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【私立羽車学院高等部 事務長 安中弥生】
……若風先生からその名刺を差し出されたのは、図書館に籠もり続けた末、碌な手がかりもなく迎えた金曜日の事だった。
「私の母校と……学生時代の恩人だ。長く学校に居て、半ばカウンセラーのような事もやっている人だから、きっと色々な話を知っているだろう」
そう語る先生の瞳は暖かい物だったが、表情としては苦渋に満ち満ちていた。
矛盾とも言えるそれに僕は大きな疑問を持ったけど、無遠慮に尋ねる程人間関係を捨てているつもりは無い。
結果として僕は感謝と共に名刺を受け取らざるを得ず、またその弥生さんとやらの下へ尋ねる新たな義務を負ってしまった訳である。あーあである。
『そんなにヤなら止めりゃ良い……ってのは、今更かね』
そしてその翌日の土曜日。トボトボと街中を歩く僕に、花子さんが肩を竦めた。
当然ながら歩く先は私立羽車学院以外に無い。牛歩の上に鈍と重を上乗せした足運びだ。
「……止められる訳無いでしょ。よく知らないけど、先生が何か無理をして当たってくれた伝手ですよ。ここで知らんぷりしたら、僕は優等生を名乗れない」
『その肩書。こだわるねぇ、アンタは』
「むしろそうで無い僕に何の価値があるんですかね。品行方正である事を止めたらただの性悪クソガキに成り下がりますよ僕は」
『自覚してんのかい』
うるせぇ。
「……くそ、そもそも何で今更こんな場所に……」
『は?』
思わず漏れたその愚痴に花子さんが疑問の目を向けるが、敢えて無視をする。
そう、僕が嫌がっているのは面倒事その物ではない。今から行く場所、その土地自体に原因の大半があった。
「…………」
それから十数分。花子さんから逃げるように無言のまま歩き続けていると、街中にあって一際大きな建造物が目に入る。
広大な土地、それを囲む高い壁、そして並列したトラック数台分の長大な正門。
――私立、羽車学院。そこはかつて、山原が数日だけの高校生活を謳歌していた場所だった。
「――ああ、君が連絡のあった子かい? 昔の話が聞きたいんだってね」
学院内、通された第一校舎の職員室。
来客担当らしきその男性教師は、にこやかな様子で僕を見る。
その目に疑いの色は微塵も無く、むしろ好青年を見る色合いだ。僕は努めて爽やかな笑みを作り、深々と頭を下げる。
「今日は休日にもかかわらず、校内への立入許可を頂きありがとうございます。今回は戦後間もない告呂における民間の風説について、長く事務長を務めていらっしゃるという安中さんにお話を伺いたく――」
などなど斯く斯く然々云々かんぬん。それっぽい単語を並べ、真面目くさった態度を意識し自己紹介と目的説明を行った。
『……アンタさぁ、詐欺の才能あるよね。結構本気で』
うるっせぇ。
人が気にしている事をからかい混じりにつっつく花子さんを睨みつければ、彼女はおぉ怖い怖いと引き下がる。ほとほとムカつく幽霊である。
「若いのに随分と勉強熱心なんだなぁ。分かった、じゃあちょっと待っててな。すぐに準備させて貰うから」
「あ……はい、わざわざありがとうございます」
男性教師は勉学熱心(を装った)僕に気を良くしたようで、朗らかな笑みを浮かべた。その丁寧な対応に心が痛むが、ここまで来たらもう引き返せない。
僕はにこやかな表情とは裏腹に、心中で謝罪の意を込めた礼を一つ。職員室に備え付けられた電話に向かっていく男性教師を見送った。
(……山原の居た、学校か)
奴もこの職員室に来た事があるのだろうか。
正直、こんな所には絶対に来たく無かった。
当たり前だ、何が嬉しくて大嫌いな――それも自分が殺した奴の生きた痕跡を見に来なければならない。距離と時間を置くつもりが逆に近づいてるじゃないか。
腹の底で黒い物が煮立ち、奥歯の裏で何か苦いものを噛み締める。
『……っていうか、花子さんは見覚えないんですか。この場所』
『あ? あー……いや、特に引っかかるものは無いかな。今んトコ』
気を紛らわせようと傍らの幽霊にめいこさんを掲げれば、返ってきたのは最早聞き飽きた気のない言葉。一体何処なら心当たりがあるんだ。
と、そうしている内に男性教師が戻って来た。手帳を仕舞い、笑顔を被る。
「待たせたね。今担当の者と話をして大丈夫だって事だから、これから別棟の事務室で取材する事になると思うけど、それでいいかな?」
「はい、特に問題はありません。別棟というのは?」
「実習室とかが集まってる場所でね、ここからだと……あ、見えないか」
教師は窓に目を向けると、そこに繁る木々の葉を見て軽く眉を寄せる。
「……そうだな。案内するから、ちょっと待ってて」
「あ、いえ。場所だけ教えてくれれば、後は自分で……」
某かの仕事中だったらしく、机のパソコンの中断作業を始めた彼にそう申し出た――丁度その時、ガラリと職員室の扉が空いた。
「失礼しまーっす。自動車整備科からの荷物なんすけどー」
咄嗟に目を向けてみれば、橙色のツナギを着た大柄な男が、山の様に重なったダンボール箱を抱えて入室して来た所だった。
……いや。長身で引き締まった身体をしてるが、少年だ。抱えたダンボール箱の影になっているのか、どうやら僕の存在には気付いていないらしい。
「ん、ああ、そうだな……とりあえずこっち持ってきてくれ」
「うっす」
そうして男子生徒は教師の指示に従い近くの机に荷物を置き――そこで初めて顔を上げ、僕と視線が交差した。
「……?」
既視感。どこかで見た事のあるような自信なさげなヘタレた顔と、どこかで見た事のあるような金の髪。
脳のシワの奥底に埋没していた記憶が浮上し始め、彼の存在に色を付けていく。そうだ、僕はこの少年と会った事がある、気がする。んだけれど。
向こうも僕の顔を見て、何やら引っかかるような表情を浮かべている。
誰だったかなぁ。そう考え込んでいると、男性教師が少年へと声をかけた。
「丁度良かった。お前、彼を事務室まで案内してやってくれないか?」
「……え、いや。は?」
「!」
カチリ、と。聞き覚えのある戸惑いの声が記憶をひっかき、忘れていた記憶が眼前へと広がった。そうだ、彼は確か。
「――あの、例の日。山原達と一緒に居た金髪……?」
「っ、やっぱお前あん時のメガネかよ……!」
男子生徒――嘗て山原達からリョウだかリュウだか呼ばれていた筈の少年は、僕の漏らした声に反応し、思いっきり顔を歪めた。
羽車学院は、幼稚園から大学部までが一つの敷地に詰め込まれている、日本でも有数の巨大私立学校だ。
在籍する生徒数は高等部だけでも四千名を超え、それに合わせて敷地も広く、キッチリと整備されている。
モザイク状のレンガ道に、その両脇に植えられた桜並木。学校内とは思えない程に風情があり、どこかの観光名所と勘違いする事もあるかもしれない。
で、そんな綺麗な景色を見ながら、別棟までの案内を命じられたリョウ君に連れられている僕といえば。
「………………………………」
「………………………………」
『……ねぇ、この空気どうにかなんないの? ほれ、言霊とやらで何かしてさ』
『非。そのような機能は本書にありません、無いのです、であります。はい』
歩く桜並木の華やかさとは裏腹に気まずい空気を撒き散らし、美しい風景を台無しにしていた。
まぁ、致し方無い事ではある。僕は彼から暴力は受けていないが、目の前で起こったそれを傍観されたのだ。敵意は無いとはいえ、好意的にも見られない。
もう少し強く一人で行くと主張すればよかった。知り合いならば話が早い――そう笑った男性教師を、心の中でけたぐり回す。
「……まぁ、何だ。この前は、さ。悪かった」
先に踏み込んできたのはリョウ君の方だった。顔を半分こちら向け、決まり悪げに謝罪の言葉を口にする。
「いや、でも俺あいつらの事とか、お前らの関係とかよく知らなくてさ。そんで、その……どう動けばいいか分かんなかったつーか……分かるだろ、なぁ?」
そうして後頭部を乱暴に掻きながら、言い訳らしきものを呟いて来る。
後ろに浮かぶ幽霊は『何か男らしくないねぇ』と呆れた目をしているが、まぁ彼の言い分も分からなくは無かった。
突然殴り倒されたにも関わらず「友達だ」と言い切り笑った僕。何も知らない人から見れば、仲良しのじゃれ合いと勘違いされても不思議では無いのだ。
(せめて山原達のリンチくらいは止めてくれても……いや、もう良いや。終わった事だ、色々)
僕は溜息を一つ吐き、もう気にしていないとグダグダと続く言い訳を止めた。
それで気まずい無言が続くのも嫌なので、そのまま会話を継続させる。
「……えー、リョウさんでしたっけ。山原達とは友達だったんですか?」
「リュウな、桜田竜之進。まぁ山原達とはそこまで深く付き合ってた訳じゃ無くて……つか敬語やめようぜ。多分タメだろ、俺ら」
リョウ君改めリュウ君はそう言って、着ている橙色のツナギを引っ張る。
聞けばツナギは学年ごとに色分けされており、今年は橙が一年の色らしい。
……この身長とガタイで僕と同い年かよ。世の不条理を垣間見る。
「……んで山原だけど、俺あいつとは学科も違かったし仲良くも無いんだよ」
「……? でも彼は君の事友達って言ってた気がしたけど」
「ちげーよ。最初の身体検査で引っかかった時に同じ教室で説教受けてさ、そのままズルズルと引っ張り回されてたんだ」
また言い訳かとも思ったけれど、彼の嫌そうな表情を見る限り本心のようだ。
大方、ガタイに似合わないヘタレた雰囲気に付け込まれたのだろう。
「この髪、染めてねぇっつってんのに信じてくれなくてさぁ。やんなるぜ本当」
しかしまぁ、何と言うか。金髪で不良っぽいけど、別に悪い奴では無いらしい。
それ所か山原を嫌っていた者同士、親近感すら湧いてきた気がする。僕は少し歩み寄り、彼の愚痴に乗ってやる事にした。
「……もしかして、それ地毛なの?」
「ああ、爺ちゃんがイギリス系でさぁ、多分そっからじゃねぇかって――」
後は流れに逆らわず、桜の花咲く道を行く。
そこには先程までの重苦しい雰囲気は欠片も無い。
ただ学生が二人、その桜の群れに無駄話の花を添えているだけだった。
「んじゃ、事務室はこの校舎の一階左にあるから。まぁすぐに分かるだろ」
「うん、案内どうも。助かったよ」
そうして何だかんだと雑談を続け、辿り着いたのは事務室のある校舎前。
予想よりも結構歩いたものだ。僕の学校より余程広く、ほんの少し嫉妬する。
「……なぁ、お前今ケータイ持ってっか?」
そして大きな校舎を眺めていると、リュウ君がそんな事を言い出してきた。
振り向けばポケットから携帯電話を取り出し、ぷらぷらと振っている。
「いや、悪いけど僕はまだそういうの……っていうか、機械類全般苦手で……」
「マジで? 化石かよお前」
彼は珍しいものを見たかのような(実際見たのだろう、僕を)顔をすると、今度はメモ帳とペンを取り出し何事かを記し始めた。
そしてすぐにページを破り取り、照れの混じった表情で押し付けてくる。
「電話番号。あん時見捨てた侘びって事で、何かあったら……まぁ、言え」
「……はは、じゃあパソコンとか買う時に相談に乗ってもらおうかな」
キャラに似合わぬ男らしい部分に驚いたが、断る理由も無いので素直に受け取っておく。
機械に弱いのは本当の事なので、いつか連絡する日も来るかもしれない。
「それじゃな」
「うん、また縁があったら」
そしてその挨拶を最後に、僕達は別れた。何でも彼はこれから休日特別授業があるそうで、その準備を手伝う途中だったらしい。
何となく清々しい気分で、徐々に小さくなるその背を見送った。
『……ふぅん?』
「っ」
はた、と我に返り。恐る恐る右眼を回してみれば、花子さんがこちらを見つめニヤニヤと笑っていた。意地の悪さが透けて見える。
「な、何です。何か問題でも?」
『いや、良かったね。って』
彼女はそう言って、僕の頭を柔らかく撫でる。当然その手は僕の頭を透過するが――何だろう、彼女が僕に触れられない幽霊である事を、酷く残念に思った。
(……は? いや、何でよ)
頭がおかしい。大きく一歩踏み出し、無理矢理彼女の手から距離を取る。
『なァめいこ。万が一に備えてその番号をちゃんと覚えときなよ。ものすーっごく大切なものだからねぇ』
『了解、であります。確かに、しっかり、それはもう、ものすーっごく、記録いたしました』
「……何なんだあんたら、くそ……!」
恥ずかしいやら居た堪れないやら。
僕はめいこさんにメモを挟み込むと、早足で校舎の中へと突撃して行った。
*
「どうもこんにちは。この学校で事務員をしている弥生と申します」
そうして会った弥生さんは、六十代始めくらいの上品な印象のある女性だった。
……こんな良い人そうなお婆ちゃんを騙そうというのか、僕は。ものすんげぇ罪悪感が押し寄せ、大きく胃袋が捻じくれる
「どうも、本日は羽車学院の卒業生である若風涼子先生の紹介で伺いました。取材に応じて頂き、ありがとうございます」
しかしその感情は心の奥に封じ込め、表面上は爽やかに自己紹介。
こんな心苦しい事はさっさと終わらせてしまおう。事務室に用意されたパイプ椅子に腰を下ろし、ペンとめいこさんを握り締め、取材のポーズを取った。
「はい、よろしくお願いします。それで、今日な何を聞きたいのかしら。涼子ちゃんからは、昔の色々な話をしてあげてって聞いているけれど……」
「はい。実は僕、告呂の歴史を調べるのが趣味でして――」
若風先生に吐いた物と同じ嘘を舌に乗せ、淀み無く説明する。
「へぇ、それは凄い。お若いのに向学心がおありで、大変立派だと思いますよ」
「ははは、いえそんな。僕はただ自分が知りたいだけでして……(ズキズキ)」
照れる振りをする傍ら、心中で何を思うのか。擬音で察して頂きたい。
「それで、今は近代の噂や怪談……つまり風説・風評について調べていまして。当時の学生達の間で流行っていた話題みたいな事をを聞かせて頂けたら、と」
「確かに昔から生徒さんと良くお話してきたから、それなりに話す事もあると思うけど……それでいいの?」
「はい、噂からは当時の流行や好まれていた話題の傾向を伺う事が出来ますし、怪談は実際にあった事件に通じている場合もあります。他の情報と合わせれば、その話に至った背景を考察する事も可能かもしれませんから」
『アンタの舌ってどうなってんだい』
少なくとも根本に二枚目が隠れているなんて事は無い。断じて。
しかし弥生さんは信じてくれたようで、感心したような表情だ。
「そういう物なのねぇ。でも、いつ頃の事から話そうかしら。私も長い事ここに居るから、何から話せば良いのか分からないけれど……そうね、まずは――」
……弥生さんのお話は、取材云々を抜きにしてもとても面白い物だった。
バブル期に流行った無駄にスケールの大きい噂話、明らかに何かドラマの影響を受けている都市伝説、一年ごとに細部の変わる学校の怪談……。
若風先生の言う通り、様々な話が流れるように出てくる。めいこさんが会話を記録してくれなければ、とてもじゃないが覚えきれなかっただろう。
(……でも、ちょっと、まずいかな)
しかし、どれだけ聞いても主目的である花子さんに繋がるような話が出て来ない。さりげなく話題を誘導もしてみたものの、反応は梨の礫。
このままでは、約束していた取材時間を越えてしまう。
「……そういえば、あなたは涼子ちゃんの教え子なんですってね。彼女、立派にしているかしら?」
「っあ、はい。何時も僕らの事を気にかけてくれて、凄く頼りにしています」
そんな折、僕にこの学校を紹介した若風先生の事へと話題が転がった。
さて、これ好機と取るべきか否か。チラリと花子さんを見やり、逡巡し――。
「そう……それなら良かったわ、本当に……」
「……?」
何故か心の底から安堵する様子を見せる弥生さんに引っ掛かりを覚えたが――そこで思考を止めた。
今まで何人もの顔色を伺ってきた僕の脳が、これ以上は踏み込んではいけない領域であると直感したのだ。
「あの子、昔から苦労人だったから。それが報われて良かった、本当に……」
しかしその配慮を無視するように、弥生さんは懐かしむ目で回顧を始める。
「あの子がまだ転校してきたばかりの頃は凄かったんだから。周りの人達皆に噛み付いて……書類整備での交流がなければ、私でも近づかなかったわねぇ」
転校してきた? という事は、若風先生は羽車学院の前に違う学校に居た?
それがどうした……と思わないでもなかったが、花子さんが先生に既視感を覚えながらも、羽車に関してはそれが無かった事を思い出す。
もしかしたら、その辺りに関わる可能性はある。相槌を打ち、先を促した。
「担任の先生やご家族ともあれだけ揉めてて、大人なんて信用しないって言ってたのに。今では立派な先生になって、あなたのような良い子に慕われて……」
ただでさえ糸のような目が更に細められ、どこか遠い場所を見る。
そして、その瞳には優しく暖かい光が灯り――ぽつり、唇を震わせた。
「――――」
――それは多分、僕にも聞かせるつもりは無かったんだと思う。現に僕はただの吐息だと思ったし、弥生さん自身の耳にも届かなかった筈だ。
けれど、この場にはもう二つだけ耳があった。人ではなく、生き物ですらない存在だったけれど――その内の片方の耳には、届いた。届いてしまった。
「…………」
手元のページに書き出されたその一文を見た時、どんな事を思ったのかは良くは覚えていない。
ただただ大きな申し訳なさと、総毛立つ感覚を得ていた事は心身が記憶している。
――あの妊娠事件、辛かったでしょうに。
……めいこさんのページの最後。ずらりと並ぶ今までの会話に付け加えるようにして、その一言は載っていて。
視界の端で、幽霊の首がぐりんとこちらに傾いた。
安中弥生:とても優しいお婆ちゃん事務員。多くの生徒から慕われている。
桜田竜之進:ヘタレの善人。手先が器用でイギリス人とのクォーターらしい。
2頁 捜索(上)にキャラのイメージ図を追加しました。場面想像の(略)