ブリジットという名の少女【Re】   作:H&K

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いつもより800字くらい少ないですが、前回の引きで長引かせたくないので、投稿します。


第十七話「一マイル向こうの少女(愛した人の言葉)」

 空が高い。秋だ。雲が風に流され、ゆるゆると川をつくっている。穏やかな昼下がり。芝と点在する林が美しい高原でユーリは冷たい鉄塊に全神経を注いでいた。

 M107セミオートライフル。12.7㎜弾という強力な銃弾を吐き出す、遠距離狙撃を行うためだけに造られた米国製の狙撃銃。

 何処かで鳥が鳴き、風が木の葉たちを指揮している。葉っぱ一枚一枚の潺がユーリの身体を溶かしていった。

 

 風景に似つかわしくない破裂音が空気を引き裂く。遙か彼方の、肉眼では凡そ確認することの出来ないターゲットがどうなったのかはその場からは一切窺い知ることが出来ない。

 近くに控えていた情報屋が面白半分で双眼鏡を取り出し、数瞬のあと息を呑んで見せた。

 彼は化け物を見るかのような目で隣で寝そべっていたユーリを見定める。

 

「おいおい、GPSの誘導でもついてんのか」

 

「馬鹿言え。これよりもっと遠距離でやりやがった奴だっている。しかも実戦でだ。3000メートルの壁は途方もなく高い。これは凡そ1マイル。1500メートル弱だ。褒められた距離ではない」

 

 情報屋は何も言わなかった。彼はただ「雇い主」にユーリの腕を確かめてこい、と命じられたものだからここまで足をわざわざ運んできたのだ。人外の怪物の機嫌を損なうほど愚かではなかったし、給金以上の働きをするほど勤勉でもなかった。

 

「しかしこれは良いライフルだな。よくもまあ、米陸軍だけが保有しているおもちゃをはるばるこんなクソッタレな国まで運んでこれたな」

 

「ふん、あの方の政治力を舐めない方が良い。この国で凡そあの政府の犬どもと相手取れるのは文字通り彼だけだ」

 

 ユーリは銃身が冷めつつあるM107ライフルをそっと手のひらで撫でた。これからは命と彼自身の願いを預ける相棒だけに、殊更感情移入しているのかもしれない。

 

「政治力、ね。成る程力こそ正義か。この世の真理だ。護るべき力なき者は悪たる悪よりも地獄に落ちるのが相応しい」

 

「お前も力はあるだろう。それをあの方の為に振るえ。そうすれば悲願は叶う」

 

 情報屋の言葉にユーリは「はっ」と唾棄するように嗤った。そして仄暗い色を讃えた瞳で情報屋を睨み付ける。

 

「狙撃なんてのはな、獲物のことを想えば思うほど簡単に弾が吸い込まれていくんだよ。そいつの生まれ、人生、思想信条、家族、恋人、そして最期に口にした食事——そこまで想い至れば中てたくなくても中るものなんだ」

 

 最期の晩餐ね、と情報屋は鼻で笑う。だが不思議とユーリの告げたことはその通りであるような気がしていた。獲物のことを知り尽くせば知り尽くす程因果が結ばれ、殺す者と殺される者の運命が定まっていくのかもしれない。

 

「だからこそ、あの時俺が弾丸を外したのは彼女のことを何も分かっていなかったからだと思う。俺は彼女のことを何も知らなかったんだ」

 

 ふと空を見上げた先、鳶が一匹くるくると旋回を続けていた。いつか恋い焦がれた瞳の色が青い青い空の真ん中で輝いている。ユーリは徐にそちらへ銃口を向ける。手持ちで構えるには重すぎる超重量級のライフルだったが、鍛え抜かれた鋼の肉体に固定されたライフルは一切のブレを見せることがなかった。

 

「——もう二度と外さないさ。奴のどたまをぶち抜くそのときまで」

 

 もう一度、甲高い破裂音が周囲に響き渡った。

 

 

01/

 

 

 M107ライフルの習熟に割り当てられた期間は僅か三日だった。M700ライフルの射程に不安が残るとして、急遽現場に二種類のライフルを持ち込むことになったのである。それはつまり1キロ超え、ひょっとすると1マイル以上、1.5キロ超の狙撃すら可能性に浮上しているということだ。

 

「どうやらやっこさんたちはかなりの凄腕を用意しているらしい。まさかそんな人材が在野に転がっていたとは、クソッタレにもほどがある」

 

 俺の訓練に付き合ってくれているアルファルドのぼやきに対しては、口にこそしないが全面同意だ。五共和国派たちに紛れ込ませたスパイから此度の暗殺計画を掴んだらしいが、それ以前にもっとこの国はするべき事がたくさんあるように思う。

 

「M107は12.7㎜弾。M700よりもさらに遠距離の狙撃が可能だ。初めて扱うライフルだが、二人で何とか形にしてみせよう」

 

 慰めの言葉を吐き出しながらアルファルドが無線の電源を入れる。この演習場の遙か先、1.5キロ地点でターゲットの設営を手伝ってくれているトリエラ組に対して、準備完了の合図を送るためだ。

 

「もう間もなくブリジットが狙撃を開始する。ほぼ大丈夫だろうが、念の為に待避所に入ってくれ」

 

 アルファルドがこちらに目配せをした。俺は特注の馬鹿でかい軍用ライフルスコープを載っけたライフルを腹ばいで構え、遙か彼方に設置されているであろうターゲットを探した。

 

 ——想像以上に小さいターゲットの影に思わず息を呑む。

 

「風はほぼない。あちらもこちらも無風だ」

 

 狙撃条件として今の気候は最適なのだろう。湿気も少なく、太陽は南中しており光の屈折も考慮しなくて構わない。

 けれどもこれはさすがに——。

 

「——ブリジット、あちらから連絡だ。右に15センチ、だそうだ」

 

 破れかぶれに放った弾丸は当たり前というか、ターゲットに対してかすりもしなかった。

 俺の狙撃の公式記録は凡そ1キロ。それよりもさらに0.5キロ以上も向こうの的を狙うことがこんなにも困難なことだとは思わなかった。

 

「弾着確認。右に7センチ強。下に4センチ。大丈夫だ近づいてきている」

 

 ボルトを引く度に照準がぶれる挙動が地味に煩わしい。確かにアルファルドの言うとおり至近弾は増えているのだろう。だがそれは無風かつ晴天というあり得ないくらい恵まれた条件下のことであり、本番ではほぼ一撃で敵対スナイパーを撃ち抜かなければならないのだ。こんな悠長に弾着観測をして修正を繰り返している暇なんて存在しない。

 

「——弾倉を一つ使い切ったか。一度休憩を挟もう。再開は一時間後だ。一息入れてもう一度チャレンジしよう」

 

 多分俺の焦りを見抜かれていたんだろう。本来ならば弾倉二つ分を消費する予定であったのが、凡そ半分で切り上げられてしまった。木箱でこしらえた即席のベンチに腰掛けて空を見上げてみれば、憎らしいくらいの晴天が広がっている。

 

「お疲れさん、ブリジット。初っぱなから至近弾叩き込んでくるものだから、驚いちゃったよ」

 

 小型のバギーを使って、ヒルシャーとトリエラの二人がターゲットポイントから帰ってきた。1.5キロという距離は人間の元のスペックでは歩くのも見通すのも余りにも遠すぎるのだ。

 

「いえ、至近弾では駄目なんです。命中させなければ意味がありません」

 

 慰めようとしているわけではないのだろう。トリエラのことだから本心から俺の狙撃を賞賛してくれている。けれども今求められているレベルはそんなものではない。もっと確実な成果を残さなければ任務を達成することは不可能だ。

 

「ブリジット、自身の成績をそんなに卑下してはいけない。公社の義体で弾倉一つをあれだけの範囲に纏められる少女がどれだけいるとおもう? ジャンのところのリコですら30センチ範囲が限度だろう。君は1.5キロ先の空間に凡そ20センチ以内で収めて見せたんだ。これを偉業としてまずは誇りなさい。その上で落ち着いて練習を重ねれば良い」

 

 驚いた。まさかヒルシャーからこんな風に諭されるとは思っていなかった。てっきりトリエラ以外に余り興味を持っていない御仁だと考えていたのもだから数瞬反応が遅れてしまった。ただそれを都合良く解釈してくれてたのか、ヒルシャーはアルファルドに一つ目配せをして、木箱の上に腰掛けていた俺に視線を合わせてきた。

 

「それに君にはアルファルドという素晴らしい担当官がついている。この男は見かけによらずとんでもなく優秀だ。君一人が目標を達成しなければならないのではない。二人で結果を掴み取るんだ。——君たちはフラテッロだろう?」

 

 アルファルドに囁かれたときほど、すとんと言葉が内側に落ちてきたわけではない。けれども何というか、どことなく確かにそういうものだな、と険は少しばかり取れた気がする。

 

 もう一度空を見る。いつの間にか鳶が頭上をくるくると飛び回っており、その様子に小さな笑みが口元に滲んだ。

 

 

02/

 

 

「いいねえ。このアフォガード。苦みと酸味、そして甘みが絶妙だ。私はあらゆる甘味が大好きだけれども、これはなかなかの一品だと胸を張っていえるよ」

 

 赤い女がへらへらと笑う。癪に障る笑みだ。私は脳天気で人生バラ色ですよー、と周囲に振りまいている笑みだ。どうせその作り物の仮面の下には碌でもない半生があるだろうに。

 

 ヒルデガルト・フォン・ゲーテハルト。

 

 イタリアがまだ諸国連合で、王国も公国も教皇国家も並び立っていた時代から名士をやってのけていた家の出だ。父親は与党の重鎮議員であるアルゴスティーノ・フォン・ゲーテハルト。マフィアとの癒着や数々の政治不正が囁かれる、いわゆる嫌われ者である。彼には現在三人子どもがいるが、ヒルデガルトはその中で最年長。ただし、アルゴスティーノの今妻とは血が繋がっておらず、母親は誰か公表されていない。それ故、家内での立場は決して盤石なものではないだろう。

 

 軍警察の伝手を辿って得られた情報はそれだけだった。付きまとわれるようになったその日から、ユーリは少しずつ目の前の女のことを調べ始めていた。軍警察である自分に近づいてきたハニートラップの可能性も考慮してのことである。

 だが結果は尽く白。少なくない金子をはたいて雇った探偵や情報屋も同じ結論を返してくるばかり。

 

 ただ、一つ気になるのは。

 

「——お前、家に帰ることができていないのか」

 

 ふとヒルデガルトの饒舌な口が凍った。彼女の小さくなった瞳孔が、鳶色の瞳がこちらを見ている。バラ色の笑みでこしらえた仮面は砕け散っていた。

 

「モーテルや友人の家を渡り歩いているようだな。もうそろそろ子どもを卒業とはいえ、感心される生き方ではないな」

 

 これはまいったな、とヒルダが乾いた笑いを漏らした。そして「なかなかどうして、出来る大人というものはこんなにも恐ろしいんだね」と自虐的な笑みを零す。

 

「君なら知っているんだろう? 私の父親のことを」

 

 返答は首肯だけにした。いらぬ言葉を返すつもりはない。情報のアドバンテージはまだ手放すべきではないと直感が囁いていた。

 

「——父は後継者を弟に定めた。言葉こそ口にしなかったが、前妻の娘は邪魔だったみたいだ。限度額不明のカードとボストンバッグ一杯の現金、それと幾ばくかの生活用品が詰め込まれたスーツケースが私の部屋に置いてあったんだ。どうやら弟は私が家庭内にいることが耐えられなかったらしい。いらぬ内紛を引き起こすくらいなら、面倒は見てやるから出て行ってくれ、と伝えられたわけだ」

 

 知らぬ情報の瀑布だった。どうやら思春期の娘が親に反発して飛び出してきたのとは訳が違うらしい。その証拠に彼女の鳶色の瞳は嘘の色を一切纏っていない。観念して悪事を自白するような弱々しい犯罪者のような有様だった。

 

「あの日はさ、本当にたまたま厄介な手合いに絡まれていたんだ。放浪生活にも慣れて油断していたのかもしれない。自棄になってアパートメントの契約すらしていなかった自分を呪ったさ。これで警察の厄介になったらいよいよ面倒なことになるぞ、とか、そもそもこいつらが私を無事に帰してくれるだろうかとか」

 

 にへら、と彼女が笑った。それはヒルデガルトという少女が本来持ち得ていた、本当の意味での笑み。

 

「嬉しかった。不安と絶望でパニックになっていた私を救ってくれた君は間違いなく私の騎士だったよ。人のことを好きになることなんて今までなかったから、これがそうなのかはよくわからないけれども、私はもっと君といろんな話をしたいな」

 

 どういう言葉を返せば正解だったのかは未だにわからない。

 けれどもユーリは咄嗟に、不器用に、ぶっきらぼうに、こう口走っていた。

 

「今日は奢ってくれるんだったよな」

 

 伝票を置いたまま、席を立つ。「あっ」と彼女は小さな声を漏らしていた。捨てられそうになっている子犬のような眼がどこか可笑しい。

 

「次は俺持ちだ。イタリア男のプライドは守ってくれよ。この糞餓鬼め」

 

 

03/

 

 

 社会福祉公社のミーティングルーム。大物議員の暗殺阻止計画はいよいよ大詰めとなっており、関係各所の最後の打ち合わせが行われたところだった。

 ブリジットの待機ポイント、下手人の出現予測範囲、アルゴスティーノの行動予定などがそれぞれの共有され、会議は四時間ほどでお開きとなった。しかしながら各自が退出していったミーティングルームに居残っている影が三つ。アルファルド、ヒルシャー、そしてラウーロの三人だ。

 彼らは机上に20センチ四方の鉄板三枚を見下ろしている。

 

「——化け物だな。よくもまあ、ここまで三日で纏めてみせたものだ。天賦の才というものはこれだから手に負えない」

 

「僕もラウーロに同意だ。彼女に投げかけた言葉に嘘偽りは無かったが、まさかこれほどとは思っていなかった。最終日、三つ用意した弾倉で外したのはいくつだ?」

 

 中央部が大きく抉れ穿たれた鉄板たちを見つめながら、アルファルドは「ゼロだ」と絞り出すように言葉を返した。

 

「最後の方は穿たれた穴を弾丸が通り抜けていくものだから、僕には命中しているのかどうかさっぱり判断ができなかった。トリエラが減速する弾丸を何とか視認して判定を下していたくらいだ。恐らくこの国で彼女を超えるスナイパーは存在し得ないだろう。だからこそ、今の社会福祉公社の雰囲気は好ましくないと思う。誰もが此度の作戦の失敗を疑っていないんだ」

 

 アルファルドが手近な椅子に深く腰掛けた。そしてそれまで誰にも見せてこなかった、深い深い怒りの色を表情へと上乗せしていく。

 

「必要とはいえ、自分を殺そうとした父親を彼女に救わせることになってしまった。正直、ブリジットが狙撃を成功させる目処が立たないまま作戦の見直しを願っていたんだ。だが彼女は上層部の期待に見事応えてしまった。わざわざ不慣れな12.7㎜弾だって用意して、チークパットだって彼女に不適なものを言いくるめて装着させていたのに」

 

「——今の台詞は聞かなかったことにしてやる。だが胸糞が良くないことには同意だ。これほど悪趣味な脚本を描けるとは、どうやら神様はよほど人間の業というものが愛おしいらしい」

 

 ラウーロの皮肉交じりの言葉に、アルファルドは全くその通りだ、と笑った。そしてもう一度鉄板達に向き直りながら、静かに火を点した瞳でそれらを睨み付ける。

 

「もうここまで来たら彼女を無事に任務から帰還させるだけだ。彼女は何も知らないまま、無傷で帰ってきてくれればいい」

 

 

04/

 

 

「ねえ、ブリジット。昨日からとんでもなく命中率が上がっているけれど、何かコツでもあるの?」

 

 風呂上がり、俺の髪をメンテナンスしてくれていたトリエラがそんなことを聞いてきた。

 確かに彼女の言うとおり、初日から見違えるように遠距離狙撃が成功するようになっていた。何かが劇的に改善したわけではないのだが、確かに結果は全く違ったものになっている。

 おそらく十数秒、俺は自身の手のひらをじっと見つめながらどう返答するべきなのか考えていた。

 そしてようやく口をついて出てきた結論は本当に無意識の言葉だった。

 

「——相手のことをとことん知るということだと思います」

 

 は? 何を言っているんだと自分でも思った。鉄板の何を知れば狙撃に影響するというのだ。でも一度動き出した口は俺の意思とは無関係にトリエラにわけのわからないことを発し続ける。

 

「狙撃なんてのは、獲物のことを想えば思うほど簡単に弾が吸い込まれていくんです。それの生まれ、人生、思想信条、家族、恋人、そして最期に口にした食事——そこまで想い至れば中てたくなくても中るものなんです」

 

 馬鹿じゃないのか。鉄板が何を食べるというのだ。多分訓練に根を詰めすぎて少しおかしくなっているのかもしれない。

 事実、呆気にとられたトリエラの手は止まり、気不味い沈黙が部屋を支配している。

 

「ごめんなさい。今のは忘れて下さい」

 

 まだ髪は途中だったが、俺はトリエラを振り切ってベッドに潜り込んだ。そしてなくさないように、と訓練の時は外していた指輪のネックレスを枕の下から取り出してぼんやりと眺める。

 

『——意外と忘れないものだね。本当に愛おしいものは』

 

 それは嘘だと思う。

 

 


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