二度目の中学校は”暗殺教室”   作:暁英琉

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答えはきっと簡単で、それでいてとても難しい

「…………朝、か」

 

 いつもより少し遅めの時間、高くなってきた陽の光で目が覚めた。少しの間ぼーっと見慣れた天井を眺めて、のっそりとベッドから身体を起こす。

 後頭部をガシガシ掻きながら階段を降りて、洗面所に向かい、蛇口をひねって円柱状に流れ出る水を手で掬い、顔に打ち付ける。

 何度も、何度も。

 

「……ひっでえ顔」

 

 数度頭を振って顔を上げると、目の前の鏡に前髪をかすかに濡らした自分の顔が映し出された。いや、そこにあるのが鏡だと認識していなかったら、それが俺の顔だとすら思わなかったかもしれない。

 起きたばかりのせいか顔色はかすかに土気色を帯びていて、唇はカサカサにささくれ立ち、淀んだ目の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。今ならゾンビと言われても反論できねえなぁ……。

 どうでもいい思考とひどい表情を一緒に拭うように顔を拭いて、リビングに向かう。

 

「ぁ…………おはよ、お兄ちゃん」

 

 リビングの扉を開けると、テレビを見ていたらしい小町が電源を切って振り返る。別にテレビを消す必要はないと思うんだが、見られたらマズいものでも見ていたのだろうか。まあ、俺には関係ないことだが。

 おう、と短く答えて、台所に向かう。

 

「ご飯、準備しようか?」

 

「いや、ヨーグルト食うからいい」

 

 ソファから立ち上がろうとした小町を制して、冷蔵庫からヨーグルトを取り出す。テーブルまで向かうのももどかしく、シンクの前でフタを開けて食べ始めた。黙々とスプーンで白い半固体を掬い、口に運ぶという作業を繰り返すだけ。テレビも消された室内は、びっくりするくらい静かだ。

 

「……お兄ちゃんさ」

 

 プラスチックの容器に金属製のスプーンが触れ合う音に、妹の声が重なり、腕の動きが一瞬止まるが、短く意味の存在しない声だけを漏らして、再び掬い上げたヨーグルトを口に含んだ。ほとんど咀嚼もせずに口の中のものを飲み込み――

 

「やっぱりなんか……あった?」

 

 今度こそ完全に動きが止まった。リビングの方に視線を投げると、小町が心配そうにじっと俺を見ていて、見えないように口の中で唇を噛む。

 

「……別に、何もねえよ」

 

 絞り出した声に説得力は皆無で、また部屋に沈黙が落ちる。

 その沈黙の中、「そっか……」とひとりごちるような声が聞こえてきて――

 

「何かあったら、小町に相談するんだよ? お兄ちゃんは小町がいないとダメダメなんだから」

 

「っ……」

 

 にひっと笑みを浮かべた小町に、何か言おうと開いた口はなんの音も発することができず、ゆっくり閉口して俯くしかなかった。容器に残っていたヨーグルトをかき込み、シンクに放り込んで足早にリビングを出る。

 

「……出かけてくるから」

 

「うん、いってらっしゃい!」

 

 スポーツウェアに着替えて逃げるように玄関を飛び出す。そのまま準備運動もせずに走り出した。

 離島から帰ってきて一週間程度。LINEの通知を切って、そもそもここ数日はスマホに触れてすらいないからあいつらがどうしているかも知らない。

 仲間と言った奴らから離れて、妹に心配をかけて、それでも一人で考え続けて……答えは――まだ出ていない。

 

 

     ***

 

 

 トレーニングの中で一番好きなのは走り込みだった。暑い日差しの中でも風を切れば涼しいし、勉強で疲れた頭を休ませるのにもちょうどいい。

 だから、この一週間はずっと走り続けている。

 走って走って走りまくって、冷えて空っぽになった頭でまた考え続ける。

 何を間違えたのか。どうすればよかったのか。

 あの帰りのフェリーで殺せんせーに出されたヒントも当然考えてみた。

 ――一つ、何故俺があの時鷹岡を殺そうとしたのか。

 これはすぐに答えが出た。渚に殺人の実行犯になってもらいたくなかったからだ。そのせいでE組の皆が辛い思いをして欲しくなかったからだ。

 そもそも、殺し屋屋から必殺技を伝授してもらったとはいえ、渚が鷹岡に勝てる可能性が低かったからというのもある。

 一つ、俺と他の皆との違い。

 この皆とは、この場合E組の奴らということだろう。パッと思いつく違いといえば年齢、だろうか。律は正確には微妙なところだが、あいつらと違い俺だけが一年とは言え学年が違う。そこに伴ってあいつらは受験生という側面も持っている。書類上高校一年である俺とはこの一年の重要度はまるで違うと言えなくもない。

 あるいはプロぼっちであるかどうか。正直今の俺がプロぼっちと言えるのかは自分でも微妙なところだが、俺はこの15年分の悪意への耐性がある。そこはあいつらとの違い、かもしれない。

 他にも突き詰めていけば違う点は多々あるが、それがどう答えに導くのか。それが分からない。

 分からないから、その分走る。どこまでも、どこまでも。

 

 

 

 気がつくと、見覚えのある場所に来ていた。短い高校生活の既に半分を過ごしている場所、私立椚ヶ丘学園。目の前にある坂を登れば、勉強と訓練と暗殺の舞台、あの古びた木造校舎に行き着ける。

 

「どんだけ走ってんだか……」

 

 走りながらも考えていたせいか、今日はまだ頭の靄は晴れない。そういえば、教師というものは夏休み中も普通に学校に通っているらしいな。堅物な体育教師が変わらず綺麗な姿勢で事務仕事をしている姿を想像して、通い慣れた道を駆け出した。

 ショートカットを兼ねて舗装された道から外れる。自然林の中には熱い陽光もまばらにしか入ってきていなくて、少しだけ涼しい。木々の間をすり抜けながら山を登っていくと、すぐにE組校舎が見えてきた。超生物な担任教師が定期的に手入れしているグラウンドには人っ子一人いないが、校舎の職員室に動く影が見えた。やはりあの先生は本職をやりつつもしっかりこっちの職務もこなしているらしい。

 

「ん、比企谷か? 久しぶりだな。今日はどうした?」

 

 涼を取るために開けられた窓から顔を出すと、パソコンを弄っていた手を止めて烏間さんは立ち上がる。夏休みに生徒の相手をするなんて時間外勤務だろうに、嫌な顔一つ見せない。

 

「……ちょっと、訓練つけてくれませんか?」

 

「…………いいだろう」

 

 黙って俺を見つめた烏間さんは一つ頷くと、予備として置いてあった対先生ナイフを寄越してきた。それを受け取って、一足先にグラウンドに向かう。

 軽くストレッチをして待っていると、ネクタイを外した教官がやってきた。俺の前に立つと、無言で構えを取る。いつでも来いということだろう。

 ナイフを後ろ手に隠して接近する。垂れ下がらせていただけの片腕も背中に隠して、どちらから攻撃するか分からないように。

 ナイフの射程に入った瞬間、隠していた右手でナイフを握り、最短距離で刺突。しかし、刃先が体に当たる前に腕に手の甲を添えられて軌道をずらされてしまう。

 まあ、それは想定済み。突き放したままのナイフを逆手に持ち替えて振りかぶり、避けられたタイミングで手放す。

 

「っ…………!」

 

 ロヴロさんが渚にも言っていたが、実践において一番視線が集中するのが武器だ。接近すればするほどその傾向は強くなる。

 そして視線が俺以外に集中すれば、消えるための条件になりうる。

 目の動きが追いつきにくい斜めに体を滑らせ、低姿勢のまま足払いをして――

 

「なっ!?」

 

 あっけなく避けられて、思わず声が漏れる。距離を取った烏間さんを視界にとらえながら落ちた獲物を手にして、もう一度距離を詰めた。

 …………。

 ………………。

 

「ハッ……、ハッ……!」

 

 十分も経つ頃には完全に地面に倒れこんでしまっていた。結局あれから一度しか切っ先はターゲットに触れることはなく、正攻法、絡め手、そのほとんどが空振りに終わってしまった。

 

「さすが殺し屋屋直伝のステルスだが、攻撃の直前にわずかに気配が漏れている。タイマンの正面戦闘ではまだ使うべきレベルではないだろう」

 

 ことごとく避けられると思ったら、やはりまだ技術的に完璧ではないらしい。そういえば、離島で使った時も気づかれたのは照明を倒したり音を立てて撹乱する時ばっかりだった。

 それじゃあダメだ。それじゃああいつらのために使えない。あいつらを守れない。

 

「もう一度……お願い、します」

 

 まだ乱れる息を少しだけ整えながら立ち上がった俺に、烏間さんは首を横に振る。

 

「いや、今日はもうやめておこう。ここに来るまでも結構走っただろう。これ以上は身体に無理をかける」

 

「いつから貴方は誠凛高校バスケ部監督になったんすか……」

 

 さっきやけに足を見ていたのはそのせいか。本当に見ただけで相手の身体の事が分かる人間がいるとは思わなかった。

 どうやら俺のネタがわからなかったらしい教官は、首に手を当てて天を仰ぐと、「そういえば」と口を開いた。

 

「E組の連絡網で君が現れないと生徒たちが言っていたぞ。たまには顔を出してやれ」

 

 ああ、そりゃあ烏間さんもあいつらとLINEやメールのやり取りをしているのだから、倉橋あたりから連絡をもらったのだろう。小町だけでなく、あいつらや先生にまで迷惑をかけているなんて、一周回って笑い話だ。

 ただ……。

 

「無理ですよ。今の俺じゃ……」

 

 何も答えを見つけていない俺じゃ……。

 そう呟いて俯いた俺の頭に――

 

「っ……?」

 

 何かがふっと被さった。それは俺のものより一回り大きい烏間さんの手で。顔を上げるといつものあまり変化を見せない表情がまっすぐに俺の顔を見ていた。

 

「周りとあまり積極的な交流をしない俺から言われても説得力はないかもしれないが、自分で考えても分からないのなら他人を頼るのも一つの手段だぞ」

 

 ポフポフとなぜられた頭に手を乗せてみると、ほんのりと俺のものではない熱が残っていた。

 これが人に頭を撫でられる感触か。そういえば、撫でることはあっても撫でられた経験はとんとない気がする。

 

「一人でなんでもこなそうとする人間はつい抜け落ちてしまう選択肢だ。俺も昔はよくそれで失敗した」

 

「……全然想像も付かないです」

 

 この完璧超人が失敗する姿とか想像できない。一般に無理とされることだってこの人なら平然とやってのけそうだ。

 

「失敗だってするさ。俺も君たちと同じ人間だ。だから、失敗したらした分だけ人を頼りなさい。分からないなら一緒に考えてもらうといい」

 

 きっとその繰り返しで皆大人になるんだから。

 そう言い残すと、俺から対先生ナイフを受け取って、烏間さんは校舎に戻っていった。一人残された俺は、体育教師の言葉を静かに噛み砕く。

 自分の問題なんだから、自分一人で解決するべきだと思っていた。自分の失敗で人を頼るのは悪だと思っていた。

 けれど、そうか。頼ってもいいのか。

 人に諭されないと頼ることすらできないとは、相変わらず俺の思考はどこかおかしい。

 ククッと喉を鳴らして、踵を返して学校を出る。人生で数えるほどしかやったことはないであろう“頼る”という行為をするために。

 一度頼ろうと考えると、案外頼りになる相手はあっさり浮かんでくるものだ。こと人間関係に関しては、俺の何十倍もそつなくこなす奴がずっと近くにいるのだ。

 使う予定のなかったスマホを取り出して、おそらく一番かける番号に電話をする。わずかツーコールで出たことに、やっぱり心配させてたんだなぁと思わず笑ってしまう。

 

「小町、今から帰るから」

 

 まずは連絡を。

 

「それと……相談がある」

 

 

     ***

 

 

「はああぁぁぁ……」

 

 頼りになる妹に相談したら盛大なため息が返ってきました。

 たぶん目に入れても痛みを我慢できる最愛の妹はオレンジのエプロンをつけたまま――かわいい――ソファにもたれかかると、「まあ、お兄ちゃんだからね」と憐れみの目を俺に向けてくる。やめて! お兄ちゃん何かに目覚めちゃいそう!

 一応言っておくが、事実を一から十まで説明するわけにはいかないので、誤魔化しはぐらかしで要点だけ伝えたが、妹君にはそれで十分だったようだ。ちょっと安心。

 

「お兄ちゃんって、頭そこそこだけど対人関係になるとほんとポンコツだよね」

 

「自覚はしてる」

 

 そうじゃなければ十六年もぼっちをやっていない。そしてこの妹は、そんな俺の相手を十三年もしているのだ。相談相手としては経験値がずば抜けている。

 

「小町は妹だからさ、お兄ちゃんがそういうことやっても、まあ納得はするんだよ。あー、またこの人はバカなことやったなぁって笑い話にできる。

 ……それで、ちょっと悲しくなる」

 

 言葉じりをかすかに湿らせながら、俺の肩に頭を乗せてくる。

 

「ただまあ、お兄ちゃんがやったことが、一概に間違いなわけじゃないって、小町は思うな」

 

「そう、なのか?」

 

 間違えたから今の現状なのではないのだろうか。俺は正解を探しているわけではないのだろうか。

 

「そもそも人同士で正解なんてないんだよ。前の正解が次は不正解になるかもしれないし、減点になるかもしれないの。テストの問題とは違うんだよ?」

 

 ゴールのない問題。面倒臭いことこの上ない。けれど、目の前の妹や、E組のあいつらを見ていると、そういうものなのかなと納得もしてしまう。

 

「まあ、お兄ちゃんは他にも勘違いしてるっぽいけど」

 

「勘違い?」

 

 首をかしげる俺に小町はコホンと咳払いをすると、「たとえばさ」と指を一本立てた。

 

「小町がお兄ちゃんのために誰かと喧嘩したら……」

 

「嫌だ、ダメだ、全力で止める」

 

 当然の答えを口にすると、なぜか一歩分距離を取られた。なんでちょっと引いてるのん?

 

「即答……、まあいいや。逆でも小町は嫌だし、ダメだって思うし、できるなら止めるよ。ほら同じ」

 

「あ……」

 

 同じ。その単語で不意に小町の言っていた“勘違い”の意味が分かった。

 ――一つ、俺と他の皆の違い。

 この問いの答えは、実際に違いを探すことではなかったのだ。俺は他人ではないから違う。全然違う。けど同じなのだ。俺も、小町も、烏間さんも、イリーナ先生も、元とはいえ殺せんせーも。

 そしてあいつらも。等しく同じ人間なのだから。

 俺が嫌なことはあいつらだって嫌だし、俺がダメだと思うことはあいつらにとってもダメなのだ。

 

「お兄ちゃんが小町のためならなんでもすることは小町がよく知ってるし、そのお兄ちゃんが弟や妹みたいに思っているE組の人たちのためならなんでもするっていうのも、小町は理解できるよ」

 

 小町は妹だからね、と照れくさそうに頬を掻いていた妹は、神妙な面持ちになるとずいっと顔を近づけてきた。

 

「でもね、きっと他の人には理解できないの。なんでお兄ちゃんがそんなことまでするのか訳分かんないんだよ」

 

 勝手に何人も弟とか妹作ってきたのは小町的にポイント低いけどね、とかわいらしい鼻を小さく鳴らす小町をよそに、その言葉を考える。

 俺が嫌だと思って渚の肩代わりをして、でも俺がそれを肩代わりすることは渚を含め皆にとっても嫌なことで。俺がどうしてそこまでしたのか、あいつらには理解ができなかった。それは理解できた。

 しかし、しかしそれなら……。

 

「……じゃあ、俺はどうすればよかったんだよ」

 

 寺坂がやったように渚を止める。それも一つの選択だっただろう。しかし、やはり渚が鷹岡に百パーセント勝てる可能性はなかった。むしろ勝率は半分以下だっただろう。そんな状態で渚を冷静にさせるだけなんて、俺にはきっとできない。仮に時間を戻して何度あの場面に戻ったとしても、渚が勝てたのは結果論でしかないのだから。

 

「っ!? ッツー……」

 

 再び思考の海に没入しそうになる俺の額に、ペチンと何かが弾けた。ヒリヒリする額をさすりながら犯人である妹に焦点を合わせると、当の小町はやれやれと肩をすくめていた。

 

「さっき言ったでしょ? これは答えがないんだって。ひょっとしたら皆が皆納得できる方法もあったかもしれないけどさ、そんなの探したって後の祭りだよ。

 お兄ちゃんが考えてることで大事なのはね。“そのとき”どうすればよかったのかじゃなくて、“この後”どうすればいいのか、なんだよ?」

 

「この後どうすべきか……か」

 

 結局、今回のすれ違いは俺の対人耐性のなさ、そして俺とあいつらの互いの理解が足りなかったから起こったこと、なのだろう。出会ってまだ二ヶ月程度で俺と小町のように理解しつくすことなんて無理だが、俺がもっと積極的に交流して、少しでも互いの理解を今より深めていたら、あるいは今のこの悩みは存在しなかったかもしれない。

 それをふまえて“この後”どうするか。

 

「あいつらともっと話し合う、か」

 

「そうだね。E組の人達ってみんないい人みたいだから、ちゃんと話せばきっといろいろ答えてくれるんじゃないかな?」

 

 取り返しがつくのなら、次に活かせばいい。大事なのは次に何をやるかなのだから。

 あの時ガキ大将に自分で言った言葉を、自分で実行できないのでは意味がないな。小町にそのことを話すと、「お兄ちゃんは自分のことになると妙に視野が狭くなるときあるからね」と笑われてしまった。うーむ、鈍感である自覚はないのだが、どうやらそういうときがあるらしい。ぼっちはむしろ敏感で過敏なはずなんだけどなぁ。

 

「後はもう一つあるよ。お兄ちゃんがその『妹弟のためになんでもする』ってスタンスをなくすこと……」

 

「その提案は承服できねえな」

 

 即答だった。自分でもびっくりするくらい早く口が動いた。しかし、それも当然だろう。小町のために、あいつらのために動かない。それはきっと、俺にとって死ぬことより辛いことなのだ。比企谷八幡にとって、実の妹は、あいつらは、きっと命より大事な存在だから。

 

「まあ、そうだよね。お兄ちゃんはそう答えるよね」

 

 にひっと、少し残念そうに笑った小町は不意に後ろを振り向いて、ごそごそと何かを取り出しながら「そういうことみたいですよ」と口を開いた。

 不思議に思って彼女の手元をのぞき込むと、そこにあったのは俺のものと同じタイプのスマホで、その画面にあったのは――

 

「そうですね。それはきっと、八幡さんの“絶対に変わらないところ”なんでしょうね」

 

 LINEの画面にズラリと並んだE組生徒のアカウントと、そこから流れてくる律の声だった。

 

「お前ら……」

 

 ――ピンポーン。

 驚きのあまりほとんど声も出せないでいると、来客と知らせるチャイムが鳴る。小町に出るように促されて玄関の扉を開けると――

 

「ま、磯貝と比企谷の共通点って言ったら『妹がいる』ってとこだよなぁ」

 

「寺坂はアホ毛がどうとか言ってたけどね」

 

「うるせぇ! 間違っちゃいねえだろうが!」

 

 磯貝も中村も寺坂も、二十六人全員がそこにいた。

 

「実は一昨日くらいにさ、律さんからLINEで友達申請が来たんだ。なんでもない話をしてたんだけど、ほんとはお兄ちゃんのこととか聞きたいんじゃないかなって思って、お兄ちゃんから電話があってから他の人達も一緒にグループを作ってもらったの」

 

 ということは、今までの会話はずっとここにいる全員に筒抜けだったわけだ。実の妹を睨むが、「どうせお兄ちゃんのことだから、面と向かって話そうとしたらまた面倒くさいことになりそうだからね」なんて言われたら反論も許されない。さすが八幡検定免許皆伝、俺以上に俺を理解している。

 

「はっちゃんは重度のシスコンだからね。きっと何かあったらどんな時だって無茶しちゃうんだろうな」

 

「あの時自分のこと『めんどくさいやつ』って言ってましたからね」

 

 倉橋が困ったように頬を掻き、片岡は腕を組みながら小さく息をつく。

 

「それも全部ひっくるめて“仲間”って言ったんだから、理解していくしかないでしょ」

 

 持っていた袋を肩にかけながら菅谷は笑う。他の皆もしょうがないなとか口にしながら笑ったり、ため息をついたり、そっぽ向いたりしている。

 

「けどさー、今後やるなら一人は無しだよ? 俺もやらせてくれたら許すかなー」

 

「「「「いや、それはない」」」」

 

 ケケケと笑う赤羽に皆からのツッコミが入って、また笑いが起こって。そんな中で、一歩踏み出す影があった。

 

「私さ、思ったんだ。比企谷君って物語の途中で仲間になる敵キャラみたいだなぁって」

 

 いつものように漫画に例えて話す不破の言葉に、ただただ耳を傾ける。真剣な瞳の奥に、少しだけキラキラしたものを潜ませた彼女は、だいぶ日が暮れて群青色の闇がたゆたい始めた空を見上げて言葉を続ける。

 

「主人公たちの組織には入ってるけど、どこかアウェーな感じを出してて、主人公たちとは別なものを見てる。それで最初はよく主人公と衝突しちゃう」

 

 はたから見るとちょっと面倒くさいやつな、と返すと、同意を笑みを浮かべてくる。途中参加キャラというのは決まって二パターンだ。驚くほど順応する奴か、衝突を繰り返してなかなかなじめない奴か。なるほど、そう言われれば確かに俺は後者に違いない。

 納得して苦笑する俺に、でもさ、と不破は人差し指を立てる。

 

「そういうキャラがそうして衝突を繰り返しながら少しずつ溶け込んでいくのって、すっごい熱いと思うんだよ」

 

 面倒くさいからこそ、本当に仲間になった時の感動は大きい。それは確かに、とても熱い展開に違いなかった。

 

「そんなキャラクターみたいにさ、比企谷君ともいつか、本当の仲間になれる過程だとしたら、私はこういう衝突も悪くないのかなって思うな」

 

 辛いことも、失敗も、全部最後の成功のためだと思えば熱さへのスパイスだ。成長型主人公の多い少年漫画好きらしい思考に、俺は無言で頷いた。

 少年漫画のようなにかっとした笑みを浮かべた彼女は少し後ろに下がって近くにいた一人を連れてくる。

 

「比企谷君……」

 

「矢田……」

 

 お腹のあたりで両手を指を絡ませている矢田は、俺の足元をじっと眺めたままチャームポイントのポニーテールを小さく揺らす。モゴモゴと口の中で言葉を転がす音がかすかに聞こえた後、ゆっくりとその顔を上げた。

 

「私もさ、弟がいるから、あの時比企谷君が無茶した理由も、今なら少し分かる」

 

 けど、と喉の奥を湿らせて、必死に涙をこらえながらも、彼女は必死に言葉を続けた。あの時涙で言えなかった分も、全て伝えようとするように。

 

「やっぱり私達のために比企谷君が無茶するのは嫌だし、怖いよ……」

 

「……すまん」

 

 俺にはそれくらいしか返せる言葉がなかった。彼女が悲しむことが分かっていても、きっと俺は動かないことはできないから。

 

「ん、いいの。これからもっと比企谷君のこと理解して、小町ちゃんみたいに『しょうがないな』って言えるようになるから。どれだけかかるか分からないけど、きっとなるから」

 

 今にも溢れそうになる雫を隠すように下を向いた彼女にどう言葉をかければいいか、俺には分からない。言葉は見つからないから、そっとその頭に手をのせて、きれいにまとめられたポニーテールが崩れないようにそっと頭を撫でた。

 

「へへ……、こうして撫でられてると、本当にお兄ちゃんみたいだね」

 

 指で涙をぬぐって、ようやく笑みを浮かべた矢田に心が少しだけ軽くなる。妹に泣かれるのは、お兄ちゃんの心労にちょっと悪すぎるのだ。

 

「じゃ、そろそろ皆入ろうぜ!」

 

 杉野がジュースが入っているらしいビニール袋を抱えて前に出ると、他の奴らもぞろぞろと屋内に入っていく。小町の許可は取っているのだろうが……。

 

「お前らなんでそんな荷物いっぱい持ってるんだ?」

 

 皆ジュースとかお菓子とかの袋をそれぞれ持っている。神崎はタッパーがいくつか入ったバッグを下げているし、原に至っては生鮮食品をエコバッグいっぱいに抱えていた。倉橋が持っているのは……近くのケーキ屋の箱?

 

「え、だって今日って、比企谷君の誕生日じゃないんですか?」

 

「は? ……あっ」

 

 渚に言われて慌ててスマホのホームボタンを一回押す。でかでかと表示されたデジタル時計の下には、小さく八月八日を知らせる表示がされていた。

 

「ほーんと悩みだすと視野が狭くなんのな」

 

「こんな兄貴は頼りなくて、弟分は心配だぜ」

 

 村松と吉田がからかってくるが、まったくその通りだ。自分の誕生日を忘れるなんて、フィクションの世界の出来事だと思っていたが、まさか自分がやらかすなんて思ってもみなかった。いじられても仕方ない。

 …………いやごめん。やっぱいじられるのは不服だわ。妹分なら「ちょっとうぜえ」程度で済むが、弟分にやられるとちょっと青筋立ちそう。

 立ちそうというか、もう半分くらい立っていたので、ゴスッと二人の頭にゲンコツを入れておいた。まああれだぞ? めっちゃ手加減してだから。暴力じゃないから。じゃれあいじゃれあい。

 

「「いてえっ!?」」

 

「いいから早く入れ。扉閉めるから」

 

 シッシッと二人を追いやって扉を閉める。鍵を閉めてから、皆が向かったはずのリビングに俺も向かおうと振り返って――一人だけ残ってじいっと俺を睨んでいる速水と目が合った。

 

「…………」

 

「…………」

 

「……なあ」

 

「私……」

 

 沈黙に耐え切れずにあふれた声を、いつもより少し大きめの彼女の声がかき消した。睨んでいるというよりは決意をしたような瞳で俺を見つめる彼女は、E組の中では少々抑揚に乏しい声で宣言するように俺に伝えてくる。

 

「やっぱりどんな理由だって、あんたに人殺しなんてしてほしくない。無理もしてほしくない」

 

 俺が汚れ役を引き受けるのも俺がつらい思いをするのも、こいつは見たくないから。だから速水は親指と人差し指を立てて銃の形を作り、人差し指の銃口を俺に向けてきた。

 

「だから、次あんたが引き金を引こうとしたら、その前に私が引くよ」

 

 …………ああ、なるほど。これがこいつらがあの時抱いた感情か。

 これは、確かに嫌だ。こいつに責任を押し付けて自分は何もしない、できないなんて、そんなの嫌に決まっている。

 

「……千葉の兄貴舐めんなよ? お前がやろうとしたらその前に俺がやってやる」

 

「それじゃいたちごっこだよ」

 

 呆れたように表情をほぐれさせた彼女は、靴を脱いで上がった俺に並んで廊下を歩く。その間、俺たちの間に会話はない。けれど、数日前にやっていたら苦痛だったその沈黙は、今は自然と居心地悪くはならなかった。

 俺がこんな性格をしている以上、きっとまたこいつらを悲しませる。きっと何度だって俺は悩む。その時は、また考えを、想いをぶつけあおう。そして最後はしょうがねえなって笑おう。

 いつ来るかわからないその時に想いをはせながら、比企谷家にしてはやけに騒がしい扉を開く。

 今はとりあえず――

 

「「「「ハッピーバースデー!!」」」」

 

 人生初めての騒々しい誕生日を楽しむのも悪くはない。

 皆が持ち寄ったり、腕に自信のあるやつらが台所を借りて作った料理や飲み物、お菓子を摘みながらこの一週間の話や残りの休みの予定、宿題の話をしたり、赤羽がロシアン餃子を作らせたり、この場にいない律のことを小町にごまかしたりして、中学生が出歩けるギリギリまで即席の誕生会を楽しんだ。もちろん、一般人の小町がいる前でできる話は限られているので、暗殺の話なんかはこの後LINEで延々と交わされるだろう。

 

 

 

 人間関係なんて面倒くさい。俺自身が面倒くさい性格をしているのだから、きっとそれは死ぬほどの苦痛だと、ぼっちの俺はずっと思っていた。

 実際に経験したそれは紛れもなく面倒くさいもので。しかしそれは、思ったよりも心地のいいものだった。悩むことすら少し楽しい。止まることのないLINEの履歴を眺めながら、ぼーっとそんなことを考えていた。




当初の予定では、普久間島にいる間に磯貝を主軸にこの結論までもっていくつもりでしたが、ここは原作の小町のセリフを流用したいなと思ってちょっと話を捻じ曲げました。

鷹岡のところでの八幡の行動を考えていて、結局この問題は皆がすっと納得する結論は出ないんだろうなと思いました。八幡にも言い分があるし、E組にも言い分があるし、結局どこかでどちらかが折れるしかないんだよなって。そうなると、たぶんこういう点で折れるのは八幡じゃなくてE組の皆なんですよね。妹たちのために動けない八幡なんて存在しないから、多分約束してもその場面になったら八幡は無理をしてしまう。だから、八幡は約束は絶対しないと思うんです。
それは八幡らしくない、という意見もあるかもしれませんが、基本的にこのシリーズの八幡は程度は違えど常時小町を相手しているような感じなので、そこが原作の八幡と違ってしまうのは仕方がないのかもしれません。殺せんせーに手入れもされていますからね。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。

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