相も変わらず農作業に勤しんでいるのであろうクラエスのところに水筒を持っていった。別に日課という訳ではないが、ときたまこうして気を遣うことくらい俺にもある。ついでにクラエスが所望するのならばそのまま作業を手伝うこともあった。
「ああ、ブリジット。良いところに来たわね」
クラエスは木陰で休んでいた。畑の近くにある大きな木の根元だ。彼女は小さなシートを広げて額の汗を拭いつつこちらを見上げた。
「いつもありがとう。でも今日はこれを見て欲しいの」
言って、クラエスが何かを持ち上げてみせる。それは黒い生もの。いや、猫だった。本当に骨が入っているのかと疑わしくなるくらいには縦にだらりと伸びた、小さな黒猫。
鳶色? の瞳とバッチリ目があう。
猫は小さく「にゃあ」と声を上げた。
「——これは?」
「見ての通り猫よ」
「いや、それくらいはわかるよクラエス」
多分むっとした非難染みた視線を送っていたのだろう。彼女は「ちょっとした茶目っ気よ」と苦笑を一つ漏らすと、猫を抱えたままことの経緯を説明してくれた。
「作業をしていたらいつのまにか近づいてきて、そのままじゃれついてきたの。首輪とかはないから多分野良だとは思うのだけれども、それにしては随分人懐っこいわ。全く、何処かの誰かさんみたい」
本当、どこの誰のことをいっているのだろうね。この子は。
ま、クラエスの小さな皮肉なんて所詮はジャブみたいなものだ。いわゆる正論を口にしたときこそ、この子は一番怖くなる。
「ま、放っておけばそのうち何処かに行くでしょうし、今だけちょっと遊んであげたら? 今日の作業は大体終わってるしね」
はい、ととんでもない気軽さで猫を胸元に押しつけられた。恐る恐る抱きかかえてみればそれは己の腕の中で身を器用に捩って、収まりの良い姿勢を自然と見つけ出す。
そして「くあっ」と何とも間延びのした声で暢気に鳴いて見せた。
「あはは、猫が猫を抱きかかえてる。アルファルドさんに見せてあげたいわね」
死んでもゴメンである。というかこっちを猫とからかう言動、遂に隠さなくなってきているのか。
俺は猫をそのままに、クラエスの隣へと腰掛けた。
「——本当に静か。こんな毎日がいつまでも続けば良いのに」
風が木々を揺らし、葉のすれる音が頭上から降り注ぐ。午後の柔らかくて暖かい日差しが俺たちの膝から先を照らしていた。黒いタイツ越しに感じる熱が何とも心地よい。
「難しい仕事、言われたんでしょ」
どれくらいそうしていただろうか。猫が3度目の欠伸を漏らしたときクラエスが徐に口を開いた。
俺は猫の小さな額を見つめたまま「ええ」と短く言葉を返す。
ただそこから先の言葉は自分でも驚くくらいすらすらと紡がれた。
「こんな暖かな風とは比べものにならないくらい、冷たくて激しい風が吹きすさぶビルの間からの狙撃です。与党の重鎮を狙った暗殺を阻止せよ、と言われました」
「トリエラが言っていたわ。このところ、ブリジットがいたく緊張しているって。でもあなたにとってはこの風も、ビル風も大した障害にならないでしょうに」
強い視線を感じ、隣に顔を向けてみればクラエスの両の瞳と目が合った。俺の視線はそのまま大きな二つの瞳に固定される。
「——人を撃つだけなら簡単です。でも、それの結果如何によってターゲット以外の他の誰かが死ぬ可能性があるのは初めてです。私は誰かを守るために狙撃をしたことはありません」
そう、とクラエスが目線を下に向ける。彼女は猫を見ているようで見ていなかった。
「それは責任重大ね。私たちの仕事はいつだって失敗は許されないけれど、今回は特にそう。でもあなたならきっと出来るわ。今までだって絶望的な戦いを幾度となく乗り越えてきたあなたなら」
いつの間にか陽が雲に隠れていた。肌寒さを感じたのは俺だけではないようで、自身の肩をそっと抱くクラエスが口を開く。
「今日はもう戻りましょうか。——で、その猫はどうする?」
いつの間にか猫は俺のニットにしっかりと爪を立てながらしがみついて、規則正しい寝息を立てていた。
01/
「きちんと世話をするのなら、飼っても構わないよ。予防接種やそれぞれの診断は俺が今度獣医に連れて行こう」
担当官に割り当てられた執務室。ほんの少しだけの煙草と、濃厚なコーヒーの匂いがするアルファルドの部屋だ。
「それと、ようやく眼帯が外れたんだな。本当によかった。綺麗だよ」
彼の目線は既に眼帯の取れている俺の右目に注がれている。イタリア男らしい、自然な口説き交じりの褒め言葉にどこかしらむず痒さを感じた俺は悲しいことに皮肉で言葉を返してしまっていた。
「ええ、おかげさまでこの部屋の掃除も捗りそうですね」
別にそこまで散らかっているわけではない。精々本棚から取り出されたファイルたちがそのまま床に詰まれ、ジャケットがソファーに投げられているくらいだ。彼ならばものの二、三分で片付けてしまうだろう。
だがアルファルドは気を悪くした風もなく、「いつもすまないね」と苦笑交じりの言葉を漏らすだけだった。
しかもさらっとそのままコーヒーの用意まで始めて、気がつけば彼とソファーの上に膝を並べることになってしまった。投げられていたジャケットが俺の小さな肩に掛けられる。
「外の作業で冷えただろう。少し暖まっていきなさい」
ほんと、イタリア男って奴は。
きらい。
あ、でも彼のルーツはドイツ人か。
「ほら、砂糖少なめ。無脂肪調整のミルク多めだ。甘いものが苦手な君は多分このトッピングだったな? この前、コーヒースタンドによった時のうろ覚え程度の知識だから間違っていたらすまないね」
程よく温いカフェオレが手元に収まる。アルファルドはブラックのままコーヒーカップを静かに傾けていた。
「——ところでブリジット、仕事の話があると言ったらどうする?」
両手でカップを包み込むように持っていたアルファルドがそっと口を開いた。一口で飲み干したからなのか、彼のカップは空になっている。
「? 仕事ならこなさなければならないでしょう? 聞かないなんて選択肢はあるのですか?」
最初、アルファルドの言葉の意味がよくわからなかった。この体は義体で、義体は公社の備品であり、命令に対して俺がどうこうできる余地など微塵も存在していない。やりたいやりたくない、ではなくやるか処分されるか、なのだ。
「いや、すまない。変なことを聞いたな。明日のミーティングで本来は伝えるはずだったのだが、折角の機会だ。今から内容を伝えても構わないか?」
首肯を返した俺にアルファルドは一冊のファイルを持ってくる。彼はそれを俺に見えるように隣で開いた。
「カウンタースナイピングの話はこの前に伝えたな?」
言われてピンときた。つい先日アルファルドから伝えられた、与党の重鎮暗殺を阻止するミッションのことだ。
「ええ、そのための訓練も今重ねているところです。ジャンさんから、敵狙撃手の探し方をレクチャーされています」
「そいつは結構。彼は経験豊富な男だ。その教えから学べることは多いだろう。で、だ。カウンタースナイピングの詳細がつい先ほど詰められた。この地図を見てくれ」
膝前のコーヒーテーブルに大判の地図が広げられた。見たところ、ミラノの高層ビル群を収めた地図のようだ。ここまではあらかじめ聞かされていた任務内容そのままである。
「一応、作戦の概要を確認しよう。俺たちが挑まなければならないのは政府要人の暗殺阻止だ。下手人は狙撃によって要人を始末しようとしている。そこへ強烈なカウンターを叩き込むのが大筋の流れだが、一つ変更点がある」
「変更点?」
「ああそうだ。これは君の狙撃の腕を見込んだ課長からの提案なんだが、下手人を出来れば殺さないで欲しいんだ。どうも今回の暗殺計画は単独犯で起案するには少々無理があるらしい。公社としてはその背後に潜む奴らの尻尾を掴みたいようだ」
——成る程、道理と筋は通っている。だが一つだけ問題がある。アルファルドはこう言ってはいるが、俺にそんな器用なことが出来るだけの腕がないということだ。
確かに狙撃に関してはリコに比肩するくらいの腕を持つ自信はある。だがこれまで培ってきた訓練は全てターゲットの頭部をぶち抜くためのものがほとんどだ。
7.62㎜以上の弾丸が持つ殺傷力で対象を殺さず無力するなど殆ど不可能だと思う。何処に叩き込んでも失血死するのがオチだ。
俺の懸念を読み取ったのだろうか。険しい表情のまま固まった俺の肩をそっと抱いて、アルファルドは優しく諭してきた。
「下手人は君にカウンターを受けたのち、直ぐにトリエラとエルザ、ヘンリエッタが確保する手筈になっている。公社の医療班も待機する予定だ。少々の弾疵くらいなら何とかなるだろう」
だが狙撃の難度が悪化しているのは間違いないのだ。最低限7.62㎜弾、理想は12.7㎜弾以上を考えていた俺からすればそんなことで懸念が全て消えることはない。強風吹き荒れるオフィス街の上空、文字通り針の穴を狙うような狙撃精度が求められるようなミッションである。ましてや威力に劣る7.62㎜弾。果たして下手人に弾が届くかどうかすら怪しいラインだ。
「——練習、します。だから今以上に演習場を押さえて下さい。猫なんか拾っている場合じゃなかった」
絞り出すように出した言葉は悲しいかな、諦観と絶望がぐちゃぐちゃに絡み合った少しばかり投げやりなものだった。
02/
——撃って! ユーリ!
彼女の唇がそう動くのがスコープ越しに見えた。耳穴にねじ込まれたカナル型無線はしきりに犯人射殺を俺に叫んでいる。
震える指先が何も言うことを聞いてくれない。人質を取ったテロリストの銃を持った親指を吹っ飛ばしたことだってある。何なら人質の立ち位置、こちらの視界、狙撃位置、全てが今以上に難しい任務だった。
なのに今、ユーリは引き金を引き絞ることが出来ない。
絶対零度の氷に押し潰されたかのように、彼は寝そべった狙撃姿勢のまま瞬き一つすることなく、動けなくなってしまっていた。
眼が醒める。
生活用品が乱雑に散らばったアパートメントの片隅で彼は覚醒した。床に敷いたマットレスから身を起こしてみれば多量の寝汗が滝のようにしたたっている。
湿気った髪を掻き上げ、彼は鍛え抜かれた肉体を子どものように縮こめて、小さく息を吐いた。
「大丈夫、大丈夫だ。ヒルダ。俺が必ず全てを精算してみせる」
ユーリはのそのそとその場から立ち上がり、窓際に立てかけた写真立てに視線を向ける。いつか自分が一番幸せだった頃の写真。赤毛の少女と心を通わせていた懐かしい記憶。
ユーリがヒルダという少女と出会ったのはまだ彼が軍警察としての誇りと地位を身に纏っていた時の話になる。出会いそのものは本当に平凡なものだった。彼が息抜きとして週末に通っていたレストラン。その店の前で軽薄な輩に絡まれていた彼女を救ったのが全ての始まり。
正義と治安を維持する公人としての当然の振る舞いをしただけだと、最初ユーリはヒルダを袖にしていた。自分はもう20代の終焉が見えていて、全盛期の肉体の下降線が顔を覗かせていた頃。いくらティーンの後半とはいえ、まだまだ小娘然とした赤毛の少女をまともに相手にするつもりなど毛頭なかった。
だが彼女は快活で明朗で美人で、そしてしつこかった。
ユーリが件のレストランの常連だと知るとほぼ毎週のように出待ちをされるようになった。
たかだか小娘の出待ち程度でお気に入りの店を変えるのが癪だったのもある。食事後絡まれる度にユーリは彼女を適当にあしらう日々が続いていた。それが3ヶ月ほど続いたとき、いよいよユーリはヒルダの「お礼に食事をおごらせて欲しい」という申し出を渋々受け入れ、レストランに初めて二人で入店することになった。
「いいか、これが最初で最後だ。俺にも立場ってものがある。あんたみたいなお嬢ちゃんを相手にして世間様が許してくれるような人間じゃないんだ」
「ふふっ、わかっているよ。でも随分と詰まらないことを気にするんだね。そんなにも世間様は大事なのかい?」
ヒルダは一言で言えばませた糞餓鬼だった。そのくせ、言葉の端々から育ちの良さと教養の高さが滲み出ている物だから、叩き上げのユーリは面白くなかった。10代の自分が喧嘩に明け暮れて馬鹿をやっていたことを思い出しては、言い様のない劣等感がどうしても滲み出てくるのだ。
「俺はそんな世間様を維持するための仕事をしているんだ。残念だったな」
ついで、ヒルダは本当に美しかった。顔立ちの整い具合で言えばそこまで飛び抜けているわけでもない。だがはっきりとした意志の強さを宿した鳶色の瞳と、ミディアムショートの明るい赤毛が見る者を惹き付ける不思議な魅力があった。事実、邪険にしながらもユーリはそういったヒルダの一面は素直に認めていた。
「ふーん、まあいいんじゃない? 何に価値を見いだし、何を尊ぶかなんて人それぞれだ」
多分、最初の食事で為された会話は酷いものだったと思う。ユーリが何か言葉を口にすれば、ヒルダがそれに関する感想を述べて、ユーリがさらにそれに噛みつくというパターンの繰り返しだった。端から見れば随分と険悪な二人に見えただろう。
だが不思議と会話はそれなりに続き、気が付けば一人で過ごすよりも長い時間、店に居座ることになっていた。
「なあ、会計だがやっぱり俺が」
「イタリア男の悪い癖だよ。女性をもっと本当の意味で立てることを覚えた方が良いと思う」
「俺はイタリア系じゃねえ」
ウェイターへ支払いを済ますとき、彼女は財布から鈍く光る黒いカードを取り出していた。ユーリはさりげなく横目で、しかしながらしっかりとそのカードを見逃さなかった。軍警察で培われた観察眼が、彼女は本来こんな所で食事をするような身分ではない人物であることを見抜いていた。
「さて、今日はもうお開きかな。ところで私におごられたことが気がかりなら、来週はあなたに会計を頼もうかな。次は隣の席のカップルが食べていたアフォガードが気になるし」
はあ? とユーリは酷く機嫌の悪い声を出していた。この女は「最初で最後」という言葉の意味をわかっているのだろうか。
「おや、何か不服そうだね。でも私はあなたの『最初で最後』という言葉を了承したかな? あなたの勝手な思い違いでは?」
無視した。これ以上は付き合いきれないとユーリはレストランをあとにする。どうせ明日からは厳しい訓練と無駄に喧しい上官を相手取らなければならないのだ。貴重な休日をこれ以上浪費したくなかった。
ただ、結論からいえば。
翌週も彼はヒルダとテーブルと共にすることになったのだが。
03/
アフォガードが溶けていくのをぼんやりと眺めていた。
ブリジットの担当官であるアルファルドが食堂から失敬してきたバニラアイスに、お高いコーヒーメーカーから抽出したエスプレッソを直接注ぎ込んだ代物だ。訓練に疲れているブリジットを労って用意された物だったが、彼女はまだそれに手をつけようとしていない。
アルファルドの執務室は今、荒れに荒れまくっている。ブリジットがライフルから弾丸まであらゆる組み合わせを演習で試し、それらをバラしては彼の部屋で調整するというのを繰り返しているので、銃の部品からライフルスコープまで所狭しと散乱しているのだ。
「——やはり7.62㎜のレミントンという組み合わせか。MKー18はどうだった?」
「素晴らしい精度ですが、私には重すぎました。どうやらボルトアクションの方が合っているみたいです」
「ならばこのM700のストックを小型の物へ換装。チークパッドを多めにしてフィッティングを調整しようか」
公社が特注したレミントンライフルのストックを器用にアルファルドは分解していく。用意しておいてもらってどろどろに溶かし尽くすのも申し訳ないかな、とアフォガードが載せられたグラスを俺は手に取った。
「ああ、そのまま食べててくれ。調整はこちらでできる」
ふとアルファルドが背後に回って、俺の身体の前面に手を回してきた。手にはこれから換装予定のストック。どうやらこのままチークパッドの調節を行うようだ。
彼が愛用している香水の匂いと、エスプレッソ、そしてバニラ。とどめにチークパッドに染みついた硝煙の香りが鼻腔をくすぐる。
「——少し痩せてしまったな。もともと小食の君だ。心配になる」
いつのまにかアルファルドに手首を握り絞められていた。殆どセクハラのようなものだが、イタリアの美男がやると様になっているのが心底腹立たしい。あとこんなことで喜んでしまう自分なんて殺してしまいたくなる。
「必要な栄養はサプリメントと点滴で補っているから問題ありません。筋力の低下も定期試験では見受けられませんでした」
憎まれ口を叩いて心臓が痛む。嫌われることはないと分かっていても、身体を縛り上げる条件付けという鎖が俺の心をぐずぐずに腐らせていくのだ。少し俺の鼓動が早くなったことを脈拍から感じたのだろうか。アルファルドが優しく手を重ねてきた。
「大丈夫だ。君は最高のスナイパーだ。俺の知り合いにもたくさんの凄腕がいたが、君に勝る奴なんて誰もいない。君は君の才能を存分に発揮してくれ」
言葉は魔法だった。強張っていた躯が、凍り付いていた心根が少しずつほぐれ温まってく。そこに俺の意志なんて存在しない。そう造られた肉体が故に担当官の声に脳が歓喜の声をあげ、浅ましく尻尾を振ろうとするのだ。
少し体重を後ろに傾ければ、アルファルドがおっかなびっくりと受け止めてきた。
どうやらこの男、自分からリードすることに手慣れていても、こちらからリアクションを取られることには慣れていないらしい。
「ブリジット?」
「——てください」
「え?」
慣れないことを言ったからだろうか。早口だったのもあって彼に一言では伝わらなかった。
だから俺は——ブリジットはちょっと不機嫌そうにもう一度口を開く。
「これ、食べさせて下さい。訓練のしすぎで思うように指が動かないかも」
手の中にはもう殆ど溶けきっている、コーヒー色のミルク。
04/
こんな顔もするのだな、とアルファルドはブリジットの小さな口にスプーンを運びながら考えた。
クリームを口に含んだブリジットは上機嫌に眼を細めている。本人に告げれば烈火の如く怒り狂うだろうが、拾ってきた猫そっくりだった。
自分とこの義体の少女の関係は複雑でややこしい。ヘンリエッタやリコのような盲愛はなく、トリエラのような思春期特有の少女の反発があるわけではない。ただ、こちらに無条件に靡いてやるものかという強い意志を感じ、微かな、されど確固たる情を抱かれていることはわかる。
——スイーツを食べさせろ、とねだってきたブリジットは寒気を覚えるほど妖艶な笑みを讃えていた。
確かに大人びている少女ではあるが、あんな男を手玉に取るような表情は初めて見た。
アルファルドはブリジットの「元」になったある少女のことを思い、もしその少女の何かがブリジットのあの表情をつくりだしていたのなら——と背筋を震わせる。
条件付けは完璧。
元の人格なんて残っている筈がないのに、もしそうだとしたら? もしくはブリジットという殻を突き破って何かが這い出ようとしていたら?
それはお互いにとってある意味での破滅を意味する最悪の状況だ。たとえ健全な関係性でないとしても、アルファルドはブリジットとのこの奇妙な縁を慈しみ、かけがえのないものだと感じている。
もう一度、こっそりとブリジットの表情を覗き込んだ。
ふと鳶色の瞳がこちらを見る。盗み見ようとしたことが露見したことにどきりと肝を冷やしたが、ブリジットは何を勘違いしたのか眉を顰めて一言だけ言葉を発した。
「この女たらし」