*
(……何で、こんな所に居るんだよ)
せっかくの休日に山原と会うなんて、世界は本当に僕に厳しくあるようだ。
自分の運の悪さを呪いたくなるが、しかし必死に不快感を堪え。表情筋を無理矢理に笑顔の形に固めて、憤りと共に仮面の奥へと押し込んだ。
「や……ま、原くんじゃないか。偶然、だね。こんな所で――ガッ!」
「お前今日どこほっつき歩いてたんだよ。俺の呼び出し無視するとかねぇわ」
山原は僕の言葉を完全に無視。今度は腹に蹴りを入れられ、尻餅をつく。
「っぐ……、き、今日は、朝から出かけてたからね……」
「だから携帯持てっつってんべーや。せっかく親睦を深めて貰おうと思ったのにさぁ」
山原はそう言って背後に首を傾けた。視線を追って見てみれば、そこにはドタドタと走る丸っこい影が一つ。昨日紹介された井川という少年だ。
……推測するに山原は、今日一日『親睦』という名目で彼と一緒に僕を嬲るつもりだったらしい。当然ながら、暴力的な意味で。
「……そ、う。まぁこれからは気をつけるよ」
「チッ」
山原は舌打ちを一つ打ち、やっと追いついた井川と共にさっさと歩いて行った。
「何やってんだ、早くしろよグズ」
「……何でかな。意味が分からないんだけど」
まぁ、まだ続くよね。
崩れ落ちそうになる膝を支え、山原へと顔を向ける。すると彼は振り向き様、ニヤニヤと意地の悪い顔で僕を見つめていて――。
「――決まってんだろうが、お前の家に行くからだよ」
……ぎちり、と。心臓が裏返る。鼓動がその間隔を狭め、息苦しい。
「……どうして、そうなるのかな。できれば説明して欲しいんだけど」
本当ならば何も聞かずに拒否の意を叩きつけたかった。けれど僕の被っている仮面はそれを善としないのだ。
あくまでも柔らかく、角の立つ事のない様に応対しなければいけない。
「いやさ、お前今日電話に出なかったじゃん」
「……うん、確かにそうだけど、それが何か……」
「お前二人暮らしだろ。何で誰も出ねぇんだってオヤジに聞いてみたんだよ」
そしたらさ、ビックリしちゃったよ。山原はそう言い捨て、一度言葉を切った。
早鐘を打つ心臓が、虫の声と合わさってとても煩い。外と中から鼓膜が揺らされ、頭の中がぐちゃぐちゃに掻き回されている。
そして、彼はそんな僕を楽しそうに見つめながら――言った。
「――お前んちのババァ、死んだんだって?」
「――――ッ」
……握り締めた拳が、湿った音を立てた。
「知らなかったよ。お前全然俺に教えてくれなかったもんなぁ。葬式にも呼んでくれなかったとか、どんだけ嫌ってんだよっていう」
「…………」
「まぁ俺もあのババァはウザかったし、別に良かったんだけどな? でもなー、割とショックだよなぁー?」
「……っ……」
「だからさァ、『お友達』として是非とも拝むくらいはしたいんだよなァ」
いやらしい笑みを浮かべながら、彼はそう締めくくった。
僕にとって一番大切な存在だったお婆ちゃんの事を、僕にとって一番唾棄すべき存在である山原が語る。その悪夢のような事柄に、胸の粘付きが音を立てて煮立ち、取り繕った仮面に大きなヒビを入れていく。
「……そ、うだね。お参りくらいなら、別に」
「そうそう、んでお供え物もちゃんと買ってあるんだぜ。なぁ?」
「ん? おお、これな」
山原に話を振られた井川が、バッグの中から何かを取り出した。
……何か、白い粉末の入ったビニール袋。それを見た瞬間、思考が止まった。
「山、原……?」
「クン、を忘れてるぜ。いい子ちゃーん」
彼は少し興奮気味に、そして誇らしげにぴらぴらとビニールを振る。その何ら罪悪感を感じさせない仕草に、手帳の物以上のとてつもない嫌悪が湧き上がった。
「お裾分けだ。これお供えすれば、お前のババァも元気になるんじゃね?」
「ラリって生き返るかもな、はっは」
ゲラゲラ、と。二人は下品な笑に笑いながら、不謹慎な冗談で盛り上がる。
救いようのない屑だ。激情を堪え唇を噛み、噛み切った。
「……そういう、の、良くないんじゃ、ないかな」
「あ? せっかくお前のババァの為に大金叩いたんだ、好意を無にすんなよ」
「……それは……でも」
「へぇ、優等生君がそんな意地悪をね。こりゃ草葉の陰でババァ泣いてるなぁ」
「っ…………」
その汚い雑音を垂れ流す口にペンを突っ込んで、脳みそを犯してやりたかった。
僕の黒い粘つきを。感じる負の感情の全てを直接コイツに刻み込めたなら、どんなに素晴らしい事だろう。
「ほーら、いいから早く歩けよ。日が暮れちまう」
「…………」
……嫌だ、こんなクズをお婆ちゃんの下に連れて行きたくなんてない。
「なぁ浩史、この眼鏡の家って他に誰か居ねぇの?」
「あ? あー、今は一人暮らしなんじゃね」
「へぇ、じゃああれだな。溜まり場に使えんな」
嫌だ。こいつらを家になんて上げたくない。沢山の思い出が詰まった、お婆ちゃんと僕の家。そこに残ったたった一人の家族の匂いを、ヘドロの悪臭で上書きなんてしたくない。
もう、止めてくれ。口を開くな、これ以上雑音を聞きたくない。
「――あ。いい事思いついた」
止めろ、止めて。頼むから、もう――。
「せっかくだからさ、これ遺灰に混ぜてやろうぜ。その方が絶対効く――」
「――――やめろッ!!」
頭の血管がぶち切れ、我慢の限界を超えた。
力の限り仮面を投げ捨て、山原の背に握り締めた拳を思いっきり叩き込む。
「っぐぉ……!?」
僕はその隙を見逃さずその腕を掴み、地面に倒そうと力の限り引っ張った。
肉を抉る様に爪を立て、何時もは殆ど使わない筋肉を酷使して。目の前に居る害悪に向かって、今まで抑えていた悪感情を叩きつける。
「お前らみたいなクズが、クズが……ッ!!」
「チッ……ってェな!!」
だが、やはり足りない。山原はよろめく事すら無く、大きく腕をなぎ払う。
僕の貧弱な体はその勢いに逆えず、彼の目の前へと飛び込み――そして、衝撃。骨ばった脛が、脇腹深くにめり込んだ。
「ごっ!?」
ミチリ、ミチリ。内蔵が押し潰されたか様な圧迫感が身を襲う。
そのまま蹴り飛ばされ、塀に衝突。夕暮れの空に眼鏡が舞い、ぶつかった左肩が嫌な音を立てた。
「ぁか、ひゅっ……」
「は、へ、へへっ。そうだよ、それで良いんだよ……!」
壁伝いにずるずると崩れ落ち、横たわる。痛みと衝撃で途絶えた呼吸を呼び戻そうと必死に肺を震わせる僕を見下ろし、山原は愉快そうに笑い声を上げた。
そんなに僕の苦しむ姿が愉快か。動けないまま、充血まみれの眼球からこれ以上無い程の殺意を向けてやる。
しかし彼はそれを嬉しそうに受け止め、一層深く笑みを浮かべた。
「気に入らねぇなら言えばいいんだ、なのにいっつも隠しやがって」
「は……っ、何を――――ぐぁッ」
「ほら! クズが何だって? もっと言ってみろよ、オイ!」
山原は意味不明の文句を怒鳴りながら、僕に追撃を加えた。踏みつけ、蹴り飛ばし。いつもの比ではない暴力の嵐が吹き荒れる。
何度も、何度も、何度も。
体中を荒れ狂う痛みに意識が遠のきかけ、亀のように丸まって耐え忍ぶ。食いしばった歯が口内で歪み、耳障りな音を奏でた。
「嘘つき野郎が! 言えよほら、早く!!」
「ぅ……ぁぐ……」
「……おい浩史、もういいだろ。行こうぜ」
そうやってしばらく蹴りの雨に耐えていると、井川がそう切り出してきた。
「うっせぇ、黙ってろピザ。今良い所……」
「馬鹿、動けなくなった後、これどうすんだよ。深夜じゃないんだ、放置するにしろ持ってくにしろ誰かに見られるぜ」
「…………チッ」
山原は口出ししてきた井川に鋭い視線を向けた後、大きく舌打ち。僕を踏みつけていた汚い足を退かし、最後に一発蹴り飛ばしてから背を向ける。歩く先はやはり。僕の家がある方角だ。
行かせまいと妨害に立ち上がろうとするけど、体が思うように動かない。
そんな僕の様子が分かったのか、山原は振り返らずに手を振り、嘲笑した。
「――それじゃ、先行くから。早く来いよ」
お前が来る頃には、お家はどんな風になってるかな――。
最後にそう吐き捨てて歩き去る。眼鏡が外れ朧気な視線の先で、二つの影が揺れていた。
(……穢、される。大切な物が、暖かい、記憶が……)
それは絶対に止めなければならない。なのに、身体がまともに動かない。
痛みが酷い。指先を伸ばす事すらままならず、ただ無様に地面をひっかくだけ。
「……そ、クソがッ!!」
気付けば、熱を持った雫が頬を伝い落ちていた。
悔しかった。憎かった。何故良い子である筈の僕がこんな目に遭う。
そんな理不尽は無いだろう。淘汰されるべきは奴らだ、決して僕であっていい筈がない!
「……お婆、ちゃん……」
耐え難い憤りと屈辱に心の中が黒い粘液で溢れ、力を入れ続けた爪が割れた。
縦に入った割れ目から血が溢れ出し、指先を赤く塗らす――心が、折れ曲がる。
「くそぉ……!」
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。負けたくない、折れたくない! 折れたら全部に意味がなくなる!
今まで培ってきた反発心をかき集め、体を持ち上げ近くの壁にもたれ掛かった。
(……何か、無いのか。山原を止める方法はッ……!)
罵声を浴びせる、無理を押して突撃する。単純な方法なら幾らでも浮かんでくるが、それではダメだ。
だからこそ嘆き、焦りが空転を続けている。
何か無いか、どうにもならないのか。何か、何か、何か、何か、何か―――。
「……っ……!!」
――脳裏に、赤い手帳の姿が浮かんだ。
そうして重い瞼を無理矢理こじ開けた先、視界の端に文字を見た。
それは一部が欠けた「界」の文字。異界の扉を開くための、未だ揃わぬ鍵の欠片。
「ぐ、そっ……!」
何だっていい。少しでも可能性があるのなら、どんな物でも縋りたかった。
足りない一角を描く為のインクは既にある。割れた爪から溢れ出る、どろりと濁った血液だ。
「どこ、か。どこかに……!」
痛みに耐え、壁を伝い文字の下へとナメクジのように這い寄って。
怒りと憎しみを指先の粘性へと封入し。歯をこれでもかと食いしばる。
死んでしまえ、居なくなれ、不幸になれ。胸中に溢れるドス黒い激情のまま、文字の欠けている一画目の根元に指を合わせ。
「――消えて、しまえ……ッ!!」
――ぱきん、と。
力を込めた爪が更に亀裂を深めた音を聞きながら――――赤黒い火花と共に、引き摺った。
■
「……あん?」
自らの背筋を撫で上げたその感覚に、山原は怪訝な声を上げた。
「どうした?」
「ん、いや……」
特に、何が変わった訳でも無い。
先程まであった日は既に沈み、周囲を照らす物は月明かりをおいて他には無く。道を囲む木々の葉が風に揺られ風情のある音を立てる。
この辺りの住宅街に住む者なら、幼少より既に見慣れた情景だ。
……しかし、何か妙な違和感が付き纏う。よく見知っている場所である筈なのに、全く知らない場所に居るような。得体の知れない感覚だ。
「……早く行くぞ」
「あ、おい」
隣を歩く井川を置いて、歩く速度を上げる。
先程までの気分の良さは既に無かった。あるのはただ、妙な気持ち悪さだけ。
「チッ……」
せっかく長い時間をかけていた目的を達成できたというのに、その余韻を長く味わえなかった事に腹が立つ。
何故こんなにも不快な気分になっている。疑問が過ぎるが、すぐに放棄する。
頭を使い過ぎてダメになった少年を近くで見続けてきた彼は、何時しか深く思考する事を止めていた。
「まぁいいさ、時間は幾らでもある。まずはあいつの家に居座ってから――」
「……や、山原」
口内で先の予定を転がしていると、押し殺した井川の声が投げかけられる。
苛立ちつつ振り向いてみれば、井川は贅肉で膨れた体を縮めるようにして前方を指差していた。再び視線を戻し、指し示された道の先を見る。
「あぁ?」
暗闇に景色が溶け込む一歩手前。
山原達より少し離れた場所に、何時の間にか一人の影が立っていた。
「…………」
先程の暴力行為を見られたか――山原の心臓が緊張に軋むが、それも無視。いざとなったら脅しつければ済む事だ。
何故か怖がっている様子の井川の腹を軽く叩き、敢えて男を睨みつけながら大股で歩き出す。
「……何だアイツ」
しかし、その影は動じない。ただその場に棒立ちになり、こちらをじっと見つめ続けている。
よく見れは、丸眼鏡をかけた細身の男のようだった。まるで陸揚げされた魚の如く、一定の間隔で上半身を痙攣させている。
山原が男へ向けていた視線が、奇妙な物を見る目に変わった。
(……頭のおかしい奴か?)
触らぬ神に祟りなし。そう結論付けた彼は歩くスピードを更に早めようとして――背後から力強く服の裾を引かれ、たたらを踏んだ。
「……おぉい、ピザ川ァ」
先程から妙にしおらしい井川に、山原は青筋を浮かべた。
女性ならともかく、肥満体型の汗臭い男に頼られても嬉しくも何ともない。
「デブが何ビビってんだよ、あんな男ただの……」
「ち、違う、そうじゃない。いや、それもだけど、向こう、あれ、あれ……!」
井川は強く指を突き出し、男の立っている場所より更に遠方を指し示す。
その尋常ではない剣幕に気圧され、山原は反射的に男の背後へ視線を向けた。
しかし、そこには闇が広がるだけ。視認出来る物は何一つとして有りはしない。
「……んだよ、何が言いたいんだ」
「は!? おい、冗談言うなよ! 見えるだろ、あんな沢山の黒い腕――んぶ」
突然、くぐもった音を立てて言葉が止まる。それはガムを噛む時の物によく似た、粘着質な音だ。
「おい、どうし……、…………」
不審に思った山原は何気なく振り返り、すぐに言葉を失った。
――井川の顔が、溶けていた。
「む、んぶ、ぐ……ッ!?」
比喩ではない。口元から頬の辺りにかけて、顔の下半分が溶け出していたのだ。
肌が、唇が、歯が、肉が、血が。温められたチョコレートのように溶け合い、混ざり合い。ピンク色の鮮やかな粘液へと変わり、むせ返る程に濃い肉の匂いを放っていた。
その痕は見様によっては手形にも見え、視認できない何者かに顔を掴まれていると錯覚する。
「ぐ……んッ……!?」
既に口腔は溶接され、助けの声どころか空気や唾液すらも体外に排出できない。
その醜悪な光景を至近距離で目撃した山原は呆然とし、本能が警告するままに後退る。
「ん……! ぐ、むゥッ!」
唐突に井川の頭が前方へ引っ張られ、ゴキリと鈍い音が脊椎の辺りから響いた。
そして彼の巨体は道の先、不審な男が立っている場所の向こう側へと引きずられていく。
その勢いは凄まじく、地面を鑢として彼の体を削るのだ――血飛沫と、共に。
「んー! ぅんん!! んんんんッ……!」
地面に手を突いても勢いは止まらず。それどころか指が折れ曲がり、肉が削げ落ちる激痛に絶叫する。しかしそれらも言葉に成る事は無く、雑音として撒き散らされた。
全てが無意味。必死の抵抗も虚しく、井川は赤い筋だけを残し暗闇の中へと飲み込まれ。
そうして先程と同じ、粘着質な音が辺りに残響し――やがて、止まった。
「……おい、おい?」
痛い程の静寂。頭が働かないまま、何時の間にか近寄っていた男が視界に映る。
「――ひ、あ?」
――化物だった。
眼孔、鼻腔、口腔、耳穴。
顔に存在する全ての穴から濁った黒い粘液を垂れ流す、人の形をした、人ではない何か。
決して存在してはいけない筈のそれが、まるで自分達を誘うかの様に手を差し向けていた。
「ひ、ぃッ……!」
事ここに至り、山原は恐怖した。
全身の毛穴から吹き出た冷汗がシャツを濡らし、頭の先から血が抜けていく。
そうして人生最大の警鐘を鳴らす生存本能に従い、咄嗟に踵を返し走り出す。
「あ、っぐ!」
しかし、失敗。踏み出した足が固定されているかの様に動かず、倒れこんだ。
見れば足首が人の手の形にへこみ、万力の様な力強さで締め上げられている。
「――うわああああ! ああああああ! ああああッ!」
徐々に溶け落ちていく衣服に井川の最期を重ね合わせ、絶叫。
見えざる手は更に力を増し、山原の体を引き摺った。白い粉の入った小袋が――幼馴染を発奮させる為に作った単なる塩の塊が、ポケットから零れた。
「あ、ああああ! な、何なんだよ! 離せ、クソがッ! やっと、俺はっ!」
地に立てた爪が折れ、赤い筋を作り出し。生への執着をアスファルトに刻む。
しかしそれが決して叶わないであろう事を、彼は絶望の中で察してしまった。
「こ、これからなんだよォ! やっと、やっと引っ張り出せ……ん、ぐぁッ!」
山原が口にしようとした、未来への展望。それら全てを化物の身体が押し潰し。
「あああああああああ! あァァああああああああッ!」
痛みも熱さも無い。ただ、己の身体が溶け落ちる感覚だけが鮮明に感じられた。
服と皮膚が、肉と骨が、血と内蔵が。全て一つに混ざり合い。千切られ、持っていかれる。
――少しずつ、人としての形を失っていく感覚に、山原の精神は擦り切れた。
「あああああああああああああああああああああああああああああああッ!」
獣の様な叫びを上げ、がむしゃらに身体を振り回し。徐々に輪郭を失っていく景色に臆面もなく泣き喚きながら、必死に手を伸ばす。
その向かう先は、これまで何度も虐げてきた幼馴染みの居る方角だった。
「たす、けて、助けて……!! お願い、死にたくない……!!」
一縷の希望を目に湛え、掠れる声で助けを求める。
それは二つの意味で決して届かない物であるにも関わらず、何度も、何度も。
彼は既に人の形を失っていた。肉が溶け、骨が露出し、意識すらも覚束ない。
そうして固形と液体の中間の物質となり、暗闇の中へと誘われていくのだ。
「……ろ……く……、……」
最期に放ったその言葉すらも最後まで紡がれず。
思考も、人としての機能も全て失い、単なる人だったものと成り下がり。
――粘着質な音が、一つ。彼の全てが、それで終わった。
■
そこで何が起こっていたのか、その時の僕には分からなかった。
「…………」
完全に日の落ちた真っ暗な小路の端。
一歩先すら見通せないその場所で、僕はその声を、悲痛な叫びを聞いていた。
「……山原?」
壁に手を付き立ち上がり。戸惑いながも奴の名を呼ぶ。返事は無い。
「……山原! おい!」
先程よりも力強く名を叫んだ。
道の先に目を凝らし、そこに居る筈の彼らを探す。しかし視力の問題とは別に、靄のように闇が蠢き委細の視認を阻む。
まるで――そう、そこから先は別の世界だとでも言うように。
「聞いてるのか山原! 山原く――ぅあっ!?」
一瞬、何者かに右足を掴み上げられるような感覚があり、倒れかける。
咄嗟に壁へ縋り、地面にヘディングする事は避けられたものの、より深く爪が割れ、引きずられた血が「界」の字を縦断してしまった。同時に、掴んでいた力も消える。
右足を見ると、いつの間にかズボンの右裾が溶けたかのようにボロボロに解れていて――って、違う、今はどうだっていいんだ、そんなの。
「山原! おい、クズ原! 浩史ぃ! コウくーん! ハハ、おーい!!」
痛む体を引きずり歩き回りつつ、罵倒や昔呼んでいた渾名を投げかける。
しかし、やはり反応はゼロ。徐々に心が昂ぶり始め、笑い声が漏れた。
(あいつのだった。絶叫は、命乞いは、あいつらの……!)
井川はともかく、彼に関しては断言できる。そうだ、彼らは確かにここに居て、無様な悲鳴をあげていた。
「はは、嘘。や、まだ、待て……待て待て待て待て……!!」
いや、逃げただけという可能性もある。
僕は急いで地面を探り眼鏡を拾い上げると、宵闇の中で一層映えていた暗赤色を引っ掴み、手荒く中身を開き問いかける。
「い、いま! 何が起こった、山原達はどうなったんだ? おい、おいッ!」
『――――が、――――満――で、再――――ま――た』
けれどやはり光が無いのは如何ともし難い。淡い月光は木々に遮られこちらまで届かず、浮かび上がる文字を上手く読む事が出来なかった。
僕は逸る心を抑えきれず、明かりを求めて這いずり回り――見た、見えた。
僕の筆跡を真似た書体でしっかりと書かれた、その文章……!
『――言霊、異小路。八度目の再現を確認。貴方に暴行を加えていた人物ならば、異小路の再現時に、異界へと誘われた事を確認しています――』
――機械的で、無機質で、無慈悲な文。
その意味を理解した瞬間、僕は十五年の人生の中で一番の歓声を上げていた。