ブリジットという名の少女【Re】   作:H&K

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お待たせしました。


第十四話「天使と悪魔(angela)」下

 死は天使の形をしてやってくると、ロマの老婆は言った。

 

 あれは数ヶ月前の出来事だったように思う。多分、ジャケットではなく半袖のシャツを着ていた記憶があるから夏のことだ。

 俺は乾いた草が詰まった袋を持ち運ぶ家業を終えて、歓楽街をふらふらと出歩いていた。

 雇い人のマフィアから手に入れた泡銭で、女衒の業者を探していたのだ。いろいろと溜まった世の中に対する鬱憤を遊んですっきりさせたかったから。

 通りで白い太ももをさらしている個人事業主を相手にしなかったのは、多分病気が怖かったから。そんな分別がつく癖に、仕事の分別はつけられないのだから人生とはわからないものだ。

 ふと路地の片隅で、薄汚れた麻色のフードを目深に被った老婆を見つけた。一昔前はジプシーと呼ばれていた移民の老婆だ。彼女は堅く俯いたまま身動き一つしないでそこに座っていた。

 ポケットの中にある紙幣の重みを勘定していたのはほんの気まぐれ。ここで少しばかり金を捨てていっても、十分に朝まで楽しめると知っていた。

 穢らしい行いで集めた金も、少しばかりの善行に費やせばちょっとはマシな存在になると思ったからかもしれない。気がつけば紙幣の一部を握りしめて老婆の前に投げつけていた。

 礼は待たなかったし、必要もなかった。頭の中は再び女衒の事で一杯になっていたからだ。

 だからこそ、背を向けたその瞬間に老婆に呼び止められるとはこれっぽっちも予想していなかった。むしろ声を出す元気があって良かったじゃないかと、的外れなことすら考えていた。

 

「——お恵みありがとうよ。見ての通り返せるものは何もないが、この年まで生きた老人の知恵を授けようじゃないか」

 

 振り返った先にあったのは、先ほどまでの老婆ではなかった。フードの向こう側から見える鳶色の瞳はぎらぎらと輝いていて、そんじょそこらの凡人の比ではない生気を感じさせるものだった。

 呪いの呪術師だと名乗られれば、信じてしまいそうになるほどの得体の知れなさがそこにある。

 

「あんた、死の臭いが漂い始めているよ。今はあんたについているだけだが、そのうちあんた自身がその臭いの元になる」

 

 はっきり言って、老婆の言葉の意味が理解できなかった。確かに堅気ではない人生だ。人よりかはくたばる手段は余りある。だが、臭いとはどういうことだ?

 

「やがて死臭を生み出す者はあの世からお迎えがくるんだ。死が来るんだよ。そして死はあんたたちが想像するような悪魔や死神の形をしていない」

 

 一拍の間。

 その間、老婆は俺の頭頂からつま先まで余すことなくじろじろと視線を向けてきていた。

 

「——死は、天使の形をしてやってくる。だからみんな気がつかない。救いだと思ってその手を握ってしまう。そしてそれがどうしようもない破滅だと知っても手遅れなのさ」

 

 老婆の言葉の記憶はそこまで。

 鳥肌のとまらなくなった俺はいつの間にか走り出していた。元いた歓楽街を走り抜け、手頃なバルに飛び込んでいく。店主は汗まみれの俺を訝しげに睨み付けながら、注文を催促してきた。冷たい、喉を潤すことのできる安酒を頼んだら、乱暴にグラスを押しつけられる。

 バルの窓から外を見ても老婆の姿はない。

 ただ顔を赤くした若者たちや、肌色の装いで男たちに声をかける女たちばかり。だが確かに目減りした紙幣の塊が、先ほどのやり取りが現実であったことを教えてくれる。

 

 ——金を払って不気味な忠告を頂くなんて馬鹿みたいだ。

 

 グラスを傾けながら、荒れた息を整えた。立ち飲みの集団の側でぼんやりと店内を見渡す。客はそれほど多くなく、それぞれの集団の会話がよく聞こえた。

 その中で、古びたカウンターで女を口説く男の姿が目に映る。

 金髪で彫りの深い顔立ちの男はさぞモテるのだろう。口説かれている女性はあれよあれよと態度を軟化させていき、男に垂れ掛かっている。

 先ほどの老婆とのあまりの落差に、俺は幾分か気が楽になっていることに気がついた。非日常から日常に帰ってこれた安心感がそうさせているのかもしれない。

 そして平時に戻った精神状態は俺に余裕をくれた。店内を広く見渡すことのできる視野をくれたのだ。

 

 最初は綺麗だな、という感想だった。

 

 店内の照明の隙間、少し暗がりになっている壁に寄りかかるように、女が立っていた。黒く長い髪を携え、人形のように白い肌、そして鳶色の瞳が美しい女だった。

 ロマの老婆と同じ瞳の色だが、こちらはなんというか宝飾品のようなそれである。生気を微塵も感じさせない、静かな瞳だ。老婆の不気味さを洗い流してくれるような気がして、俺はまじまじと女を観察してしまう。彼女はぼんやりと、だが確実にある場所へと意識を向けていた。

 意識の先を感じ取れたのは偶然だったかもしれない。

 店内の誰もが気がついていないようだったが、彼女の意識は女を口説いている男に向けられていた。視線はあさっての方向を見ているのに、女は間違いなく男を視ていたのだ。

 不思議な感覚だった。

 騒がしい店の中で、女と金髪の男、そして俺だけが取り残されたような感覚。

 

 それから暫く。

 

 俺はグラスをちびちびと楽しみながら、女と金髪の男を眺めていた。

 女は老婆と同じように身動ぎ一つせずに、虚空を見つめ続けている。それはまるで出来の良い彫刻のようで、何時までも眼に入れ続けることができた。

 不快感などまるでない。

 胡乱な観察劇が終わりを告げたのは、男が口説いていた女と店から出て行ったその時。

 取り残された鳶色の瞳を持つ女は、小さく息を吐き出すと男と同じように店を出て行った。だがその後に向かったのは男と真逆の方向。

 露骨に後を追いたくはなかったので三十秒ほど時間をおいてから俺も店から出た。

 

 男も女も姿は見えない。

 

 この時、俺はすっかり老婆の不気味さなんて忘れていた。ただもう一度、女に出会ってみたいと漠然と考えていた。それくらい、彼女は美しく、なんならあんな調子の天使ならば最高の人生の終わりだと感じたほどだ。

 

 でもその脳天気さは間違いだったと、数ヶ月後に知ることになる。

 文字通り、勉強代は自分の命で。

 

 老婆は間違っていなかったのだ。

 

 

01/

 

 

『こちらブリジット、アパートメントの正面を押さえました。見張りはトリエラが処理しました。いつでも内部を蹂躙できます。HQ どうぞ』

 

『こちらHQ 良くやった。リコが窓際の男を始末する。君の直ぐ上のガラスに風穴が空いたら突入のチャンスだ』

 

『了解しました。アンジェリカのバックアップは?』

 

『裏口の逃走経路を固めている。安心して任務を遂行して欲しい』

 

 

02/

 

 夕刻。

 

 作戦決行の日は問題なくやってきた。この日のためにアパートの間取りは頭に叩き込んだし、数え切れないほどの実弾訓練を行ってきた。複数の義体が投入されている作戦ではあるが、実の所そこまで大捕物でないことも聞かされている。

 なら何故ここまでの人員が投入されているのか。

 アルファルドから伝えられた理由を鵜呑みにすれば、何分歓楽街のど真ん中のことで、万が一の撃ち漏らしも許されないらしい。俺とトリエラという室内戦闘に長けた義体が二人突入し、狙撃手であるリコが高台から睨みを利かせている。もしも逃げ出したターゲットがいたとしても、二つの逃走経路にヘンリエッタとアンジェリカが待機しているという大盤振る舞いだ。

 もしかしたら複数の義体が連携を取ったときのメリットとデメリットを洗い出すための実証実験も兼ねているのかもしれない。

 

「——ブリジット、窓が割れた」

 

 適度な緊張感を持ちつつ、だが手持ち無沙汰で時間の経過を待っていた頃。

 トリエラの声を受けてふと頭上を見上げれば、小さな穴の空いた窓に赤い花が咲いていた。これがアルファルドの教えてくれた合図なのだろう。

 

「行きましょう、互いをカバーし合えば大やけどはしないと思います」

 

 トリエラがウィンチェスターを構えて、木製ドアの蝶番を吹き飛ばした。続いて思い切り向こう側へ蹴飛ばしてやれば、いとも簡単にドアがその機能を喪失する。

 伽藍洞になった入り口から中へ飛び込めば上階へと続く階段があった。俺が前に出てヴェクターを握り込めば、こちらの顔の横からウィンチェスターを差し出してトリエラが後続に続いた。無線を兼ねたイヤーマフを装備しているので、この状態で散弾をぶちかまされても鼓膜が破れることはないだろう。——軽い火傷くらいなら我慢できる。

 

「上階、人影二つ。始末します」

 

「了解、エントランスホール及びその他の死角、敵影なし」

 

 ヴェクターから断続的な発砲音が轟いたとき、悲鳴を上げる間もなく男の一人が血まみれで階段を転げ落ちてきた。そんな仲間の仇を取ろうとしたもう一人も、続く弾丸で腹に風穴を空けてその場に崩れ落ちていく。

 

「二名、死亡確認。あと四人です」

 

「向こうは籠城を選択したみたいだね。このまま突っ込む?」

 

 倒れ伏した男たちを踏みつけ、つま先で顔をこちらに向ける。開ききった瞳孔と目が合えば、彼らが既に死者であることを知ることができた。しかしながら用心深いトリエラはサイドアームとして用意していた拳銃で男たちに二発ずつ弾丸を撃ち込んでいった。

 

「私がこのまま先鋒を務めます。ウィンチェスターで面制圧を行って下さい」

 

 さらに一つ階段を上り、気配の固まったフロアを目指す。固く閉ざされたドアの前に辿り着けば、明らかに怯えを見せた複数の人々の話し声が聞こえた。

 

「ディアボロが! ディアボロ(悪魔たち)が来たんだよ!」

 

 トリエラがウィンチェスターをぶっ放す。やっぱり顔の横で撃たれると熱いし痛い。けれども効果は覿面だったようで、散弾を受けた中の男たちの苦悶の声がこちらの耳に届いた。

 

「先に入ります。三、二、一、」

 

 再びドアを蹴破り室内に突入すれば、想像通りの光景が目に飛び込んできた。一名はすでに絶命しており、二名がそれぞれ胸からこぼれ落ちる出血量に絶望していた。そんな彼らにはヴェクターの洗礼が待ち受けており、死の心配をする必要はすぐになくなる。

 が、

 

「——しまった。一名逃げられた」

 

 見ればリコが見張っている窓から死角になっているところに格子戸が一つあった。事前に確認した間取りには記されていなかったので、後から増設されたものだろう。格子は内側から開くように細工されており、一本のロープが眼下に垂れ下がっている。恐らくこれは非常用の脱出経路として用意されたものだ。

 

「トリエラ、私が後を追います。事後処理、頼みます」

 

 残弾の少ないヴェクターを床に下ろし、サイドアームのSIGに持ち変える。そしてそれを右手で保持したまま、左手一本でロープ伝いに路地裏へと降下。僅かに残された血痕を目ざとく見つけ、追跡を開始する。

 一応、この先にはアンジェリカが待機する手筈になってはいるが最悪の事態もありうると、追撃の手は緩めない。

 完全な猟犬の気持ちだが、任務を遂行しきったときの担当官の賛辞を考えれば足取りは至極軽やかだった。赤みがかっていた西の空はいつの間にかダークブルーの光に染められつつある。

 

「はあっ、はあっ」

 

 自分のものではない獲物の声が聞こえる。息も絶え絶えに足を引きずるそれには直ぐに追いついた。男はこちらに振り返ると、恐怖で強ばらせた表情で何かを叫ぼうとした。

 しかしながらここは通り一つ越えれば日常の広がる街中だ。彼には申し訳ないが、遺言を残す間はつくるわけにはいかない。

 義体に与えられた瞬発力で飛びかかり、堅い石畳に押し倒す。白い人形のような手に隠された人工筋肉と炭素骨格が唸りをあげて男の首を締め上げていった。途中、男の手がこちらの腕や首を引引っ搔き回してくるが、それらは何の障害にもなりえず、血泡を一つ吐き出したと思ったら糸の切れた人形のようにぴくりとも動かなくなった。

 

 久方ぶりの、素手で人を殺した感触が残っている。

 

「おえっ」

 

 喉元まで込み上げてきた酸味のある何かは気合いで飲み込んだ。

 もう慣れたと油断していたら、たまにこうした拒否反応が俺から沸き上がってくる。いくら忌避感を抱かないように洗脳されているとはいえ、俺そのものはまだ消えていないからだ。

 口元を拭うついでに、周囲を見渡してみれば随分と遠くまで来てしまったことを理解した。アンジェリカの待機する地点までそう離れていない。物言わぬ男の死体を覗き込みながら支給された携帯電話を操作したら、ワンコールでアルファルドが応答を返してくれた。

 

『ブリジットか。作戦を完遂したのか』

 

「はい、最後の一人をたった今殺しました。ただ人通りのある地区が近すぎるので、死体を放置することはままなりません。処理班をお願いします」

 

『了解した。直ぐに後始末の人員を向かわせる。君はそのまま周辺警戒しつつなるたけ死体を目立たないところに隠してくれ』

 

 電話が切れる。仕事の早いあの男のことだ。あっという間に段取りを進めてくれるだろう。

 一息をついて空を仰ぎ見れば、紫色の空が建物のフレーム越しに見えた。もう幾ばくもない時間を刻めば夜が訪れる。

 

 じゃりっ

 

 弛緩していた全身が硬直した。足下を見下せば相も変わらず死体が一つ。

 

 じゃりっ、じゃりっ

 

 死体の襟元を掴んで引き摺り始める。人間一人の重みが両腕に掛かる。

 ——人ってこんなにも重たかったのだろうか。こんなにも動かし辛いものだったのだろうか。

 

 じゃりっ

 

 時間切れだった。少しでも死体を隠そうとした努力は徒労に終わる。日は完全に暮れていない。視力はまだ確保できる。できるからこそ、こちらを見定めた通行人が唖然と立っている様子がはっきりと見えた。

 言葉は意図せず漏れた。

 

「——駄目じゃないですか。こんなところに来てしまっては」

 

 

03/

 

 

 今日の仕事もつつがなく終えることが出来た。いつも以上に紙幣の重みをポケットに感じることができる。

 大っぴらに吹聴して回ることの出来ない家業だが、労働は労働だ。達成感そのものに貴賤は存在しない。

 

「あのバルで楽しむか」

 

 足は自然と動いた。いつのことだったか、鳶色の瞳を持つ女を見かけた場所。それがいの一番に思い出せていた。あれからあの女には出会えていない。それこそ老婆を忘れるために俺が作り出した幻覚だと言われれば信じてしまいそうになるほど、彼女は浮き世離れした存在だった。

 

「天使、か」

 

 もちろん実物など眼にしたことはないし、眼にすることなんてまずありえないのだろうけれども、もしそんな不確かな存在があるのだとすれば彼女を指す言葉なのだろうと思う。彼女がお迎えに来てくれるのだとしたら、それはそれで役得だ。

 だが自分の想像が正しいのだとしたら、彼女は既に迎えにいく人間を決めているのだろう。光と光の隙間に立ち尽くしていた彼女は、ただ一人の男をじっと視ていた。多分ここにいるチンケな男が入り込む余地など何処にもない。

 

 表通りを少し歩いたころ、近道の存在を思い出した。人の目を避け続けた自分だからこそ知りうるバルへの近道だ。街灯と街灯の隙間に視線を向けてみれば見つけることの出来る、誰からも忘れられてしまった路地。

 薄暗いのは当たり前で、人気もなし。だがとりとめのない思索を巡らせるには最高の場所だ。

 不思議とここは、彼女が立っていたバルの壁によく似ている。

 

 もしかしたら会えるかもしれない。

 

 何を馬鹿なことを自身を嘲笑いつつも、足だけは確実に前へと進んでいた。

 薄く残された砂利を踏みしめる音だけが石の壁に反響していく。

 

 ふと、気配を感じた。

 気配は何かを引き摺っているようだった。まだ夜目に慣れていないのかぼんやりとした影しか見定めることは出来ない。野良犬でもいるのか、ともう少し目を凝らす。

 幸いなことに月明かりが薄らと天から路地へと差し込んできた。雲間から青白い満月が顔を覗かせている。

 ようやくそこにいたのが何者なのか理解することができた。

 理解して言葉を失う。

 

 女の声だった。天使のようでいて、それで底知れぬ不気味さを秘めた——

 

「——駄目じゃないですか。こんなところに来てしまっては」

 

 

04/

 

 

 最初の一歩目をブリジットは遅らせてしまった。足下の死体に蹴躓いて、両の手はいつの間にか石畳の地面に触れている。ばっ、と顔を上げれば呆気にとられていた男は反射的に逃げ出していた。

 ただ、表通りとは違った方向に向かったのだけは不幸中の幸いだ。

 まだ間に合うと、猟犬のように駆けだし男の後を追う。

 だが土地勘の成せる技なのか、男の速度に中々追いつくことが出来ない。男がゴミ箱を引き倒し、ブリジットの前に蹴り出してくる。彼女がそれを飛び越えている間にいつの間にか路地の角を曲がっている。

 ブリジットの苛立ちも男に味方していた。少しばかり阻害されたブリジットの思考力が、男の綱渡りのような逃走劇を手助けしていたのだ。

 そして極めつけは、

 

「わぷっ!」

 

 男がポケットから何かを取り出したかと思うと、それを思い切りブリジットに向かって投げつけてきた。反射的にたたき落とせば手応えを一切感じられず、それどころか視界一面にそれらは散らばっていく。

 そう、ブリジットの顔に張り付いたのは無数のユーロ紙幣だった。

 

「鬱陶しい!!」

 

 紙幣を引き剥がし、牙を剥いて男を追う。けれどもその僅かな隙が致命傷となり——、

 

「うそ、見失った?」

 

 いくつかの角を曲がった先にあったのは人気のない裏路地だった。

 逃げた男の気配は最早なく、ただ静寂があるのみ。

 義体特有の研ぎ澄まされた聴覚も表通りの雑音を拾ってしまい役に立たない。まさかの失態にブリジットは冷や汗を零す。それでも報告だけはせねばと、懐にしまい込んでいた無線機を取り出した。

 

「ごめんなさい。民間人に目撃されました。口封じに動きましたが、逃げられたようです。引き続き捜索を——」

 

 早口で捲し立てるように報告しているのは、事の重大さを理解しているからか。

 しかしながらそんなブリジットへ返ってきたのは罵倒でも叱責でもなく、アルファルドの落ち着いた声色だった。

 

『心配はいらない。ブリジット、たった今アンジェリカが終わらせたよ』

 

 

05/

 

 

 あれは、天使などではなかった。

 

 何かの因果か、路地裏で死体を引き摺っていたのはバルで見かけたあの女だった。

 見間違うはずなどない、あの美しい鳶色の瞳を見分けられない筈がない。

 咄嗟に逃げ出したのは多分正解だった。

 後ろから追ってくる彼女は殺意を隠そうともしていなかったし、事実捕まったら最後。あの石畳の上で骸を晒していた誰かと同じ結末を辿っていただろう。

 もしかしたら、あの夜に女を口説いていた優男も彼女に殺されたのかもしれない。

 

「何が死は天使の形をしてやってくる、だ」

 

 老婆は嘘をついた。

 

 死を馳走にやってくるのは、天使ではなく悪魔だった。あの日あれだけ美しく見えた女が、今となっては不気味な怪物にしか思えない。

 燃える金の瞳を持ったティアボロだ。ただ人を殺すだけの、残忍な殺人鬼だ。

 けれども運だけはあった。神様の気まぐれなのか、いつの間にか女を撒くことに成功していた。死に物狂いで路地を駆け抜けていたら女はこちらを見失ったようだ。

 腰が抜ける。

 ようやく助かったという実感が湧いてきて、立っていることが出来なくなった。今日の稼ぎを全て捨ててきてしまったが、得られたものを考えれば安いものだ。

 

 じゃりっ

 

 全身が硬直する。弛緩しかけていた筋肉全てが緊張し、あり得ない量の汗が体中から噴き出ていた。そうだ、そもそもこんな裏路地を逃げ回るのではなくて、最初から表通りに向かっていれば良かったのだ。

 己の迂闊さをこれほど呪ったことはない。油断をするにはまだまだ早かったと言うことか。

 

「——あの、大丈夫ですか」

 

 愛らしい、声だった。路地上の小石を踏みしめていたのは小さくて白い足だ。決して黒い訳の分からないスーツに身を固めた殺人鬼のそれではない。

 恐る恐る視線を向ければ、おっかなびっくりといった風にこちらを見下ろしている少女がそこにいた。強ばっていた身が少しだけ緩む。

 

「私、道に迷ってしまって、お父さんとはぐれちゃったんです。ここ、暗くて誰もいなくてとても怖くて——、おじさんは人のたくさんいるところへの行き方、わかりますか?」

 

 いつの間にか冷や汗は引いていた。

 なんだ、驚かしやがってと悪態が漏れそうになるのを寸前で堪える。神様がここまで生かしてくれているのに、これ以上悪行を重ねるわけにはいかない。

 

「道は分かるよ。ここは危ない。早く行こう」

 

 子どもの前で何時までも腰を抜かしている訳にはいかず、やっとの思いで立ち上がってみせる。

 おどおどと立ち尽くしている少女の手を引いて、表通りへの道を進み始めた。

 

「ありがとうございます。私、いつも失敗ばかりで今回も上手くいかないのかと不安でした」

 

 背後から少女の声が投げかけられる。彼女の言葉一つ一つが、俺を不気味な非日常から日常に引き戻してくれる道しるべのように思えた。

 

「君はまだ子どもだろ。ならお父さんにごめんなさいをして終わりだ。何なら警官のいるところまで連れて行ってやるよ。そしたらもっと楽にお父さんを探せるだろ」

 

「——おじさんて親切なんですね。でも、どうしてあんなところに?」

 

「ちょっとした野暮用さ。お酒を飲み過ぎて悪い夢を見ていたんだ」

 

「そうですか」

 

 表通りから残り一本の所までやってこれた。情けない話だがここまで来ても後ろを振り返る勇気はない。少しでも油断すればあの鳶色の目がこちらを見ているような気がしたから。

 眼前にそびえ立つ建物の向こう側に、オレンジ色の街灯の光がぼんやりと見える。雑踏の音ももう直ぐそこ。

 

「そういえばお嬢ちゃん、名前は? 警官には自分で名乗れるかい?」

 

 随分と楽になった気分のお陰か、口も良く回った。適当な理由をつけて名前を聞いたのも昂揚感が成せる業だ。

 

「アンジェリカ」

 

「え?」

 

「私、アンジェリカって言うの。おじさん」

 

 振り返る。いつのまにか少女は携帯電話を持っていた。カメラが起動しているのか、赤いLEDがレンズの横で光っている。仄暗い目のようなレンズは俺を見ていた。

 

「——今、確認が取れたって。良かった。私、ブリジットの役に立てるみたい」

 

 携帯電話が少女の手から離れる。彼女はいつのまにかスカートの裾をまくってふとともに備え付けられた黒い何かを握りしめていた。白い肌と対極的なそれは小悪党である俺でもしっている人を殺めるための道具。

 

「ごめんなさい。目撃者は消さないといけなくて」

 

 たぶん、あのサブレッサーが発砲音をかき消してしまうのだろう。アンジェリカは、天使は引き金を迷うことなく引いて見せた。

 即死は出来ない。

 胸に突き刺さった弾丸はゆっくりとこちらの命を蝕んでいく。

 

 薄れゆく意識の中、俺は何とか少女を見上げた。

 彼女は天使のように真っ白な肌を月明かりに照らされて、静かにこちらを見つめている。

 

 老婆は嘘をついていなかった。

 

 ——死は天使の形をしてやってきたのだ。

 

 

06/

 

 

「——後始末、有り難うございました」

 

 清掃会社のバンに偽装された、公社の特殊車両の中、俺とアンジェリカは肩を並べて座っていた。

 向かいにはトリエラが腰掛けており、黙々とウィンチェスターの整備を行っている。彼女はこちらの会話に参加する気がないのか、視線すら向けてこない。

 

「ううん、大丈夫。久しぶりだから上手に出来るかわからなかったけれど、失敗しなくて良かった」

 

 今、俺たちの足下にはアンジェリカの戦果が転がっている。防水性の2メートルには少し足りないくらいの寝袋のような袋だ。車の振動に合わせて揺れているそれは、もう自らの意思では動き出したりはしない。

 

「実はね、エルザに教えて貰ってたの。ブリジットはターゲットを取り逃がすことはないだろうけれど、任務中の姿を誰かに見つかるかもしれないって。だから先回りしてたんだ」

 

「だとしたら本当に助かりました。逃げられていたら割と洒落にならないことになっていたでしょうし」

 

 口から出てきたのは紛れもない本音だ。これだけ焦った任務はエルザと二人で死にそうになったとき以来か。

 

「——これで私もいろんな任務に復帰できたらいいな」

 

 アンジェリカの漏らした言葉に、敢えて応えない。

 彼女も返答など期待していなかったのか、直にバンの天井を見つめたまま動かなくなった。

 俺はそんなアンジェリカの目を盗んで、もう一度足下の袋を見た。

 

 これで二度目だった。

 

 でも一度目は靄が掛かったかのように思い出せない。だか、無関係な人間を殺めてしまったのは二度目だという確信が何故かあった。

 穴だらけのチーズのような記憶だが、それだけははっきりと覚えている。

 

「ごめんなさい」

 

 幸い、声は誰の耳にも届かなかった。

 潤んだ目元から、涙も零れなかった。

 ただ、膝を抱えて静かに座り込む。

 悪夢の目覚めはまだまだ遠いところ。

 

 今はひたすらに、アルフォドに会いたかった。

 何処か遠くにいる彼に会いたかった。

 

 任務は失敗だった。

  


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