「ただいま」
私以外誰もいなかった部屋に、声が響いた。
部屋が暗いせいかしんみりとした雰囲気の中に響いたものだから、一瞬反応遅れて彼が帰ってきたことを知る。
けれど、私は迎えに行かない。いつもとは逆の選択肢をとった。
「あれ、誰もいない? いやでも鍵空いてたしなあ……飛鳥?」
やっとリビングに入り込んできた快。
今の私の姿はいつも彼と共にご飯を食べる食卓に顔を伏せている状態、思い返せば私がこんな事を彼の前でやったことはない。
それを見ての反応は「なんで?」といったところだろうか。顔をばれない程度に動かして彼を見やればバックを部屋の片隅に置いて私を見ながら何故こんな状況になってるのか考えている所だ。
「というかそれ、俺のYシャツ? アイドルとしてその服装はどうなの」
指摘された私の服装は現在、下着の上に彼のYシャツ一枚のシンプル(?)な服装である。
当然のようにそれしか着てないので下の方はうっすらとシャツから見えたりしているがそれをどうこう言うつもりはない。むしろそれで構わない。だってしょうがないじゃない、彼がいない今一番身近に彼を感じれる物なんてこれぐらいしかない。故のこれだ。
まあそれでも、足りないのだけど。
「……快」
「あ、起きてたんだ。どうしたの? それ」
「いいから、こっち来て」
「は、はい」
いつもより低い私の声に引き気味ながらも近づいてくる彼。そんな彼の首に手を回してーー彼ごと地面に倒れこんだ。
地面にぶつかった衝撃が体を襲い、痛みが走るがそれよりも彼の体から匂う明らかに彼のじゃない匂い、少し甘めな匂いが私の感情をより高ぶらせた。
「!? あ、あの、飛鳥さん!? これはどういったご冗談で!?」
まだ状況を判断しきれていない快あたふたとしている。
早く、早くその腕を私の背中に回して、心のわがままを口に出さず、ただ彼の胸に顔を埋める。
背中とは違う感触が愛おしい、愛おしくてしょうがない。
もっと、もっと。
「ねえ快、なんで遅かったの」
現時刻は9時手前、学校が終わる時間を考えても明らかに遅い。
彼はこんな時間まで遊ぶような人間ではないから考えれる可能性は学園祭の話が長引いたとかそんなところだろうか。
それがえらく気に入らなかった。その間彼は他の子と一緒にいたのだろう、微かに匂う匂いはそれだろうから。
強い独占欲が生まれて、それを表すようにより強く彼を抱きしめる。
「……ごめん」
「わかってるならいい。遅くなるなら連絡して」
ぶっきらぼうに答えると帰ってきたのは彼の手。
男であるために私なんかよりも大きな腕が背中に回って私を抱きしめた。
「……5回」
「へ?」
「5回よ、今日言われた回数」
無意識にとっていた唇に手を当たるという行動、今日だけで番組内で5回も注意された。
頭の中は彼の事しか頭になくて正直仕事どころじゃなかった。それほどまでに彼のアレは威力が凄すぎた。
だから、恋しくなった。触れたいのに側にいないじれったさといったらそれこそ最悪なものだ。
「話なら聞くから、まずは立とう。流石にこのままだと」
「貴方が悪いのよ。勝ち逃げよ、あんな事しといてすぐに行っちゃった貴方が悪いのよ」
「返す言葉もございません……」
目線をそらしていうものだから少しムッとして手を解いて彼の顔をこちらに向き直させる。
「さっきの質問の返答よ。私はいつだって辞めれるわ、辞めてあげるわ、貴方がそう望むのならば」
「あ、飛鳥?」
「辞めればこの服装を許してくれる? いつだってやっていい? 貴方と一緒に外に出かけれる? 私の行きたいところに貴方と一緒に行ける?
貴方に甘えれる? 目一杯甘えて最後に……キスしてくれる?」
それが己が欲だ。これが私の中にある願いだ。
時間が少なすぎる、二人に時間はあまりにも無さすぎて、悲しく虚しい。
彼に触れれる時間も、彼が私に触れてくれる時間も、世間一般的な恋人というには少し無さすぎる。
これが私がアイドルであるがためだというのならば、喜んで捨ててやる。
「ねえ飛鳥、今アイドルなんて辞めてやる、とか思ったでしょ」
「だって、貴方といられない方が辛いわ。そもそも私の意思で始めたものではないわ。どちらを取ると言われたら貴方を選ぶに決まってるじゃない」
別に、アイドルという職業に熱意がないわけではない。
やっている以上全力で取り組むしそれで喜んで貰えるならこちらもやった甲斐があると笑える。
けれどそれは、彼といる至福の時間に勝らない、いや、それ以外であったとしてもこれに勝るものは私の中に存在しない。
「貴方が居ないのは、寂しい……」
結局自分はただの女だ。好きな男の子の側にいたいだけの。
どこにだっている女だと教えてくれたのは彼、それはきっとこういう弱い自分も含めて言ってくれた過去の救いの言葉だ。
それを受け止めてくれる彼がそばにいない世界は、無色だ。なにもない灰色の世界だ。
そんな世界、私は耐えられない。
「いつだって側にいるって言ったじゃん」
「いないじゃない、学校でだって私が貴方と会うことなんて少ないどころかゼロよ。こうやっていられるのはここぐらい。そんなの嫌よ」
「そこは……許して?」
「嫌。私は貴方と居たい」
彼の優しい声で掛けられる声も、今の私は止められない。
どうしよう、止められる自信がない、止まらない。
欲望が、嫉妬が、怒りが、どれも止まらない。
「ねえあす……んん!?」
彼が私の名前を呼ぶ前に、唇を重ねた。
勢いがあったせいで歯が当たったけど知ったことではない。
「ちょ……まっ!」
彼の言葉を無視してひたすらに彼の唇に自らのを押し付ける。
時に優しく、時に強く、ただひたすらに貪る。
甘い、甘い。
口内を満たす甘い味、もっと味わいたくて次の行動に出ようとした、
その刹那。
私の唇がこじ開けられて、何かが入ってきた。
朝に感じた感覚、さらに強みを増したそれを彼の舌だと判断するのに数秒かかった。
さっきまで受けだったはずなのに、いつの間にか立場が逆転し私の口の中を蹂躙して、そっと離れた。
私と彼の口を銀の糸が繋ぐ。一瞬で途切れた糸に勿体無いと感じたのはきっと今だけだろう。
「これで十分?」
「……まだ」
「これ以上をねだられるのはさすがに危ない気がするんんだけど。君の服装、見てる方もそれなりに厳しいの、お分かり?」
出来るならここで止まってほしいなあ、なんていうものだからついついいつもの私の対抗心が浮かび上がった。
絶対わかってやってる、私がまだほしいのを分かった上で言っている。
けれども、昨日あれだけさせてしまったし、今回は止めておこう。
彼には準備があるし、何よりも私が楽しみで仕方ないそれを私のせいで潰すのもどうかと思うから。
だからこれで終わり、そういう意思を込めた今日最後のキスを、彼に送った。