ドイツ。ライン川流域の町。ザンクト・ゴハルスハウゼンに伝わる伝承。
“ローレライ”という名前だけならば、多くの人が聞いたことがあるだろう。
現に耀はおろか、戦時下で育った飛鳥でさえその名を知っていた。
海の乙女。水の妖精。
その美しさから、彼女はそう呼ばれていた。
しかし、知っているだろうか。彼女の一面を。
船頭を惑わせ船乗りたちを海に引きずり込む。
彼女は紛れもなく、悪霊の1人である。
―――――✠―――――
「わたくしの真実の名を知っているということは・・・どこかであったことがあったかしら?」
ローレライ。ローラは人差し指をおでこに当て考えるようなしぐさをするが、思い出せなかったようで首を傾げた。
自分のことなど覚えていない。その事実にジンは歯を食いしばる。
確かに自分はあの戦いで何もできなかった。
だが、覚えていないなんて。あれだけのことをしておきながら。
ジンの瞳に炎が宿る。
「覚えていないというのなら無理やりにでも思い出してもらいます。今は“ノーネーム”ですが、かつて僕たちのコミュニティはあなた達と戦い、そして勝った」
「勝った?わたくし達に?あの御方が率いた“ワルプルギス”に?おかしなことを言う坊やですわ。無敗無双を誇ったわたくし達はただの一度たりとも敗れたことなどありませんわ」
「何を―――」
「あら、それは聞いていた話とは違うわね」
「―――飛鳥さん」
いきりたつジンの肩に柔らかい手が乗る。
飛鳥は鼻を鳴らしながら笑った。
「確かにジン君たちは旗と名を失い“ノーネーム”になってしまったけれど、それは二度に渡る魔王との連戦が原因。疲弊しているところを狙われ敗れた。一度目の魔王。“背後から刺す”とかいう魔王は撃退していたはずよ」
飛鳥に続き、耀もまたジンの隣に立つ。
ジンを中心に3人は並んだ。
新生“ノーネーム”。
ジン=ラッセルに心奪われた青年が理想としたその形が、くしくも青年のいない場所で、青年の友の前でつくられた。
青年が超越者の赤子、時代の新生児と呼んだ輝きに包まれた少年。
誰も気づくことのない。歴史の1ページが綴られる。
「それなのに記憶にございません、を通すなんて負け惜しみにしては芸がないのではなくて。政治家でもいまどきはもう少しマシな嘘をつくわよ。流石は伝承の女。年齢だけじゃなく頭の中まで古臭いのかしら」
「飛鳥、本当のことを言ったら可哀想」
耀の言葉が決め手だった。ローラはギリと歯を鳴らす。
「わたくしの・・・わたくしのことは・・・いいでしょう。・・・けれど、負けてなど・・・負けてなど」
ローラの髪がなびいた。
宮殿の中、風は無いはずだというのに溜められていた海水が小波(さざなみ)たつ。
溢れ出る感情の波。激怒ではない。怒りでは決してない。
悲鳴のような感情。
「確かにあの御方は名を明かされこの箱庭の地を去りました。けれど、死んだわけでも倒れたわけでもない。いずれ再び舞い戻ってきてくれるはずですわ。そのために“ワルプルギス”の名も旗も黒猫が保管していますわ」
再起の時は近い。ローラはそう信じている。
いや、そう感じているのは自分だけではないはずだと彼女はそう思っている。
ざわめくのだ。身体が心が魂が、かつて陰に支配されていた時のように熱を帯びている。
言葉にはしていないがあのシスコン悪魔も黒猫もこのざわめきを感じているはずだ。
ではければ3年もお互いに不干渉だったというのに、突然連絡を取ってくるはずがない。
ルイウスの“教育”を行っていた時期、聞こえてきた二人の声。
『ウフフ』
『にゃー』
それだけで十分だった。あの2人が笑っている。
ならば笑うに足る理由が、自分にもあるのだろうとそう思える。
名も旗も失った“ノーネーム”とリーダーを失いながらも名と旗を守りきった自分たち、どちらが勝者であったかなどローラにとって考えるまでもない。
「わたくし達は負けてなどいない。自らを犠牲に“ワルプルギス”を守りきったあの御方の選択が間違っていたなどと」
「ふざけるな」
“ノーネーム”。
その前身が3年前戦ったあの―――だというのなら、ぜひもないとローラは笑った。
今此処で目の前の少年少女を打破し、かつての雪辱を晴らすのもいい。
もともとは“教え子”に頼まれ出場しただけの『ギフトゲーム』。
だがまさか、こんなところで彼らに出会えるとは。
ジンと呼ばれている少年は言った。『待っていた』と。
―――待っていたのはこちらの方だ。
「3年前のあの戦いで失ったものは、あの御方だけではありません。なにも知らぬ箱庭の無知蒙昧(むちもうまい)共はあの戦い以降、わたくしたち“ワルプルギス”が落ちぶれたと指を差した」
笑ってしまう。
たとえ背後から刺す魔王が去ろうとも、いまだ“ワルプルギス”には愛情深き海の乙女、ローレライである自分や魔女喰らいのお菓子の妹好き(シスコン)大悪魔。
そして、戦闘力においてならば自分を超えると背後から刺す魔王に太鼓判を押された、不幸を告げる黒猫がいるというのに。
無知とは恐ろしいとローラは思う。
人間は何も知らなければ、どこまでも傲慢に成れるものだ。
彼女の主はそれこそが人間の可能性だと笑っていたが、ローラはそうは思わない。
「不愉快ですわ。なにも知らぬ馬鹿の戯言だとわかっていてもなお不愉快。あの御方の“ワルプルギス”を、馬鹿にされるなどっ」
ローラは見据える。新生“ノーネーム”を。
この時だけは“教え子”に感謝してもいいとそう思えた。
「清算して差し上げますわ。3年前のあの負債を。あなた達を倒すことで」
知らしめなければならない。
痛感させる必要がある。
自分たちがいまだ、この箱庭にとって脅威だということを。
「くすしき魔力(ちから)に魂(たま)もまよう」
魔歌(まか)謡え、ローレライ。
「春日部さん。ジン君。ここは私に任せて先に行きなさい」
「飛鳥・・・うん、わかった」
「えっ、ちょ、待ってください耀さん!飛鳥さんも!無茶です!ローレライの才能(ギフト)は強力なんです!3人で挑んでも勝てるかわからないのに1人で戦うなんて!」
「あら、でもこの先には純血の吸血鬼という三人で挑んでも敵わないかもしれない怪物がもう一人いるかもしれないのでしょう?ならここで三人とも消耗するわけにはいかないじゃない」
「だとしても―――」
「いいから。“はやく行きなさい!”」
飛鳥の命令にジンの意識は津波に巻き込まれたように途切れた。
目の前の敵に復讐したいという思いすらも隅に追いやられ、はやく真央を助けに行かなければという気持ちだけが心に満ちていくのを感じていた。
「―――わかりました。飛鳥さん、頑張ってください」
ジンはそう言うとすぐに耀の後を追う。
「わたくしが逃がすと思っているのかしら」
ローラがそう言いながら手をこの場から逃げる2人の背に向けると、海水は海流となりジンと耀を襲う。
しかし―――
「“静まりなさい”」
飛鳥が命令すると同時に海流の束は解れ、床へと落ちる。
「なっ、」
「あら、まさか海水を操ることの出来るギフトの持ち主が自分だけだなんて、そんなお目出たい考えでもしていたのかしら」
「・・・あなたのギフトは“人心を操るギフト”ではなかったのかしら?」
「さあ?どうかしらね。その身で確かめてみたらいいのではなくて、おばさん」
ギリとローラは歯を擦る。
彼女はこんな挑発に乗るような安い女ではない。
しかし、彼女のなにかが目の前の人間族の少女を逃してはならないと告げていた。
この少女は危険な可能性を秘めている。
今はまだ恐れるに足りない。片手で片付けられる相手だろう。
けれど、その輝きが成長してしまえば、手が付けられなくなるかもしれない。
そんな可能性を秘めている。
“あの御方”が一目で感極まってしまうかもしれないほどの可能性を秘めている。
「安い挑発ですが、いいでしょう。もともと安い挑発は買う主義ですわ。このわたくし、コミュニティ“ワルプルギス”序列第3位“鋼鉄の処女”ローレライがお相手して差し上げますわ。さあ、名乗りなさいな小娘」
決闘の流儀。
ローラがそうであるように、飛鳥もまたそう言う格式ばった決まりごとは―――嫌いじゃない。
飛鳥はギフトカードから赤銅の十字剣を取出し高らかに宣言した。
「コミュニティ“ノーネーム”。―――」
この世界に来たばかりの自分には名前に並べる二つ名などはない。
しかし、それは恰好がつかないだろう。
そう考えた飛鳥は、共にこの世界に来た一人が言っていた言葉を借りることにした。
「“時代の新生児”久遠飛鳥。それじゃあ、世代交代といきましょうか。のさばるだけの老害はさっさと舞台から退きなさい。ここから先は、私たちの時代よ。おばさん」
「っっ、さっきから目上の人間に対する言葉遣いがなっていませんわね。いいでしょう存分に“教育”してあげますわ。この“問題児”が!」
赤色と金色はこうしてぶつかった。
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