「“ノーネーム”だと?」
ガシャンと音がした。
視界の端に、オーダーを持ってきたのだろう猫耳の店員の手から落ちたティーカップなど破片が床一面に散乱しているのが見えた。
それだけではない。先ほどまでさまざまなところから聞こえていた談笑が全て消えている。
耀も久遠もジンも、先ほどまでふてぶてしく笑っていたタキシードの大男も皆一様に黙り込み、“震えていた”。
その中で、一番その身を震わせていたのは間違いなく私だった。
怯えでなく。これは怒りだ。
そう私は怒っている。
無より生まれしこの私が怒りなどという俗世の感情に支配されている。
なぜか。決まっている。
偽りの写し鏡に翻弄されながらも友を信じ、幼子のために戦い、土地を守るために戦い、私に敗北を与えてくれた彼らのコミュニティが“ノーネーム”だと?
それはどういう冗談だ。大男。
それはどういうことだ。ジン=ラッセル。
まさか、君は彼らのコミュニティを―――
「“落ち着きなさい”」
私が我を忘れずに済んだのは間違いなく久遠のおかげだった。
「“落ち着いて”“気を静めなさい”」
久遠の口から出る言葉のひとつひとつで私を蝕んでいた怒気が徐々に晴れていく。
周りにまき散らしていた重圧は消え、徐々に世界は元の姿を取り戻していく。
赤は消え。より透明(クリア)に。
私は状況を冷静に判断できる状態を取り戻す。
「“自己を取り戻すの”いいわね、山田さん」
「ああ、すまない」
久遠に名を呼ばれる頃にはこれこそが久遠飛鳥の持つ可能性の一部。
彼女の持つギフトの一端なのだと判断できるくらいには思考力を取り戻していた。
冷静に現状を観察して。恥ずかしいと思う。
まさか人間族の少女に諭されることになるなど、穴があるなら入りたい。
いくら彼ら、――――のことがあるとはいえ、感情のままに周りに怒りをぶつけるなど、何たる不様。
ブロッケン山の怪物が聞いて呆れる。
「本当に、すまなかった。久遠。耀」
「いいわよ。気にしないでちょうだい。誰にでも触れられたくない部分はあるものよ」
「私も気にしないから、真央も気にしないで」
ありがとう。久遠。耀。
「それと、君たちにも謝ろう。すまない」
「い、いえ、いえいえ。箱庭に来たばかりで気も立っているでしょう。私は紳士ですからね、気にしませんよ」
頭を下げる私にピチピチのタキシードを着た大男。
名を確かガルドは渇いた笑いを漏らしながらそう言った。
その瞳に宿る好からぬ感情を感じ取れぬ私ではなかったが、ここは何も言わなかった。
対し、ジンは
「僕の方こそ、何か怒らせるようなことを言ってしまったのなら謝ります」
怯えながらも私の眼を見ながらそういう。
震える手でその身に羽織った体格に対し大きめのローブの端を握りしめているのが見える。
その態度に好意を持つことに否はない。
しかし、今は
「ならばジン。聞かせてほしい。君たちが“ノーネーム”だというのは、どういうことなのかを」
私の問いにジンは顔を青くする。
「まさか、山田さんは“ノーネーム”がどういう意味なのか、知っているのですか」
「それは私が聞きたい答えではないよ。ジン」
「っっ」
「はっは。まあまあ、これ以上を本人の口から言わせるのも酷というものです。ここから先は私の方から説明させていただいてもよろしいですかな。レディ」
レディと呼ばれたので、男である私がなにも言わないでいると頭に手を当て何故か呆れた顔の久遠がガルドの言葉に答えた。
「・・・・そうね。お願いするわ」
なぜ、私の方をいぶかしげにみるのだろう。
ガルドの問いは私ではなく久遠か耀のどちらかに向けられたものであったから、答えなかっただけだというのに。
理不尽ではないだろうか。そんな視線を彼女に贈ると、睨み返される。
耀はなぜだか分かるよと言いたげにガルドを見ていた。
私が理不尽にさらされる中、ガルドの口からなぜ黒ウサギの所属するコミュニティ。
なぜ、私を打破した彼らのコミュニティが没落の憂き目にあい“ノーネーム”と呼ばれるようになってしまったのか、その理由が語られる。
―――――✠―――――
「小僧、いや、ジン君の率いるコミュニティは数年前までこの東区画最大手のコミュニティでした。もちろんその頃のリーダーはジン君などには似ても似つかぬ優秀な男でしたがね。彼はギフトゲームにおける戦績で人類最高の記録を持っていました。その頃の“ノーネーム”は名実ともに東区画最強のコミュニティ」
そう。目を閉じれば今でも思い出がよみがえる。
背後から刺す魔王である私と彼らコミュニティ――――の戦いが。
その戦いの中で常に最前線に立ち続け、土地を守り、幼子の盾となり、友と共にあり、女を愛し、戦い続けた男の姿が。
私の網膜には焼付いている。
あれほどの男が率いていたコミュニティにいったい何があったというのだ。
急かすような私の視線にガルドは芝居がかった口調で答えた。
「ああ、しかし悲しきかな。栄華を誇ったそのコミュニティは敵に回してはいけない者に目を付けられた。それも二度にわたりです。不幸という他にありません。箱庭最悪の天災に二度も襲われては、どれほど強力なコミュニティも滅びるほかないでしょう」
「「天災?」」
耀と久遠が同時にそう聞き返す中、私は心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われる。
そして、全てを理解した。
そうか。そういうことなのかと。
彼ら、――――は確かに強かった。それは私がよく知っている。
しかし、だからと言って、それはあまりに酷ではないか。
「此れは比喩にあらず、ですよ、レディ達。彼らはまさしく逃れられない被害をもたらす天災。俗に“魔王”と呼ばれる者たちです。そんなものにジン君の先代が率いたコミュニティは二度続けて勝負を挑まれ、そして――」
彼らは、私に勝利し、そして、その傷がいえる前に。
「――滅び去ったのです。骨も残さずにね」
私の身体を虚脱感が包み込む。まるで闇に還る時のような気分。
無より出でて影として生まれる。
太陽の恩恵が欠片でも残る限りは消えることはあり得ない私だというのになぜだか息苦しい。
死にそうだと、私は生まれてはじめてそう思った。
もはや周りから聞こえてくる会話の内容が、雑音でしかなくなる。
「それを理解せず、子供のように駄々をこねているのがこのジン君ですよ。彼は出来もしない夢を掲げて過去の栄華に縋る恥知らずな亡霊でしかない。コミュニティの再建を掲げながら、その運営すら黒ウサギに頼り切っているという有様です」
「・・・・・っ」
「私は不憫でなりません。箱庭の貴族でありどのコミュニティでも破格の待遇で迎えられるはずの彼女が、なぜこんな“ノーネーム”の糞ガキのために毎日身を粉にして走り回らねばならないのか」
あらゆる悪意を、害意を跳ね除け。偽りの写し鏡を砕き。
私の本当の名を初めて呼んだ彼ら。
敵でありながらみごとと絶賛を送ることに否はない。
そうだ、私は彼らを、――――を。
「・・・・そう。事情は分かったわ。それでガルドさんはどうして私たちにそんな丁寧な話をしてくれたのかしら?」
「どうやら貴女のような女性には単刀直入に言うのが良いようだ。どうでしょう、もしよろしければ黒ウサギと共に私のコミュニティに来ませんか?この二一〇五三八〇外門付近の中流コミュニティ全てを束ねる私の“フォレス・ガロ”に」
「な、なにを言い出すんですガルド=ガスパー!」
「黙れ、ジン=ラッセル。異世界から来た彼女たちには30日間の自由と所属するコミュニティを選択できる権利がある。なにも知らない相手なら騙しとおせると思ったのだろうが、こっちにも箱庭の住人として通さなきゃならねえ仁義があるぜ」
好いていたのだろう。
恥も外聞も捨て告白すれば、私は敵である彼らに恋い焦がれていたのだ。
憧れ、焦れ、そして、恋をしていたのだろう。
彼らのあのあり方に。
その可能性の輝きに。
「そういうわけですレディ達。どちらのコミュニティに所属するのか、一度私の“フォレス・ガロ”とジン君の“ノーネーム”をそれぞれ視察し、十分に検討してから――」
「あら、その必要はないわよ。私はジン君のコミュニティで間に合っているもの」
「―――なっ、レディ、それはどういう意味でしょう」
「どうもこうも。私は裕福だった家も、約束された将来も、おおよそ人が望みうる人生の全てを支払って箱庭に来た。いまさら大手だとかそうじゃないとかそういうことで自分が所属する組織は選ばないわよ。なら、あとは好みの問題でしょう。私は貴方よりジン君の方がタイプなの。それだけよ。春日部さん、貴方はどうかしら?」
「別に、どっちでも。私はこの世界に友達を作りに来ただけだもの」
「あら意外。じゃあ私も友達に立候補していいかしら?私達って正反対だけど、意外に仲良くやっていける気がするの」
「・・・うん。飛鳥も私が知る女の子とちょっと違うから大丈夫かも」
「ありがとう春日部さん。それで、山田さん、貴方はどうするの?」
そんな彼らが滅んだ。
その責任の一端は、私にある。
「私?私は・・・」
そんな私が、どうして彼らのコミュニティ、――――。
いや、“ノーネーム”に入れるという。
私にはもはや、彼らの影を踏む資格すらない。
「山田さん!」
“フォレス・ガロ”に入るのも一興かと、そんなことを考えていた私の手を掴んだのはジンだった。
ちいさい。本当にちいさい手だ。こんな手で、彼らのコミュニティを継いのか。
あまりにもか弱いその手は、しかし燃えるように熱かった。
「ガルドの“フォレス・ガロ”は悪い噂の絶えないコミュニティです!」
「小僧!貴様なにを!」
「しかし、僕の“ノーネーム”とは比べ物にならない規模なのも事実です。“フォレス・ガロ”に所属すれば多くの恩恵が受けられるでしょう。僕には、その恩恵の1つも山田さんに与えられないっ」
ジンは泣いていた。その小さな二つの瞳から、多くの涙を流していた。
黒ウサギに依存せねばコミュニティを維持できない自分を、不甲斐なく思わない彼ではなかったのだろう。
後ろめたさとやり切れなさ、そして何より悔しさ。
けれど、それでもジンは
「けれど、それでも僕は山田さんにノーネームに来て欲しい!僕は、僕は、取り戻したいんです。僕たちの旗を、僕たちの誇りを!僕の仲間たちを!」
「―――――――ぁぁ」
ジンから零れ落ちた涙が、握られた私の手にあたる。
この暖かさを私は知っている。
私はこれに焦れ、恋をし、愛したのだ。
黒ウサギが何故、――――の崩壊後もジン=ラッセルという少年の傍にあり続けたのか、その理由が分かった気がした。
そして思わず、私はジンを抱きしめた。
「ぇあ、や、山田さん?」
本当に、本当に小さい身体だ。
この小さな身体で取り戻そうというのか、偉大な彼らのコミュニティを。
その魂と誇りを。
気高くも矮小なる者よ。自らの可能性を封じ込めたる者よ。
そうだというのなら君に私の身全てを捧げることに否はない。
むしろそうしたいと乞い願おう。
しかし、私は、
「私は、君に求められるような人間ではない。故にまだ君に答えることは出来ない。真実を知った君が、それでも私を求めてくれるというのなら、その時、私はジン=ラッセルのものとなろう」
「それは、どういう」
「いまはまだ、聞かないでくれ」
時がきたなら、私は真実を語り影の全てを余すところなくジンに晒そう。
だからその時まで、口を閉ざす私の弱さをどうか許して欲しい。
私とジンのやり取りを見ていた久遠はガルドに言う。
「見ての通り、そういうわけだから私たちは三人とも貴方のコミュニティには入らないわ」
「し、しかしですね。レディ達」
「“黙りなさい”」
ガチン!とガルドは不自然な形で口を閉じ黙り込んだ。
「紳士を自称するなら引き際くらい弁えなさい。それと、私は一つ聞きたいことがあるの。貴方自慢の“フォレス・ガロ”がどうやって此処一帯を支配するほどのコミュニティになったのか、“答えなさい”」
ガルドとの会話の中で、いったい久遠がなにを怪しんでいたのか。
彼らのコミュニティが”ノーネーム”になっていたことへの衝撃でろくに話を聞いていなかった私には分からなかった。
そして、久遠のギフトによって開かれたガルドの口から私たちは信じられない真実を聞くこととなった。
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