二度目の中学校は”暗殺教室”   作:暁英琉

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名前は人を造らない

「これで……茅野さんは大丈夫になったんですか?」

 

 気絶した茅野から最速・精密に触手を根の先まで抜き取った殺せんせーに、茅野を支えながら奥田が尋ねる。心臓にダメージを負って呼吸を荒くしながらも超生物は「おそらく」と触手で小さく丸を作った。そこで耐え切れなくなったのか――

 

「ゲホッ」

 

 むせ込むと同時に、ボタボタと口から大量の血が溢れ出した。数人が駆け寄ろうとするのを殺せんせーは平気だと制する。完全破壊されなかったとは言ってもさすがに心臓の再生には時間がかかってしまうようだ。

 皆の視線は、自然と殺せんせーに集中する。

 

「…………」

 

 そんな中俺は、殺せんせーから目を離してすすき野原の外れにある林の方を見つめていた。いや、俺だけじゃない。渚と烏間さんも何かを感じ取ったのか同じ方向を見つめている。

 いつからそこにいたのか。さっきまではあたり一帯に充満していた茅野の殺気で分からなかったが、あそこには何かがいる。隠れているつもりのようだが、気配を全く抑えられていない。暗殺や戦闘の訓練を受けた人間ではなさそうだが、一般人でもないだろう。

 一般人なら、こんな殺気をこちらに向けてくるはずがない。

 薄茶色のすすきが風で揺れる中、何かが三日月の光を淡く反射させて――それが銃口だと気付き左ポケットに忍ばせていたエアガンに手を伸ばしたが、腕を駆け上がってきた痛みに思わず動きを止めてしまった。

 ――ッ! ッッ!

 二発の発砲音が響いた。

 

「クッ……!」

 

 “俺のすぐ後方から”放たれた小さな球体は、それぞれ俺たちが睨んでいた方向に吸い込まれた。感じていた気配はわずかに動揺の色を見せ、銃口をのぞかせていた場所からは、驚くべきことにさっきまでは感じなかった気配が漏れ出した。

 俺だってこの一年で気配察知はかなり上達したはずなのだが、今の今まで気が付かなかった。渚も、烏間さんですら今感じ取れたようで、驚愕に顔を歪めている。つまり、今浮上してきた気配は相当な手練れの暗殺者ということだ。

 そんな暗殺者と一緒にいて、こちらにあんな明確な殺意を向けてくる人間。そんなに奴で今動ける人間を俺たちは一人しか知らない。

 

「……まったく。小娘は自分の命と引き換えの復讐劇で大した成果も上げず、化け物に群がる羽虫共は瀕死の暗殺対象ではなくこちらを狙ってくる。そいつの足止め役の連中でなかったら今頃全員殺しているところだ」

 

 全身白ずくめの男、シロは悪態をつきながら林の陰から出てくる。もう一人姿を現したのはシロとは対照的に全身黒ずくめ、革製のテラテラ鈍く光を反射させるフード付きの服を頭までチャックを上げて一ミリたりとも肌を露出していないその姿は、まるでのっぺらぼうのようで寒気がした。手に持っているのはさっきこちらに向けてきたアサルトライフルタイプのエアガンか。

 その二人を、正確には俺たちが見ていた方向を狙って隠し持っていたガバメントで発砲したらしいE組きってのスナイパー二人はハンマーを下ろして再び照準をシロたちに合わせている。弾は殺せんせーのみを殺すBB弾だ。当たっても致命傷になることはまずない。しかし……。

 

「BB弾だって目とかに入ったら危ないんだぜ? 試してみるか?」

 

「…………」

 

 エアガンの発射速度は馬鹿にならない。そんなものが眼球に当たれば、触手の有無に関係なく相応のダメージを受けることになる。そして千葉龍之介は、その芸当を問題なくこなすことのできるスナイパーだ。

 しかし、なぜお前らがそんなことを。

 

「……言ったでしょ。あんたらが危なくなったら、次は私たちの出番って」

 

 自分のガバメントを掴み損ねた左手に視線を落として、速水が呟く。確かにあいつらに気づいていた人間は遠距離の相手に攻撃する手段を持っていなかったし、俺もこの左手では迎撃できそうになかった。殺せんせーの話を聞くまでが今回のミッションだ。さっきの状況はその点において、確かに“危なくなっ”ていた。

 

「それに、……あんたが次に引き金を引こうとしたら、私が先に引くって言った」

 

「……そうだったな」

 

 誕生日のあの日、俺に銃口を突き付けて宣言した言葉に、ふっと肩の力を抜いた。あの時はその前に俺が引き金を引くと言った記憶があるが、生憎今は次も速水の方が早そうだ。

 

「比企谷氏、手の手当てをするからこっちに。ここは皆が対応してくれるから」

 

 竹林の言葉に少し視線を動かすと、案外皆武器は隠し持っていたようで、ナイフやエアガン、それぞれ自作の武器で迎撃態勢を形成していた。俺と、一応渚も茅野の近くまで下がり、竹林が簡易の応急キットを取り出して俺の左手を診察する。ところで、赤羽はなんでガバメントの他に練りワサビを真剣な顔で持っているのだろうか。鼻にでもねじ込むのかな。

 二十数名を敵に回したことで、お得意の計算でも狂ったのか、シロの舌打ちがかすかに聞こえてきた。

 

「たいした怪物だ。この一年で何人の暗殺者を退け、その上でこれだけの生徒の信頼を勝ち取ってきたのか。……本当にこざかしい」

 

 ――だが、ここにまだ二人ほど残っている。

 そう言って白頭巾から何かをブチッと引きちぎる。その瞬間、どこか作り物じみていた声が自然な男のものに変わった。

 変声機を無理やり取り外したことで、顔を覆っていた頭巾が解かれる。「最後は俺だ」と怒気を孕んだ生の声を発した主は、左目に機械を埋め込み、もう片方の目を暗くよどませた顔をしていた。

 

「全てを奪ったお前に対し、命をもって償わせよう」

 

 しかし、この状況はベストとは言えない。隻眼の男は「二代目」と呼んだ黒ずくめの男を連れてその場を立ち去った。

 

「シロのことは今は後回しだ。幸い、思ったほど傷はひどくないね」

 

 一瞬シロたちが消えた方向に目を向けた竹林は、俺の左手にもう一度視線を落として、ほっと息を吐く。ところどころ火傷の状態が酷いが、ちゃんと治療をすれば問題はなさそうとのことだった。

 

「あっ、茅野さんが目を覚ましました!」

 

 すぐ近くで聞こえた奥田の声に、反射的に身体を起こしながら寝かせられていた茅野に目を向けた。うっすらと目を開けた茅野は、見た感じでは命に別状はなさそうだ。

 

「最初は……純粋な殺意だった」

 

 皆を見回して、最後の渚を見て明後日の方向に視線を泳がせた茅野は、ポツリと呟いた。ただ、姉の仇を取ることしか考えていなかったと。

 しかし、偽りの名前で潜入して密かに刃を磨きながら殺せんせーと過ごすうちに自分の殺意に自信が持てなくなってきたのだ。確かに聖人君子ではない。しかし優しく、何よりも生徒のことを考えてくれているこの超生物が、本当にただ姉を殺したのか。何か事情があったのではないだろうか。殺す前にそれを確かめるべきなんじゃないか、と。

 しかしそう思い始めた頃には、茅野の「殺し屋になりたい」という願いを聞き届けた触手の殺意は抑えきれるものではなく、逃げることも、打ち明けることもできないところまで来てしまっていた。

 

「……バカだよね。皆が純粋に暗殺を楽しんでいたのに、私だけただの復讐に費やしちゃった」

 

 全部無駄だったんだと、沈んだ瞳で力なく笑う彼女に――

 

「茅野」

 

 いつもの優しい、小動物のような声色で語りかけたのは、渚だった。高い位置で二つにまとめた自分の髪に軽く触れて、この髪形に茅野がしてくれたから、母親に切るなと言われた長い髪を気にしなくて済むようになったと。理由はどうあれ、コンプレックスを和らげてくれたのは茅野だと、渚は笑う。

 それだけではない。「殺せんせー」という名前。茅野が付けた名前は、今やこの教室の皆が使っているターゲットの呼称だ。

 

「目的がなんだったかなんて関係ないよ。茅野はこのクラスを一緒に作り上げてきた仲間なんだ」

 

 この教室で、ただ復讐に費やしてきたなんて言わせない。皆で楽しんだこと、乗り越えたことを、全部演技だったなんて言わせないと、渚は熱く、けれどやっぱり優しく語りかける。今までの日々の中には皆がいて、そこには間違いなく茅野カエデという存在がいたのだ。

 

「殺せんせーは皆が揃ったら全部話すって約束してくれた。だから聞こうよ、皆で一緒に」

 

 奥田に身体を預けている茅野に、中腰になって同じ目線の高さに合わせた渚に、茅野は震えながら涙を流して頷いた。

 それを確認した皆はそれぞれ、今度は視線を殺せんせーに向ける。ある程度心臓の回復が終わったのか、多少ふらつきながら立ち上がった担任教師は、皆の視線に「ふうぅぅ」と深くゆっくり息を吐いた。

 

「話さなければ……いけませんねぇ」

 

 視線を一度、物理的に三日月になってしまった月に向けて、それを今度は俺に向けてきた。俺から何かを感じたのか小さく頷いて、渚、茅野、赤羽、磯貝、片岡と一人ずつの顔を見て、超生物は語り始めた。

 

「二年前まで先生は……『死神』と呼ばれる殺し屋でした」

 

 自分の過去を。

 

「そして、放っておいても来年三月に先生は死にます。一人で死ぬか、地球ごと死ぬか。暗殺によって変わるのはそれだけです」

 

 未来の話を。

 

 

     ***

 

 

「あれ、渚たちも来てたのか」

 

 あの出来事があって二週間弱。冬休みももうすぐ終わろうかという時期に、俺は偶然渚たちと会った。

 場所は防衛省の息がかかった千葉の病院。現在茅野はここに入院していて、昨日ようやく面会が可能になったのだ。かなりギリギリの状態だった茅野は、全治二週間と想像よりずっと軽度の状態で済んでいた。烏間さんから聞いた話では、担当した先生が奇跡だと驚いたほどらしい。

 

「比企谷君も来たんだ。ちょうど今から帰るところだよ」

 

「来るなら一緒に来ればよかったのにな」

 

 渚と一緒に来ていた杉野がブーと悪意のない文句を漏らす。こっちもやることがあったのだから仕方あるまい。

 

「茅野の様子はどんな感じだ? 俺が行っても大丈夫そうか?」

 

「はい! まだ万全ではないですけど、もうだいぶ回復しているみたいですし、とりあえずあと数日の入院は念のためみたいです!」

 

 茅野の無事を再確認して少しテンションが上がっているのか、いつもより幾分饒舌な奥田の答えに「そうか」と返す。入院後の経過は順調らしい。

 じゃあちょっと顔を出しておこうかと思って別れようとして、やけにニコニコと笑っている神崎に気が付いた。いつもみたいな笑みだが、いつもよりも嬉しそうだ。

 

「どうしたんだ、神崎?」

 

「いえ、やっと同じ場所に来てくれた気がして」

 

 それだけ言うと、また神崎はクスクスと笑いだす。少し前にも同じことを言っていたようで、なんのことかと三人が、神崎は何でもないの一点張りだった。具体的なことを話すつもりはないらしい。俺も何のことかいまいち分からなかったが、聞いても無駄だと判断して四人と別れた。

 あれから二週間ほど。その間、殺せんせーに暗殺を仕掛けようとする人間はいなかった。訓練をしていた奴は何人かいる。しかし、暗殺をしようと切り出せる雰囲気ではとてもない状態だった。

 かくいう俺だってその一人だ。あの超生物が元人間だと知っていて、その人間が『死神』である可能性も頭の中にあった。けれど殺せんせーのこの二年間の過去、そして俺の考えもしなかった事実に対する衝撃は、とても今まで通り過ごせるものではなかった。

 シロ……いや柳沢誇太郎によって行われた生命の中で反物質を生成させ、膨大なエネルギーを手に入れることを可能にする実験。そのモルモットにされたこと。万に通じる頭脳でその理論を理解し、自分に有利なように研究を進めたこと。そこで出会った自分の見張り役にされていた柳沢の形だけの婚約者、雪村あぐり。

 

『先生の心臓、反物質臓は一定の周期で細胞分裂を終えます。そしてその時、反物質の生成サイクルは先生の身体を飛び出し、地球の物質を次々と反物質に変えていってしまうのです。先生の意志と関係なく、ね』

 

 地球は月のおよそ八十一倍の質量がある。しかし、月の七割を吹き飛ばしたネズミの反物質臓と殺せんせーのそれの比率は? おそらく、七割なんて生易しいことにはならない。

 思えば、E組という学校環境。生徒と教師という良好な関係を築いている俺たちに、防衛省はただの一度も「地球の破壊をやめるように説得」させようとはしなかった。そんなことは無理だと分かっていたからだ。地球を破壊するのは、殺せんせーの意志とは何の関係もないから。

 

『そしてそれを聞いたとき、私は間違いを犯しました』

 

 この世に生を受けてから、暗殺者としてしか生きてこなかった名もなき人間は、自分の死が迫ってきたときに間違った悟りを開いた。どうせ一年後に死ぬのであれば、せっかく手に入れた力、存分に使わなくてはもったいない、と。

 

『その先生の間違いの結果、私を止めようとした雪村先生は……。私が殺したも同然です』

 

 柳沢が迎撃用に用意していた触手地雷。本質を見失った、相手をちゃんと“見る”ことができなかった死神は、自分を止めようと地雷に飛び込む雪村先生を止めることも、突き放すことも、攻撃することも、助けることもできなかった。

 そんな殺せんせーを、誰も責めることはできなかった。憎悪の中で育った殺し屋は俺たちにないものを持っていて、俺たちにあるものをなくしてしまっていることを知っていたから。

 それに、その一年しか残されていない命をあえて危険に晒して、俺たちを“見て”教えてくれてきたことに気づいているから。

 だからこの冬休みの間、誰も決心がつかなかった。どん底でうずくまっていた自分たちを引き上げて、伸ばしてくれた恩師を、元人間の彼を「本当に殺さなくてはならない」と皆がようやく実感したから。楽しく学ぶ暗殺の中にひた隠しにされてきた、「残酷な難題」に気づいてしまったから。

 

「……おっと、ここだったか」

 

 埋没していた思考を浮上させると、危うく目的の部屋を通り過ぎるところだった。部屋番号の下に「雪村あかり」と書かれた札の入った部屋の扉をノックしようとして――

 

「?」

 

 中からなにやら物音が聞こえてくるのに気づいた。何かが暴れるようなバタバタという音に、警戒心が高くなる。ひょっとしたら、柳沢あたりが彼女に何かしようとしているのではないだろうかとノックをするのをやめて気配を消し、そっと扉を開ける。

 

「…………」

 

 個室である部屋の中に、柳沢やあの「二代目」と呼ばれた暗殺者の姿はない。代わりに、ベッドの上で掛布団にくるまりながら暴れている何かがいた。いや、わずかに飛び出している緑髪からして、この病室の主で間違いないだろう。よくよく耳を澄ませると音にならない叫びを上げているのか、超音波じみた意味があるのかも分からない声も聞こえてくる。

 

「……なにやってんだ、茅野?」

 

「~~~~ッ!? ……あ、比企谷君」

 

 相当暴れていたのか肩で息をしている茅野は俺に気づくと、元から赤かった顔をさらに羞恥に染めてベッドの上で縮こまってしまった。一体何が……と思ったが、答えはあっさり見つかった。さっき、こんなことになる犯人が面会に来ていたじゃないか。

 

「渚か」

 

「っ――!」

 

 正解のようで、茅野はどれだけ血が集中しているのかリンゴのように顔を真っ赤に染めてしまった。

 茅野を助けるために渚が行った殺し技。ビッチ先生によって仕込まれたディープキスは俺たちにとってはもはや日常ではあったが、ビッチ先生以外に使用したのは渚が初だ。そりゃあ、思い返してみたら恥ずかしくもなるよな。なんか赤羽と中村がスマホで録画していたような気がするが、こいつ学校に戻った時大丈夫かな。

 

「だだだだって、あんな……あんなっ。人格ごと支配されるみたいなの……っ」

 

「落ち着け茅野。説明しなくてもいいから」

 

 いやほんと、あの時はこっちもこっちで必死だったから平常心を保てたが、そんな話を聞かされるとこっちまで恥ずかしくなってしまう。

 とりあえず茅野をなだめようと左手を伸ばして、慌ててその手を引っ込めて右手で彼女の頭を撫でた。

 

「ぁ、それ……」

 

 しかし、どうやら目ざとく見られてしまったようで、赤かった頬から少し色が落ちて、表情も暗くなる。

 入院こそしなかったが俺の左手には、まだあの時の傷が色濃く残っていた。包帯は先日外れたが、火傷の痕もかなりあるし、熱で触手に持っていかれた皮膚もかなりあって凸凹になってしまっている。完全に元通りにはならないだろう、と医者には言われた。

 

「うにゅっ。な、なに比企谷君っ」

 

 このままではただでさえ小さいのにもっと小さくなるのではというくらい小さくなっていく茅野の頭をことさら強く撫でると、混乱したのか彼女は目を白黒させる。俺の右手にはメダパニ効果でもあるのだろうか。ないな。

 

「気にすんなよ。俺がやりたくてやっただけなんだからさ」

 

 でも、と反論しようとしてくる茅野をさらに撫でて黙らせる。わぷっとか妙な反応をするのが面白くて何度もやっているとめちゃくちゃ殺気を出されて睨まれてしまった。

 俺自身、この傷自体なんとも思っていない。もう痛みはないし、妹のための勲章だと思えば少し誇らしいくらいだ。

 しかし、当の茅野にとってすれば間違いなく自分の暴走のせいでつけてしまった傷だろう。なんとかその話題を逸らさなければ、ただでさえちんまいのに余計にちんまくなってしまいそうだ。

 何かないかなと考えて――

 

「で、渚とはどんな話したんだ?」

 

「なっ――!?」

 

 話を蒸し返すことにした。小町に聞かれていたら一週間はゴミいちゃんって言われそう。まあ、ばれなきゃ犯罪じゃないから、ね?

 

「べべべべ別に普通に話しただけだよ!」

 

 ほーん。ま、それ自体は事実なんだろうな、杉野たちも一緒だったわけだし。というか、神崎が言っていたのはこれか。もう一度頭を撫でてやるとむぅとむくれながらも拒否はしてこなかった。

 茅野は俺たちとは暗殺の意味合いが違っていた関係上、いつも少し離れた絶妙な距離感を保っていた。思えば、俺が撫でそうなタイミングになるとスッと距離を取っていたように思える。特にプリン暗殺のときに俺が違和感を覚えたあたりからは、俺が気づかないレベルで接触の機会が減っていた。こうして撫でるのは今日が初めてだ。

 で、こういう姿を見ると存外弄りたくなる心は俺も持っているようで――

 

「そういえば、ビッチ先生がいきなり渚にディープキスした時、やけに怒ってたんだって? それ演技だったのかな?」

 

「~~~~――――ッ!!」

 

 なんだ。ずいぶん前からこいつは演技じゃない自分を見せていたんじゃないか。全く痛くないビンタを頭に乗せたままの二の腕に受けながら、喉を鳴らして笑ってしまう。どうやら渚の使った殺し技は、別のものも射貫いてしまったようだ。

 

「いいんじゃねえの? せっかく皆に本当のことを打ち明けたんだから、普通に恋愛したってさ」

 

 なんとなしにそう言うと、さっきまで力なく腕を叩いていた動きがピタッと止まり、ベッドシーツの上に力なく腕が下ろされた。その表情は――暗い。

 

「……どうした」

 

「だって、……私、今まで皆に嘘ついてたんだよ? 違う名前使って、違う性格を演じて。そりゃ全部が全部演技だったとはもう言わないけど、思ってることと違うことをやってたのも事実だもん」

 

 暗殺のために偽物の名前、偽物の戸籍、偽物のキャラクターを演じてきた。皆に本当のことを話してもその事実は変わらない。罪悪感はなくならない。自分勝手な理由で皆を振り回した過去は消しようがない。

 けれど、きっと今茅野がこうしている、こう考えているだけで、皆十分なんだと思う。

 

「この前のコードネームの時さ、殺せんせーが言ってただろ。『名前は人を造らない』って」

 

 先生が木村に向けた言葉だ。親の付けた名前なんて正直大した意味はない。大事なのは、その名前で生きた人物がどういう人生を送ったか、なのだと。

 名前なんて、所詮は個人を判別するための記号だ。どこかの閻魔大王補佐官が双子の座敷童に「一子」「二子」なんて事務的な名前を付けたように、極論その人だと判別できればそれ自体に意味はないのだ。

 

「『雪村あかり』が『磨瀬榛名』であるように、『茅野カエデ』も『雪村あかり』の一部だろ」

 

 “偽った人格”ではなく、“本物の見えていなかった一部分”。一年もその性格を貫いていれば、仮面だって本物になりえるだろう。なら、無理に本物偽物なんて分ける必要はないのだ。全部ひっくるめてこの少女そのものなのだから。

 俺の言葉になんとなく納得したらしい演技派子役は、しかしまだその表情を暗くしたままだった。他に何かあるのかと首を傾げていると、その口からポツリと言葉が漏れた。

 

「だって渚、『友達やめるとか言われたらどうしよう』って……」

 

「……あー……」

 

 そうか。そうだな。相手は渚だもんな。前原や片岡ですら「恐ろしい」って言っていた渚だもんな。

 それに、たぶん母親の二周目だとつい最近まで思って生きてきた渚は、恋愛というものがなんなのか知らない。知識としては知っていても、実体験として誰かに恋をしたことが、正確には恋を自覚したことがないのだろう。それは高難易度の相手だ。正直言って厄介すぎる。

 

「ま、だったらアプローチするしかねえんじゃねえの? あいつが恋心って奴を自覚するくらいさ」

 

 なんだかんだ、渚にとって茅野は特別な存在だ。正直、そこまで時間はかからない気がするのだが。

 しかし、どうやら茅野は俺の答えが不服だったらしく、しらーっとした目を向けてきた。

 

「……なんだよ」

 

「それ、皆のアプローチを流し続けてる比企谷君が言う? 渚以上に鈍感なくせに」

 

 …………。

 …………はあ、と。大きく息を吐いて来客用の椅子に腰を下ろした。

 

「鈍感なんじゃねえよ。俺はむしろ敏感で、過敏だ」

 

 あいつらの気持ちにだって、まだ全容は見えないけれど自分の気持ちにだって気づいている。それでも誰の気持ちにもまだ答えることができないのは――

 

「結局俺は、まだ比企谷八幡って存在に自信が持ててねえんだよ」

 

 才能があると褒められても、テストで一位を取っても、いざ人一人の想いを受け止めようとすると、それができる自信がまだつかない。きっとすぐ目の前にあるゴールテープに踏み出す勇気がまだ全然足りないのだ。

 今度はこっちの表情に影が差したのを見て、茅野は一瞬キョトンとして、ぷふっと小さく吹き出すように笑った。

 

「全く、頼りになるんだかならないんだか分からないね、はちにいは」

 

「っ……」

 

 皆がコードネームで呼び合った日、俺につけられた名前。あの日以来誰も呼んでいなかったそれは、鈴のように楽しそうな声に驚くほどしっくりとはまって鼓膜を震わせた。

 

「その名前付けたの、お前か」

 

「ふふーん。殺せんせーに続いて二人目だね」

 

「恥ずかしんだよなぁ、その名前」

 

 なぜかドヤ顔で認めた名付け親の頭をくしゃくしゃと再び撫でると、髪が乱れるだのなんだと楽しそうに騒いでくる。そんな声を聞いていると、恥ずかしさなんてどうでもよくなってくるから困ったものだ。

 

「ま、別に呼びたいんなら呼べよ。……超恥ずかしいけど」

 

「そこまで言うんなら呼んであげましょう」

 

「俺恥ずかしいって言ったよね?」

 

 なんだかそのやり取りも可笑しくて、二人して吹き出してしまう。こいつとこんなに笑ったのも初めてだ。きっと、これからもっと初めてなことに出会う。

 一年過ごしてまだ初めてなこと尽くしなんて、面白いじゃないか。

 

「じゃあ、ついでにこのカエデちゃんが相談役になってしんぜよう」

 

「いつの人間だよ。じゃあ、俺も相談役になってやろう」

 

「頼りになるのかな?」

 

「どっちが」

 

 また笑い合う。この二週間、大して動かすことのなかった表情筋もなんだか跳ねているみたいだ。

 そう思うと、他の奴らのことが気がかりになってくる。今後のことを話し合っている奴ら、一人で考えている奴、考えていない奴はきっといない。この休みが明けた三学期、あの教室のありかたは確実に変わる。

 

「あ、はちにい。マッカン買ってきてよ!」

 

「兄貴をパシリに使うなんて、ひでえ妹だわ……」

 

 そのときのために、俺ができることは……。




☆祝☆60話!

このシリーズで投稿を初めて早二ヶ月が過ぎました。正直最初は三十話くらいで終わるだろって思いながら書いていたので自分でちょっと驚きです。上手いことE組のお兄ちゃんとして八幡を動かして成長させられているか心配ですが、このままのペースでやっていきたいなと思っています。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。

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