。
そうであってほしくないと言えば嘘になる。
彼としてはどちらに転んだとしても問題にはならないとはいえ、それでも都合の良過ぎる出来事に唾を飲み込んだ。
同時に、思うのは江風が夕日の照らす鎮守府で話してくれたこと。
幾分か内容が異なるそれに、さては嘘を吐いていたなと彼は心中で江風を恨んだ。確かにあの時は時間をどれだけ引き伸ばしたとしても死んでしまう可能性があったが、しかしだからといって嘘を吐いて良い訳ではない。
後で話し合いの場を設けるべきだろう。それか、今この場で説教を開始するか。
自然と幻影に向ける江風の視線。それに反応した幻影は、ウインクを一つする。
「あの人は金剛姉様を任せても良いと姉妹全員で判断した方です。貴方も私達がどれだけ厳しく見ていたか知っているでしょう?」
『まぁ、そりゃな。鷲みたいに鋭くさせてモニター睨んでりゃ誰だって気付く。解ってる解ってるって』
「ならさっさと貴方の席を姉様に譲ってください。オリジンだなんて適当なネーミングをしている暇があるのなら、さっさと姉様を呼び出すべきです」
『ソイツは無理な相談だ。指輪は一つ、正妻の座も一つ。誰もが狙ってるんだ、そう易々と手放すつもりは無いね。馬鹿め』
「独占欲丸出しですね。実に不愉快です」
互いに口汚く罵り合い、そこには仲良しな雰囲気とでも言うべきものがまるで無い。
嫌悪を剥き出しにし、更には牙すら向ける始末。流石に容認すべき事柄ではないというのは江風本人も解るが、それよりも前に彼としては一つ突っ込みを入れたい箇所があった。
それは比叡の言った、オリジンだなんて適当なネーミングと呼び出すというもの。
つまり比叡や幻影のような存在達には元々確固とした自我がある。彼の認識している艦娘達の意識が出て来るのではなく、元からある性格だけがそこに居る訳だ。
であれば、前提が一気に崩壊した。
そこに渦巻く異常事態に、どう対処すべきかと頭は高速に回り始める。
彼女達は総じて昔の記憶がある。幻影は彼が保有していた江風の記憶があり、そしてあの比叡は江風の事を裏も表も理解しきっていた。
つまりは比叡もまた彼の保有していた艦娘であるということ。その結論はさっさと出て来る筈なのに、どうしてから中々に出ては来なかった。考えない筈が無いのだ、そんな事は。
つまりは、本能的な部分で封じていた。まさかこんな事になる訳が無いだろうと。
あの鎮守府に提督が居ないのは、そもそもにして提督という実体が存在しないからだ。あるのはモニターだけで、それを使って艦娘達は提督を視認している。
コマンドによって命令した事となり、書類の必要が無いあの鎮守府ではさぞや特殊な環境が広がっていただろう。
そんな中での生活だ。彼女達の基準も狂うのは理解出来てしまう。
あの世界で男性と出会う機会は少ない。ゲームとしてのシステムがそのまま通用してしまうのであれば、彼女達が男を深く知れるのは提督だけだ。女提督であれば、そもそもにしてその機会すらも失われてしまう。
演習の場合だって艦娘同士の顔を見せあうだけだ。それでは外界が如何に変化しているのかなど解る筈も無し。
総じて言えるのは、目の前の彼女達には常識が通用しない。
独自の路線、独自のルールを作り上げて今この場に居る。それは全て、彼女達が求める男を手にする為だけに。
そして現状提督の存在を知っているのは赤い幻影だけだ。故にこそ、このままの状態を維持する。
見つからなければ誰も理解しない。彼が話し掛けなければ、オリジン達は皆彼がそのままの姿で来ているだろうと確信している。
そこから解るのは、彼は確実にこの世界に居るということ。
同姓同名の別人ではなく、似ているだけの他人ではなく、正真正銘の本人が絶対に此処に居る。
どうしてそのような結論を出しているのかは定かではない。何かを使って江風をこの世界に送り込んだのか、或いは彼が此処に居るのを何処かから見つけて来ているのか。
背筋を走るのは、歓喜ではなく悪寒だ。
彼女達の先程までの会話によって愛されているのは解ったが、それでも度合いが些かに酷い。
ケッコン指輪は確かに一つだけ。そしてこの世界では量産する事は、現状では出来ないし江風はするつもりもない。
だが、その指輪を求めて戦いが起きる気配を感じた。
比叡は金剛の為に、正妻となっている幻影は己の指に嵌っている指輪を外されない為に。
「――止めろ、江風・比叡」
それを正せるのは、彼女達の提督である彼だけだ。
気付かれないのならば気付かせれば良い。否とするのであれば次善策を打ち立てれば良い。彼女達を愛しているのも確かなのだから、皆が争わない方向に動かすのが男としての甲斐性というものだ。
比叡も江風も、その声に本能的口を噤んだ。その表情には共に驚愕があり、特に比叡に関しては特段と大きい。
無理もない。初めて会った相手に強制的に黙らされた。
しかも殆ど本能とはいえ自分の意思でだ。それは比叡のプライドを刺激するが、されど爆発させては弱い物苛めになると無理矢理にでも抑えた。
向けるのは眼差しだけ。冷たい相貌は誰かも知らないからこそであり、それを見ている幻影は内心嗤っている。
ざまぁ見ろ、これで評価が落ちてしまえと。
けれど、彼は彼女の顔に何も言わない。言う程のものではないのではなく、初対面であると思われているからこその顔なのだ。
これが皆に見せる基本だというのなら、余程昔の艦隊が素晴らしいと感じてくれたのだろう。
それは彼をして大変嬉しいことであるが、それで周りとの間に軋みを起こしてほしくはない。そうなるくらいならば、責任者が緩衝材になるのが当然である。
「俺の前で余計な争いはするな。それで戦いになって傷を負っても治さんぞ」
文句など言わせぬ。
腕を組んで堂々たる姿を晒すその姿。何時もの彼らしさを廃し、自然体を消し去った姿には威厳すらある。
それは彼にとって理想の提督像なのだろう。
斯く在るべし。正にそれが適当な姿に、周囲には沈黙が広がる。
爆発的に増加した気配に比叡は信じられないと内心で零す。元から隠していたのか、それともこの短期間で我慢の限界を超えて強くなったのか。それは不明であり、けれども何処か似ている雰囲気も感じた。
幻影はもっと直接的だ。
頬を赤らめるなど最早日常。瞳は輝きを増し、漏れる吐息は常に熱い。
頬を手に添えれば、もう完璧だ。そしてその姿を視界に収め、彼は何も思う事無く純粋に言葉を下す。
それで終わり。争いの発展など生みはしない。
「比叡、久しいな。この姿では解らなかったとは思うが、俺だよ」
「……もしや、と考えても?」
「もしやも何も、それが正答だ。隠すつもりも騙すつもりもない」
この場での争いを終わらせる為に口を開き、幻影は少しだけ嫉妬を覚える。
彼が一番に見るのは争いの始点になる比叡だ。彼女の性格が元の子達とあまり差異が無いのであれば、激情して戦いになりやすい。
逆に江風は現状優位であるからこそ余裕だ。争いに発展させる必要も無く、さりとて交換を要求してくる輩に対して甘い言葉を良いはしない。立ち向かってくるのであれば文句など言わせぬ程に叩き潰す。
故にこそ、彼女は今正に嫉妬していた。
愛されているのは江風だ。それは彼女自身自覚しているが、優先される相手が自分ではないというのは酷く寂しいものがある。
折角独り占め出来ていたのだ。それを壊されれば、彼女の中では嫉妬が起きる。
他を見ないで、私を見て。
だがそれは、他の艦娘達でも同じだ。江風に視線を向ければ、他の子達は彼女に嫉妬する。
目の前の比叡は一見例外なように思えるが、それは上っ面だけを読み取った結果に過ぎない。それを幻影はよく解っているからこそ、最初の接触は自身がすべきと判断していた。
比叡の声が震える。
その正体についての自分の予想を肯定され、訪れた感情は実に爆発的だった。
しかし表面上は抑える。例え幻影に全てを見抜かれていたとしても、それでも彼女は表だけでも冷静さを保っていた。
それが、ある意味での金剛の妹としての姿なのかもしれない。
面白くないと幻影は臍を曲げる。彼女も彼を求めている筈なのに、素直に手を伸ばさないその姿は情けなさを感じさせてしまう。それが決して悪い事ではないのに、どうしても納得が出来ないのだ。
欲しいのならば手を伸ばせば良い。実際に取れるかどうかは別にして、欲する事が悪であるとは誰も言わない。
方法の問題だ。それが純粋に競い合う目的であれば、きっと楽しい戦いになる筈だ。
そんな挑戦すら、比叡は諦めている。
故に幻影は彼女が嫌いだ。自分の好きな者すら姉に捧げようとする姿勢に、文句しかない。
「で、だ。個人的に色々言いたい事はあるが、先ずは整理が必要だ。特に江風、今度は嘘など無いように」
『了解だ。ま、こうなったからには全部話すさ』
「比叡の方もこの阿呆が何か変な嘘を吐いたら訂正してくれ。流石に信用させてくれよ」
「了解です。お任せください」
しかして、今目の前の彼には二人の心境は解らない。
どのような考えをしていても、どんな風に評価をしていても、言葉にしなければ二人の関係性というものは明確に表に出てはこない。辛うじて彼が解るのは、二人の仲が悪いこと。たったそれだけだ。
会話は弾み、時に比叡が訂正を入れ、時に幻影が場を引っ掻き回す。
そんな時間はこの島では殆ど見れないもので、彼と彼女達の絆は未だ健在であるという事実を証明していた。
時々面白さを考える。ランキングに載っている艦これ系の作品を見つつ、ついに始まったとあるMMD作品の第一話を見つつ――そうして思い付いたのは、やっぱり重さだった()