アルトとイングリドとヘルミーナのアトリエ(あとオマケが一人)   作:四季マコト

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『金の麦』亭

 ――バ カ か 俺 は !?

 雑貨屋の店主ヨーゼフさんと別れた後、俺のテンションは急降下していた。

 元々、リリーと二人での外出という時点で低かったが、先程とある出来事があったせいでさらに沈みまくっている。

 職人通り中に響き渡る、数多の作業工程によって奏でられるまとまりのない音色が、強引に心を躍らせようとしてくるが、今の俺には無意味だ。絶賛轟沈中の俺を動かすには、イングリドやヘルミーナのような天使達の笑顔なくしては不可能だろう。

 俺が今のような状態になっている原因は、自らのあまりにもあんまりすぎるリリーへの態度だ。

 いくらなんでも、あれはない。なさすぎる。

 落ち着いて我が身を振り返ってみれば、己の愚行に嫌でも気付かされる。

 今更、後悔しても仕方がないと分かってはいるが、本当なぜあんなことをしてしまったのか。あの時の俺は普通じゃなかったとしか思えない。

 リリーが恋愛経験超豊富だと嘘を吐いていた。

 それを事実だと騙されていた俺は、期待外れだと思って落胆した。

 そこまではいい。確かに年増女は俺にとって目障りな存在に違いないが、ここ数年は何かと係わり合いのあった相手だったからな。そのくらいの感情を抱いても不思議じゃないさ。俺が色々と面倒を見てやったのにその程度かよ、ってな。

 ……だけどな。どこをどう間違えれば、そこから子ども染みた八つ当たりなんて行為に発展する!? どうして俺が怒る必要がある!?

 あの場面ではむしろ、適度にからかいつつ、自らの利益となるように誘導するのが普段の俺の対応だろう。少なくとも、最初に会話した段階ではそう考えていたはずだ。

 もしくは、お前のことなんて興味ない、の一言で済ませれば良いだけの話だ。

 ――だというのに。何をトチ狂って俺は逆ギレなんてしているんだ!?

 大人気ないにも程があるだろう。正当な理由があるならまだしも、理不尽な理由で相手を恫喝してどうする。それは例え、常日頃から嫌っている相手だろうと、してはならない行為だろう。

 前世から数えれば、三十八年。この世界に生れ落ちてから数えても、十八年。そんな良い年した男がやる態度じゃないだろう、あれは……。人並み以上には精神年齢の高さを自負していたつもりだったが、先程の失態を演じてからはその自信も消え失せた。

 愚かだ。愚か過ぎる。バカだ。バカすぎる。アホだ。アホすぎる。最低だ。ああ、最低だよ俺は!!

 謝って済むことならば、今すぐにでもそうしてしまいたい。今回ばかりは、俺が全面的に悪い。リリーが嘘を吐いたのが元々の原因であっても、俺が散々な体たらくをさらしてしまったのは事実だ。罵られようが、全力で殴られようが、当然の罰だと甘受しよう。

 しかし、だ。そういうわけにも、いかないのだ。

 なぜなら、話は既に終わっているからだ。今更、話を蒸し返せば、せっかくまとまった話が台無しになる。こちらの謝罪を受け入れてもらおうにも、相手がリリーではまともな会話にならず、口論となってしまうのは目に見えている。そうやって騒ぎになれば、また噂話好きなオバサン連中に良い餌を与える結果になってしまうだろう。それだけは何としても避けたい。

 穏便に謝罪を済ませられるような相手であれば話は早いのだが、相手はあのリリーだ。俺と相性が悪いにも程がある。

 だからといって、このまま放置するというのは論外だろう。信条的な問題ではなく、心情的な問題によって。

 いくら相手がリリーだったとはいえ、さすがにあれは俺といえども罪悪感を抱かざるを得ない。今こうして何気なく二人で歩いているときでさえ、俺は妙にリリーの様子をチラチラと窺ってしまっている。こんな風に気後れしたままでは、今後の展開に重大な悪影響を及ぼしてしまうだろう。俺とリリーのイングリドとヘルミーナを巡る争いは、熾烈を極める。そんな相手に一歩引くなど冗談ではない。第一、リリーに遠慮とかありえなさすぎる。

 不幸中の幸い、とでもいうべきか。リリーはまだ、先程しでかした俺のバカな行動に思い至っていないようだ。向こうが話を打ち切るようにして終わらせたことから考えて、どうやらリリーはもう終わった話だと自分の中で結論付けているのかもしれない。

 けれど、安心は出来ない。何かの拍子に落ち着いて考えられでもしたら、すぐに俺の不自然な態度に気付くはずだ。同時に、それが尋常ならざる愚かな行為だと気付くだろう。

 そうなったら、おしまいだ。あの年増女はここぞとばかりに責め立ててくるに違いない。何せ、俺の自由にさせないため、ただそれだけのためにド阿呆な嘘を吐くようなバカ女だ。鬼の首を取ったかのような顔で高笑いするリリーが目に浮かぶ。

 黙って頷くしかない俺をここぞとばかりに痛罵した挙句、当然のような顔でイングリドとヘルミーナとの会話を禁じてくるのだろう。どこまで無慈悲なのだ、この女は。血も涙も無いとは、こいつのような人間の事を言うに違いない。

 そんな救いの無い真っ暗な未来だけは、絶対に避けなければならない!

 謝罪は不可能。現状維持も却下。となれば、第三の手段を用いるまでだ。

 そのための手段は、既に思い付いている。

 相手に悪いことをしてしまったから、と罪悪感を抱く。

 ならば相手に良いことをすれば、それを打ち消す事が出来るのではなかろうか。

 所詮、問題となるのは俺の気持ちだ。そう難しいことではないだろう。

 その内容についても、心当たりはある。図らずも、リリー自身が口にしていた。――恋愛に興味がある、と。

 錬金術や日々の生活に関して助言することは、ドルニエ先生から頼まれているし、先達としての義務でもあるし、今更だ。これからは同じ場所で生活するのだから、最早他人事でもなんでもないし。

 だが、彼女の恋愛がうまくいように取り計らうというのは、確実にリリー個人にとって良いことだろう。異性絡みの問題を手助けするのは義務ではなく、俺の純粋な善意からなる行動に他ならない……まあ、本心は別にあるわけだが。

 嘘を吐かれた際に思いついた考えの流用だが、この作戦は俺にとってメリットが大きい。リリーに恋人が出来れば、俺の罪悪感はなくなるし、邪魔者の厄介払いが出来るし、恩に着せられればイングリドとヘルミーナと仲良くなれるし。

 恋のキューピッドなんて俺の柄じゃないが、その性能は折り紙つきだ。なぜなら、俺は原作でのイベント知識という反則技を持っている。実際にその通りのことが起きるかは分からないが、それでも基となった世界である以上、全く異なっているという可能性は少ないだろう。薄れたとはいえ莫大な価値のあるその知識を生かせば、錬金術士として活動する片手間、リリーを支援することなど容易い。もっとも、原作外の人物に好意を寄せられてはその限りではない。その時はその時で、また別の案を考えよう。

 今回の作戦で要となるのは、秘匿性。

 俺がリリーの恋愛成就のために動いていることを、彼女自身に知られてはならない。

 もし、リリーにバレてしまったら、あいつのことだから確実に余計な勘繰りをしてくる。そうなってしまったら、作戦失敗だ。二度と同じようなことは出来なくなってしまうだろう。あくまで、慎重に影からこっそ~りと支援することに意味がある。

 原作でリリーと恋愛要素が絡むイベントがあった人物は……。

 えーと……冒険者『テオ』、冒険者『ゲルハルト』、王室騎士団『ウルリッヒ』、雑貨屋『ヴェルナー』の四人……だったか? もう一人くらい男がいたような気もするが……あ、いや、神父『クルト』は既婚者だし、違うか。

 彼ら四人の中の誰かに惚れてもらった方がこちらとしては好都合なので、機会があれば積極的に手を回してみてもいいだろう。

 今、考えられるのはこのくらいか。

 

 

「どうかしたのか? やけに静かだな、お前」

「えっ? ああ……」

 

 心境の整理に一段落ついた俺は、足を止め、振り返って同行者に尋ねた。俺が未だかつてないほどの長考をする原因となったリリーは、不気味なほどに静かだった。

 ペンダントをつけてやった後は黙って俺の後ろをついてきて、何も文句も無しに歩き続けるだけ。いつもみたいに無駄にキャンキャンと噛み付かれるのもウザイが、こうもひたすら沈黙を続けられるのも、それはそれで居心地が悪い。

 

 具合でも悪くしたのかと顔色を窺うと、リリーは手を振りながら苦笑した。

 

「なんでもないわ。ちょっと騒ぎ疲れただけよ」

 

 俺のせいだって言いたいのか、コノヤロウ。

 ……まあ、いい。確かに俺が悪かったのは事実だ。俺の失態のせいでお前に負担を掛けた、それは認めよう。

 だが、しかし!

 だからといって、俺がお前に遠慮するかと思ったら大違いだぞ? それに関しては、既に俺の中では解決済みだ。お前の恋愛が叶うように応援してやると決めた今の俺には、引け目なんて全くないのだ。気を遣ってやるわけがない。

 

「もう少し我慢しろ。酒場に着いたら、少し休めるから」

「……な、何よ。あんたが気を遣ってくれるなんて、珍しいじゃない」

 

 気を遣ってしまっていた!!

 

「ぐっ……た、たまにはな」

 

 何をやっているんだ、俺は!

 案の定、いつもと違う俺の態度をリリーに訝られたのだが……くそぅ、早いところ誰か気になる相手でも見つけてくれ。また今みたいに、無意識に罪悪感に駆られてリリーを気遣ってしまうなんて冗談じゃないぞ。

 俺はまた余計なことを口走ってしまう前に踵を返し、歩き出す。リリーが俺の横へ並び、時折、何か言いたそうにこちらを見上げる。

 だが、無視する。喋らなければ、迂闊な発言をする恐れは無いからな。

 

「……あのさ、アルト」

「…………」

「その……わざわざ、ゆっくり歩いてくれなくてもいいよ。気疲れしただけで、普通に歩けるから」

「ぐあっ」

 

 本当に、何をやっているんだ俺は!! 

 ……どうやら、罪悪感というものは俺の予想以上に厄介らしい。この俺がリリーを気遣うような態度を見せるとか……ありえない失態だな。まさか、一日に二度も自分の行いを恥じる日がこようとは。心底、情けなくなってくる。

 言い訳しようにもまた墓穴を掘りそうなので、周囲を見物するフリをして誤魔化しながら歩みを進める。

 街の住人から集めた情報では、酒場や武器屋の位置関係については原作と全く同じだった。無論、移動距離が家の数軒分ということはないが。

 目的地である酒場があるのは、ザールブルグの西側だ。職人通りを抜けた先にある噴水広場の端に店を構えている。

 『金の麦亭』という名前のその酒場は、名前通りに麦の穂と葡萄の蔓が絡み合った意匠が凝らされた看板が目印となっているらしい。

 文字ではなく絵を看板にしている理由は、文字が読めない人が多いといった所謂、識字率が低いからではない。ザールブルグに限らず、今の時代はそれなりに知識に重きを置いており、文字だけでなく計算も簡単なものなら庶民がラクにこなせるほどだ。そうでなければ、貨幣がこれほどまでに出回りはしない。

 ならなぜかといえば、この手のお店の場合は異国の文字が読めない連中のために、パッと見で分かるように工夫を凝らしているからだ。麦の穂は酒場の名前に因んだもので料理関係が由来だと思うし、葡萄の蔦は良い酒があるという意味合いだろう。

 酒場兼宿屋ともなれば旅をする連中が立ち寄ることも多いし、金の麦亭にはそれ以外にも別の用途があるからな。

 

「でも、酒場で休めるの?」

 

 昼間からお酒を飲むのはどうかと思う、と口を尖らせる言うリリーに俺は呆れの色を隠せなかった。

 

「どんだけ田舎者の世間知らずだよ。お前の故郷にも、酒場くらいあっただろ?」

「あったけど……あたしが行こうとすると、お前にはまだ早いってお母さん達に止められたし」

「ふーむ? 田舎での酒場は、日用品を扱う雑貨屋みたいなもんかと思ったが」

「? 雑貨屋は雑貨屋で別にあったわよ?」

 

 ……とすると、だ。もしかして、そういう系の店も兼ねていたのか?

 金の麦亭はそういう商売はやっていないが、その手の酒場も別段珍しくはない。

 村同士の繋がりがあれば、必然的に息抜きの場所は必要とされる。お祭りにしたって、数少ない村人以外の異性との出会いの場という側面もあるしな。

 そう考えてみれば、このどこか抜けてるアホを親御さんが近寄らせなかったのも頷ける。

 

「アカデミーに来てからは、行こうと思わなかったのか?」

「忙しい毎日を送っていたから、そんな暇はなかったし。錬金術漬けの日々だったのよ。知ってるでしょう?」

「……ああ」

 

 ツンと澄ました表情で同意を求めてくるリリーに、俺は苦々しげに頷いた。

 ……くそっ、なんだ嫌味か。先程の俺の大人気ない態度への仕返しか?

 だとしたら、見事だと言ってやる。お前の勝利だ、おめでとうございます、地獄に落ちろ。

 

「それに、外で買うとお金が掛かるから、アカデミー内でやりくりしろって言ったのアルトじゃない」

 

 そう言われてみれば、そんな気がする。

 リリーと出会ったばかりの頃は、ドルニエ先生から頼まれたという理由と、『原作の主人公だからなんとなく』という他人には絶対に理解不能な理由で、何かと気に掛けていたからな。そんな台詞を俺が言っていても、おかしくはない。

 アカデミーでは寮生活を送る生徒達のために、その内部に巨大な購買部があった。扱うのは主に、生活必需品や嗜好品、錬金術に必要な品々だ。わざわざ、外部に出ずとも大体の品物は揃うので、寮生達はこぞって利用していた。値段も品質も品数も、それなりに満足のいくものだったしな。

 品物を卸している商会側は安定した儲け口になるし、アカデミー側は生徒達の雑多な要望に応えられるしで、一時期流行ったウィン・ウィンの関係ってやつだな。

 もちろん街中で探せば、購買部で買うより良い品物があるのは自明の理だ。逸品を手に入れたいなら、自分で足を運んで探した方が良い。実際、俺はそうしていた。

 とはいえ、そのために必要な店探しやら交渉やら何やらを、引っ越してきたばかりで慣れない生活に四苦八苦するリリーがこなせるとは到底思えなかった。

 だから、アカデミー内で生活した方が良い、と簡潔に言った気がする。

 

「そんなこともあったかもな」

「かもじゃなくて、あったのよ」

「ふむ。じゃあ、酒場が宿屋を兼ねていたり軽食を提供している事は知らないのか?」

「あー、そういえば故郷の酒場も二階建てだったなぁ……」

 

 それはたぶん、別の意味で『寝る』のに使われていたんだと思うぞ。

 

「まあ、夜が酒場のメインなのは確かだが、昼間も営業はしているんだよ。その場合は、軽食や果実水なんかが主になるけどな。ちょっと休むくらいなら、何も問題はないんだよ」

「へー、そうなんだ」

 

 しきりに感心した様子で頷くリリーを目にしていると――唐突に、言いようのない不安感がこみ上げてきた。じわりじわりと背筋を這い寄る違和感は、際限なく膨らんで俺を包み込んでいく。

 ……なんだ? 俺は何を、そんなに不安がっているんだ?

 待て。まさかとは思うが、また罪悪感から余計な気遣いをしようとしているのではないだろうな?

 そうなのだとしたら、自分の気持ちとはいえ呆れるぞ。世間知らずに対して抱く不安にしては、あまりにも大きすぎる。心配性にも程があるだろう。

 バカバカしい、と胸中に立ち込める暗雲を振り払う。

 会話を打ち切り、しばし雑踏の中を歩き続ける。

 ――と。

 不意に、視界が広がった。

 職人通りのにぎやかさとはまた異なる種類の喧騒が、耳をつんざく。

 何よりも目を惹くのは、溢れんばかりにいる大勢の人、人、人……。

 

「うっわぁ……! たくさん、いるわねー!」

「その発言、すげえバカみたいに聞こえるぞ」

「う、うるさい!」

 

 街の規模でいえばケントニスの方が大きかったが、人口密度でいえばこちらも負けていない。それに、リリーはほとんどアカデミー内で過ごしていたから、これだけ多くの人達を目にするのは珍しいのかもしれない。

 俺はといえば、前世では満員電車に揺られてコンクリートひしめく都内の企業へ勤めていたので、特に深い感慨は抱かない。転生してからも、貴族の催しに招待されて大きな祝い事のパーティーに参加することも何度かあったしな。

 だがやはり、この盛況振りには多少圧巻されるものがある。活気が違うとでも言うべきか。

 

「リリー、迷子になるなよ?」

「子ども扱いすんな!」

 

 声を大きくして話さなければ、すぐ隣同士で会話するのにさえ不自由な程の賑やかさ。人の流れに逆らわないように歩くだけで一苦労だ。

 中央には大きな噴水が配置され、広々としたスペースが確保されている。もっとも、今は空き場所が勿体無いとばかりに、そこかしこに露天が立ち並んでいるが。出来合いの食べ物を売る露天もあれば、得体の知れない品物を売る行商人もいるし、派手なパフォーマンスを披露ししている大道芸人もいる。

 露天の数に負けず劣らず、それらを楽しむ人々の姿も驚くほどに多い。店を冷やかして楽しそうに笑う連中がいるかと思えば、噴水の近くのベンチで愛を語り合う恋人達がいたり、顔を真っ赤にして酒瓶片手に居眠りしているオッサンなんかもいる。

 人々がひしめく様子を眺めていると、ザールブルグの住民全員がここにいるのでは、と錯覚してしまいそうになるくらいの盛況振りだ。

 原作では、ただ噴水があるだけで見所の無い広場だと思っていたが……なるほど。王城へと繋がる位置にある広場だけあって凄まじいな。平日でこれなら、祭日にはどれだけの騒ぎになることやら。これだけの活気溢れる場所でなら、占い師『イルマ』のように遠方からの隊商がいるのも頷ける。

 なんともなしにぐるっと周囲を見渡してみたが、それっぽい服装の人達は見つからなかった。見るからに異国めいた容姿と格好をしていれば目立つから、すぐに見つかるかと思ったのだが、期待が外れた。どうやら、まだこの街に着いてはいないようだ。

 そういえば、原作でも多少時間が経過しないと現れないんだったか?

 まあ、いなければいないでいいさ。原作に登場した人物だからといって、積極的に関わりたいと思う相手もいないしな。多少興味はあるが、その程度だ。原作と違い、何かの手違いが起きて女性陣が十年くらい若返っていたら、是が非にでも親睦を深めたいとは思うけどなッ!!

 

「おっ……あれは教会か。想像していたよりも大きいな」

「ん? あんたって信徒だったの?」

「そういうわけじゃない。ただの確認だよ」

 

 広場の周囲をぐるっと囲むように様々な家々が立ち並ぶ中、一際目立つ建物。フローベル教会だ。行けば、クルト神父がいると思うが、特に用は無いな。イングリドとヘルミーナに好かれる恐れのある相手だし、今後も関わることのないようにしよう。リリーにも後で言って聞かせなければならないだろう。

 そして、王都のどこにいても目に入る堅牢な威容を誇るのは王城だ。国の歴史に相応しい風格を放つ白亜の城では、王立騎士隊副隊長『ウルリッヒ』と国王『ヴィント』と会うことが可能だ……原作ならば。もちろん、実際には国王様はおろか、王室騎士隊副隊長でさえ会えるわけがない。試すまでもなく、門番の衛兵に不審者として追い返されるだろう。

 

「うーん、あの食べ物なんだろう……すっごいイイ匂い。おいしそう~」

「おい、リリー。いつまで、バカ面してキョロキョロ見回してる気だ? 酒場見つけたから行くぞ」

「だ、誰もそんな顔してないわよ!」

「はいはい」

 

 食って掛かるリリーを適当にあしらいつつ、看板を目印に移動する。

 ごった返す人込みの中を掻き分けながら、店の入り口の前まで辿り着く。

 酒場とはいったものの、その店の造りは一般家庭とそう大差ない外見だった。煉瓦と木材で作られた二階建ての中規模の建物。おそらく、一階部分が酒場で二階部分が宿泊施設なのだろう。

 違和感無く街並みに溶け込んでいるせいで、看板と家の横に山と詰まれた空樽がなければ、誰も酒場だとは気付かないだろう。前世でいうファンタジー的な酒場のように目立つ印象はなく、日常の一部といった感じだ。入り口である大きな扉は要所を鉄で補強され、見るからに頑丈そうだ。これならば、例え酔っ払いが気まぐれに蹴っ飛ばしてもビクともしないだろう。

 

「ここが、そうなの?」

「みたいだな。看板が出てるし、間違いないだろう」

「そっかぁ……、やっと休める~」

「おいおい、しっかりしろよ。お前を休ませるためだけに来たわけじゃないんだぞ?」

「えっ、そうなの?」

「そうに決まってるだろうが」

 

 何を図々しい勘違いをしてやがる。元々、俺はある理由で最初から、ここに寄る予定だったのだ。

 

「どうして?」

「百聞は一見にしかず、ってな」

 

 ドアを押し開け、リリーと二人で中に入る。

 真っ先に出迎えてくれたのは、鼻先をくすぐる芳醇なるワインの香りだ。これぞ酒場という名に相応しい。

 金の麦亭では飲食を提供するだけでなく、他の物も扱っている。

 それは、情報だ。

 多種多様な人間が集うここには、それに相応しく様々な情報が集まる。当然、その情報の中には俺達錬金術士にとって有益になるものも少なくない。情報を集めるだけでなく扱ってもいるので、その情報を頼りにしてか、今も酒場の一角にはそれらしき連中の姿が垣間見える。

 まだお昼には少し早い時間にも関わらず、通常の客の姿もちらほら見掛けるので、結構繁盛しているのだろう。

 ワインの保存のためか、やや薄暗くひんやりとした店内は、昼間だというのに各所に設置されたランプで照らし出されている。けれど、場末の酒場といった小汚い印象は決してなく、むしろ小洒落た喫茶店のような明るく賑やかな雰囲気がある。ワインの香りに関しては長年染み付いたものなので仕方ないし、不快感を覚えさせるものではないので気にはならない。これが夜ともなると、また違った姿を見せるのだろう。

 見た感じ、今はお酒よりも軽食を頼む若い年齢の客層が多い。酒を飲んでいるのは独特の格好をした一部の客か、だらしなく飲んだくれるオッサンくらいだ。

 広々とした店内には丸テーブルと丸椅子が何セットか設置されており、清潔感溢れる真っ白なテーブルクロスがピシッと敷かれている。これが常だというなら男性では中々こうもいかないだろうから、店の経営側には女性がいるのだろう。

 酒場の奥には掲示板らしき大きな木製ボードが打ちつけられていて、その壁には何やらベタベタと色々な紙が貼られている。先程から、その近くにいる連中の何人かが、俺達の正体を窺うような視線を向けてきていた。

 それに気付く様子もなく店内を見回しているリリーにやや呆れつつ、彼らに軽く頭を下げる。怪訝な顔をしつつも、ジョッキを手に掲げたり、手を振って合図したりして応えてくれる彼らを見るに、その肩書きから想像していた柄の悪い人達ばかりでもないのだろう。彼らの中には、これから付き合うことになる人達もいるかもしれない。

 入り口のすぐ左側には何やら舞台めいた空間がある。寸劇など、ちょっとした座興を楽しめるような場所となっているのだろう。残念ながら、今は何の催し物も無いようで、誰の姿もそこにはない。

 入り口の右側にはカウンターがあり、一人の壮年男性が立っている。

 彼の後ろの棚には何十本もの瓶に入ったお酒が収められていた。なるほど、葡萄の蔦を看板に用いるに相応しい種類の豊富さだ。当然、味も保障出来るだろう。今から、それらを味わう日が待ち遠しい。隅のドアをくぐれば調理場があるようで、今も肉が焼けるイイ音と匂いがそこから漂ってきていた。

 ――と、店の主人であろうガタイの良い男性とカウンター越しに目が合ってしまった。いつまでも入り口付近で突っ立ってるわけにもいかないし、動くとしよう。観察にも飽きたしな。

 リリーの肩を軽く叩き、一緒にカウンターへと向かう。

 樹齢何百年といった木々を丸ごと切り出したかのように長大なカウンターは良く磨き上げられ、そのどっしりとした風格を思わせる主人と並ぶと一枚の絵画のように映えて見えた。仕事上、荒くれ者達を相手にすることもあるだろうから、その筋肉は伊達ではないだろう。どことなく熊を連想させる愛嬌のある顔立ちをしている。その巌を思わせるがっしりした体格といい、豪放磊落な雰囲気といい、いかにも酒場のマスターといった面構えだ。人生経験を感じさせる渋みがあり、葉巻を咥えさせたらさぞ似合うことだろう。

 

「いらっしゃい。見掛けない顔だな」

「はじめまして、私はアルト。彼女はリリーと言います」

 

 木製スツールにリリーと並んで腰掛け、代金と引き換えに二人分の飲み物を注文する。酒にはそれなりに強い方だが、今回は酔う目的で来たわけではないので、普通の果実水を頼むことにした。

 さほど待たされることなく運ばれた飲み物を受け取って俺達が一息吐いていると、主人は自らを『ハインツ』だと名乗った。原作で彼の人となりを知っている俺はそうだろうなとは思っていたが、予想通りで安心した。これで人違いだったら、原作とのズレに頭を悩ますところだ。

 

「私達はケントニスから海を越えて、やっと今日到着した所なんです」

「ほお! ケントニス!? こりゃまた、随分と遠くから来たもんだなぁ」

「あたし達、錬金術士なんです! ザールブルグには、アカデミーを建てるために来ました」

 

 やっとオノボリさん状態から脱したのか、カウンターから身を乗り出すようにしてリリーがハインツさんに説明した。人の多さに当てられたか、意味も無くテンションが上がっているらしい。まったく、子どもじゃあるまいし。

 

「錬金術士……確か、なんだか良く分からない物を作れる連中だったか?」

「ご存知でしたか」

 

 良く分からない物、という表現に俺は苦笑しながら答える。まあ、確かに普通の人から見たらそうかもしれないな。

 錬金術は得体の知れない代物にしか思えないだろう。学べば、それが単なる技術に過ぎないと分かるんだがな。

 

「良く分からない物というか、物質と物質を合わせて、また異なる新しい物を作るんですよ」

 

 リリーの説明は例によって、また大雑把だった。言いたいことが伝わっていればそれでいいとは思うが、その適当さ加減は錬金術士として若干心配になる。繊細な作業を必要とするブレンド調合とか、こんな調子で大丈夫なんだろうか。

 

「それでウチに来たってわけか」

「?」

 

 なるほど、と髭に覆われたアゴを撫で付けるハインツさんとは逆に、目を瞬かせて何のことかと俺に尋ねるリリー。

 ……ここまで察しが悪いと、呆れるという以前に情けなくなってくるな。イングリドを預けるのが不安になってくるぞ。なんでもかんでも、俺に聞けば全部答えてくれると思ってるんじゃないだろうな?

 

「リリーさん。この酒場は、冒険者への仕事の斡旋もしているんですよ」

 

 店の主人の前なので、丁寧な口調のまま、リリーに答えを教える。

 金の麦亭と長い付き合いになるのは確実だから、初対面の印象は大事だしな。……だからそんな、気持ち悪いものを目にしたような顔で俺を見るんじゃねえよアホ女。俺だって、お前相手に敬語使うのは気持ち悪いんだからな。

 

「冒険者?」

 

 なぜここでその言葉が出てくるんだろう、といった様子のリリー相手にハインツさんが説明を始める。良い人だな、ご主人。俺はさすがに説明するのは疲れたよ……。

 二人を横目に、ゆっくりと果実水を味わって飲む。喉越しが爽やかで、この時代も中々捨てたものではないと感じさせる。

 冒険者とは、前世のファンタジー作品なんかで良く耳にする存在だが、この世界での彼らは所謂、何でも屋といった立場に当たる。名乗るために特別な資格なんてものはいらず、その代わりにギルド等の彼らを保護したり援助したりする立場の人達もいない。彼らは仲間同士、相互扶助の繋がりによって生きている。縛る者はおらず、頼れる者は自分達だけ、といった気楽な根無し草稼業だ。その性質上、お上品ではない性質の連中が集まることも多い。

 けれど、そんな彼らも一切、無遠慮に生きられるわけではない。冒険者仲間は甘えるだけの優しい存在ではなく、時には厳しく律する存在でもあるのだから。彼らの中の一人がしでかした不始末が、彼ら全員の悪評となるのも珍しくない。一部の評判が悪くなれば全員の立場を危うくするため、彼らは仲間に対して寛大である一方、非常に厳格である。だからこそ、見慣れない格好をした俺とリリーを、新たな冒険者かと思って値踏みしていたのだろう。

 そんな彼らが出会い、依頼を受けるための場所を提供するのが、金の麦亭のような酒場だ。おそらく、この酒場の宿泊施設は彼ら冒険者が主な利用客だろう。ここをねぐらに活動拠点として扱い、店側から紹介される依頼をこなして日々の糧にありつき、日々の生活を送っているのだ。

 錬金術士である俺とリリーは、錬金術で対処することが可能な依頼を選び、請け負うことになる。

 だからこそ、俺はこの場所へ足を運んだのだ。ドルニエ先生が錬金術の話を出して、興味を示した人達からの依頼も、この場所へ寄せられる形になるだろう。

 

「そっかー。だから、アルトは真っ先にここへ来たのね。おかしいと思ったのよね。あんたが、わざわざあたしを気遣うなんて気持ち悪いなぁって」

「……リ、リリーさん、あまり人聞きの悪いことを言わないで下さいね?」

 

 笑みを浮かべた唇が、プルプルとひきつる。

 店主の前だというのに、あまり相手に悪い印象を与えるようなことを口走るんじゃねえよ。

 

「そうかそうか、錬金術士かぁ。いや、丁度良かった。簡単な採取の依頼ならまだなんとかなるが、普通の冒険者じゃ難しいような代物もあるんでな。そういう依頼はいつも最後まで残ったり、難しいものなんかは受ける前に断ったりしているからな」

「私達が力になれる依頼があれば、是非とも受けさせて頂きたいです」

「あ、あたしはアルトみたいにまだ高度なのは出来ない未熟な駆け出しですけど……でも、精一杯頑張ります!」

 

 ハインツさんは店の不良在庫ともいえる依頼が片付いて助かるし、俺達も堅実にお金を稼ぐことが出来て喜ばしい。懸念となる冒険者達にしてみても、依頼内容が被るわけではないから問題無し。むしろ、彼らにとっては利益となる場合もある。これぞ正に、文句無しの良好な関係だな。

 そんな風に和やかな雰囲気で談笑していると――突然、ガラリとハインツさんの雰囲気が剣呑なものに変わった。

 

「ただしっ! 分かっているとは思うが、仕事だからな。手ぇ抜いたりすりゃ、すぐに信用は落ちる。品質もそうだが、くれぐれも期日を破ったりしないよう、気をつけてやってくれよぉ……?」

 

 それまでの陽気な様子から一転して、低くドスの利いた迫力のある声音で告げるハインツさんを見て、俺とリリーの喉が同時にゴクリと鳴る。

 ……この人、絶対に元冒険者とかそういう荒事の職業だろう。尋常じゃないぞ、この圧力は。

 

「分かりました! しっかりと肝に銘じておきますッ!」

「はい! 絶対、依頼を失敗することはないように努力しますッ!」

 

 背筋を正して勢い良く答えた俺達の返事に、気を良くした様子で鷹揚に頷くハインツさん。その雰囲気はすでに、陽だまりで寝転がる熊のような明るいものに戻っている。まあ、どう言い繕っても熊なわけだが。誰だよ、愛嬌があるとか考えたバカは。

 

「今日はどうする? さっそく、何か受けていくかい? そうするなら、依頼の受け方なんかも説明するが」

「いえ、今日の所は挨拶だけで。まだ荷造り等も終えていない状況ですから。仕事を請けるのは、明日以降にさせて頂きます」

「おう、分かった。なら、こっちでも兄さんと姉さん向けの依頼を、いくつか見繕っておくよ。ダメそうなのは他に回すか断るから、やれそうなやつだけ受けてくれや」

 

 それは助かるな。俺達が受けない依頼はどうなるのか、少し気になっていたからな。わざわざ俺達のために依頼を引き受けてきたと言われても、二人で全部を達成出来るわけがないのだから。受ける依頼を内容次第で自由に選べるのならば、一安心だ。

 リリーと二人で謝辞を述べ、席を立つ。

 休憩というには少し長話してしまったが、そろそろ次の店に向かうべきだろう。あまりゆっくりしすぎては、昼食が遅くなってしまうからな。

 ……って、危ない危ない。うっかり、もう一つの用事を忘れる所だった。

 

「ちなみに、冒険者に護衛の依頼ってありますか?」

「護衛の依頼? まあ、あるにはあるが……兄さん達がやるのかい?」

 

 どう見ても守る側には見えないヒョロッとした、良く言えば頭脳派、悪く言えば頼り無い体格のリリーと俺を見て、ハインツさんが怪訝そうに聞いてくる。

 ああ……そうか。確かに、今の聞き方ではそう取られてしまうな。

 

「いえ、そうではなくて逆です。私達が彼らを雇うこともあるかと思いまして」

「んん? ああ、そういうことかい。なら、直接自分達で話し合ってみた方がいいだろう。ちょうど、そっちの隅にいる坊主が冒険者になりたてという話だったし、そいつに声を掛けてみたらどうだ? 同じ駆け出し同士、気が合うだろうさ」

 

 そう言って、ハインツさんに指差された方向には、何やら難しい顔をして掲示板の前に立つ少年の姿があった。

 やや赤み掛かった茶色の髪を適当な長さで切り揃えた、首に巻いた青いスカーフが印象的な少年だ。身長はリリーより幾分か高いが、まだまだあどけなさが抜けない顔の造作からして、彼女よりも年下だろう。

 俺は彼の姿を見て、すぐにピンと来るものがあった。酒場を訪れる時点で出会えるかもしれないとは思っていたが、初日から遭遇するとは運が良い。恐らく、間違いないだろう。

 

「そうですね、彼に話し掛けてみます。何から何まで、ありがとうございました」

「そう畏まるなって! もっと気楽にしていいからよ! これから長い付き合いになりそうだしな!」

 

 ガハハと大口開けて笑うハインツさんに、俺も釣られて自然に笑顔が浮かんだ。作り笑顔ではなく、本心からの笑顔だ。腹の探り合いを必要としない相手は、それだけで貴重な人物だ。貴族の社交場やアカデミー内では、そんなのばかり相手にしていたから尚更だな。

 足取りも軽く、カウンターを離れて紹介された少年の下へ向かう。彼はこちらの話し声に気付いた様子もなく、先程からずっと掲示板の前を行ったり来たりしている。良い依頼が見つからないのだろうか?

 

「ねえ、アルト。護衛って、何の話?」

「お前な……少しくらい自分で考えろよ。今後は、イングリドに説明するのはお前になるんだからな」

「うっ! わ、分かってるわよ」

 

 なんでなんでと尋ねて許されるのは子どもの特権だ。今後、俺達は教師として二人を導く立場になるのだから、今のままではどうしようもない。リリーが錬金術士として未熟なのは分かった上でのことだが、だからといって今のままでいていいというわけではないのだから。

 

「でも、あたし達は錬金術士でしょ。物を作るのに、護衛なんて必要ないと思うけど」

 

 本気で言ってるんだとしたら相当だぞ、お前。

 まあ、箱入り錬金術士だし仕方ないか。これから徐々に慣れていくとしても、最初くらいは手助けしてやるのが先達の務めと我慢しよう。

 

「外に出れば、獣といわず魔物や盗賊だっているんだぞ。採取しに行く際には最低限、身を守る物は必要だ。それでも敵わない相手なら護衛を雇って事に当たるのは当然の備えだろう。魔物から剥ぎ取れる希少な素材は店に売ってないことも多いし、その品物を目的に自ら狩りにいかなければならない時もある。まあそうは言っても、いつも護衛を雇っていたら、お金がいくらあっても足りなくなるだろうがな」

「だから護衛かぁ……。出先に武器屋に寄るって言ってたのも、そういう理由があったのね」

「自分達の装備を整えるためだけにではないぞ。武器を扱ってる店へ挨拶しておけば、買い物に来た冒険者の人とかに、店主が俺達の事を話してくれたりするかもしれないだろ? 彼らが必要とする物の中には、傷薬なんていう錬金術で比較的簡単な品物もあるしな。雇うにしても、依頼をもらうにしても、冒険者の間に俺達の名前が知られるのは得なんだよ」

「なるほどねぇ……。ちゃんと考えてるのね」

「他人事みたいに言ってるんじゃねえよ」

 

 ため息と共に、ゴツンとリリーの頭にゲンコツを落とす。リリーは悲鳴を上げて恨みがましい目で睨んでくるものの、俺に何も言い返してこない辺り、自分でもマズかったと自覚しているのだろう。そうでなければ、困る。 今後もフォローするつもりではいるが、何から何まで手伝うわけにはいかないのだから。そんなことをしていては、何よりもリリー自身のためにならない。

 

「痛たた……。ううっ、でもそうよね。あたしが、ちょっと考え浅かったかも」

「かも、じゃなく間違いなくな。しっかりしてくれよ、リリー先生」

 

 先生、の部分にアクセントを置き、強調して言う。

 ムッと顔をしかめながらも、リリーはぐぬぬと唸るだけで反論してこなかった。

 クククッ……気分いいな、これ。癖になりそうだ。いつもは口やかましい年増女も、正論なら何も言い返せないようだ。

 今後、リリーをあしらう時は今みたいに対応することにしよう。

 

「あたしも、頑張らないとだなぁ。あたしのせいで、イングリド達を死なせるわけにはいかないんだから」

「――――」

 

 …………。

 ぞくり、とした。

 

「今までは実験を失敗したからって死ぬことはなかったけど、これからはそうもいかないんだものね。先生として、しっかりと彼女達を守って上げなくちゃ」

 

 ふんっ、と両手に力をこめて意気込むリリーの姿が、どこか遠くの光景のように映る。

 ……そうだ。全くもって、彼女の言う通りじゃないか。

 この世界は、ゲームじゃないんだ。冒険を失敗したからって、体力と気力を失って家に戻れるわけではない。

 失敗=死だ。

 死ぬのだ。

 実験を失敗したからって、常に産業廃棄物が出来上がるわけではない。

 一歩間違えれば、危険な事態に陥る調合だってあるのだ。

 死の危険性が、身近に存在する世界。

 取り返しなんてつくわけがないんだ。これは現実なんだ。

 この世界は『リリーのアトリエ』の世界ではなく、あくまでそれを基に創られた世界。そんな結論は、今までに何度も出したじゃないか。今更、焦る必要もないくらいの自明の理だ。

 

「いつもそうやってきちんとしてれば、あたしもあんたのこと素直に認められるのに……」

 

 ……違う。俺のせいじゃない。俺のせいなわけがない。

 けれど、震えが止まらない。

 今までに何度も兆候はあったんだ。それはリリーの現状から、何度も何度も察していた。

 原作では、これほどまでにリリーは世間知らずの箱入り娘な感じではなかったはずだ。分別のつく少女であり、良き先生、良き母親役だったと思う。

 だというのに現状、こんなことになっている。

 まさか、俺が良かれと思ってしたことの影響が、こんな所で出てきているとでも言うのだろうか?

 思えば、ドルニエ先生が俺のことを説得しようとした際の言葉からも、それは察せられた。彼女達だけで生活させるには不安、という言葉。原作はゲームだから平気だった、と思考を放棄する事は出来ない。そんなのは何の解決にもならない。

 今の所、目に見える影響は大したものじゃないが、今後もそうとは限らない。

 俺がいるせいで、何かしらの影響を彼女達に与えている可能性がある。それは彼女達、原作に登場する人物達に関わると決めた時点で気付いていたし、俺が『リリーのアトリエ』を基にした世界に干渉すると決めた時点で覚悟はしていた。

 ――いや、したつもりだった!

 彼女達の人生を左右するとは決して誇張された表現ではなく、比喩ですらなかったのだ。それは正しく、生死に関わることなのだ。

 その中には、彼女達の人生が道半ばで途切れるという、原作では絶対にありえない展開も存在するのだ。

 そう、もし――もし、俺のしたことのせいで、リリー達が命を落としたら?

 俺がいたせいで、彼女達が死んでしまったら?

 ……ゾッとしない話だ。

 俺が他人の運命を左右するかもしれない?

 前世での中学生が夢見る戯言じゃあるまいし、冗談じゃない。

 でも、この世界は現実だ。ゲームじゃない。呆れる程に簡単に人は死ぬし、人の善意を妄信出来るほど優しく出来てはいない。そんなのは、この世界に生まれ落ちて今まで嫌となる程に思い知らされた。

 セーブなんてない。ロードなんてない。やり直しなんて利かないんだ。

 一度限りの人生なのだから、それが当然なんだ。

 俺が勝手に、物語に関わって自爆する分には問題無い。それは自業自得だからだ。

 でもそのせいで、周囲に迷惑を掛けたら? ゲームでは生きている人物が、この世界では亡くなったら?

 了見が甘かった。実際に、こうして言葉に出されて差異を感じ取るまでは実感がなかった。危機感が沸かなかった。せいぜい、エンディングに関わる条件でリリーを誘導できるかも、なんてバカなことを考えた程度だ。エンディング? 誰が保障するというのだ、その結末を。 俺のせいで彼女達が途中でいなくなる……そういう未来もあるかもしれないのだ。いや、あって当然なのだ、この世界では。

 俺が抱く罪悪感は彼女達にしてみたら、的外れもいいものだろう。

 なぜなら、彼女達は原作なんて知らないし、想像すらしないのだから。俺のせいで本来とは違う流れになった、なんてそんなものと比較されても困るだろう。そんなことは、俺にだって分かってる。分かってるんだ、そんなことは!!

 でも、前世での知識が俺にそれを楽観視することを許さない。感情の話だ、理性で納得なんて出来やしない。

 物語を変えるくらいいいだろ、と思っていた。

 だが……物語を変えるということは本来、それ程に恐ろしく、覚悟を必要とすることなのだ。

 

「リ、リリー」

 

 自分が口にしたとは思えない程、頼りない声が口からこぼれ出た。

 彼女の名前を呼び、泣きすがろうとでもするような愚かな声が。

 

「ん?」

「あ、いや……」

 

 ――バカなッ! 今、何を言おうとした俺は!!

 俺のせいで、お前が死ぬかもしれないって?

 助けてくれと泣き喚く気か? 許してくれと慈悲を乞う気か?

 なんだそりゃ……意味不明すぎるだろう。

 

「――っ!?」

 

 誤魔化そうと、何か適当な言葉を探す俺に、なぜかリリーが血相を変えて詰め寄ってきた。

 俺の額に手を当てて、心配そうに顔を覗き込んでくる。

 

「どうしたの、顔真っ青よ!? いったい何が……ねえ、大丈夫なの!?」

 

 そうか、俺は今、そんな顔色になってるのか。どうりで目の前が真っ暗だと思った。

 やたらと気の滅入ることばかり考えていたから、気分が悪くなって当然か。今にも、腹の中といわず魂までも嘔吐してしまいそうだ。

 ああ本当、吐き出せるものなら全部そうしてしまいたいよ。そうしてしまえば、多少はラクになれるだろうから。

 ――でも、出来ない。それは、彼女にだけは伝えてはいけないことだ。

 そんなものは、八つ当たりもいい所だ。自分がラクになるためという浅ましい理由だけで、こいつに余計なものを背負わせるわけにはいかない。

 そんなことをしてしまえば、俺は絶対に自分を許せなくなる。二度と、彼女達の前で笑うことが出来なくなる。話し掛けられなくなる。

 だから、それだけは出来ない。絶対に、したくない。

 

「どこか休む所……って、ああ、今ここがそうよね。ほら、いいから取りあえず椅子に座って! そうだ、家に戻ったら何か良くなるもの調合してあげるから! ねえ、喋ることもできない? 黙ってたら、何も分からないじゃない!」

 

 見ていられないくらい慌てふためくリリーの姿は、まるで寸劇を見ているかのようで思わず苦笑が漏れる。

 そういえば、こいつの前でこんな無様な姿を見せるなんてこれが初めてか。知り合いが体調を崩したからといって、いくらなんでもこれは動揺しすぎだろう。まるでヘルミーナが風邪を引いた時の俺のようじゃないか。俺の場合は愛故にだったが、リリーは単にどう対処していいか分からないからだろう。

 まったく……、仕方のないやつだ。

 

「……何か良くなるものって、適当すぎだろ。それに、お前が俺に調合って立場が逆だろう?」

「うっ! ……そ、そうかもしれないけど! でも、放っとけないじゃない!」

 

 騒ぎ立てるリリーの様子に、周囲の人間がどうかしたのかと視線を向けてくるのに気付く。先程出会ったばかりのハインツさんが、心配そうに声を掛けてくるのが耳に入る。冒険者の人達の大丈夫かという声がする。

 そして――

 

「――アルトにしてみたら頼り無いかもしれないけど……でも、あんたが苦しんでる時に何もしないでなんて、いられるわけないでしょッ!?」

 

 リリーが激情のままに叫んだ声に、頬を張っ叩かれたような錯覚を覚えた。

 そう、だよな……。

 こいつだって、誰かに言われるがままの人間じゃない。ちゃんと考えて生きているんだ。

 当然のことだが、街の人達にだって意思があり、生きているのだ。原作のように決められた役割を演じているわけではない。

 誰も彼もが、その一瞬一瞬を必死に生きているのだ。

 何度も言うが、この世界は『リリーのアトリエ』を基にした世界であり、俺だけが生きている世界ではないのだ。自分のためだけに存在する世界とか、精神年齢以前に中学生からやり直してこいと言われかねない考えだな。まるで、俺がこの世界に生きる人達、全ての行動を左右しているかのような勘違いをするとは……。

 自惚れるにも程がある。人間は、そんなに簡単な生き物じゃない。

 例え影響を与えられたとしても、その行動の決定権はあくまで本人にあるのだから。

 だったら俺に出来るのは、自分が関わった相手が死なないように気をつけることだろう。

 そのくらい、造作もない。何せこっちは、人生経験なら二人分積んでいるのだから。最近は何かと自分の至らなさを自覚させられてばかりで嫌になるが、それでも気負わなければなるまい。放って置いたら、どこまでも間抜けなことをしでかすやつがいるんだから。年上として、先輩として、同僚として、仲間として、情けない姿ばかり晒すわけにはいかない。

 俺には付録として、原作の知識なんて今後の展開の手掛かりを知るには十分な代物もあることだし、使い方を間違えなければどうとでも対処可能になるだろう。

 イングリドとヘルミーナのために全力を尽くし、どんなことをしてでも守るのは本望だ。ドルニエ先生には、まだまだ恩を返しきれていない。家族には……特に姉には、一生掛かっても償いきれないほどの迷惑を掛けてしまっている。

 

「あっ、ごめん、怒鳴ったりして……。ねえ、本当に大丈夫? お水飲む? どうしたのよ、気分が悪くなったの?」

 

 それに、リリーだ。

 あたふたと落ち着きの無い様子で、俺を気遣ってくるリリーが目に映る。

 手を伸ばせば届く距離。すぐ近くにいる。遠くなんかじゃない、目の前にいると分かる。

 リリーは……こいつは、まあ原作の主人公だし、こんなムカつくやつでもいなくなれば二人は悲しむだろうし、ドルニエ先生も弟子がいなくなっては困るだろうし、俺も――いや、俺はそうだな、自分勝手な罪悪感で寝覚めが悪くなるだろうし、それに、不倶戴天の敵といえども知り合いが死ぬのは気分的に嫌だし、だからええと、そうだな、あとはええと……まあ、そんな感じで、うん、そうだ、だから死なれては困るよな。うん、そうだな。誰であれ、俺の知り合いがいなくなるのは嫌だ。

 だから、これは誰が相手でも当然のこと。なんら、不自然じゃないよな。

 

「リリー」

 

 ――守ってみせる。もし、この先に理不尽な展開が待つのだとしても、せめて俺の手が届く範囲は守り通してやるさ。

 俺は場違いな記憶を持つ者だ。俺の持つ責任感は、この世界の誰とも共有できないものだろう。

 だが、それがどうした。その程度、飲み込んでやる。こいつの前で、そんな弱音を見せて堪るかよ。

 何も特別なことなんてない。生きていれば、誰でも自分の知る人に死んで欲しくないと願っているはずだから。

 

「もう、大丈夫だ。ちょっと立ち眩みがしただけで、すぐに良くなるから」

「本当に? 本当に、大丈夫なの? 何かの病気とかじゃなくて?」

「ああ、ちょっと人込みに酔ったのかもな。もう顔色だって元に戻ってきてるだろ?」

「そう言われれば……」

 

 バカなやつ。

 自分のアホな発言のおかげで、俺が持ち直したとは思いも寄らないんだろうな。

 でも、しょうがない。そういうやつだからな、こいつは。

 まったく……本当にバカなやつだな、お前は。

 いつの間にか俺達の周囲に人垣が出来てしまっていたので、申し訳ない大丈夫ですと手を振って応える。しっかりしろよ兄ちゃん、と軽く肩を叩いて戻っていく冒険者達。薦めた飲み物が合わなかったか、と未だに心配そうにこちらを見るハインツさんに大丈夫ですと再度重ねて言う。

 やれやれ、大騒ぎになってしまったな。後で何かしらフォローしておかないと、俺が病弱扱いされかねない。

 

「お前も、いつまでそんな顔してんだよ。大丈夫だって言ってるだろ?」

「そうは言うけどさ……。今度また少しでも体調悪くなったら、すぐに言いなさいよ? 我慢なんてしたらダメよ?」

「ああ、分かった分かった! そう俺を病人みたいに扱うな。お前が俺のことを心配するなんて、気持ち悪くて仕方ない」

「な――っ!? だ、だだ誰がいつあんたの心配なんてしたのよ!? そんなのしてないわよ!」

「痛てえっ! お前、気分良くなって来たとはいえ、さっきまで倒れそうだった俺をぶつか普通!?」

「うっさい! バカ! バーカ! あんたなんか、あのまま倒れてりゃ良かったのよ!」

「ちょ、やめ、やめろバカ! 痛いっつーの!」

 

 ポカスカと……いや、そんな可愛いものではなく、ビシッ、バシッ、と俺の頭を景気良くぶっ叩くリリーの両腕を掴み上げ、その暴威から身を守る。フーッフーッと息を荒くして興奮するリリーは、もうなんというか手負いの獣かよお前はと言いたくなる。

 

「なあ、兄さん達。もう大丈夫なのかい? なんか倒れてたみたいだけど」

 

 俺とリリーが無言で力のせめぎ合いを繰り広げていると、席に戻っていった冒険者達の中、一人だけそのまま残っていた少年が声を掛けてきた。先程ハインツさんから紹介された駆け出しの冒険者だ。その手には、何かの飲み物が注がれたコップを持っている。

 

「いや、倒れてまではいってないが」

「ん、そっか? ま、いいや。はい、これ。ハインツさんから飲むようにって」

 

 リリーと一時休戦して手渡されたものを受け取ると、何か独特な香りがした。スーッと鼻から通り抜けていくような香りから察するのに、ハッカか何かに似た飲み物だろうか?

 ハインツさんの方を振り向くと、彼は無言で頷いた後にクイッとアゴを少年の方に動かした。

 せっかくの好意なのだし、遠慮なくいただこう。俺はハインツさんに小さく頭を下げて礼を述べ、一気に飲み干した。途端に胸がスーッと軽くなり、心持ち、気分が楽になった気がした。

 

「わざわざ、ありがとう。ええと、キミは?」

 

 俺は少年に向き直ると、ほとんど答えを確信しながら問いかけた。

 

「オレかい? オレはテオ! 冒険者になりたての駆け出しなんだ!」

 

 少年――テオはどこか自慢気に胸を張り、そう言って朗らかに笑った。

 

 

 

 

 

 

「ちゃんと乾かしてから寝るのよ? 一人じゃ難しかったら、ドルニエ先生に手伝ってもらいなさい」

「はーい、先生。おやすみなさい」

「おやすみなさーい」

 

 イングリドとヘルミーナの髪の水気をタオルで軽く拭き取ってから、あたしは二人におやすみと言って浴室に戻った。

 いつもなら、きちんと乾かしてあげて一緒に寝る所だけど、今日はもうちょっとゆっくり湯船に浸かりたかった。バスタブを満たすお湯に身を深く沈める。そのじんわりとした温かさにホッとして、自然と溜め息が漏れる。割と大きめのお風呂なので、一人なら手足を伸ばしても余裕がある。

 ドルニエ先生はお疲れの様子だったので最初にお風呂へ入ってもらい、一足先に寝室へ上がっている。あたし達が入る前に確認した時には、何やら手紙をしたためていたようだった。たぶん、アカデミーへ無事到着したことの連絡等だろう。

 アルトは酒場で夕食を取った時に冒険者の人達と話が盛り上がっていたらしく、先にあたし達を帰して自分一人で残ったままだ。遅くならないうちに帰る、と言っていたのでそのうち帰って来るだろう。だからこそ、アルトがいないうちにと思って、二人にさっさとお風呂を済ませるよう言ったのだけどね。あの変態がいると、二人の入浴中に覗いてきそうで気が休まらないし。さすがに初日からそんな不埒な真似はしないはずだとは思うけど、あいつ筋金入りの変態だからなぁ……年頃の娘の身の上としては、自分よりも幼い彼女達の方を心配しなくてはいけないのは、複雑な心境だ。

 伸ばした手足を、ゆっくりと手指で揉んでいく。

 今日はなんだか色々あって肉体的にも精神的にも疲れてしまった。初日からこれでは先が思い遣られる。

 

 

「酒場に、武器屋に、雑貨屋に……あたし、ちゃんと挨拶できてたかなぁ?」

 

 最初に街中で出会ったのが、雑貨屋のヨーゼフさん。奥さんと仲睦まじいオジサン。

 次に訪れたのが、酒場のご主人のハインツさん。明るく豪快な性格だけど、ちょっと怖い時もある人。

 その酒場で知り合ったのが、冒険者の駆け出しテオくん。いかにも年相応の男の子といった感じな少年。

 で、その後に挨拶したのが、武器屋の店主のレオさん。ちょっと元気がくて心配になるお爺さん。

 隣の製鉄工房で会ったのが、鍛冶師の駆け出しカリンさん。男の人みたいにカッコイイ男前なお姉さん。

 最後に顔をあわせたのが、二階の雑貨屋のヴェルナーさん。道楽で店を経営してるというちょっと変わった男性。

 今日だけでも、たくさんの人達に錬金術士として挨拶している。これからあたしは錬金術士として仕事をしていくことになる。今日の挨拶はその第一歩だ。

 午前中に挨拶を済ませ、午後は買出しとケントニスから持ってきた物をアルトの手引きで船から運び終えたので、既に生活するのに不便さはない。今日、買い揃えることの出来なかった物については、また後日、買い出しに行く予定だ。順調といえば順調ね。

 明日からは、錬金術士として本格的に動いていくことになる。

 金の麦亭で依頼を受け、商品と引き換えに報酬となるお金を貰う。自分の調合品を売り物として渡すのは始めての経験だ。今までみたいに、ただ言われた課題をこなすのではない。錬金術という技術を基にした商売を行っていくのだ。全ては、自分達の行動次第となる。

 そのことを意識すると、途方も無い重責となって双肩に圧し掛かってくる。

 ……本当に、あたしにそれが出来るんだろうか?

 

「うう、不安になってきた……」

 

 きっと、アルトはこういう不安とは無関係なんだろうな、と一緒に頑張る予定の仲間のことを思って溜め息を吐く。

 今日だって、あいつは平然とした顔で挨拶回りを済ませていた。どんな人と会話しても慣れたものとばかりに話を進めていくあいつに、あたしはただ黙ってついていくばかり。このままじゃダメだと思って慌てて会話に加わってみても、そんな急に人は変われるものでもなく。彼にばかり責任を負わせているという事実に自己嫌悪した。

 

「急に真っ青になった時には、びっくりしたわね」

 

 酒場でのことだ。

 それまで普通に会話していた彼が突然、顔色を真っ青にして震えだしたのだ。彼は人込みに酔っただの、立ち眩みがしただの、なんだのと言い訳していたけれど……あの様子は、どう見ても変だ。今までに、アルトがあんな風になったことなんて一度もない。どんなに疲れていても、そんな素振りさえ見せたことがないのだから。いつだって憎たらしくなる程、自信に満ちた表情と態度で、あたしが心配する必要なんてないくらい完璧なやつだった。

 でも、今日は違った。今にも倒れそうな程に弱っていた。

 きっと、あれはあたしのせいだ。あたしがしっかりしてないから、あんなことになってしまったんだ。

 自分一人なら問題なくても、あたしとイングリドとヘルミーナといった三人分まで余計に面倒を見るとなると、さすがに許容範囲を超えてしまってもおかしくはない。イングリドの面倒を見るのはあたしだと、きちんと分担したはずなのに。

 今までずっと、知らず知らずのうちに頼っていた。口では信用できない、信頼してない、なんて言いつつも、あたしはあいつに頼ってばかりいたのだ。アルトに任せていれば大丈夫、そんな気持ちが微塵もなかったとは言えない。

 その結果が、酒場での一場面を招いた。

 あたしは、彼に無理をさせ続けてしまっていたのだろう。

 持病なんてないのは知っている。ヘルミーナと違って体が丈夫なのも。今までに一度もあんな姿を見せたことはなかった。あいつだって人間なんだ、疲れないわけがない。あたしの前では、決して見せないように痩せ我慢していたのだろう。そんな彼が、疲労を隠し切れなくなる程に追い詰められていた。そう、させてしまった。

 いつだってムカつく程に余裕綽々な態度で、不安そうな素振りなんて一度たりとも見せた事が無くて、あたしが本当に困っている時にはいつだって助けてくれて。

 今思えば、渡航が決まってから今まで一度も彼に相談されることはなかった。ただ、あたしは先生とアルトの後ろをついていくだけだった。これからのことを自分で考えることもせずに、全部アルトに投げっぱなしにしていた。そのことに、何の疑問も抱いていなかった。

 その癖、相談してくれない、自分勝手だ、と不平ばかり述べていた。上から目線で、彼に不満を抱いていた。

 なんて身勝手だったんだろう。なんてバカだったんだろう。

 ――これじゃ、まるで子どもだ。

 

「そんな相手じゃ……、頼れないよね」

 

 く、と喉の奥に声が込み上げてくる。

 パシャン、と両手でお湯をすくって顔にぶつける。一人になって気が緩んだせいか、感情の制御が出来なくなっている。

 まなじりに熱が滲むのを感じる。温かい雫が一滴、頬を伝って流れ落ちていく。

 自覚した途端、視界がぼやけてきてしまった。

 違う、泣いてなんかいない。これはお湯が落ちてるだけだ。

 こんなことじゃ、ダメだ。

 あたしは、両手で顔を覆って瞳を閉じる。瞼を抑える端から、とめどなく涙が溢れ出す。

 何をしているんだろう、あたしは。

 悔しい。何も出来ない自分が。何もやらなかった自分が。

 威勢だけは一人前で、けれどあいつに対して何の力にもなれない自分が。

 押し殺し切れなくなった嗚咽が漏れ、浴室に小さく反響する。

 遠く離れた故郷を不意に、懐かしく思った。会いたい。家族に会いたい。会って、慰めてもらいたい。大丈夫、リリーは良くやっているよ、頑張っているよ、そう言ってもらいたい。優しく抱きしめて、守ってもらいたい。

 ――でもそれじゃ、ダメだ。そんな弱気じゃ、絶対にダメだ。そんなの分かってる。 

 アルトに頼られる程の一人前の錬金術士になるって、そう決めたのに。

 アルトの隣に立てるくらいの存在になりたいって、そう思っているのに。

 なのに、現状はどうだ。全然、理想に現実が追いついていない。

 今回は、まだ平気だった。幸い、アルトはすぐに体調を持ち直したようで、その後は変わりなく平然と過ごしていたから。

 でも、今後もそうだとは限らない。

 このままあたしが何も変わらずにいたら、きっとあいつはまた倒れてしまう。なんだかんだと文句を言いつつ、助けを求めた時にはいつも助けてくれるやつだから。自分が無理をしているなんて弱音は、決して口にしないやつだから。

 今のままでは、もしかしたら今以上に無理をさせてしまうかもしれない。ううん、きっと本格的に工房が稼動していけば、そうなってしまうだろう。あたしにとって分からないことだらけなのだから、あいつに頼ってしまいそうになるのは目に見えている。そんな情けないあたしが頼れば、その分あいつは無理をしてでも助けてくれるだろう。

 その結果、アルトがまた今日みたいなことになったら……。

 そしてその時もまた、無事に済むという保障はどこにもないのだ。

 だったら、あたしはどうすべきか。

 だったら、あたしはどうしたいのか。

 だったら――

 

「……変わらなくちゃ」

 

 両手を離し、もう一度だけ、湯船のお湯をすくって顔に掛ける。

 いつまでも、頼ったままではいられない。もう、弱いままのあたしじゃ、ダメなんだ。

 イングリドとヘルミーナを守るのは、あたし達なんだから。しっかりしろ、あたし。彼女達に先生と呼ばれるに相応しい存在になるんだ。

 二人の面倒を見る。

 それはただ、お金を稼いで食費等を得ればいいというものではない。錬金術士としての知識を教え、何か失敗した時には適切な後処理を行うといったことも必要になる。それは今まで、アルトがあたしに当然とばかりにしてくれたことだ。

 お金が無いといえばお金を稼ぐお手伝い先を紹介してくれたり、錬金術で分からないことがあったら理解するまで何度も懇切丁寧に教えてくれたり、慣れない学生寮での生活を親身になって手伝ってくれたり、実験でとんでもない失敗をした時には一緒に方々へ謝ってくれたり、何日も掛けて一緒に部屋を片付けてくれたりした。

 諸々全部、その時のあたしに足りない部分をアルトが手を差し伸べてくれたことだ。

 落ち込んでいる時には励ましてくれたし、課題を成功した時には一緒に喜んでくれた。アカデミーに知り合いがいなくて孤立していたあたしを何かと気に掛けて誘ってくれたし、時には我が身のことのように真剣に怒ってくれた。それはまるで、実の両親のようにアルトがあたしを見守っていてくれたのだ。

 ――だから、今度はあたしの番だ。あたしが、イングリドとヘルミーナにそうしてあげる立場になるんだ。そう、なりたいんだ。

 今までみたいに上辺を取り繕うだけでなく、もっときちんと、心から彼女達の先生として自負できるくらいになるんだ。

 錬金術士としてだけではなく、一人の人間として尊敬出来るような大人になりたい。

 そうでなければ、アルトの仲間だなんて言う資格はない。誰でもない、あたし自身がそんな言葉を言わせない。

 今までは、彼に甘えていた。出会ってからずっと、何かあったらアルトに頼るのが当たり前みたいになっていた。彼の優しさに甘えきっていた。

 でもそれじゃ、ダメなんだ。

 これからは、あたしも一人の錬金術士として生きていくんだ。それはもう、アルトと同じ立場に立つということなんだから。

 段々と冴え渡ってきた頭の中で、これからのことを考える。

 明日からは、錬金術士としてザールブルグで活動していくことになる。あたしもアルトも、主に金の麦亭で依頼を受けて報酬を得ていくのは同じだ。

 でも、こなせる依頼は随分と変わるはずだ。それは、あたしとアルトの錬金術士としての技量の差が原因。彼の腕は既にドルニエ先生と比べても遜色ない程で、片やあたしといえばまだ駆け出しといってもいい頼り無さ。アルトとあたしでは、作れるものに差がありすぎる。

 だからあたしは最低限、自分で引き受けた依頼だけは責任を持って自らこなさないといけない。あたしが受けた依頼の手伝いをアルトにしてもらうわけにはいかないし、ましてや後始末をしてもらうなんて以っての外だ。

 あたしにはあたしの仕事があるように、彼には彼にしか出来ない仕事があるのだから。面倒を見てもらうだけの立場は、もう卒業するんだ。

 協力するとは、どちらか一方が頼ることでは成り立たない。その関係を築くにはアルトだけではなく、何よりもあたしが一番に変わらなければならない。あいつがあたしを頼っても大丈夫だと思ってもらえるように、しっかりと自立しなくてはならないんだ。そうでなくては、あたしがあいつに何を言っても説得力なんてない。

 

「よしっ! 反省、終わり!」

 

 ザバーンと勢い良く、湯船から立ち上がる。

 うん、頑張ろう! もうウジウジ悩むのはやめだ。自分が至らないなんて分かり切っていたことだ。

 だから、これから先を見据えよう。

 急になんて変われない。いきなり、一人前の錬金術士だとか大人にだなんてなれるわけがない。

 でも、努力しよう。努力し続けよう。

 最初に錬金術を学び始めた時だって、そうだった。独学で勉強していた時だって、何も最初は分からなかった。無理だって何度も諦めかけたけど、その度に負けるものかと努力し続けたのだ。諦めずに毎日毎日学び続けていたら、憧れのアカデミーにだって入学出来たんだ。夢に見ていた錬金術士になれたんだ。

 だから、これからだって何とかなる。ううん、絶対に何とかさせてみせる!

 

「そうとなれば、さっそく明日の準備しないと!」

 

 明日からどう行動するか、その予定を立てておかないとだ。

 アルトと相談して決めるにしても、少しくらいはあたしの方でも考えをまとめておかないと。彼に頼り切ってはダメだと、たった今決めたばかりなんだし。

 まずは道具を整理して調合出来る環境を整えることから始めてバーン!と勢い良く浴室のドアが開け放たれてどんな依頼を受けるかを考えて――って、ちょ、ちょっと待って、何か今おかしなことが起こったような……??

 ギギギとさびついた音を立てる首を動かし、なぜか突然開いたドアの方へ視線を巡らせる。

 

「たっだいまー! イングリド、ヘルミーナ! 俺も一緒にお風呂に入っていいかーい?」

 

 さっきまで殊勝な気持ちで想像をめぐらせていたアルトが、うざったいくらいイイ笑顔でそこに立っていた。

 

「――――」

 

 …………。

 予想だにしない事態に、思考が完全に停止した。

 え……えっと?

 つまり、どういうこと状況だこれは。

 待って待って待って。

 落ち着いて、ゆっくりと整理してみよう。

 あたし――お風呂に入る以上、当然ながら素っ裸で、ついさっき湯船から立ち上がった所だ。

 アルト――お酒が入っているらしく、なんだかやたら陽気な様子でこちらを見つめている。

 そんな二人が立っている場所は、湯気に覆われた浴室だ。

 以上、状況確認終了。

 ん、んー……?

 えーと。えっと……、うん?

 つまり、どういうこと?

 

「あれ? なんだ、お前かよ入ってたの。チッ、さっそく突発イベント発生かと思って期待したのに……」

 

 意味不明なことを呟いて、がっくりと肩を落とすアルト。

 いきなり浴室に乱入してきたかと思えば、身勝手なことを言って落胆するその姿。

 その常軌を逸したド変態の姿を見て、ああそうか、とようやく理解が追いついた。

 なんだ、簡単じゃない。あまりにも簡単すぎて感情が動いていなかったようね。やっと、理解したわ。

 こんなの、たった一つしかやることはないじゃない。

 

「……遺言は、それだけ?」

「は?」

 

 羞恥なのか激怒なのかそれとも別の感情なのか自分でもよく分からないけど、全身に熱がこもっているのがはっきりと分かる。同時に、この痛いほどに握り締めた右手に今だかつて無い程の力がこめられていることも、はっきりと分かる。今がどういう場面なのかも、はっきりと分かる。

 これはもう、こういう場面だ。

 

「この……っ!」

 

 あたしが、このどうしようもない最底辺の愚か者に天罰を下すという場面だ。

 

「とっとと出てけ、このド変態がぁぁぁぁああああああああああッッ!!!!!」

「ぎゃぁぁぁぁああああああああああ!!!!???」

 

 

 迸る思いのままにぶつけた容赦無い制裁は、それに相応しい被害をアルトに与えたとだけ言っておこう。

 ほんっと、深刻に悩んでいた自分が心底バカらしく思えてくるわ!


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