目を覚ました時、俺の視界には水平線が映っていた。
波の無い海に、半分だけ隠れた太陽。何処かで機械音が鳴っていて、足元を見れば自分が何かに座っている姿が見える。同時に解ったのは、己の足が最後に見た筈のジーンズになっていることだ。
試しに自身の腕を見る。そこにあるのはあの世界に行ってからの女性らしさを感じさせる細い腕では無く、男らしい当時のままの太い腕だ。
顔を触れば、顎に少量の髭がある。
そういえばマスクを着用しての仕事ばかりだったから剃るのを忘れていたな。
全体を触って、漸く己の姿が元のあの頃に戻っているのだと理解出来た。
ならば次に浮かぶのは、どうしてという単純な疑問だ。
夢だったと思うだけならそれで良い。本当に夢のような時間だったのだから、納得しようと思えば出来るだろう。
しかし、俺にはあの時の激痛が生々しく残っている。
夢であるとするには焼けた肉の臭いが鮮明過ぎて、腕が無くなった時の想像を絶する痛みは現実そのもので、無理に納得しようと思えば思う程に違和感は増すばかり。
今こうしてベンチに座っている事に違和感を覚える程だ。
此方が夢であると思った方が余程納得出来てしまい、しかして本当はどちらなのかと頭を抱えそうになる。
誰か答えをくれ。そう願いはすれど、自分以外にこのような体験をする者など果たして何人居ることやら。
一人も居ない可能性が高いに決まっている。故にこそ、この問題は自分自身で見つけなければならなかった。
『教えてあげようか』
ふと、隣で声が響く。
勢いよく首を左に向ければ、そこに座っている人物に目を見開いた。
狐をイメージさせる赤い髪。全体的に黒い服。女性でありながらもそこら辺の男には出せない格好の良さというものを引き出している。
彼女の事を、俺はよく知っていた。
それもそうだ。何せ俺が最も好いていて、最も大事だと感じていた娘なのだから。
江風が微笑みを浮かべながら、此方を見ている。
何処か勝ち気な顔は似合っていて、夕日に照らされて光る金の瞳に心まで吸い込まれそうだ。
そんな彼女と出会い、即座に頭は結論を弾き出した。こうして彼女が側に居るという事は、やはり此方側が夢に違いない。
答えが出た事実に安堵の息を零す。
それに合わせて彼女はくすくすと笑うだけ。何だか馬鹿にされているようにも感じたが、その顔さえも綺麗なのだから何も言えない。
美人は得である。正しくそれが当て嵌まっていた。
「これは俺の今際の夢かい?」
「違うさ。此処は誰が為の新世界だよ」
彼女の言葉に俺は困惑する。
此処が夢ではないというのなら、彼女の語るその新世界というのは一体どういう場所なのか。
俺の雰囲気に、されど彼女は気にした風を見せない。
夕日を目を細めながら眺め、細い二本の足を交互に揺らす。幼さを強調している動作であるが、今の彼女にはその仕草には違和感しか持てなかった。
何と言えば良いのだろうか。今の彼女はゲームで見た時よりも大人びているように見えて仕方ない。
姿形は一緒だ。改二になれば多少なりとて変化は起きるものであるが、この急な変化というものは正直言って気味の悪さというものさえ抱いてしまう。
そんな俺の様子にも、彼女は気付いているのか笑う。苛立たせる訳ではないが、それでもその異常なまでの勘の良さにも疑問に思ってしまう。
「よし、じゃあ説明しよう。此処が何処で、どうして提督が此処に居るのか」
「ああ――――ん、おい待て。今提督って」
彼女の言葉に頷きそうになって、しかしその単語に俺は意識を吸い寄せられた。
俺が提督だと知っているのは自分だけだ。家族にも、友人にも自分があのゲームをやっていたという事を教えた筈が無い。赤の他人が知る由も無く、であればどうして彼女がその事を知っている。
追求の眼差しを送れば、解っているといった顔で頷く彼女。
ベンチから立ち上がり俺の前に立てば、次の瞬間にはいつの間にか首に彼女の腕が回されていた。
少女特有の甘い匂いと言うべきか。鼻腔を擽るその匂いは強烈ではないものの、離れ難い。ずっとこうしていたいと思わせる何かがあって、けれどもどうして彼女がそんな真似をするのだろう。
顔を下に落とせば、上目遣いで此方を見る彼女と目が合った。金色の目は濡れていて、まるで今にも泣いてしまいそうな子供そのもの。
先程までは大人っぽさを見せていただけに、その劇的な変化についてこれない。
友好的過ぎる態度は逆に警戒されやすいというが、確かにこれは事情が解らなければ警戒するものだ。腕を回せずどうしてと問い掛ければ、何かを我慢するような吐息が漏れる。
艶やかさを感じさせる息に少しばかり理性が揺れた。違う違うと煩悩の俺を蹴り飛ばし、潤んだ眼差しに再度問い掛ける。
「お前は、誰だ」
「江風だよ。提督がよく知っている、あの江風だ。知らないなンて言わないでおくれよ。ケッコンした仲じゃないか」
片方の腕が外れ、俺の顔前に現れる。
広げた掌の先にあるのは、綺麗な五本の指と飾り気の無いシルバーの指輪。およそ女性に贈るのであればもう少し意匠を凝らすべきだと思うそれには当然心当たりがあり、まさかといった顔になる。
知っている。知っているとも。課金を嫌った俺が唯一送った相手だ。忘れる筈も無い。
最初の頃は性能が良い者にアレをあげようと考えていて、けれども彼女の絵を最初に見た瞬間に俺はあの指輪をこの子にしようと思わせられた。
それは二次元に恋をするような気持の悪い男だったのだろう。傍から見れば異常性の高い人間で、けれどそれ程までに俺は彼女にのめり込んでいた。
ああ彼女のような恋人が居れば。そんな妄想をした事が無いとは言わない。
彼女だけに特別な装備を持たせようとしていた頃を思い出し、あの頃の自分は本当に艦これに嵌っていたのだなと感じ入る。
「本当に、あの江風なのか……」
「信じてくれよ。何なら、提督が重用していた第一部隊の面子だって言ってやるぜ?」
言って、スラスラと彼女は第一部隊のメンバーを話す。
その内容は真実ばかりで、故にこそ俺は彼女があの江風であると信じざるをえない。二次元と三次元の壁を超えて、俺達は今此処で再会した。
それを喜ぶこそして、突き放すような真似はしない。内から湧き出る歓喜に従って彼女を抱き締めたいが、それをするよりも前に全ての疑問を片付けるべきだと彼女を離す。
されど彼女は即座に俺の膝の上に座り、体重を此方に全て寄せた。密着した彼女の身体は柔らかくて、こんな身体で本当に戦っていたのかと思わざるをえない。
互いに認識を揃える為に言葉を交わす。此処が何処なのかの詳しい情報、どうやって彼女が此処に居るのか、そして現状俺は今どうなっているのか。
その全てに彼女は答えていく。淀みなく話す姿はまるで説明書を読んでいるかのようで、されど理解しやすく話は頭の中に入っていった。
先ず、此処は誰も着任していない鎮守府だ。
どのような人物が着任するかも不明で、今後着任する予定も存在しない、地図に存在しない鎮守府。
此処に居る艦娘は全て改二か改状態であり、そしてそれらはオリジンと呼称される。
要するに此処に居るのは本体なのだ。あの世界で多数の同じ艦娘が居るのは本体から別れた欠片である訳で、欠片達の強さはオリジンの千分の一にも満たない。
此処は所謂艦艇がそのまま艦娘になった世界だ。魂がそのまま変質し、何も欠けないまま存在している。
次に、そんなオリジンが何故彼女なのか。江風という少女は俺が入手するよりも前に既に誰かが入手していた。
つまり目の前の相手がオリジンになるなど有り得ない。なのにどうして居るのかと尋ねれば、簡単な話だ。
俺が認識している子達が此処には出現する。
俺が知っている江風が出現し、彼が知っている木曾が出現し、俺が知っている響が出現し、恐らくは俺自身が願っていないだけで周りには俺の知っている艦娘達が居るのだろう。
どうしてそうなったかについては、江風自身把握していないのだとか。気が付けば長い時間を過ごしていたそうなので、これはもう考えるだけ無駄だろう。
最後に現状だ。俺は元の世界には帰還出来ず、どうやら現状は夢を見ているだけに過ぎないのだとか。
時間もかなり引き延ばされているようで、恐らくは俺の一時間が一秒くらいにはなっているのだろう。
そうなっているのは何故か。そこまで行き着いた時、彼女は真剣な顔で俺を見ていた。
「なぁ、提督はあの世界で何がしたい」
何がしたい。それに対する答えを、俺は現状持ってはいない。
ただ平和に過ごせれば良かった。何にも邪魔されず、そのままの俺で過ごせればそれで万事解決。昔から争い事については消極的だったから、そんな答えにもならない言葉しか出てこない。
されど、彼女は満足そうな顔をした。それでこそと言われているような気がして、こんな情けない答えで良いものかと何かが問い掛ける。
「平和で静かに暮らす。良いじゃないか、それだって今の状態を考えれば十分。……だからこれは私の我が儘だ。絶対に叶えてくれとは言わない」
俺を肯定して、それでもと彼女は姿勢を変える。
石の上に正座の体勢を作る彼女に止めろと言うが、それは駄目だと首を左右に振られた。
好いた女にそんな恰好をさせるなんてどう考えたって馬鹿のする事だ。慌てて戻そうとするが、彼女の身体は柔らかくともまったく動きそうにない。
本当に何か重い物を動かそうとするかのようだ。流石艦娘というべきか、これでは素直に聞くしかない。
目を閉じて手を膝の上に置き、背筋を伸ばす姿は本当に江風らしくない。
何かしらのお願いをするのは予想出来るが、彼女の様子を見るに相当に難しい願いなのだろう。もしかすれば、俺が即座に断る類のものなのかもしれない。
故に、俺はベンチに腰掛ける。動かないのならば早めに聞いてしまった方が良い。
判断はその後に出来る。俺も彼女同様真剣に聞くべきだ。
深呼吸を数回。閉じていた目を開き、彼女はゆっくりとした動きで口を開く。
「あの世界の艦娘達を保護してほしい。出来れば、提督が率いて日本とは関係の無い場所で深海棲艦と戦ってくれ」
「……それは」
無理だ、とは咄嗟には言えなかった。
この世界には大量の改二が野良艦娘として活動している。それらを纏め上げれば、確かに深海棲艦とも戦えるだろう。そうしなければ日本も艦娘も滅ぶというのであれば、誰かが立ち上がらなければならない。
そしてそれを、江風は俺に頼んでいる。
恐らくは唯一無二の存在である他世界の艦娘好きだからこそ頼んだのだろうが、その頼みは俺の望みとはまった逆の方向だ。否応無しに厄介事には関わらなければならず、海軍側とも小競り合いが起きるだろう。
そうなった時に俺に止められるのかと言われれば、勿論とは言えない。
彼女の頼みに応えられる程、俺は器が出来ていないのだ。それを直ぐに任せろとは言えない。
だが、だがだ。彼女は俺にとっての嫁だ。例え二次元の相手であっても、今では触れ合える三次元である。
下心が無いとは言わない。男ならば彼女のような女性に頼まれれば条件を出して頷いてしまうだろう。
俺もその点は一緒だ。彼女がこうまで頼む以上、何かしらの見返りが欲しいと思ってしまう。
故にこそ、俺はタダでは頷けないと告げた。
彼女に嘘は吐けないから、醜い自分を表に出す。その反応に、何故か彼女は喜んでいた。
「俺は弱い。現時点で生き残れたのは君の身体のお陰だ。一人で生き抜くには十分だろうが、集団の頂点に立つような真似は出来ない。――――だから手伝ってくれ」
「……流石は私の旦那」
「やめい。俺達は結婚式すらしてないんだ。それにこれは下心。あわよくば君と一緒に居れるかもしれないという情けない男の欲望に過ぎない」
「何でさ。好きな男と女が一緒になるなンて当たり前だろ?そんな程度で下心だって言うなら、胸とか尻とか触りたい奴はどう言えば良いンだよ」
いや、まぁ彼女の言いたい事は解る。
しかしリアルで女性経験の無い奴にはこんなのでも下心に思ってしまうものなのだ。言い訳のように言葉を紡ぎ、けれども最終的な結論は双方共に既に辿り着いている。
目の前の彼女が俺の知らない彼女であれば頷かなかった。自身の欲望を優先させ、彼女の頼みを却下させていただろう。
けれども目の前に居るのはケッコンまでした相手だ。ならば、そんな相手の頼みを聞かない筈が無い。
故に、これにて決まってしまった。俺の道は確かにそれで固定化され、もう逃げるだけでは済まされない。
否、ある意味これは逃げているのかもしれないな。海軍からの離脱、今という現実からの逃走。特にあの提督から逃げられるのならば文句は無い。
これで決まりだと手を差し出す。それを彼女は握り、そのまま引っ張るように立ちあがらせた。
さて、これから先は忙しくなる。
何をするにも速度は重視されるべきだ。最速最短で済ませられるのならば済ませたいのが道理である。
「取り敢えずはあの戦いを生き残る事だよな」
「ン、それなら私が直で力を貸すさ。いきなり馬鹿みたいに強くなるから、最初は慣らし運転のつもりでやってくれよ?」
「了解了解。嫁さんの身体をこれ以上傷付けさせはしないよ」
繋いだ手が光る。
俺と彼女の間にその光は集まり、一枚のカードとなって固定された。
そこにあるのは江風改二の姿。ゲームの時と同じ絵柄であるが、その背後に書かれているDestroyerの文字がoriginに変更されている。
成程、解り易い。
浮かんだカードをもう片方の手で取る。熱さを感じさせるそれは生きているかのようで、それを持つだけで異常な程の活力が感じられた。
これは全能感だ。何でも出来るという錯覚であるが、今においては錯覚ではない。
視線を彼女と交わす。お互いにやるべき事をやる為に再度手を結び、今度それが離れる時は本当に死んでしまった場合のみだろう。
ならば負ける訳にはいかない。死ぬには勿体無い事が増えてしまった。
ならば勝とう。勝利を世界に刻み、彼女こそが最も平和を望んでいるのだと示す。
「提督が鎮守府を作ったら言うべきなンだろうけど、今言わせてくれ」
「おう」
――――提督が鎮守府に着任しました。これより、艦隊の指揮を取ります。
似合わない丁寧語で喋る彼女は、最後まで満面の笑みだった。