今回は懐かしのあの方(故人)が登場。恐らくコレで大体の時系列を察してもらえるはずです。
細かい設定の説明は次回にすると思うので悪しからず。
十月下旬。
神無月──神々が国を去ると語られているこの頃には、気温も段々と低下し始め、街に冬の到来を匂わせ始めている。今朝から止まずに降り続ける雨は、そんな季節の変わり目を一層冷ややかなものにしていた。
未だ手袋やマフラーが必要なほどではないが、ごった返したコンクリートの町並みの合間からふと空を見上げると、少し前まで煌々と地上を照らしていたはずの陽も傾きかけている。恐らく、本日の気温はこれからまだまだ下がるのだろう。
──ああ、面倒臭い。
こうやって音もなく厳冬はやってくるのか。
どうやらこれからも、住み辛い日々が始まりそうだ。
「……こりゃあ、もう一枚着てくるべきだった」
今朝家を出る前の俺を恨みながら、そう呟く。
しかし、そんな独り言に反応を示し、俺の目線の少し前をつかつかと歩いていた一人の少女──雪ノ下雪乃が、いつも通りの平坦かつ冷たい口調で口を開いた。
「あら、存外寒さに弱いのね。てっきり、目付きと一緒に温感神経も腐っているものだとばかり思っていたわ」
「……こちらには目もくれないで、事のついでのように毒を吐くな……。 耐寒性能に関して、真冬でもミニスカート履けるような
現に雪ノ下も、上層部から与えられた俺と同じ高校の指定ブレザーに身を包み、ミニスカートの裾をひらひらさせながら前を歩いているではないか。
そう言えば、彼女との付き合いはそれなりの歳月になりつつあるが、アカデミー以外で制服姿を見るのは、なんだか新鮮な気分だ。
顔良し。
スタイル良し。
成績良し。
一見して完璧美少女な雪ノ下だが、正直何を着ても様になるから悔しい。艶やかな黒髪も、元来の脚線美を引き立てる黒のニーハイも、見事に調和が取れている。
ただ一つ注文を付けるなら、胸部にイマイチ脂肪が足りないことなんだが──
「比企谷君。私、先ほどから全身を舐め回すような不快極まりない視線を感じるのだけれど、気のせいかしら?」
「……気のせいじゃないっすかね」
「そう、なら良かったわ。いくら私でも、好き好んで他人を抉りたくはないもの」
「え、ちょっと待って何を抉るの? 眼球? 俺の眼球ですか?」
何その猟奇的発想。
そしてどうなってんだお前の感覚器官。鋭敏とかそんなレベルを遥かに超越している気がするんですけど。
──あわや両の眼を持っていかれるところだったぜ。
「……あ、」
しばらく戦慄していた俺だったが、ふと周囲を見回して、ある事に気付いた。
夕闇に呑まれた薄汚い路地。大通りからは少し外れていて、人通りは先ほどから全く無い。遠巻きに車道の喧騒が聞こえるばかりの虚しい空間だ。
「………………その件については置いておいて、だ。雪ノ下」
俺の呼びかけに、雪ノ下はようやく足を止める。
「…何かしら、比企谷君」
くるりと踵を返して俺に向き直った雪ノ下の動きに、彼女の黒髪がふわりと宙を舞い、肩から掛けたギターケース──その中身が、重厚で篭った音を立てた。
まぁ、かく言う俺の肩からも、雪ノ下の藍色のものとは色違い──純黒のギターケースが提がっているんだが。
雪ノ下は、その整った人形さながらの美貌──すらりと高い鼻立ち、ぱっちりとした瞳、抜けるように白い肌に、訝しげな表情を浮かべ、俺の言葉の続きを静かに待っていた。
「……い、や、なんで方向音痴なお前が先頭を歩いていたのかって根本的な疑問と……」
まるで俺の中の被虐心──因みに俺はMではない、断じて──を突き動かすような、高圧的だが美しい雪ノ下の姿に思わず言葉を詰まらせ、ふわふわとした語調になってしまった。
もう見慣れているはずの顔なのに、未だ雪ノ下雪乃が如何に美しいのか、嫌というほど実感させられる瞬間というものがある。
しかし、本題はそこではない。
「つーかココだろ、報告書にあった店」
俺が顎で指し示した先。
数メートルの間隔で向き合う俺と雪ノ下の、ちょうど中間地点辺りの壁際に。
小さな軒並みがひしめく街並みの中でも、とびきり息を潜めているかのように、シックな店先と木製の扉があった。特別物覚えが良いわけでは無い俺だが、流石に地図と写真──店先の映像を事前に二、三度見ておけば、気付くことなど造作もない。
何せ相手は『彼等』と違って、手足を持ち動き回るわけでは無く。
ただの、古びたバーなのだから。
俺たちの二人一組捜査が始まって早二ヶ月、方向音痴癖はやはり健在か。──もう何回目っすか、雪ノ下サン。今朝も家を出る前に二人で確認したでしょう。
「………………………………。」
雪ノ下雪乃は、言わずと知れた完璧主義者である。俺としても、そんな彼女の在り方を肯定こそすれ、否定する気は更々ない。人生とは、自らを縛るあらゆる窮屈と折り合いをつけていかねばならないモノだ。その上で、信条や信念までも自分で選べないなんて、あまりにも酷な話ではないか。
故に、俺は雪ノ下に最低限の気配り──出来る限りさらっと、しれっと、全然気にしていないけどついでに言わせて貰うと──的な口ぶりを意識して、声をかけたつもりだった。
しかし、きっと今の俺の表情は彼女にとって、稀に見せる彼女の失敗に心底嬉しがっていたり、とびきりの侮蔑の意を浮かべているようにでも見えたのだろう。
雪ノ下は険しく眉をひそめたまま硬直したかと思うと、首から頭頂部にかけて、じわじわと肌を赤らめ始めた。
「……失敗は誰にでもある、と思うぞ」
「…………比企谷くん」
「……分かってる、誰にも言わねぇよ」
「……ならいいわ」
ふぃ、とそっぽを向いた雪ノ下の顔は、やはりほんのりと赤い。
最初のうちは滅多に見れない美少女の恥じらい顏に役得だとも思ったが、流石に毎度のこと迷子になられると、「なんでいっつも頑なに僕の前を歩くんだい?」とも聞きたくなる。(社会的に)殺されるから絶対聞かないが。
──まぁいい。
「そろそろ行くぞ雪ノ下……仕事だ」
緩んでしまった空気を締め直すために、俺は強い語調で雪ノ下に告げた。
これは幅広い分野で言えることだが、やはり雰囲気から来る油断は、時に大きく運命を狂わせることがある。
俺たちがこれから臨むのは正真正銘、『命のやり取り』なのだ。
雪ノ下も俺の言葉にはっとして、直ぐ冷静さを取り戻し、乱れた表情筋に両手でニ、三度ぱちぱちと気合を入れると──いつも通り、氷の女王がそこに舞い戻った。
「……言われなくても分かっているわよ、私は平気」
「そりゃあ良かった」
今は昔、有馬さんに初めて雪ノ下に引き合わされてから、互いに辟易し、啀み合い、足並みが揃わないことも多々あった。
未だ、俺たちの間に広がる心の距離について、正確なところは何も分からない。もしかしたら雪ノ下は、俺のことが本当に嫌いなのかもしれないし、俺自身彼女をどう思っているのか、それもよく分からない。
しかし、今は今。
もう昔とは違うのは確かだ。
スマートだったとは言えないが、曲がりなりにも二人で、俺たちは多くの『敵』を乗り越えてきた。
相棒として。
──『喰種捜査官』として。
今の彼女以上に信頼できる相手など、俺には他にいない。
「……ちなみに、これからの討伐数次第で家事当番延長ってのはどうだ?」
「あら、そんなこと言って平気なの? 負ける気がしないわね」
俺の減らず口に、雪ノ下もニヒルな微笑みで返してくる。
──まぁ。
恥ずかし過ぎて、本人の前では口が裂けても言えないんだけどな。
名も無いバーの扉は、特に何の変哲もなく、ついでに鍵もかかっていなかった。ノブを回し、ゆっくりと押し開くと、錆びた蝶番がギチギチと不快な音を立てる。途端に、古い建物特有の篭った空気が一斉になだれ込んできて、俺たちを呑み込んだ。
「……暗いし埃くせぇ」
すると雪ノ下は、嬉々とした表情で俺を見やった。
「あなたの好きそうな場所じゃない」
──このアマ。
さっきまでの俺の気持ちを返せ。
ふてぶてしい氷の女王に歯軋りしながらも、俺は扉の向こうに広がった仄暗い闇に目を凝らす。
──随分と長い廊下だ。日没前の赤い日光が入り口付近を照らしてくれているおかげで、床がチェス盤のような黒と白の市松模様、壁に立てかけられたおどろおどろしい油絵などが辛うじて見て取れる。
そして廊下の突き当たりからは、一際深い闇を穿つ様に、扉の下の隙間から漏れているのであろう一筋の光が見えた。
「……誰か居るわね」
「まだ喰種かは分からねえけどな」
「何にせよ制圧したら問題ないでしょう。私たちが正体を明かせば、直ぐに飛びかかってくるわよ」
「……思考回路が完全に脳筋のソレだぞ」
つかつかと黒いローファーを踏み鳴らし、雪ノ下が廊下を突き進んでいく。
強情かつ負けず嫌い──迷子に同じく、これもまた雪ノ下の弱点でもある。まぁ、そこを補って余りあるほど優秀だから、声を大にして言えないっつーこともあるんだが。
「……ったく」
早足の雪ノ下を追って、俺も廊下を歩く。墨のように濃い闇の中で距離感を失い、やがて何メートル進んだかも分からなくなったが、ようやく彼女の肩に手が届いた時、どかっという轟音と共に目の前の闇が弾け飛んで、眩い光がそこから一斉に溢れ出した。
思わず俺は目を細めたが──明順応が終わった頃、それが雪ノ下の蹴りによって扉が蹴破られたからだとようやく察しがついた。
「……行動も完全に脳筋のソレだぞ、それから──……」
そこまで口にして、俺は光の向こうに広がる景色を見た。
玄関口や廊下の寂れた雰囲気とは一転して、煌びやかな内装と、カウンターに並べられた大量の酒とグラス。
天井には、眼を見張るほど大きなシャンデリア。
いつか平塚特等に連れられてこっそり入った高級なバーと、全体的に似た雰囲気だ。
そして、席に着いている屈強な体つきに白いスーツの男性客が数人。バーテンダーと思われるカウンターの向こう側の男と、店の一番奥のテーブルに座る坊主に女性的な出で立ちが非常に悩ましい(白目)男──オカマのお方かな?──を含めて、計十人そこらの姿がある。
──しかし、全く。
「どいつもこいつも、書面で見た顔ばっかだ」
完全に黒。
懸念通り、東京第十三区に位置するこの店は、喰種の巣窟になっていた。
「──白スーツの集団と、『アオギリの樹』の構成団員で見た顔が一つ。報告書の通り、この店は当たりだったようね」
険しい表情で、雪ノ下はブレザーの裏ポケットから、俺たちが特例で預けられた捜査官手帳を取り出し、店内に居る全ての者に見えるよう胸の前に突き出した。
「CCGの『喰種捜査官』です。あなた達には駆逐許可が下りていますが、大人しくしていただければ、拘留の後に『コクリア』送りで勘弁してあげるわ」
声高らかに述べられた口上。
しかし、当の喰種──白スーツの男達は、きょとんと俺たちの方を見たまま、完全に固まっていた。どう見ても、恐怖や緊張のあまり取った行動ではなさそうだ。
「……なぁオイ」
しばらくの沈黙の後、一人の白スーツが、隣に掛けていたもう一人の白スーツに声をかけた。雪ノ下がそれを冷たい目で見つめているが、そんなことはお構いなしに、男は軽薄な笑みを浮かべて言葉を続ける。
「どう見てもガキじゃねぇか、新手のイタズラか?」
売れないホステスのような、派手なメイクと逆立った頭髪のその男に、話しかけられた髭面の大男も相手を舐めきった笑顔で答える。
「オイオイ俺に聞かないでくれよ、まぁでも、イタズラだとしたらコイツらよほど不運だぜ」
部屋中に、男達の笑い声が響き渡った。十人近い男共の喧騒ともなると、喧しいことこの上無い。
しかし俺には既に、コイツらが迎える結末が粗方予測できる。
愚か。
不運なのはお前らだよ、気付かないのか?
──うちのお嬢を怒らせたら、後が怖いんだ。
「……比企谷君」
そら見ろ。
「あー……家事当番の件はどうする?」
「今回は私の負けでいいわ、そんなことより」
「……分かったよ、全部お前が殺っていい」
「……少し休憩でもしていなさい。──一分で終わらせる」
一分じゃ落ち着く暇もないんですけど。もうちょっと時間かけてもいいのよ?
しかし、俺が雪ノ下のお言葉に甘えて、のそのそと床に腰を下ろそうとした時、白スーツ達の愉快な雰囲気がぴしゃりと打って変わって、剣呑な殺気が立ち上り始めた事に気付いた。
「……んん? ちょぉっと待てよ今……一分でどうのとか、聞こえたんですけどぉ」
ホステス風の男が額に青筋を浮かべながら、ゆっくりと席を立ち、俺と雪ノ下の方へ向き直る。その瞳は喰種が生来持つ性質により、興奮状態を示す赤黒い色に染まっている。
──赫眼。
もうとっくに決定は下されていたが、これで完全に奴らは喰種だ、という証明がなされた。
ホステスに合わせて、カウンターに座っていた男達も一斉に立ち上がり、その顔は皆一様に殺気立っていた。
いやはや、馬鹿は乗せやすいから楽ですねぇ。
ふと俺は、部屋の一番奥で先ほどから一言も声を上げないオカマのオッサンと目が合った。白スーツ達を止めるでもなく、空気にゲイ合するでもなく、ただ静かに俺たちの方を見据えて、神妙な面持ちをしている。
──あ、ウィンクしてきた。
うっほほい、SAN値がゴリゴリ削れていくぜ。
「取り敢えず、この雌ガキは手足捥いでから金持ちのペットにでもしちまおうぜ。そっちの目付きが悪い方はここで喰う!」
ゴトン、とカウンターの椅子を床に倒して、ホステスが勢い良く雪ノ下に詰め寄る。俺はそれを『黙って見ている』だけ。理由は当然、俺が動くまでもなく、ホステスは間も無く死ぬからだ。
「お嬢ちゃんカワイイねぇぇ。軽くボコってからちょっとヤッちゃおうか──……」
これでもかと下衆な笑みを浮かべたホステスが、雪ノ下の肩に掴みかかり、右の拳を彼女の腹部にめがけて振り抜こうとする。
──その瞬間、ホステスの首から上だけが、突如宙に投げ出された。
「──ねぇ………………?????」
どかっ、と逆立った金髪の頭部が、チェス盤模様の床に落ちて、何度かバウンドする。
一拍遅れて、雪ノ下の肩を掴んだままのホステスの体──首の断面から、壊れた水道管の如く大量の血が噴き出した。
それは勢い余って天井に打ち付け、跳ね返った分がスプリンクラーのように部屋中に降りしきる。
──おいおいおいおい、俺の制服が血塗れになるじゃねぇか。帰り間違いなく警察に職質されるぞ。
「……警告はしたじゃない」
俺よりも血の噴出に近かった雪ノ下は、俺の比にならないくらい全身を血みどろにして、双眸を鋭く細め他の喰種達を見渡していた。
その姿は、無慈悲の鬼神の如く、されど美しい戦女神のように尊いモノも連想させる。
彼女が音もなく肩のギターケースから取り出していたのは、俺たち『喰種捜査官』の仕事道具──『クインケ』だ。
その性質上、刀剣から銃火器まで様々な形態を持つ特殊な武器だが、雪ノ下が左手に持っているのは、刀身が長く、緩やかな曲線を描いた片刃のモノ。日本刀型、と言って差し支えない。
決して頑丈ではないが、斬れ味には眼を見張るものがある──俺も何度か使わせて貰ったから、それなりに勝手が分かる。
雪ノ下が、立ち尽くしたままのホステスの首無し死体を払いのけ、体の前で刀のクインケ──『アカバネ』を構えなおした。
「……う、」
「お、おおぉ……」
「てめぇえええええええええええッッ‼︎‼︎」
突然絶命したホステスを見て、しばらく混乱と戦慄に硬直していた白スーツ達が、ホステスの胴体が床に打ち付けられると同時に、大挙して襲いかかってきた。
ちょっと雪ノ下の邪魔になるかな、と俺も部屋の端っこにこそこそと移動する。
奴等はさほど広くない店内を、人間の何倍も優れた喰種の膂力で駆け出し、背中から特有の捕食器官──『赫子』を展開した。
大まかな分類や親からの遺伝はあるものの、喰種の赫子は基本的に、個体によって大きく形状や機能が変化するものである。
現に白スーツ達も、黒光りする大きな鉈のようなモノや、岩肌のようにゴツゴツした腕にも見えるモノなど、全員が全員違う赫子を持っていた。
──なんつって、冷静に分析してる場合でもないんだろうがな。だがこいつらじゃあ、流石に雪ノ下の相手はつとまらないだろう。
「所詮はC+からBレートの雑魚ばかり……底が知れているわ」
雪ノ下は殆どその場を動かず、次々襲いかかる喰種の群れに正面から斬りかかった。
鞭のようにしなる赫子を悉く回避して、胴体を袈裟掛けに斬り飛ばし。
堅牢な盾の赫子は、それごと本体を横に両断。
身を捻り、黒髪を振りしだいて、曲芸師のように軽やかな手つきでアカバネを左右に持ち替え、どこか舞踊にも見える殺陣を演じる。
──しっかしまぁ、ミニスカートで暴れ回られるのは、こっちとしても目のやり場に困りますわ。
「ぶべら」
一人。
「ごぼっ」
また一人と。
白スーツ達は悲痛な叫びと共に、着々とその数を減らしていく。
物言わぬ骸となった彼等の遺骸が、雪ノ下の足元に積み上がる。
飛び散り。
滴り。
染み付いて。
瞬く間に、白スーツ達は鏖殺された。
煌びやかで清潔感に溢れていた店内は、今や彼等の血で薄汚く、鉄臭い空気に満ちている。
「──一分十秒、残念だったな」
俺は制服についた返り血の場所を確認しながら、何でもないような口調で雪ノ下に声をかけた。
「わざわざ数えていたの? ……煩わしいわね。仕方ないから、今夜のおかずはあなたの指示に従ってもいいわ」
雪ノ下も、頬についた血を袖で拭いながら、特に疲労感も見せずに返答してくる。どうやら、今回は息切れすら全くしないレベルの相手だったようだ。
正直、強者揃いの十三区だと平塚特等からは聞いていたから、多少の手応えを期待していたんだが、中々上手くいかないもんだな。
──さて、残すは奥に座っているオカマのオッサンだが、雪ノ下も彼に気付いたようだ。
「……まだ一匹残っていたのね」
雪ノ下が、自身の周囲で小山のように積みあがった死体を蹴り除けて、つかつかとオカマの喰種のもとへ向かって行く。
「あらら、せっかく綺麗な子なのに、血の気が多いのね……──ウチの人ほどじゃあないけど」
すると、オカマはそこで初めて口を開いた。取り乱した様子もなく、ただ悠然とソファで足を組み、グラスの酒をちびちびと煽っている。
しかし雪ノ下も、そんな世話話に応じる気は毛頭無いようで、語り掛けをガン無視して駆逐対象に接近し続ける。
──なんだ?
ふと。
なんだかよく分からないが、嫌な予感がする。
普段は見えるモノしか信じない信条の俺だが、今ばかりはそんなことも言っていられないほどの何かを、漠然とだが感じる。
──オカマが根源、ではない。
その後ろに控えている『何か』が、沈黙のままに何かを待っている気がする。
「……おい、雪ノ下」
流石の異常体験に、雪ノ下にも声をかけようとしたその瞬間。
逆立った鱗のような表皮をした極太の赫子が、オカマの背後の壁を突き破り、突如として雪ノ下に殺到した。
「──⁉︎」
卓越した動体視力と反射神経でそれを察知した雪ノ下は、咄嗟にアカバネの刃をその赫子にぶつけ、辛うじて軌道を逸らす。
甲高い音と共に、無数の火花があたりに飛び散った。
「……なんだありゃあ」
思わず俺もそう呟く。
先ほどの白スーツ共とは格が違う、見てくれだけでその凶悪さが分かる赫子だ。現に今見せた、コンクリートの壁を軽々抉り削る威力。
──明らかに、ただの喰種じゃあない。
「……比企谷君」
後方に飛び退いた雪ノ下が俺の手前で、靴底を摩擦で焦がしながらゆっくりと勢いを殺し、停止する。
正面のオカマと、壁から突き出た赫子に向き合ったままで、その表情は伺えないが、雪ノ下は不意に手に持っていたアカバネを俺の足元に放り投げてきた。赤黒い金属光沢を帯びた異形の刀は、床に打ち付けられけたたましい音を上げる。
何事かと思いそれに目をやると──刃が悉く欠けていて、一目で使い物にならないと分かる損傷の仕方をしているのが分かった。
──まさか、それほどまでの威力とは、恐れ入るな。
アカバネは甲赫のクインケ。っつーことはあの赫子は、鱗赫か。
「替えのクインケ、持ってきている?」
「……残念ながら、ご期待には添えそうもない」
そう言って俺は、自身のケースを肩に掛けたまま、空っぽの両手を広げて見せる。
「そう」
口早に雪ノ下が返答したのと同時。
壁から突き出た赫子は、オカマ喰種の隣の壁をゴリゴリとくり抜いて、人一人分が通れる程度の大穴を開けた。
そこを勢い良く蹴破り──爆発の如き轟音を立てて、コンクリートの粉塵と共に入室してきたのは、白いスーツに身を包み、白髪をオールバックでまとめた大男。体は服の上からでも分かるほど重厚な筋肉に覆われ、喰種としての身体能力の高さをうかがわせる。
「……ニコぉ……」
三白眼をギョロつかせて、大男がオカマのモノらしい名前を呼んだ。
「なんだかいきなり騒がしくなったと思ったら、僕の部下が見事にブチ殺されてるんだけど?」
「……そろそろ来る頃だと思ってたわよ、ヤモリ。部下の子達は仕方なかったわ、相手が悪かった」
にっこりと微笑んで、ニコはヤモリを横目で見つめながら、また小さくグラスに口を付けた。
……そうか、『ヤモリ』に『ニコ』。
「お前らアレか、『アオギリの樹』の幹部か」
有馬さんのお陰で、以前特例として見せてもらった作戦資料に乗っていた、喰種の戦闘集団──『アオギリの樹』。その目的や構成人数など、未だに不明な点が多いが、近年東京二十三区で急激に力をつけ始めたと言う。
こりゃあいい。思いも寄らない大物が釣れたぞ。
俺の言葉に、ニコは一瞬眉をひそめ。
ヤモリは獰猛な笑みを浮かべた。
「ヤモリ……その子達多分……」
「あぁ分かってるよ、話には聞いてる」
怪訝な顔のニコとヤモリが、小さな声で何かを言い合ったと思うと、どずん、と強い踏み込みと共に、ヤモリが一歩俺たちに肉薄してきた。その体は、肩が上下するほどの笑いを堪えている。
「お初にお目にかかるね。僕はヤモリ、『十三区のジェイソン』なんて呼ばれてる」
ヤモリは、ニヤニヤと口角を吊り上げたまま、意外にも紳士的な自己紹介を挟んできた。
偶にいるから困るんだよなぁ、こういう喰種。せっかくの挨拶だが、こちらのコミュ力が低すぎて対応ができないパターン。いっそのこと口汚く罵ってくれたなら、こちらとしても罵り返すことができるんだが。
「……あーっ、と。俺はだな……」
「比企谷君、何故律儀に自己紹介し返そうとしているのかしら?」
安心安定のツッコミが入った。
いや、ちょっと気が動転したっていうか。ぼっちは不意打ちの挨拶に弱いから。
「ああ、いいよ君らからの紹介は。今や結構な有名人だからね」
「……あ?」
ヤモリは、相変わらず笑みを浮かべてそんなことを言う。
しかし──へぇ、そうかそうか有名か。ようやく俺たちの仕事ぶりが喰種側にも伝わり始めたワケだ。仕事が報われるってのは、存外に気分がいい。──もっと言えば、仕事をしないで済むなら最高に気分がいいのに。
「君達、高校生二人組の三等捜査官……『有馬の猟犬』だろ?」
ヤモリが口にした名前は、いつしかCCG局内で細々と語られ始めていた、俺たち二人の俗称と同じだった。どこぞの捜査官から漏れたのか、人の口に戸は立てられないとは、まさにこの事だ。
俺たちがヤモリの言葉に否定も肯定もせず、ただ正面からぎょろりとした視線を受けていると、次第に奴の笑みに、狂気染みた何かが混ざり始めるのが分かった。
「……ッはははははははははははははは‼︎」
大声を上げ。
状態を仰け反らせるほどの勢いで笑い出したヤモリは、部屋中の空気をビリビリと振動させると──やがて、右手の親指で隣りの人差し指の付け根を強く押し込み、パキッと小気味良い乾いた音を鳴らした。
「いぃよねぇぇぇぇ……⁉︎ 有馬貴将の再来とか言われちゃってんだってぇぇぇぇ‼︎‼︎」
ヤモリは、先刻までの紳士的な態度から一変して、粗暴で猟奇的な顔付きをしていた。スーツの下の背面──腰部あたりから衣服を突き破り、ずるりと展開された二本の凶悪な赫子をギチギチと細かな鱗同士で擦り合わせ、奴自身が眼前の獲物を抉り殺そうと疼いているのが分かる。
──完全に臨戦態勢に入ったか。
さて、こっちはどうするかな。
「ちょっと俺と遊んで行こうぜぇ‼︎」
床を踏み抜かんばかりの力で加速し、爆発的スピードで雪ノ下の真横を通過したヤモリは、左右二本の赫子を後方に引き絞って俺に肉薄してきた。
徒手空拳の雪ノ下を狙わず、敢えて俺を標的にしたのは、本人が言った通りコレがあくまで遊びである、と言う言外の証明か。
「比企谷君!」
雪ノ下の声が聞こえる。
いくら高い能力を持っていたとしても、俺や雪ノ下も所詮は人間だ。クインケなしで喰種を倒すなど、それこそ一部の例外的人材だけが出来る離れ業。
ましてや、女性の筋肉量しか持たない雪ノ下に、これ以上負担を掛けるのは気がひける。
「──下がってろ雪ノ下」
──ようやく俺の出番か。
あわよくば、このまま一切働かずに帰ろうかとも思ったが。
「交代だ…………俺がやる」
どうやら、そうもいかないらしい。
ヤモリと俺が激突するまでの、ほんの一瞬。
俺は肩から提げた純黒のギターケースを開き、機械音と共に内蔵ギミックから飛び出した金属質の柄を、高速で引き抜いた。
「──ルルァァァァァぁぁぁッッッ‼︎‼︎」
勢いもそのままに、叫び声を上げ眼前に迫ったヤモリが、赫子を振り抜く。
俺はそれを向かって右側──ヤモリの左脇に向かって身を翻し、耳元をかすめる轟音を感じながら、頭上をよぎる赫子を上体反らしで回避。
俺とヤモリは、互いの位置を交換するようにすれ違い、そして沈黙した。
「……お……」
「……落し物だぜ」
──きっとヤモリ自身も気付いただろう。
俺は今のすれ違いざま、展開した雪ノ下と同じく刀型のクインケ──『ビゼン』を、事のついでに軽く振るっていた。
握り拳に掴んでいたその『落し物』を、背後に立つヤモリの足元へ適当に投げ付ける。
「指」
言葉の通り。
それは三本の、白くゴツゴツと骨張った指。
綺麗に根元から斬り飛ばされたのであろう断面からは、じんわりと血が滲み出て、その表皮を薄く汚している。
「──お前のな」
ヤモリは、人差し指から薬指がごっそり消失した自身の右手を、顔の前でまざまざと凝視して完全に硬直していた。傷口から迸る大量の血が、スーツの裾を真っ赤に染め上げていく。
──直情的な奴ほど、攻撃の文脈が読み易い。
敵を制するとはつまり、『読まれるよりも早く相手を読み切る』事だ。どんな奴が相手でも、戦闘という極限状態においては、必ずそいつ特有の癖やコンプレックスが挙動にチラつく。そう言った節々を読み込み、眼前の敵という名の『物語』を掌握──反芻してしまえばいい。
──分かるぜ、ヤモリ。
お前の動きは力強いばっかで、精巧さが足りない。まるで子供向けの絵本みたいだ。
「……ろす」
踵を返してヤモリに向き直ると、その背中はぼそりと何かを呟いて、わなわなと震え出していた。奴の中の憤激が、急速に沸き立っていくのがわかる。
「────────ぶっ殺す‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」
ヤモリが、絶叫と共に振り返った。
最早自身でも持て余すほどの激情に全身を痙攣させながらも、鋭い眼光をギラつかせた視線が俺を見据える。
「やってみろよ」
対して俺も、精一杯憎たらしい笑みを浮かべつつ、敢えて挑発的な言葉で相手を煽る。
なんて、勝負はもう見えてるけどな。
殺し合いは、先に取り乱した方の負けだ。
漫画やアニメでも大概そうだろう。
しかし。
ギチギチと不快音を鳴らしながら、内側から膨れ上がり肥大化していくヤモリの赫子の向こう側、それまで傍観を徹底していたはずのオカマ──ニコが、ゆっくりとソファから腰を上げ、ヤモリの背中へ近付いてきた。
一体、何をするつもりなのか。
ヤモリに加勢するつもりなら、別に構わないぞ。多少面倒ではあるが、恐らく負けはしないだろうし。
「──ヤモリ」
すると、ニコはそっとヤモリの肩に手を置いて、子供を諭すかのような渋面を浮かべたかと思うと。
「ダメよ。今はまだ、死ぬには早い。……タタラ達の作戦に加勢してあげないと」
──予想とは正反対の言葉を発した。
「……あっ、と」
思わず、俺はそんな間の抜けた声を上げてしまう。ニコの言う『作戦』に関することなど、興味深い情報のことも気になるが──いや、だってさ。そんなことじゃあ、このイカれた殺人鬼は止まらないだろ。
「……………………あぁ‼︎‼︎⁉︎」
暫しの沈黙の後、案の定ヤモリはより一層の憤怒を湛えた表情でニコに向き直った。
「このカマ野郎ォ‼︎‼︎‼︎ 俺がこんなクソガキに勝てねぇッてのか‼︎‼︎⁉︎」
「そういう問題じゃあ無いわよ。論点はそこじゃあない。アオギリに所属する以上、『王』やその伝令役のタタラに非協力的な姿を見せるのは、あなたの為にならないわ」
──おお。
なんだか分からないが、今まで大きく乱れていたヤモリの呼吸が、ニコの言葉で少し落ち着いてきたぞ。いきり立った全身からも、段々と力が抜けていくのが分かる。
何者だよ、このオカマは。
「……ふぅ……ふぅ……ッうぅぅゔ‼︎」
「……撤退しましょう、ヤモリ。もしこの子たちが本当に優秀なら、きっと『また今度』会えるわよ」
「………………………………ふゥ…!」
「さぁ、落ち着いて。このストレスは、アジトの玩具達で晴らせばいいわ」
ニコの『玩具』という言葉が琴線に触れたのか、ようやくヤモリの顔から、我を忘れるほどの怒りが身を潜めたように見えた。
されどその瞳は肌を刺す程の殺気を持って、依然俺を睨み付けていた。
「……次に会ったら、必ずぶっ殺す」
地の底から響くかのような低い声でそう告げると、ヤモリは腰部の赫子をぐんと後方に伸ばし──以前この部屋に入ってくる時に空けた壁の大穴の縁にその先端を引っ掛け、自身を思い切り引き寄せた。
スリングショットとその弾丸のように、ヤモリの体が高速で後方へと引きつけられ、ニコもそれに続いて穴の方へと駆け出していく。
「──おいおい」
全くもって呆れるな。
──逃すワケねぇだろうが。
「……………………ッッふッ‼︎」
単純な身体能力で喰種の足元にも及ばない俺は、猛スピードで逃走を開始した奴らの背に向けて──手に持ったビゼンを、全身を引き絞った渾身の威力で投擲した。
シャンデリアの光に照り返されて、ビゼンの薄緑色に輝く刀身が、今まさに穴の向こうへ飛び出していったヤモリの頚椎へと吸い込まれていく。
──そして。
「あっぶないわね!」
ヤモリより少し動き出しが遅れていたニコが、飛来するビゼンに反応し、慌てふためきつつも腰部から高速で展開した、鞭のようにしなる三本の赫子でそれを絡め取った。
「……ッチィ!」
思わず俺の口からも舌打ちが出る。
そのまま二人の姿は、部屋の光が届かない真っ黒な淵の向こうへ──闇に溶け込んで、やがて消えた。
結局、ニコにクインケを持ち逃げされる形になった俺は、二人を穴の向こうまで追いかけようにも叶わない状況に陥ってしまい、しばらく呆然と立ち尽くした後、背後で動きを見せた雪ノ下の方へ振り返った。
「……帰りましょう、比企谷君。とりあえず今は、地元警察とCCGに連絡を取らないと」
雪ノ下は言うや否や、足元に転がる空のギターケースや、ボロボロに欠けたアカバネを回収しだした。
──流石、切り替えが早い。仕事ができる奴ってのはやはり違うな。
「……すまん。さんざカッコつけた挙句、取り逃がしちまった」
俺はそんな彼女の後ろ姿にいたたまれなくなって、不意に自分でも情けなくなるような、泣き言めいた言葉をかけた。
「問題無いわ。今更いくらカッコつけられたところで、私の中でのあなたの株価は、既に取り返しようが無いほどに大暴落しているもの」
──できればその情報は聞きたくなかったなぁ。
このままでは俺のテンションが低迷し続け、世界恐慌引き起こしちゃうまである。
助けてルーズベルト。
助けてニューディール政策。
いつか教わったうろ覚えの知識で、そんなことを思った。
「……でも、」
ふと。
黙々と作業をしていた雪ノ下の背中が、ぼそりと何かを言ったかと思うと、せわしなく動いていた両の手がぴたっと止まった。足元に開いたケースの中へクインケを再格納するために屈んだその後頭部からは、真白なうなじが長髪の間からひっそりと覗いていて、思わず生唾を飲み込みそうになる。
「普段全く働きたがらない貴方が、私にクインケを貸したりせずに、自分で使って戦ったということは……きっとあなたなりの気遣いや、ポリシーがあってのことだったのでしょう」
──バレてたのか。
察しがよすぎる女も考えものだな。こうやって数々の男が、浮気を探知された上で壮絶な報復を受けてきたのかと思うとゾッとするぜ。
俺も気を付けよう、って僕彼女いなかったわ。死にたくなってきたゾ。
俺が、落胆と羞恥がないまぜになった感情に思わず白目を剥きそうになっていた時。
「……そうやって、偶に男らしいところを見せないで。……卑怯よ……」
あまりに小さく、ほとんど耳に入らないほどの声で、雪ノ下が何かを呟いた気がした。その顔は、相変わらず俺に背を向けたままで、いったいどんな表情を浮かべていたのかは分からない。
しかし、不思議と悪口を言われた気はしなかった。
──もう少しで、警察がこのバーに駆け付けるハズだ。事情聴取や、CCGとの関係の説明など、いつも通り面倒な作業がやってくると思うと、やはりゲンナリする。
ただまぁ。
最初は地味な雑魚喰種狩りになるはずだった任務で、思いもよらぬ収穫も多く得たし、クインケも俺と雪ノ下二人揃って使用不可になったことで、別のモノが新調されることになるだろう。
今日のところは、それで良しとしよう。
外はもう、完全に陽も落ちた頃だろうか。さっさと家に帰って、柔らかい布団で寝たいところだ。
「……あ、雪ノ下、今日の晩飯のことなんだが──」
「あなた、この状況でよくその話を続けようと思うわね」
俺の方へ振り返った雪ノ下の顔は、いつもの三割り増しで冷たかった。
八幡の戦闘スタイルは、敢えてカネキと同じく文学少年特有の理論。
攻撃の文脈が──とか言う感じにしました。
いつか二人の戦闘で、互いに互いの文脈を読み合う、みたいなのをしたいんですよね。