1億3000万分の1のエピローグ
もし、生まれ変われるのなら。
俺は人間になりたくはないと切に願う。
蝶がいいかもしれない。
孵化して、鳥に襲われないよう隠れながら葉っぱを食べながら成長して、綺麗な羽で空を羽ばたく夢を見ながら蛹になってじっと春を待ち、羽化して宙を舞いながら花の蜜を吸い、卵を植え付け鳥に食われて朽ち果てる。
野良猫がいいかもしれない。
自由気ままなルールもない日常で、大欠伸をしながら昼寝をし、虫と戯れ、縄張り争いで喧嘩をして、偶に人を観察し、飽きたら寝て、誰もいない場所でそっと死を迎える。
鮎がいいかもしれない。
冷たい沢の中で生まれ、海へと下って食べられないよう身を守りながら成長し、いつか元の沢に戻って子孫を残し、獣か鳥か人に食われて死ぬ。
山桜がいいかもしれない。
ある日山の中で芽を出し、美しい桜の花びらを咲かす夢を見ながら静かにゆっくり成長し、春に山の一部として山肌を彩り、季節を巡って咲いて枯れてを繰り返し、最後に寿命を迎えた巨木として朽ち果てる。
生き物として生まれたのであれば、その生き物として全うな生き方をし、何かを残して死ねたのならば、それは幸せ以外の何ものでもない。
生き物は最終的に死からは逃れられないのだから、せめて悔いもなく潔く死ねる方が、本当の意味で『生きた』と胸を張れるのだろう。
けれど、人間はきっと、未来永劫それができないと俺は悟った。
感情がある時点で、生死を意識できる時点で、人間は死にたくないと願って生きている。
今の俺は、どちらでもないのだろうか。
病に侵され、人として全うな死を望んでいる俺の心。
家族や友人の願いで、治らないと知っていながら延命治療を受けている俺の体。
見事に、心身が分離している。
人間はどうしてこうも、面倒なのだろう。
どうして潔く死ねないのだろう。
何故周りは、俺の生に固執するのだろう。
この腕に、足に、胴に、首に、顔につけられたチューブが、俺をこの世界から逃がさない為の鎖にしか見えない。
家族や恋人や、友人の言葉や愛は、針となって俺の心に傷を与えてるようにしか感じられない。
こんな俺は、果たして人なのだろうか。
人間の死に、どうして自由な選択肢がないのだろう。
自己決定権なんてもはや形骸化した権利だ。人は結局、周囲に死の選択肢を潰されて『生きろ』と願われ生きてしまう。そこに自分の本当の意志はなくてもだ。
死を選べば、他人はそれを『諦めた』と決めつけて罵倒する。
死ぬ=諦めだなんて、あまりに横暴すぎるだろ。
この病に侵された時、俺はこれが俺の人生の終わり方なのだろうと気が付いた。
薬や、人の手に俺の体を弄られるなど気持ち悪く、俺は一人そっと、静かに息を引き取れればそれでいいと思っていた。病の痛みなんて怖くなかった。
寧ろ俺は作曲家として、この病に侵された時に最高の一曲を作れたのだ。
それが世に渡り、ミリオンヒットした訳だが、俺はこの曲以上の曲を書けることはないと分かった。
小さな星が自身の重力に耐えかね消滅する時、爆発の一瞬の輝きにその星の全てが集約される。
だから星の光は美しい。それと同じなのだ。
死の間際だからこそ、この曲は生まれた。
俺の人生の輝きがこの曲だった。
ならその先は、死ぬだけだ。それで満足だ。
下手に更に大きな輝きを期待して、どん底に落ちて死ぬ時に「俺の人生は散々だった」と嘆いて終わるなんて嫌だ。
全てが満たされた時に、幸せな気持ちで眠りたい。
それが俺の死生観だ。
それに今は、死後の世界というものに興味がある。
京都の寺に行った時に見た、閻魔の絵や像を思い出す。
本当にあんな存在がいて、天国か地獄に行くのが決まる裁判は行われているのだろうか。
三途の河とか、花畑って本当にあんのかな。
俺仏教徒じゃないしな……日本人なら関係ないのかな。
もしそんなのがあるのなら、俺はどっちだろう?
別に犯罪を犯した事がある訳ではないけど、向こうではどの程度と大きさが罪なのか。
大切な人たちを泣かせてまで死ぬ奴は、地獄行きなのかな。
まあ、どっちでもいいか。
論より証拠。
もういいだろ。
既に遺書は用意してある。
必要な事はちゃんと書いてある筈だ。頼むから家族で喧嘩しないようにな。
小さい時に『生死』を意識してしまった俺は泣いた。
でも今は『生死』を意識して俺は笑っている。
この話を、来世の俺にしてみたい。
どんな反応をするのか見てみたい。
逆に、前世の俺はどんな思いをして死んだのかな。
俺はどんな反応をすんのかな。
そんな願いが叶うとは思わないけど。
まあとにかく。
それじゃあ。
バイバイ。