北郷一刀が関羽雲長、張飛翼徳と桃園の誓いを立てた同日、劉備玄徳は呉懿子遠らと月下竹林の出会いを果たした。
時に鉅鹿郡では張角という人物が南華老仙より太平要術の書を与えられ、各地を渡り歩いては人々の病を癒し始める。
南華老仙は書を与える際、「くれぐれも術の悪用を避けるように。もし私欲をもって悪用すれば、いずれ身を滅ぼすであろう」と張角を強く戒めたが、人々の声望を得た張角は増長し、
「天下欲しいなあ。蒼の世は終わったことだし、そろそろ
と纂奪者の如く振る舞った。
因果応報、または昨今付き合いの始まった西洋由来の言葉に「ふらぐ」というものがあるのだが、張角の顛末はまさにそれで説明できよう。
もし、彼女が人々を救うだけに留まっていたのなら、希代の聖女として名を残していたに違いあるまい。
……だが、残念なことに彼女は当初の志を忘れてしまった。
張角のことを慕う者は、かの者をまるで王のように崇め、やがては五十万を超え、ついには国を脅かすようになる。
一人の女性の善意は、史上かつてない規模の百姓一揆へと発展してしまったのだ。
彼らは当時、黄色い頭巾を好んだことから、黄巾賊と呼ばれていた。
余談だが、彼らを単なる張角やその妹たちの「ふぁん」とする説もあったりするのだが、ここでは取り上げないで置こう。
黄巾賊の跋扈により、大陸を暗雲が覆い隠し、温徳殿には一本足の怪鳥が舞い降りて呪詛を吐く。
都には雹が降り注ぎ、人々は天変に恐怖した。
世の異変を感じ取った時の大将軍たる何進は、早速帝に上奏し、将軍を各地に派遣すると同時に広く義兵を募り始める。
各将軍たちの幕下には曹操や孫堅といった英傑たちが軒並み名を連ねていた。
後世に悪名高い董卓もまた、この時はまだ官軍として勤めている。
北郷一刀が正史に顔を出したのも、この騒乱が最初であった。
彼は義兵の呼びかけに応え、わずかな私兵を率いて、公孫サンのもとに馳せ参じたと伝えられている。
劉備玄徳が
そう。乱世という火の粉が放った熱は、世にある多くの英雄、
……余談だが、廖化は顔に傷のあるたくましい大男であったと伝えられる。
人並の身長しかない呉懿子遠は、彼と並ぶことを大変嫌がり、廖化の方は逆に彼と並ぶことを好んだそうな。
信憑性の疑われる逸話ではあるが、もし事実であると筆者的には大変おいしい。
そこはかとなく一方通行の矢印が見てとれる。
やっぱり歴史上の英傑は最高だ。現実の男性なんか必要ないと思いました。まる。
◇
「お願ぇしますっ! これを盗られたら、あっしら生きていけねえんです! お願ぇしますっ!」
轟々と炎の立ち上る山賊砦の片隅で、両腕を縛られた匪賊の一人が咽び泣いている。
確か、ここの親玉であった男だったとおもうのだが、今や往事の凄みはすっかり消え失せてしまっていた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔を地べたにすり付けながらの懇願である。
すごい。
あまりにもムサい熊男の醜態に、流石のそれがしも「うわあ」と引き気味になってしまう。
「……ごめんなさい。でも、悪いことをした人は罰を受けないと。野放しにしたら、悪いことをする人が増えちゃうんです」
護衛の強面に守られながらも、心底悲しそうな顔をして、「そうだよね?」とこちらに上目遣いで窺ってくる玄徳殿、可愛い。
「その通りですぞ、玄徳殿。過ちを繰り返させてはなりません」
それがしは玄徳殿の悲嘆を和らげるべく、自信満々に答えたが、それでも彼女の顔に陰った曇りを晴らすことはできなかった。
彼女は誰にだって優しいし、可愛いし、大きいし、大きい。
彼女に降った食いっぱぐれ者やごろつきどもが、あっと言う間に彼女の信者になってしまったのも、彼女の人徳(大きい)を考えれば極々当然の帰結であろう。
こんな乱れた世の中だ。
人は、癒し(大きい)を求めているのである。
そんな玄徳殿が核になっているからか、我らが義勇兵団の団員はそんじょそこいらの賊徒に比べれば比較的優しい(と思う)。
更正の余地がありそうな匪賊相手には、最低限の糧は残してあげる程度の侠気が、我らにはまだ残されていた。
今回の匪賊に対して我々が容赦がない仕打ちを与えているのは、彼らがつい最近村を一つ滅ぼしてしまっているからなのだ。
うん。そりゃあ……、許されんわ。
「オラッ、さっさと街でお大尽といきてぇんだからよ。手前等、ちんたらすんじゃねえ!」
「ひ、ひえっ!」
ちらり、と。
頬に傷ある大男が、義勇兵の尻を苛立たしげに蹴り上げながら指図している様が横目に見えたが、それは幻だと思う。
我々は優しい。
優しい、優しい。
うん、優しい。
……尻を蹴られた男が、義勇兵団最古参のチビであったように見えたのは、恐らく気のせいだろう。それがしの目には何も映っていないのだから。
それがしは、今晩匪賊どもの胃袋に入るはずだった豚足の丸焼きを、たき火跡から拾い取ってかぶりついた。
折角の食料を、火加減を間違えて炭に変えてしまってはもったいないものな。
ほら、今のたき火は山賊砦が薪だから……。ちょっと火力が強すぎるものな……。
「しょっぱいなあ」
「どうしやした、副頭領」
「いや、なんでもない」
そんなやりとりを玄徳殿の護衛としていると、
「くそがっ……、くそがっ……! こっちが下手に出ているっつぅのによぉ。噂通り、てめーらの方がずっと鬼畜じゃねえか! クソ女ぁっっ!」
再三繰り返される懇願の叫び声が段々と乱暴なものへと変わっていった。
それがしは思わず、「あっ」と声を上げてしまう。
この義勇兵団において、玄徳殿の罵倒は御法度だ。
やべえ……、と思いつつ、それがしが"ある者たち"に目を向けると、
「……あん?」
案の定とばかりに彼ら彼女らの瞳に殺意の灯火が宿っていた。
「……
「あ、うん」
金目の物漁りを一端止め、ずいっと進み出てきたのは少年兵のとりまとめ役をやっていた青年であった。
しかし、"おやじ"って、絶対父親って意味じゃないと思う。
「くれぐれも、くれぐれも殺さないようにな。生かして官吏に引き渡すんだから」
「うすっ」
青年はやたら渋い声で返事をすると、泣き叫んでいた匪賊を、鞠のように蹴り飛ばした。
「みんなから奪った金をよぉっ、何で手前のもんみたいにほざいてんだ。ああっ!?」
青年が匪賊を蹴飛ばすたびに、悲鳴が小さくなっていく。
「弱い者いじめしといてよぉ、手前だけが奪われずにいられるなんて、スジが通らねぇよなぁっ!」
青年の言葉に、少年兵たちから喝采があがった。
「おう、兄弟。やったれ、やったれ!」
「兄ぃっ。誰が一番遠くまで蹴飛ばせるか勝負しようぜぇっ」
……少年兵たちの誰もがたくましくなりすぎて、それがしもう直視できない。
彼らは、元は匪賊によって住むべき場所を滅ぼされたり、人買いに売られた者たちであった。
玄徳殿が救い出さなければ、そのまま乱世の露と消えていた身の上であったからか、彼らの玄徳殿に捧げる忠誠心は、そんじょそこいらの忠臣よりも厚い。
一つ。弱きは助け、強きは皆殺しにしましょう。
一つ。舐められたらこの家業は終わりなので、舐めくさった敵は原則皆殺しにしましょう。
一つ。お頭はみんなのお母さんです。悲しませる奴は皆殺しにしましょう。
以上のことが守れない奴は匪賊に違いありませんので、皆殺しにしましょう。
……何時の間にやら少年兵の間で自発的に作られた血と
得意げに少年兵の一人がそれがしに聞かせてくれた時、目玉が飛び出そうになってしまった。
「みんな……、私は何とも思っていないから、降伏している人に乱暴はしちゃ駄目だよぉ……」
「でも、あいつらって殺しても良い人たちなんでしょ?」
十歳にも満たない荷物運びの少年兵が、きょとんとした顔で玄徳殿に尋ねる。
すると、玄徳殿は頭を抱えるようにして、
「違うよ……、この世に死んでも良い人なんていないんだよ」
「お頭はやっぱり優しいや。俺たちのお母さんだ」
子供の育て方に悩みまくっておられた。
分かりすぎるほど、分かる。
この子たちは乱世の理不尽に当てられて、少し、ほんの少ーし歪んでしまっていたのだ。
優しい玄徳殿のことだから、子供たちが積極的に匪賊狩りに参加していることも、本当は良く思っていないに違いあるまい。
だが、現実問題として我々は匪賊狩り以外のまともに大人数を養う方法を知らないし、他に金を稼ぐ技術も持ち合わせていなかった。
我々にできることは、この不幸な少年たちを最低限のタガが外れないよう辛抱強く見守るのみである。
「おい、ガキどもぉッ!」
はしゃぎ始めた少年兵に対して、頬に傷ある大男が一喝し、少年兵がびくりと硬直した。
彼は一団を取りまとめていた経験があるため、少年たちの取り扱いにも慣れているようだ。
彼という存在は、少年兵たちの心に課せられた数少ないタガであり、それがしも大いに期待している。
ただ、ただなあ……、
「……帰って、街であったけぇ飯食うんだからよ。さっさと仕事片づけな。クズどもで遊ぶのはそれぐれぇにして、お頭を悲しませねぇようにしろや」
「うす、叔父貴っ! お頭ぁっ、ごめんなさいっ!」
少年兵の育ち方……、明らかにこのオッサンの影響を受けているようにも思えるんだよなあ……!
「廖化さん、ありがとうございます。私、子供を叱るのってまだ慣れていなくて……」
「いえ、ガキの躾にゃ慣れてるんで。任せてくだせぇ」
あの、もう少し。品行方正にお願いできればと、思うんですけど……。
「どうしやした、副頭領」
「いえ、何でもないです」
それがしのそむけた目の先では、気を取り直した少年兵たちがせっせと稼業を再開していた。
「匪賊はみんな」
「全殺し」
「俺たちゃ」
「正義の義勇兵」
略奪稼業にいそしみながら、調子の外れた少年兵たちの合唱が廃墟寸前の山賊砦に響き渡った。
「お頭ー、副頭領ー、金目になるもんは大抵詰め込みましたぜー。クソ野郎どもは縄つけて引きずっていきます。早く飯食いに帰りましょー」
「あ、うん……。んじゃ、そんな感じで」
「うすっ」
流れるような仕事ぶりである。
もう何処の裏社会に出しても恥ずかしくない、立派な盗賊団であった。
焼け焦げた砦の桁ががらがらと崩れ落ちる音と、地べたを引きずられてすすり泣く匪賊の声がやけに耳に残る。
うん、帰って酒飲んで、嫌なことは忘れよう……。
仕事はしたくないけど、帰りたいなあ……、都!
◇
「
「匪賊狩りの鬼嚢様だ」
何やらものすごい風評被害を受けつつも、
「桃香ちゃん、ご無事ですか!? こいつらに変なことされてませんかっ?」
幽州上谷郡のとある街まで帰ってきた我々を出迎えたのは、こう……、友人であるまさし君が見たら「すげえ、ちっこい委員長だ!」と奇声をあげそうな見てくれをした少女であった。「いいんちょう」って何だろう。
姓名は田豫、字は国譲。
彼女は日銭に困っていた玄徳殿を半ば養うようにして付き合っていた親友の一人であった。
「
撫子というのは彼女の真名らしく、当然ながら我ら泣く子も笑う義侠集団はその名を口にすることを許されていない。
そう、それがしも立派な一味である。
というか、玄徳殿をそそのかした張本人扱いであった。
なるほど、確かに。
否定、できない……。
「ただいまじゃないですよっ。もう、啄郡に帰りましょう? お母さん、絶対心配してますから。心配しすぎて、病気になっちゃってるかも……。ねえ、帰りましょう?」
啄郡と上谷郡はどちらも隣り合っているものの、その治安の差は歴然としている。
幽州で辛うじて治安が保たれているのは州都のある広陽郡と、玄徳殿たちが暮らしていた啄郡くらいなもので、代郡や漁陽郡、そして上谷郡といったその他の辺境地域は、漢朝の移民政策が祟って、修羅の国もかくやいう様相を呈していた。
国譲殿の懸念もむべなるかな。
では何故そのような危険な地域に我々盗賊、いや義勇兵団が出張ってきたのかというと……。
「ううん。撫子ちゃん……。確かにお母さんは心配だけど、匪賊に困ってる人が近くに住んでるのに、放っておくなんて私できないよ。今は私たち一人一人が行動しないといけないのっ!」
国譲殿の肩に手を置き、優しく語りかける玄徳殿の姿たるや、まさに天の――、
「……子遠殿、何厭らしい目で桃香ちゃんを見てやがんですか……!」
それがしは慌てて目をそらした。
ちなみに玄徳殿はああ言っておられたが、もう少し内実に沿って言い換えたならば、「啄郡の賊を全部狩りつくしてしまった」が正しい。
獲物が、いなくなってしまったのだ。
賊を求めて延々と移動を繰り返しては、その規模を増大させていく様はさながらイナゴのようでもある。
これ、どっかで歯止めをかけんとあかんのとちゃうか……。
「そういえば、
玄徳殿がもう一人の親友の名を口にすると、国譲殿はあからさまに困った顔をした。
「え、ええと。ご飯の準備をして、あそこで伸びてます……」
「え、伸びてる?」
「行けば分かり、ます」
彼女に促されるまま街の中を進んでいくと、酒家の軒先には広めの宴席が設けられていた。
今の義勇兵団は非戦闘員も含めれば五百人以上の大所帯になっており、とてもではないが、家屋を借りて食事ができる環境にはないのだ。
そんな大所帯が居座っているというのに街中に大きな混乱がないのは、ひとえに玄徳殿の人徳と国譲殿らの住民に向けた説得、そして官吏からのお墨付きを得ていたことが大きい。
何と今回の仕事は
よほど自分で仕事したくないんだろうな。
修羅の国の治安維持なんてなあ、ぐうの音が出ないほど分かる。
「へへー、一番乗りーっ」
と少年兵たちが我先にと宴席に陣取るその先、家屋と家屋の隙間に妙齢の女性がうずくまっているのが見えた。
――おろろろろろろろろ。
吐しゃしておられる。
「あはは……、梅花ちゃんらしいなあ」
大方酒を呑み過ぎたのだろう。
彼女の姓名は簡雍、字は憲和。
玄徳殿を養っていた親友の一人であった。
憲和殿は実家が酒家と深い付き合いをしていたらしく、商人たちとの折衝に長けている。
玄徳殿のご乱心(?)を人づてに聞いた彼女は、せめて玄徳殿が無謀なことをしでかさないようにと義勇兵団に同行する道を選んだ。
国譲殿と比べれば我々に対して隔意を持っているわけではないし、十人中十人が振り返る美人でもあるのだが、
――おろろろろろろろろ。
吐しゃしておられる。
「梅花ちゃん、大丈夫?」
「桃香……、天国が見える。水を、水を――」
彼女はとにかく酒癖がすこぶる悪いのだ。
一日の内、四半日は酔っぱらっており、もう四半日は二日酔い、後の半日を人生に費やしているような女性であった。
「酒を楽しめない奴は人生の半分を損している」とは彼女の言であるが、本当に人生の半分を酒に捧げる必要はないと思う。
というか、後に残る酒はあれだ。
『何やぁ、あんたが差し入れてくれた酒やろ。ほれ、飲めい、飲めい。ウチの酒がぁ、飲めへんちゅうのか。にゃははははははははは!』
前職を思い出して、あれだ。
『はぁ? 何で、アンタがこの酒家使ってんのよ。お気に入りだったのに。ちょっと汚らわしいから近寄らないで。人を呼ぶわよ』
頭が、ずきりと痛んでくる……。
うん、それがしは現状に十分満足しているぞ。
「副頭領ー、早く飯食いましょうぜー」
「あ、うむ。それじゃあ、ご相伴に預かろうかな」
と少年兵たちのもとへ向かおうとしたところで、
「子遠殿の席はあっちです」
と国譲殿に座席を指定された。
彼女の小さな指が指し示す先は、んー……。
んー……?
それがしの目がおかしくなったのかしら?
縁の低い丸井戸の上にむしろが敷いてある。
あれはどう見ても井戸だ。座れば落ちる、蛙が大海を知らぬ井戸以外の何物でもない。
「国譲殿。あんなところに座ったら、それがし井戸に落ちてしまいますぞ」
「良、い、か、ら、座りなさい」
「アッハイ」
だよなあ。それがし、玄徳殿をたぶらかした張本人だものなー。
仕方ないわー。これは仕方ないわー。
それがしはあって無きが如き井戸の縁に腰掛けながら、運ばれてくる料理に箸をつけた。
まさし君が言っていた、「空気椅子」とはこのような体勢を言うのであろうか。
確か足を組みながらやると「くーる、くーらー、くーれすと」であると言っていたな。
よし、やってみるか……。
「それにしても、何で匪賊はいなくならないのかな……。みんなと笑いあって暮らすことはできないのかな……」
「お頭ぁ……」
「ねえ、子遠さんはどう思う?」
団全体がしんみりとする中、それがしは答えた。
「ぬぅぅぅん……! 大元を辿れば、中央政治の腐敗が原因なのでしょうが、くぅぅぅぅぅ……! こればっかりは我々にはいかんともできません。ぐぬぅぅぅぅぅぅ……! ただ、もっとも直接的な要因は、匪賊を取り締まる
「官憲が? 何で? というか、どうしたの子遠さん……、すごい汗だよ?」
玄徳殿の疑問に対して、それがしは前職の経験を交えて説明を始める。
「お、おぉ、お気になさらず。それがしも河南にて治安を預かっていたから分かるのですが……、うぐぐぐ……。仕事をうまく回すコツは上司の機嫌を取ることなので、すぅぅぅぅん……!」
上司の機嫌を良くするために、さりげなく流行りの甘味を買って行ったり、さりげなく机の上に花を生けてみたり、芝居の入場券を献上してみたり、噂を聞きつけた他部署の人間にも笑顔で甘味をおごったり、机の上に花を生けてみたり、芝居の入場券を献上してみたり……。
それがしは元々周りに好かれている方ではなかったから、直接的な金子を渡すというような下品な手段は使わなかったのだが、それでも思い出すだけで頭がきりきりと痛んでくる。
説明役に徹するそれがしは、さぞかし世を憂う、苦悶に満ちた表情をしていたに違いあるまい。
「機嫌って、仲良くするってこと? それより、本当に大丈夫……?」
「い、いえ、具体的には付け届け――、つまりはわいろですな。コォォォォォ……、何処何処でこういう仕事をしましたと報告するよりも、わいろでも贈って贔屓をしてもらった方がよほど出世がしやすいのです。スォォォォォォ……、そうなると、実務能力よりもわいろを送る能力の方が重要視されるようになりまして……、ンアァァァァァッ!」
それがしの雄たけびに皆がびくりと体を震わせた。
国譲殿などは何か信じられないものを見たかのような目をしている。
「はぁっ、はぁっ……。それが恐らくは職務の怠慢と治安の悪化の一因になっているのだろうと思われます」
飽きたので体勢を戻す。
意外にこれ、鍛錬になるかもしれない。
まさし君はやっぱりすごいなあ。
「そ……、そうなんだ」
実際、河南の某部署では、まともに働いている人材がたった一人だけという悲惨な事態に陥っていた。
外回りでは仕事を効率的に回すためにも他陣営の人間にまで付け届けを行い、
『む、何進殿の。ほう、くれるのか。かたじけない。それでは姉者と二人で分け合って頂くとしよう』
事務仕事に帰っては、延々と一人で竹簡の束を数えてため息をつく作業に終始し、
『はい、これ。朝までにやっときなさい。アンタみたいな無能男でもこれくらいの量は一人でできるでしょ。後の無能と変態どもはどうせ働かないんだから、一人でこなしてみせなさい』
上司の世話、同僚のご機嫌取りに至るまで何でそれがしが一人でせにゃならんのか。
お陰で一人だけ帰宅する時間帯がいつも真夜中なのだ。何で? 繰り返すけど、何で?
思い出すだけで、胃がまたむかむかしてきた……。
それがしの話を聞いた玄徳殿は、都でまかり通っている常識にいたく驚いているようであった。
「ね、子遠さん。もし体の調子が悪いのなら言ってくれると嬉しいな。私、心配だよ……」
慈母のように玄徳殿は柳眉を歪ませて、それがしのもとへやってきては隣に座ろうとした。
「あっ、お待ちを」
「えっ? きゃっ――」
何と言うことだ。
それがしの座っている場所が井戸であったことに気付かなかった玄徳殿は、体勢を崩して井戸の中へと落ちてしまう。
「玄徳殿ッ!」
「桃香ちゃん!」
「お頭ーっ!」
それがしは玄徳殿に真名を預けられた身の上である。
当然、身を呈して彼女を引き上げようとするが、
「……あれ?」
意外にも彼女の落下はごくごく浅い場所で止まってくれた。
何やら、井戸に大きな何かが詰まっているようだ。
「あいたたた……、何だろ?」
事情がよく呑み込めていない玄徳殿を引き上げて、それがしはむしろを剥がしては、井戸の中へと目を落とす。
すると、中にはやたらと大柄で毛並みの良い、まだ息のあるロバが荒縄で縛られ、沈められていたのだった。
「桃香ちゃん、大丈夫ですか!?」
玄徳殿のことは国譲殿に任せて、それがしはロバを義勇兵たちとともに引き上げることにする。
お、重たい……。
これはロバの体じゃ絶対ないだろ……!
ひいこらひいこら、ばひんばひん、と。
それがしたちが何とか井戸から引き上げると、地獄の悪酔いから復帰した憲和殿が目を丸くして言った。
「……驚いた。張世平さんの
「的盧、ですか?」
それがしは義勇兵たちに的盧なるロバに絡みついた縄を取るよう指示しながら問いかける。
すると、憲和殿は口元に手を当て、考え込むようにして続けた。
「この辺りで有名な馬商人の飼っていたロバよ。決して人に慣れようとはせず、邪な心を持った者が近づくと蹴り殺してしまうと専らの評判ね。以前、張世平さんの馬を奪い取ろうとした賊徒どもを軒並み蹴り殺したことから、大秦国の悪霊の名を借りて、
――バルバトス。
何だか知らないが、すごい強そうな名前だ。
恐らくは生半可な匪賊どもでは到底相手にはならないに違いあるまい。
そんな、良く分からない"凄み"を感じる。
「何故、井戸の中に沈められていたのでしょう」
「張世平さんは、お守り代わりに的盧を大層可愛がっていたそうだから、大方敵対する商人の仕業じゃないかしら。撫子、このロバはずっとこの状態だったの?」
話を振られた国譲殿はびくりと飛び上がったかと思えば、
「……ごめんなさい。最初からむしろが敷いてあったので、良く調べもしていませんでした。いたずらに使ってごめんなさい」
と頭をぺこりと下げてくる。
ええんやで。
都で受けていた嫌がらせに比べたら、この程度はただのじゃれ合いよ。
そんな意図を込めた暖かいまなざしを送っていると、国譲殿から気味悪い目で見られた。解せぬ。
「……すっごい、綺麗なロバだね。井戸に沈められちゃうなんて可哀想」
縄の解かれたバルバトスに近づいた玄徳殿は痛ましげに毛並みの整った背中を撫でた。
息も絶え絶えといったバルバトスも、薄目を開けて玄徳殿を見ながら、されるがままになっている。
抵抗をしないところを見ると、もしかしたら玄徳殿はバルバトスのお眼鏡にかなったのかもしれない。
「……張世平さんには一応報告しとかなきゃね。お礼とかもらえるかもしれないし」
憲和殿の言葉に、それがし目が覚める思いであった。
――お礼!
そうだ、お礼である。
大商人らしき御仁のお礼ならば、それなりの額が期待できよう。
うまくやれば、もう直接匪賊狩りなどせずとも左団扇で暮らしていけるかもしれない。
それがしは期待にうち震えた。
……が、それははかない望みであった。
後日、涙を流して感謝する張世平殿から頂いた報酬はバルバトスそのものと、義勇兵の武装一式であった。
贈られた、いずれもが前線に立つための道具ばかりである。
いや、その。
現金を、いつもニコニコできるような現金を頂けないかと……。
玄徳殿は翡翠色の戦装束と、立派な拵えが為された雌雄一対の剣を贈られ、それがしと頬に傷のあるオッサンは、やはり立派な槍と青竜刀を贈られた。
「これでもっとみんなの役に立てるねっ、子遠さん!」
「似合ってますぜ。お頭ぁっ、副頭領っ! これでもっと匪賊どもをぶち殺せますねっ!」
大商人の邸宅の前で、バルバトスに乗った玄徳殿が双剣を天に掲げると、義勇兵たちがわぁっと沸き立った。
「何だ、何だ」
「鬼嚢様のご一党じゃ」
「また匪賊どもを退治に行かれるのか」
「ありがたいことじゃ」
そんな民衆の声を背中に受けて、張世平殿も涙ながらに頭を下げておられる。
「最近、冀州で怪しげな大集団が言葉にもできぬ悪事を働いておるそうです。この大陸は、最早乱世の内にあるのやもしれません。劉玄徳様……、皆々様。どうか、力なき我らを、これからもその武でお守りくださいますよう」
まるで劇か何かの一幕のようでもあった。
玄徳殿は当然主役であり、
「はいっ。みんながともに笑い合えるような世の中のため、私頑張りますっ!」
と笑顔の花を咲かせて、民衆に答える。
慈悲の中に確固たる強い意志を秘めた、まこと英傑らしいお姿であった。
何よりも大きいのが素晴らしい。何処がとは言わないが。
「副頭領殿も、ささっ」
「あ、はい……」
今の今まで空気に徹していたそれがしも、場の雰囲気にのまれて部下たちに押され、民衆の前へと素っ首を晒すことになる。
「あー、ええと」
民衆から投げかけられる期待のまなざしに、それがしの胃がきりきり痛む。
「鬼嚢様の右腕、呉子遠様じゃ」
「立派な槍じゃのう」
これからも匪賊との激しい戦いは続いていくのだろうか。
……嫌だなあ。面倒くさいなあ。
玄徳殿の前で良い格好をしたい、それがしの功名心と、生来の無精と臆病風が心の内でせめぎ合っている。
優勢に立っているのは、目下のところ小心者陣営のようだ。
正直さ。都、帰りたいんだ。
帰ろうぜ?
帰っちゃおうよ。
今なら、伯母上も謝れば許してくれるって。
しかし、この場でそのようなことを言えば、身内から民衆から肉体的にも精神的にもぼこぼこにされてしまうことだろう。
それがしの持つ邪な心は空気も読める、できた子なのである。
だから、それがしはひきつった笑顔で贈られた槍を高々と掲げた。
――おおおおおおおぉぉぉっ!
義勇兵団の雄たけびがそれがしに合わせて巻き起こり、民衆の歓声が降り注いだ。
「副頭領! 副頭領!」
「お頭! お頭!」
そんな興奮のるつぼを切り裂くようにして、
「あぁーっ!!」
かねてより聞き知っていた懐かしき声が場に響いた。
ファッ!? こ、この声は……?
「……やっと、見つけたわよ! この無能、根性なし男ッ!!」
「ヒエッ!?」
金輪際会いたくなかった、恐ろしい上司との邂逅である。
ひいひいと、何か変な呼吸になってきた。
やはり、都には帰りたくない。