「ええ〜!大洗の島田さんもボコが好きだったんだ!そうとわかったらボコ人形をプレゼントしてあげなきゃ!ねえねえ、何がいいと思う、エリカさん!?」
「この前、こんなこともあろうかとご当地限定版ボコのヌイグルミを自分用と保存用と布教用とで3つ買ったでしょ。あれを1つあげればいいんじゃない?」
「うん、そうだね!それがいいよね!」
「部屋の陳列棚の上から3段目よ」
「わかった、ありがとう!すぐに持ってくるから待っててね、秋山さん!」
テンションマックスで言うが早いか、西住みほさんは嵐のようにミーティングルームを出ていきました。ドドドドドとけたたましい足音が遠ざかっていきます。まさか、ボコを好きなのが隊長の西住みほさんだとは思いませんでした。“軍神”というあだ名とはかけ離れた趣味です。島田殿と息が合いそうです。
「ボコのこととなると理性を失うのよね、みほの奴は。毎回、買い物のたびに荷物持ちをさせられる方の身になれってのよ。寮の部屋が同じせいで、私のパーソナルスペースだってボコに侵略されて迷惑ったらありゃしないわ」
台詞の表面上はいかにも不機嫌そうですが、その口調はちっとも嫌そうじゃありません。お節介な保護者のような、甲斐甲斐しい恋人のような、熟年の夫婦のような、そんな阿吽の関係すら匂います。
西住みほさんの、試合中の威風堂々とした態度や“軍神”というあだ名からは遠くかけ離れた間延びした口調と純粋無垢な印象にポカンとする私の背後では、整備長さん───ではなく、副隊長の逸見エリカさんが颯爽とツナギを脱いで、内側に着ていた黒森峰の制服姿を晒しています。髪を手櫛でさっと梳いて、お湯に浸したタオルで頬のオイル汚れを丁寧に拭って落としたら、見紛うことなき“黒森峰の狂犬”の忌み名で知られる少女がそこにいました。化粧もしてないのに、プロのスタイリストによるメイクを受けたような長いまつ毛とリップいらずの瑞々しい唇が目を惹きます。
「……逸見さん、整備長だなんて言って私を騙すなんて、酷いです」
まさか本人を前にして稚拙な先入観を披露してしまう羽目になるとは。穴があったら入りたいという羞恥心に駆られて私は自分のくせっ毛をワシャワシャと掻き抱きます。
耳たぶまで赤くなっていることを自覚しつつ拗ねたように唇を尖らせて抗議した私に、逸見さんは作業帽を指先でくるくると器用に回しながら、皮肉そうな鋭い笑みを刻んで返答します。
「あら、お生憎様。“躾のなっていない暴れ犬”には人間様の言語が理解出来ないのかもしれないわよ」
「うう、非礼はお詫びします……」
「冗談よ、冗談。気にしてないわよ」
自らの失言にうなだれるばかりの私に、逸見さんはパッと表情を明るくするとケラケラと軽く笑って流してくれます。それでも、“熊本に狂犬あり。熊をも殺す猟犬なり”と称される戦いっぷりを知る者からすればやっぱり恐ろしいものがあります。
「そんなに怖がらないでほしいわね。本物の犬じゃあるまいし、噛み付いたりなんかしないわよ。まあ犬用ハンバーグくらいは」
「へ?」
「あー、なんでもない、なんでもないわ。口が滑っただけ」
誤魔化すように丸めた作業着をフルスイングで洗濯機に勢いよくぶち込みます。コミカルな仕草然り、見かけは怖そうですが内面はとても理性的で分別があるようです。剣呑な表情がとてもよく似合うシャープな目鼻立ちをしていてるためか、意図して険しい顔をすると本当に怖く見えますが、人間性は穏やかです。想像していたような刺々しさは微塵もなく、むしろ高山の湧清水を連想させる爽やかな人格者そのもののように見えます。
「実を言うとね、私の役職は黒森峰の“副隊長兼整備長”なのよ。嘘なんかついちゃいないわ。ほら、そこの役割分担表にも書いてるでしょ」
「ま、まさかそんな」
「本当よ。そっちだって自動車部のレオポンさんチームが整備と選手を兼ねてるでしょ。やってやれないことはないわ。私、機械いじりもめっぽう好きだもの。アーク溶接だってお手の物よ」
促されて壁面の役割分担表を見上げて目を細めれば、たしかに逸見エリカさんの名前の横には『副隊長・整備長』と書いてあります。さすが黒森峰と言うべきでしょうか。それとも、逸見さんが規格外なのでしょうか。
「ところで、さらにその隣に手書きで“隊長のお世話係”と書いてあるのは……?」
「……小梅の奴、あとでとっちめてやらなくちゃいけないわね」
眉根をピクピクとひくつかせながら
「特別に貴女にだけ教えてあげるけど、もしかしたら、私の前世は戦車好きな工学部の大学生で、その記憶をそっくりそのまま引き継いでたりするのかもしれないわよ」
当然、私はからかわれているのでしょう。それでも、濁りのないまっすぐな瞳を見詰めていると、嘘を言っていないような気がするのは何故なのでしょうか。
私は心の視点を一歩引いて、あらためて逸見エリカという人間を観察してみます。全体の印象は達観した年長者の貫禄を漂わせているのに、そのキラキラと赤く澄んだ瞳は若い男の子のように情熱的に輝いています。ここに来るまでに抱いていた“狂犬”のイメージとはまるで違う、思慮深くも活力に満ちた人間らしい人間がそこにいます。
(やっぱり、雰囲気が昔と全然違います)
中学時代の彼女の戦いっぷりは深夜放送やネットの生中継で何度か見たことがあります。ですが、その時の様子はまさに躾のなっていない狂犬そのもので、たしかに強いものの、誰にでも噛み付くような危なっかしさや勢い任せなところが見られました。自分の
(でも、今はもう違う)
何があったのかはわかりません。でも、私が抱いた違和感に間違いはなかったのだと確信しました。西住みほさんが戻ってくるであろう扉をキラキラした目で見つめる逸見さんは、まるで主人が戻ってくるのを今か今かと待ち侘びて尻尾を振る大型犬のように喜びと期待の感情に満ち溢れています。彼女にとって西住みほさんはそれほどまでに大切な存在なのでしょう。西住みほさんに出会ったことで、彼女は大きな変化を遂げたに違いありません。さすがは“黒森峰の軍神”と呼ばれるだけあって、私には想像もつかない
「アンタの想像通りよ」
「えっ」
視線は前に固定したまま横顔で心を見透かされ、私は目を丸くすることしか出来ません。そんな私に、変わらず西住みほさんの帰りを待つ逸見さんは、まるで可愛い女の子を見初めた男の子のような桜色に染めた頬を見せつけながら続けます。
「今の私はね、
そして、逸見さんがさっと首を巡らせて私の目をまっすぐに見つめます。照明を反射した銀髪がスチールブルーの輝きを放ち、妖精のような神秘的な存在感を際立たせます。
「私が“狂犬”であることでみほが
私は、何も言い返すことが出来ませんでした。ただ、この人の“狂犬”というあだ名が、ある意味で間違いで、ある意味で正しいことを理解しました。
「……逸見さんは、西住みほさんに狂うほどに首ったけなんですね」
「そういうアンタだって、
そう言った逸見さんの瞳に映り込む私の顔は、「てへへ」と照れくさそうにはにかんでいます。
島田殿。廃校の危機に直面し、さらに“軍神”と“狂犬”を得て史上最強となった黒森峰という巨壁に直面していた大洗女子学園戦車道チームの救世主。まるで
島田殿と出会って、ただの戦車
私の無言の返事の裏側にある万感の思惟を極めて正確に読み取って、逸見さんもまた濃密な無言の微笑みを返してくれます。お互いに言葉を交わすことがないのに、なんだかお腹がポカポカと温かくなり、安心できる心地よさが胸の奥から湧いてきます。どうして私が逸見エリカさんに興味を持ったのか、どうして彼女が私を「待っていた」と言ってくれたのか、わかってきました。きっと、私たちは似た者同士なのです。戦車が好きで、戦車道が好きで、親友のことがどうしようもないほどに好きな女の子なのです。
(それにしても……)
唐突に疑問が浮かびます。この人は、どうしてこんなに私のことを理解しているのでしょうか。野生の勘とかそういうレベルでなく、私の辿ってきた人生や深い本質にまで迫るような分析には舌を巻くどころじゃありません。なんというか、まるで
「貴方はいったい───」
「ねえ、“西住殿~!”って言ってみてくれないかしら?」
「はぇ?」
疑問を遮られたことよりも、相手の奇妙な申し出の方が私の目を点にさせるに十分な威力を有していました。意味を理解できずにフリーズする私にずいと顔を近づける逸見さんの顔はいかにも真剣そのものです。頬はほんのりピンク色で、なにやら興奮しているようにも見えます。妖しい圧力を感じて、私は背中を仰け反らせます。
「ねえ、お願い!一度でいいから生の“西住殿~!”を聞いてみたいのよ。このワンちゃん用オモチャを一つ分けてあげるから、ね、ね、いいでしょう?」
「い、いりませんよ!どうしてそんなものを持ち歩いているんですか!?それに、他校の隊長さんにそんな軽々しい呼び方なんて出来ませんよ!」
「別に本人を前にしてなくてもいいのよ、エアー西住殿でいいから」
「“エアー西住殿”ってなんですか!だ、だいたい私は一度も西住さんにそんな呼び方をしたこと───」
「お待たせ~、秋山さん!お土産を包むのに手間取っちゃった!熊本土産がちょうどたくさんあるから、よかったら大洗の皆さんにもどうぞ!」
肩を掴まんばかりの勢いで迫る逸見さんの動きを封じるように扉が開け放たれ、西住みほさんが両手にこんもりと膨らんだ大きな袋をぶらさげて現れました。覆いかぶさるような勢いだった逸見さんがそちらをチラリと見て、小さく「ざんねん」と呟いて身を引きます。なにがなにやらわかりませんが、私は助かったのでしょうか……?
「あ、そうそう。秋山さん、このお土産はまだ一部なの。あとで残りの9割を運んでくるね」
「ののの残りの9割!?」
いったいダンボール何十個分になるのでしょう。戦車道チーム全員分どころじゃない量になりそうです。リュックひとつで潜入している身としてはさすがに持って帰るのに無理があります。なんとか上手くお断りする理由を探そうと目を泳がせてアタフタする私に逸見さんが助け舟を出してくれました。
「大丈夫よ。うちには
「そういうことだから気にしないで。エリカさんが今からお土産全部をフォッケに積んでくれるよ」
「ちょっと、なんで私なのよ。自分でやんなさいよ」
「エリカさんのウォークマンを部屋で見つけたんだけどブルートゥースで艦内放送に繋げてみていいかな?」
「早まるんじゃないわよちょっと行ってくるわ」
鞭を入れられたようにバタバタと手足を振り乱して逸見さんが駆け出します。ものすごい慌てようです。それをニコニコと無言の笑顔で見送る西住みほさんからは何故か強烈な威圧のオーラをひしひしと感じます。狂犬よりも軍神のほうがよっぽど怖いんだなと苦笑いする私に、オーラを消したみほさんがひょいと何気ない動作で振り返り、
「私もね、
その熱っぽく潤んだ眼差しに、意識のすべてを釘付けにされました。
「今の私は、エリカのおかげで生きてるの。私を幸せそうに見てくれるあの人を見るのが楽しい。一生懸命な私をそばで支えてくれるあの人を見るのが楽しい。私が強くなっていくのを自分のことのように喜んでくれるあの人を見るのが楽しい。喜怒哀楽をあの人と一緒に味わっていることが楽しい。ふとした瞬間、あの人の横顔が目に入るたびに、たまらなく嬉しいの」
そっと両手を胸にあて、そこにある大事な思い出を包み込むように愛おしげに頬を緩めて、西住みほさんはさらに続けます。
「エリカは、私に可能性をくれた。私だけでは到達出来なかった、
拳をぎゅっと握って、悲壮な声を絞り出します。しかし、「でも」と言い放って顔を上げた西住みほさんの表情は、孤独な旅路の果てに終生の友を見つけたようなとても晴れやかなものでした。憂いも迷いの色も一切ありません。
「でも、今こうしてここにいられるのは、あの人が側にいてくれたから。こうして戦車道を楽しめている今の私がいるのは、誰よりも純粋に戦車道を楽しむあの人がいてくれたから。あの人が側にいてくれるだけで、この世界でたった二人の主人公になったような感じがした。これまでも、これからも、私はエリカと歩んでいく。一緒に戦車道を全力で楽しんでいく。あの人を得た今の私なら、お姉ちゃんだって超えられる。お母さんだって超えてみせる。怖いものなんかない。負けることだって怖くない。怖いのは、あの人に対して恥ずかしい無様な戦いをしてしまうこと。あの人に相応しくない戦いを演じてしまうこと。だから私は“軍神”になる。あの人に誇れる、あの人に相応しい戦いを捧げるために。だから、私はエリカのためならなんでもできるの。なんにでもなれるの」
「どうしたの、秋山。まさか、まだ飛び立つ前からヘリ酔いしたの?」
「い、いえ。違います。大丈夫です」
「そう。ならいいんだけど。それじゃあ、出発するわよ。ドラッヘは揺れるからしっかり掴まってなさい。あ、そうそう。これは個人的な餞別よ」
「これはどうもご丁寧に」
受け取った小さな紙袋をリュックのサイドポケットに入れたと同時に、初期のヘリコプターであるドラッヘが双発ローターを唸らせてふわりと重力を退けます。お尻が浮き上がる浮遊感に肌が緊張に泡立ったのも束の間、夕暮れ時の重い大気をしっかり噛み込んだ羽は優秀な操縦手の手によって機体を舞い上げ、そのままぐんぐんと上昇を開始しました。難しいだろう操縦を涼し気な顔で難なくこなしてみせる隣席のパイロット、逸見さんの横顔をチラと見て、さらに視線を下方へ流します。先ほどまで私たちが立っていた甲板がすでにお皿ほどの大きさに縮まり、こちらに朗らかな表情で手を振っている西住みほさんの姿もどんどん小さくなっていきます。どこにでもいる普通の少女の姿をしているけれど、その心根の覚悟を見せつけられたあとではとても“どこにでもいる普通の少女”とは思えません。
一瞬、風にはためいた彼女の制服が、白緑色をした大洗のそれに取って代わられたような錯覚を垣間見た気がしました。もしも彼女が孤独に堪えられず、大洗に来ていたら、いったい歴史はどうなったのでしょうか。おそらく、まるで物語の主人公のような輝かしい歴史を打ち立てたでしょう。そうなった時、もしかしたら、あの人の隣にいたのは───。
(くだらない考えです)
大洗女子学園を舞台にして西住みほさんの隣で笑顔を浮かべる自分を想像した直後、首を小さく振って詮無い妄想を打ち捨てます。現実は
「逸見さん」
「ん?なに?」
私は巨大な尊敬を込めて、言います。
「貴女たちは、強敵なんでしょうね」
逸見さんがニヤリと不敵にほくそ笑みます。まるで世界そのものに噛み付くように、鋭い犬歯がギラリと輝き、夕日よりも真っ赤な瞳が挑戦的な炎を灯します。
「ええ、強いわよ。
親友のことを心から誇らしげに語る逸見さんは、とても幸せそうでした。
今まで、私は心のどこかで、“主人公は自分たちなんだ”と漠然と考えていました。学園廃校の危機を救うべく立ち上がった弱小高校が駆け上がっていくサクセスストーリーの中心なんだと。しかし、西住みほさんと逸見エリカさんに出会って、その考えに変化が生じました。彼女たちもまた、私たちと同じように戦車道にすべてを懸けて挑んでいる、物語の主人公なのです。いえ、もしかしたら───彼女たちこそ、
……ところで、この“餞別”は何なのでしょうか。パッケージのタイトルがチラリと目に見えましたが、『催眠戦車の館へようこそ』とは……?
エリカさん、はい、ア~ン。ん?どうしたの、そんなワタワタして。エリカさんの大好きなハンバーグだよ。さっき作ってみたの。食べさせてあげる。あ、出来たてだからちょっと熱いかも。フーフーして冷ましてあげようか。え?「どうしてそんなに機嫌が良くなったのか」って?んふふ、なーいしょ。それで、どうするの?ア~ンはいらないの?……はい、素直でよろしい。んふふふふ。