その日、比企谷八幡は自ら命を絶った。   作:羽田 茂

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呆気なく、比企谷八幡はその一歩を踏み出す。

 

 意識が浮上したときには、すでに廊下を歩いていた。

 

 彫刻刀で体を削られ……その後の記憶が無い。

 深い霧が掛かり掴むことの出来ない思考。

 今にも足元が崩れ落ちそうな感覚。

 鼻腔(びこう)を刺す錆び付いた鉄の香り。

 キャンパスに絵の具を叩きつけただけのような、境界線も曖昧なグチャグチャとした景色が網膜を通し脳に送られている。

 耳元からは絶えず、嘲笑と侮蔑を含み、俺を否定する声が聞こえ、その中には、奉仕部と小町……その他大勢の見知った人間の声も含まれていた。

 

 ああ、頭の中がグチャグチャだ……。ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ五月蝿い。うるさい。煩い。

 

 朝の廊下で体感した、静謐(せいひつ)に支配されたモノクロの世界とは真逆の、混沌と狂気と喧騒に満ちた世界。

 今すぐにでもここから飛び降りてしまいたい衝動に駆られるにも関わらず、その脚は歩むことを止めない。

 

 気付けば奉仕部の扉の前に立っていた。

 

 ぐちゃぐちゃとした思考を、苛立ちをぶつけるように力任せに扉を開ける。

 ガタンと大きな音が廊下に響き渡った。

 

 自ら立てたその音に、更に苛立ちが積もる。

 しかし、部室の中に入った途端。その苛立ちが、声が、感覚が、狂気が、喧騒が、突然嘘のように止んだ。

 

 静寂に沈んだ部室。

 外の世界とまるで切り離されてしまったような感覚に陥る。

 

 俺はふらふらと、いつもの定位置だった席へ歩き、自分の椅子に倒れるように座った。

 思考の霧が晴れて、視界がクリアになっていく。

 

 目を閉じ、深く息吹く。

 気付くと、涙が止めどなく溢れてきていた。

 いつの間に俺はこんなに弱くなってしまったのだろう。

 

「ヒグゥッ……ア゛ゥッ………」

 負の感情が底から次から次へと湯水の如く湧きあがろうとしてくる。

 涙は顔に着いた血を流しながらゆっくりと頬を伝い制服に落ち、制服に仄かな赤い滲みをつくっていく。

 

 俺の肩にそっと優しく手が置かれる。

 

「疲れたか?」

 その声に俺は俯き、涙を流しながら頷く。

 

「死にたいか?」

 その質問にも俺は頷く。

 

「逃げちまおうぜ」

 嗚咽を交えながら頷く。

 

「さぁ、行こうか」

 俺は席から立ち上がり、扉を開ける。

 人っ子一人いない。混沌と狂気からは無縁のいつも通りの静けさを取り戻した世界。

 廊下は夕明りで、世界を赤く染めている。

 

 廊下を歩きながら、クリアになった脳で考える。

 もし俺が死ねば問題は解決するだろうか、と。

 答えは否である。

 それを考える資格があるのは死後、自らの責任を果たす事が出来る者だけだ。

 しかしそんな事は万人に出来るはずが無い。

 つまり、考えるだけ無駄である。自分が死んだ後のことなど考えたところで、どうしようもない。

 俺がこの世界から消えても、世界は変わらず時を刻んでいくのだから。

 そして、その事に深い安心感を覚える。

 

 復讐なんて望まない。どうせ俺にはすぐ関係の無くなることだ。

 

 自分の内側から漏れ出すどろどろとしたものを無理矢理抑えつけ、見て見ぬフリをする。

 もう何度も繰り返した欺瞞(ぎまん)を塗り固める作業。

 

 廊下を歩きながら、ふと目を閉じる。

 すると、再び激しい睡魔が襲ってきた。

 歩く事は愚か、立っていることすら危うくなる。涙で滲んでぼやけていた視界が、更にぼやける。

「おやすみ」

 突然、隣を歩いていた俺が、そう言いながら背中を優しく叩いてきた。

 その衝動に、俺は糸の切れた人形のように床に倒れ込む。

 

 

 冷たい床の温度を肌に感じながら、俺は意識を手放した。

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 通学路を自転車で走る。

 自転車の籠には、学校の自販機で買ったマッ缶が音を立てながら転がっている。

 すれ違った通行人が、頭から血を流し顔を真っ赤に染めた男子高校生に、好奇の混ざった眼差しを向ける。

 その視線に俺は少しずつ苛立ちを溜めていった。

 

 ッチ……見世物じゃねぇんだよ。

 

 そう鋭く腐った眼を通行人に向けると、通行人は初めっから何も見ていませんよ、と言わんばかりに顔を逸らす。

 そんなコトを何度も繰り返しながら、やっとのことで家に着く。はぁ…やけに疲れた。

 玄関のドアを開くと、人の音がしない、静かな静寂が顔を見せる。

 小町はまだ帰っていないのか……。いつもならすでに帰ってきている時間の筈だ。

 ……。やっぱり朝の件引き摺られてんな。最後くらいは顔見たかったんだけどな。

 そう思いながら、俺は靴を脱ぎ、自室に直行する。

 そして、部屋に入ると、鍵を閉めた。

 

「さてと、じゃ…やるか。」

 

 比企谷八幡の特技、独り言を呟きながら俺は準備に取り掛かる。

 比企谷八幡は復讐なんか望んでいないと思っているようだが、俺はそう思わない。

 復讐してやりたい。今すぐ殺してやりたい。あの背中の皮膚を全て剥ぎ取り、苦しませてやりたい。

 比企谷八幡。お前自身が、俺が。

 

 一番の大嘘つきだ。

 

 俺はお前自身。

 俺が復讐を望んでいるということは、お前自身が復讐を望んでいることに他ならない。

 比企谷八幡はソレを意識の底深くに沈め、無理矢理その悪意に蓋をして抑えつけているだけだ。

 そんな醜い自分を認めたくないから、自分が優しいのだと思い込んでいたいから、だから自分に嘘を吐く。

 人の心理を読み解くことには長けているくせに、

 自分の心理になると、嘘で固めて、目を逸らして、別解を用意して、それが欺瞞と分かっていながらソレに逃げ込もうとする。

 由比ヶ浜を守る為だと、そう己に言い聞かせた。二人が望んでいるからだと罪を分散し、空虚な箱に身を置き続けた。

 そうした偽りの優しさ。偽りの自己満足に俺は浸っていた。

 

 そして今度は復讐など望んでいない、だ。

 馬鹿らしい。どうすればそんな結論に辿り着けるのだろうか。自分の事だが、怒りを通り越して呆れてものも言えない。

 言葉を送るなら、狂っている、だな。

 作業をする手を緩めず、再び一人呟く。

 

「お前は何の報いも与えられず死ぬ」

 俺は別に比企谷八幡が死ぬことに反対なワケではない。

 寧ろ、比企谷八幡に死ぬように唆しているのは俺だからな。

 ただ、俺はこの煮え滾る憎悪をどうにかしたい。お前が奥深くに閉まっていたこの悪意を。

 お前が悪意に蓋をすればするほど、どろりとした悪意は、行き場の無い悪意は俺の中に汚泥のように溜まっていった。

 悪意と偽善。相対する二つの性質が一つの器に耐えられるわけが無い。

 だから、もう一つの器が作られたのだ。いや、正しくは二つ…か。

 

 俺には時間がない。

 いつまでもこの肉体を使えるワケでは無い。そして、いつ追いつかれるかも分からない。

 悠長に時間を浪費するわけにはいかないのだ。

 だから復讐には、

 最もシンプルで。最も効果的な方法を使うことにした。

 

 俺は作業を一旦中断し、ケータイをポケットから取り出す。

 そしてSNSのアプリを開き、海老名さんからの画像を貼り付け、主犯格の連中の名前を打ち込んだ。

 ソレを明日0時に投稿するように設定して完了ボタンを押す。

 

 はい、終わり。たったこれだけ。

 

 コレが俺の考えた、最もシンプルで、最も効果的な方法。

 生涯治療不可の社会的致死率100%の猛毒。相手は死ぬ。

 窮鼠猫を噛む、だな。ついでにハンタウイルス肺症候群も付いてくる大サービスだ。やっぱり相手は死ぬ。

 よく聞く話だ。ネットで馬鹿やったヤツがリアル特定されて社会的に死にましたとさ。

 そして、よく聞くということはそれだけ爪跡を残すということ。特に語るべきことも無い。

 アイツらの責任なんて取りたくない。死ね。

 もし、俺に力が。比企谷八幡に暴力という力があれば、何か変わったのだろうか。

 

 そんなことを考えたところで、今更意味など無いけれども。

 ……さて、作業に戻るか。

 適当なノートから一枚千切った紙に、俺を今迄苦しめてきた連中の名前を書く作業に戻る。

 

 俺が死ねばこの部屋は小町か、両親か。それとも警察か。まぁとにかく、捜索対象となるだろう。

 そしたらこの紙が見つかる。小学生でも思いつきそうな安易なシナリオ。

 だからこそ、予想通りの流れを期待することが出来る。安心、確実が売りだな。

 

 黙々と作業をしていると、思いの外早く紙は埋まっていく。

 書き終えると、トップカーストを除く、クラスメイトのほとんどの名が書かれていた。

 ふぅ…。こんなものだろ。あ、後でパソコンのデータ全部消しとかないとな。

 そんなことを考えながら、俺はその紙を机の中段にしまう。

 あえて、少し探さなければ見えないところに置くのがポイントだ。

 何かの拍子で、比企谷八幡に見つかるワケにはいかないからな。

 

 次に、奉仕部の二人。平塚さん。いろは。戸塚。川崎。海老名に小町と親父と母親に、「ありがとう」とだけ書いた紙を机の上に置く。あ、ついでに材木座も書き足しとこう。

 

 たったそれだけ。

 たったそれだけの、あまりにも短い遺書。

 

 だが、これで十分だ。

 ようは、書かれた人達を加害者という立場から遠ざけることさえ出来れば良いのだから。

 それだけがこの紙の役割だ。

 本来なら奉仕部の二人も机に隠した紙の方に書くべきなのだろう。

 だがそれが何故かどうしても出来なかった。喉に小魚の骨が突っかかった様な違和感を感じる。

 しばらくその違和感の原因を探ってみたが、どうしても見つけることは出来なかった。

 

 その事に妙な不快感を感じたが、これ以上考えても時間の無駄だと判断し、頭から追い出すように深い吐息をする。

 俺は椅子の上で大きくぐっと伸びをした。身体中から悲鳴が聞こえ、背中がじくじくと痛む。

 

 俺は勢いよくベットに寝転ぶ。……ぐっ痛ぇ。

 目を閉じると、意識が急速に遠くなってくる。

 

 さて、じゃあ俺は特等席で観覧させてもらうよ。お前の最期を。

 

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

 

 目が覚めると自分のベットの上だった。

 いつの間に家に帰ってきたんだ?最近俺の記憶が飛び過ぎてヤバい。

 そう思いながらベットから下りる。

 すると、ふと机の上に目がいった。そちらを見ると、手紙のようなものが二枚置いてある。

 

 なんだ……?

 俺はソレを手に取り、中身を確認する。

 

 そこには、俺の親しい間柄にあった人達へ『ありがとう』と一言だけ書かれた、シンプルすぎて遺書と言えるか、どうかも怪しい紙があった。

 いつの間に書いたんだ?全然記憶に無いんだが。

 俺が遺書に視線を落としながら首を捻っていると、ふと一つの可能性が脳裏を掠めた。

 

 いや……そんな馬鹿な…。まさか漫画やラノベじゃあるまいし……。

 ふと、背後から視線を感じ先程まで寝ていたベットの方に目を向けてみる。

 するとそこにはいつの間にか偉そうに脚を組んだ俺が座っていた。

 いつの間に湧いたんですかねぇ。あと、俺は普段脚組まないぞ?もう一人の僕的なのだったら、もっとそういう細かいとこ気を付けろよ。中途半端に差異とか付けて区別化してんじゃねぇよ。尚更中二病っぽいじゃねーか。

 そんなコトを思いながら、俺に問いかける。

 

「コレ、お前が書いたのか?」

「ああ、そうだ」

 肯定。

 

「え、何?お前俺の身体勝手に動かせんの?」

「ああ、動かせるぞ」

 肯定。

 っていうかそうかー。動かせるのかぁー。まさか予想当たっちゃったかー。

 何だコイツ普通に怖いんだけど。

 なんなの?マジで映画とかでよく見る第二の僕みたいなアレなの?中二病乙。

「アレなのはお前の頭ん中だろうが」

 やめて!!勝手に頭の中よまないで!!

 ん?今頃気付いたが、学校にいたときよりも、精神が安定しているような気がする。

 どんだけ俺の精神不安定なんだよ。ホント浮き沈み激しすぎるんですけどー。材木座の原稿レベルで急展開。

 

「何か気が楽なんだけど、コレもお前の仕業か?」

 そう言ってみると、もう一人の俺の肩が一瞬だけピクッと動いた。

「いやー。気のせいだろー」

 うっわすっげぇ棒読みだったぞアイツ。絶対なんかやっただろ。

 チッ、まぁいい。この事に触れるなと俺の危険信号がギャンギャン言っている。最後だし見逃してやるか。

 で、コッチの遺書はいいとして。問題は、

 

「このもう一枚の紙は何だ?」

「何って。お前の死に場所だろ?」

「あ?その為に、こんなトコまで行くのか?」

 携帯電話でネットを開いて調べながら言う、

 ふむ、ここからかなり距離があるな。てか普通に遠いぞ。

 ていうか今更どうでもい………全然よくないが、もう一人の自分的なサムシングが全力で俺を自殺に追い込もうとしている件について。

 まぁ、別に俺はいいんだけどさ。なんか。なんかなぁ……。

 

「お前、お袋と小町に死体見られて、二人にトラウマ植え付けてもいいのか?」

 俺はその言葉を聞いて、想像してみる。

 

 小町とは喧嘩中だ。朝アレだけ言われたのだから、きっと小町は今俺なんかに会いたく無いだろう。

 しかし、残念ながら朝俺を起こしにこなければいけない。だから必ず小町は俺の部屋にやってくるだろう。で扉を開くと、

 そこには体の筋肉が弛緩したせいで糞尿を垂れながし、振り子のようにロープで吊るされた俺の死体とご対面。うっわ、嫌な想像だ。遭遇したら絶対にトラウマものだな。20年は不眠症に悩まされるレベル。うん、ダメだ。

 あと、ナチュラルに親父が入ってないのはツッコまないぞ。

 

「ご理解いただけたか?」

 俺はそう目を弓のように細くしながら言ってきた。

「分かったよ。てかもう計画全部お前が立てていいよ」

 普通に有能だしな。もう全部アイツ一人でいいんじゃないか?

 

 俺はそう思いながらベットの方へ再び寝転がる。

 そしてそのまま枕に顔を擦り付けるように埋めた。

 眼から光が遮断され、視界が真っ暗になる。

「そうか、じゃあ出発は今日の22時にしよう」

「理由は?」

 俺は枕に顔を埋めたまま聞く。

 するとヤツは短く「なんとなくだ」と返した。

『なんとなく』か……。嘘だな。そう直感的に感じた。

 なにか明確な理由がある筈だ。だがそれが分からない。

 まぁいい。深く考える必要はないか。どうせあと数時間だ。

 

  …………。

 

 …………。

 

 …………。

 

 いつの間にか会話は途切れており、沈黙が部屋を支配している。

 埋めていた顔を上げ、横目に部屋の中を見渡す。

 気付けばすでにもう一人の俺は、姿を消しており、部屋の中には俺一人だけが残されていた。

 

 ごろんと寝返りを打つ。

 体が上を向く形になり、天井が目に入る。

 幾分かぼうっと天井のシミを意味もなく数えた後、再度静かに目を閉じた。

 俺が今までの人生の中で関わった、数少ない人たちの顔が、まるで走馬灯のように浮かんでは、消える。

 小町。 親父、お袋。 

「………。」

 戸塚。 平塚先生。 葉山。 陽乃さん。 

「………………。」

 留美。 折本。 めぐり先輩。 

「……………………。」

 一色。 海老名さん。

「………ァ…………………。」

 そして、由比ヶ浜と雪ノ下。

 

「ウグゥッ………ああ……」

 

 突然嗚咽が漏れ、頬から顎先にかけてぼろぼろと涙が滴る。

 身体の芯にかけて悪寒が広がっていく。歯がカチカチと擦り合うように鳴り、呼吸が苦しくなる。

 安定していた精神がぐらりと崩れる。

 豆腐すぎんだろ。

 奉仕部の二人のコトを思い出しただけなのに、このザマとか。

 

 自分の感情が制御出来ない。

 そのことに訳のわからない多幸感を感じる。

 口元が勝手に吊り上がる感覚。

 背中が熱を持ち始める。痛みと比例するように涙が溢れ出、ベットのシーツにシミを作っていく。

「ーーーーーーーーッ!」

 再び枕に顔を埋め、響かないようにあえて掠れた声で叫ぶ。

 何度も、何度も。

 

 

 

 …………。

 

 

 

 どれくらいそうしていただろうか。

 

 突然頭から冷水をかけられたように、思考が冷静になり涙が止まる。

 その姿を第三者が見たならば、人格が変わったようだとでも言うのだろう。

「そろそろ時間だな」

 そう言って、俺はベットから立ち上がる。

 俺は音をなるべく立てないように、ドアを静かに開け、そしてゆっくりと階段を下りる。

 明かりが漏れているリビングの横をそっと通り、靴を履いて何も言わず玄関から出た。

 

 あまりにも呆気なく。比企谷八幡は、死への一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日も。

 その次の日も。比企谷八幡が見つかることは無かった。

 

 

 

     ×   ×   ×

 

 

 

 比企谷くんを助ける。決着を付けると、そう息巻いていたのに。

 

 今日に限って先生に呼び出されてしまった。

 ほとんど生徒が残っていない廊下を、

 八つ当たりをするように、力いっぱい殴るように走る。

 口から抑えることができず舌打ちが出る。

 

 どうしてこんな日に限って。

 そう思いながら上履きを脱ぎ捨て、靴箱にもしまわず靴に履き替える。

 そして体育館裏に向かおうとした瞬間。

 私の横を数人の男子生徒が通りすぎていった。比企谷くんに暴力を振るっていた人達。

 その人達が通り過ぎる。その際微かに鉄のような臭いがした気がした。

 嫌な予感がする。

 

 鼓動が速くなる。背中からじわりとしたものが流れ落ちる。

 私はその場から逃げるように走り出す。

 体育でもここまで本気を出して走った事は無い。そう確信できるほど全力で走る。

 肺が焼けるように熱い。

 体育館裏は目の前の曲がり角を曲がればつく。

 ほつれそうになる脚を必死に動かして、

 

 

 私は曲がり角を曲がりーーーー

 

 

 真っ赤に染まった比企谷くんを見た。

 頭と体から夥しい量の血と涙を流しながら笑う比企谷くんを。

 

 体から血の気が引いていく。頭の中が真っ白になる。目の前の惨状を頭が理解してくれない。

 脚がガクガクと震える。とてつもない嘔吐感が襲ってくる。視界がぼやけ涙がでそうになる。叫び出しそうになる。

 

「ああ、あ…、ひき……が……………やくん」

 空気を僅かに震わせる程度の普段の自分からは想像もつかないような情けない声が出る。

 しかし、その瞬間体が弾けるように動き出した。

 

「比企谷くんッッ!!!!」

 そう叫ぶように言って、私は比企谷くんのところまで駆けだす。

 

「ゃ……ああ、海老名?」

 掠れた声で比企谷くんが私の名前を呼ぶ。

 

「あ……、ああ、ごめんなさい……!……ごめんなさい……!!」

 もっと先にしなくちゃいけないことがあるのに、私の口から勝手に謝罪の言葉が涙と共に、とめどなく溢れ出る。

 そんな私を比企谷くんはじっと見ていた。

 胸が苦しくなって、吐きそうになって。私は体を抱え込むようにしながら俯く。

 体がまるで自分のものじゃないかのように動かない。

 呼吸が荒くなる。

 

 その時。体をそっと包み込むように抱き締められた。

「え?」

 頭をあげると、そこにはまるで別人のように、爽やかな笑みを浮かべた比企谷くんがいた。

 比企谷くんは固まっている私を他所に、頭に手を置き、幼子をあやすように優しく私の頭を撫で初める。

 

 どれくらい撫でられていただろう。気付けば、荒かった呼吸や嘔吐感は嘘のように無くなっていた。

 

「どうだ?落ち着いたか、海老名」

 私はその声に小さく首を縦に振る。

 

「それじゃあ、頼みがあるんだけどいいか?」

 今、私があなたの頼みを断れるわけがないよ。

 そんなコトを心の中で呟く。

「海老名、それじゃあ今から、今の状態の俺の写真を撮ってくれ」

 うん。

「で、その画像を俺に送ってくれ。以上だ。」

 うん……え?それ……だけ?

 呆けたような顔で見てくる私に比企谷くんは訝しげな顔を数秒向けてくる。

 しかし、その後何かに納得したような顔をつくり私に言う。

「あぁ、俺のメールアドレス知らないんだよな」

 そんな的外れなコトを言いながら、比企谷くんは自分の制服からケータイを取り出しこちらに投げてきた。

「じゃあ、俺はこの後行く場所があるから」

 そう言って比企谷くんはあっさり私への抱擁を解き、去ろうとする。

「ま、待って!比企が「あともう一つ」

 比企谷くんは私の声を遮るように声を重ね、頭だけをこちらに向けて言った。

 

 

 

「何もするなよ」

 

 

 

 その顔は、

 激しい憎悪と憤怒を刻みながら、口元を大きく歪ませ笑っていた。

 私が計画していたコトを全て知っていたかのような物言いに、その表情に。

 私は言葉を失くしてしまったかのように、口から掠れた声しか出なくなる。

 そんな声では、彼に言葉を届けるには、引き止めるにはあまりにも小さすぎた。

 私は寒空の中。その場に座り込んだ。

 

 比企谷くんの後ろ姿は見えなくなっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 体は動いてくれなかった。

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 お兄ちゃんがダイニングから出て行ってどれ位経っただろう。

 玄関のドアを開ける音が聞こえてから10分は経っている。

 目元が涙のせいで赤く腫れていて、とてもじゃないけど学校に行けるような顔じゃない。

 

 私はソファーの上で体育座りをしながら、膝に頭をのせて卵のように丸くなる。

「何やってるんだろう小町。」

 

 自嘲気味に口から言葉が漏れた。

 今一番ツライ思いをしてるのはお兄ちゃんなのに。

 勝手に怒鳴って、ひどいコトを言ってしまった。

 たぶん、小町は焦ってしまっていたんだと思う。あんなに見ていて苦しくなる笑みを、今まで一度も見たことはなかったから。

 どこかお兄ちゃんがとても遠い所に行ってしまうような気がしたから。

 

 ほとんどの人たちはアレを爽やかな笑みだと思うんだろう。

 でも、小町はあそこまで心が騒めく。不安になる笑みはないと思った。

 きっと他の人たちには分からない。

 ずっとお兄ちゃんの妹をしてきて、ずっとお兄ちゃんコトを見てきた小町だから分かるんだと思う。

 

 そのせいで、コトを急いだ。

 

 お兄ちゃんの苦しみを少しでも和らげてあげようと。少しでも楽にしてあげようと思っていたのに。

 結局小町の口からお兄ちゃんに向かって出たのは、お兄ちゃんを否定する言葉だった。

 

 今考えてみても、自分が信じられない。

 

 お兄ちゃんが頑なに小町に言わなかったのは、きっと小町に心配を掛けさせたくなかったからだ。

 いや、優しいお兄ちゃんのコトだ。きっとそうなんだろうなー。

 小町はそんな優しいお兄ちゃんのコトを誇らしく、愛しく思う。

 そして、そんなお兄ちゃんにあんな言葉をかけてしまった自分に嫌悪感を覚える。

 朝のことがずっと頭の中でぐるぐると回っている。小町のばか……。

 

 ……………。

 

 ……………。

 

 ……………。

 

 どれくらいソファーの上で丸くなっていたんだろう。

 ふと時計を見てみる。短針は10の数字を刺していた。

 

 そろそろ、動かなきゃね。

 

 私はゆっくりい両手を頬に置き、そしてそのまま。

 

 

 

 

『パンッ!!』

 

 

 

 

 

 と、自分の頬を思いっきりぶっ叩いた。

 こてん、と体育座りのまま横に倒れる。

「うう……普通に痛い………」

 ひりひりするよぅ……。

 

 ………でも。

「うしっ!、気合い入った!」

 いつまでもうじうじしていられないもんね。アレはどう考えたって小町が悪い。

 そうだったら、しっかりと気持ちを込めて、誠心誠意、お兄ちゃんに謝ろう。

 

 でも、どうやって謝ろう。

 酷いこと言ってしまった手前、顔を会わしにくい。

 うーん、どうしよう……。

 ………決めた。

 今日は友達の家に泊めて貰って、少し相談に乗ってもらおう。

 確か桐乃ちゃんってすっごく兄妹仲良いらしいし。

 

 

 

 

 よし、そうと決まれば、そろそろ学校行こ。

 100%遅刻だろうけどね。

 

 

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冷たい夜の風が吹き付けている。

その風からは、仄かに生臭い潮の匂いがした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふと脳裏を掠めるあの日の記憶。

 

 

 

 

 

「明日はもう部活にこなくていいわ」

 

 

 

 

 

 

 あの後、雪ノ下と由比ヶ浜は俺に何を言っていたんだろうか。

 

 

 そんなもう意味の無い疑問が湧く。

 その事にニヒルな笑い声が口から漏れ出した。空虚な笑い声。

 

 

 

 自分から聞くまいと意識を闇に放って耳を塞いだ。

 言葉を受け止めることもできず、逃げ出した。

 そんな俺には疑問に思う資格など無い。

 

 

 

 

 少しだけ瞑目した後、俺は再び自転車を漕ぎ始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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