「……会、長?」
「かーしまの言ったことは事実だ」
廃墟となった教会の中。プラウダ高校からの砲火が止み、静まり返ったそこに、杏の言葉だけが響く。
降伏勧告の使者が訪れ、土下座すれば許してやるというカチューシャの言葉が伝えられた。状況は誰が見てもわかる絶体絶命。勝利は遠く、それでもなお抗えば無事で済む保証はない。
それでもなお徹底抗戦を主張した桃が放った一言は、決して冗談で済ませることができるものではなかった。
だからきっと、真実なのだ。
「この全国大会で優勝しなければ……我が校は廃校となる」
大洗女子学園が廃校となるという、その言葉は。
戦車道高校生大会、準決勝。
大洗女子学園VSプラウダ高校。
大来女子学園の生徒たちは、絶体絶命の窮地の中で、自分たちが置かれた状況を知った。
そもそも、噂はあった。
昨今の少子化と、学園艦の莫大な運営費用のコストパフォーマンスのつり合い。いくつかの学園艦を統廃合することで予算を圧縮するという話はニュースでも何度か聞かれ、BC自由学園のように実際に統合された学園艦も存在する。
その波が、ついに大洗女子学園にも押し寄せてきた。杏の言葉はつまり、そういうことだ。
「近年の生徒数の減少と、目立った活動実績がないこと。大洗女子学園が廃校となる理由は、それだった」
「だけど、会長はなんとか廃校を回避する条件を取り付けたの。それが、戦車道全国大会での優勝」
「それで、私を……」
「そうだよ、西住ちゃん。無理を言っちゃったね。だが私は謝らない」
生徒会3人からの言葉だ。信用せざるを得ない。その認識は今日までこの事実を知らされていなかった戦車道チームのメンバー全員に共通のもので、押し黙る。
優勝すればいい、などと軽々しく言える状況ではない。すでに大洗女子学園はプラウダ高校によって追い詰められている。
3時間の猶予こそ与えられたものの、戦況は絶望的。戦車自体の損傷はいずれもこの場で修復可能なものだが、狭い教会の中に押し込まれ、周囲は重戦車を含むプラウダの戦車に完全に包囲されている。
雪も深く積もり、雪上の戦闘に不慣れな大洗側がその時点で不利なことは、これまでの戦闘からも明らかだ。
2回戦を快勝したことによる慢心はあった。
だがそれ以上に、プラウダが強い。
大洗の行動を把握し、フラッグ車を含む囮で引き寄せ、万全の包囲を敷いていた。少なくとも雪上においては圧倒的にプラウダの方が上手だ。
試合前になぜか干しいもを食べながら宣戦布告に現れたカチューシャはどう見ても幼女だったが、この一連の作戦を見てしまえばその印象は一変する。まぎれもなく格上の強敵だ。
敗北と、廃校。
絶望に彩られたその未来が、色濃く現実を侵食し始める。
もう、誰も立ち上がれない。
この暗く重苦しく落ち込んだ士気を回復させられる者はいない。
「……勝ちましょう」
ただ一人、今日まで勝利を積み重ねてきた、頼れる指揮官を除いては。
「西住ちゃん……」
「まだ、負けたわけじゃありませんから。来年も、この学校で、みんなと一緒に、戦車道をやりたいから。……私、がんばります」
静かな声だった。
だが教会内に、そして心に響く声だった。
状況の厳しさは誰よりわかっているはずだ。
大洗の中で誰より多い戦車道の経験からも、昨年プラウダ高校と対戦したことからも、勝利の可能性が潰えかけていることはみほが一番わかっているに違いない。
それでも、みほは勝利を目指すと言った。
笑顔すら浮かべて、勝ちに行く、と。
ざわりと、わずかに波紋が広がる。
「……西住殿の言う通りです!」
そして、その波はまた別の波を起こす。さざ波のように、勇気が伝わっていく。
「昔、友達から教えてもらったんです。55年と89年のドジャース。誰もが負けると思っていました。9回裏2死満塁。確率から言えば勝ち目はありません。……でも、確率なんかクソくらえでしょう!?」
「優花里さん……」
もとよりみほのためならえんやこら、たとえ火の中水の中、どこまでもついていく覚悟を決めた女、優花里が続く。
「わたくしも賛成です。……小学校のころのお友達の男の子が言っていました。『確率なんてものは単なる目安。あとは勇気で補えばいい』と」
「華さんも……」
そしてクールで熱く、実力も人一倍の砲手、五十鈴華。
この二人の賛同が後を押した。
大洗女子学園の廃校を望むような者はそもそもここに一人としていない。そして今、絶望に沈んだ闇の中に、かすかな光が差し込んだ。
つかみ取るには細すぎる希望の糸。だが手を伸ばさなければ、絶対につかむことはできない。ならば、なすべきことは決まっている。
「諦めず、がんばりましょう。戦車の修理を続けてください。寒いので、エンジンが冷えすぎないように注意して」
「はい!」
大洗女子学園は、まだ負けていないのだから。
◇◆◇
「……これ以上見る必要はないわね」
観客席で、一人の女性が立ち上がった。
座っているときも、立ち上がった今でさえ揺るがぬ姿勢は天地を貫く柱のよう。強い意志を芯に、たゆまぬ鍛錬を肉付けすることによってのみ至る境地が、そこに確かな質量をもって存在する。そんな印象を抱かせる堂々たる女性だった。
だが、表情には失望が、声音には決別の響きがあった。
大洗とプラウダのこれまでの試合を見て、特に大洗の状況を見て何かを決めたことは一目瞭然だ。
判断材料は手に入れた。この後の経過は見るまでもない。言外にそう切って捨てていた。
……西住ちゃんたちの、試合を、俺の隣で見ていながら、である。
「待ってください」
だから、無粋は百も承知の上で声をかけずにはいられなかった。
たとえ相手が、西住流師範、西住しほさんであろうとも。
「……なんです?」
「まだ試合は終わってませんよ。寒いし雪も降ってますけど、今席を立つのはあまりに惜しい。お節介かもしれませんが、そう思いまして。俺は知ってます。大洗は、ここからが強いです」
見ず知らずの男に急に声をかけられたせいもあるだろう。
いろいろあった西住ちゃんのお母さんが、西住ちゃんの試合をわざわざ見に来たのだから、俺では推し量れない理由もあるだろう。
そのせいか、俺に向ける視線がめっちゃ怖いんですが! さすが西住流、変態一人始末するなんて一睨みで十分ということか……!
「その方の言う通りです。みほは、大洗はまだ諦めていません。そして、西住流は決して逃げない流派のはずです。勝負が決まる、最後の瞬間まで。……違いますか」
「……………………」
口をはさんだはいいものの恐怖でブルっていた俺に、思わぬ方向から援護射撃が飛んできた。
西住師範をはさんで俺とは反対側に座っていた、西住ちゃんのお姉さん。西住まほさんだ。
西住師範は、無言でまほさんを見た。ついでにちらと俺も見た。それだけで俺なんか冷や汗がどっと沸いて出るくらいのプレッシャーだったけど、まほさんは変わらぬ様子で試合状況を映すモニターを見つめている。
すげー胆力である。やっぱ戦車道やってる女の子は違うな! かわいいしかっこいい!
などと現実逃避気味に考えているうちに、西住師範はいつの間にか再びまほさんの隣に腰を下ろしていた。
俺の言葉は多分ほっとんど効果はなかっただろうけど、これでいい。
西住ちゃんは今、きっとお母さんと合わせる顔がないと思っている。
でも、親子の絆が断ち切られたわけでは決してない。
大洗に来て得た友達と、変わりつつある西住ちゃん自身。
それを何よりよく知ってもらうには、西住ちゃんの戦車道を見てもらうのがきっと一番いい。
だから、俺は精一杯応援しよう。西住ちゃんたちなら、きっとこの窮地も乗り越えられると、根拠なんて関係なしに信じて。
「ところで、あなた。そこにあるポットと瓶、それから食べ物類は売り物ですか?」
「え、ええまあ。ひょっとすると試合が長引くかもしれないと思ったので、お客さんが飽きないように時間があったら売り歩こうかなと」
「では、一杯いただきます。それは……芋ですね? お湯割りでお願いします」
「アッハイ」
「私は干しいもを。以前いただいた天ぷらがとてもおいしかったですから、そちらも楽しみです」
「アッハイ」
そして、当たり前のように注文されました。
動じないなこの人たち!
◇◆◇
大洗女子学園は、偵察を出した。
雪の中であるため、部隊はなんだかんだとたくましい優花里とエルヴィン、視力がいい麻子とそど子の2組。他は急いで戦車の修理を続け、試合の再開に備えている。
寒さに白い息を吐き、手をこすり合わせながら、それでも大洗のメンバーの瞳の炎はまだ消えていない。
ちなみに。
たまに寒さのあまり誰かの首筋に素手で触って暖を取って悲鳴を上げさせるという微笑ましい光景もあちこちで繰り広げられ、もしこの場に店長がいたならばルーベンスの絵を前にした絵描き少年のように安らかな笑顔で天国へと旅立っていたことだろう。
ともあれ、着実に大洗チームは反撃のための準備を進めていく。
「偵察隊、ただいま帰還いたしました!」
「こっちも戻ったぞ」
「優花里さん! 麻子さん!」
そんなこんなやっているうちに、偵察組も戻ってきた。
あちこち雪がこびりついているが、ケガの様子もないことにみほはほっとする。途中で雪の勢いが強くなり、吹雪になりかけたこともあって心配していたのだ。
「大丈夫ですよ、西住殿。こんなこともあろうかと小型のスコップとかいろいろ持っていきましたから。……途中、なんだか魔法使いっぽい格好をした女の子二人組を見たような気もするのですが、きっと雪が見せる幻覚でありますね、うん」
ひとまず毛布でくるみ、スープで暖まってもらいながら報告を聞く。妙なものとの遭遇談もあったらしいが、今は置いておこう。優花里たちが必死で集めてきてくれた貴重な情報、無駄にすることなどできはしない。
「これは……」
「完全に囲まれてるじゃないか! 想像以上だぞ!」
優花里たちと麻子たちの偵察結果を総合して割り出したプラウダ高校の布陣。一言で表すならば「完璧」だった。
正面はT-34が大量に。左右もIS-2やKV-2が控え、フラッグ車を直接護衛する車両こそ少ないが、乾坤一擲を狙ってそちらに突撃したが最後、側面からの集中砲火でなすすべもなくやられることが目に見えている。
この地を大洗の墓にする。布陣からさえプラウダ高校の隊長、カチューシャの声が響いてくるようだった。
「もう……ダメなのか」
地図上に示された絶望の具現。
それを見た桃がついにへたり込む。これまで何度も突き付けられて、そのたび必死で目を逸らし、あるいは立ち向かって乗り越えてきた廃校の危機。それがついに絶対の事実として目の前に現れ、未来を閉ざした。そんな幻想に取り付かれるほどの状況だった。
「なっ、どうしたんですか!? みんなで頑張るって決めたじゃないですか!」
「……はーい」
そして絶望は伝染する。
先ほどまでは戦車の修理があったから、手と体を動かしていられた。だが修理が終わってしまえば、あとは無駄な体力の消耗を防ぐためにも身を寄せ合って毛布にくるまり、待つしかない。
寒さと食料の枯渇による空腹。窓から外を見れば、一番近いプラウダ高校の戦車隊がたき火を囲んでコサックダンスで暖を取り、楽しそうにボルシチ的なものを食べているのを見れば、我が身が嘆かわしくもなる。
士気の低下は深刻で、常に熱血なアヒルさんチームさえ心ここにあらずといった有様だ。
「スノーバレーとか……いいんじゃないですかね」
「河西がそう思うんならそうなんだろう……河西の中ではな」
なにせ、根性とバレー部愛にあふれるキャプテンがこんなことを口走る始末。早く手を打たなければ、戦車はともかくチームの精神面が崩壊することは間違いない。
風紀委員たちはやる気の減退を見ても規則違反ではないため動かず、生徒会も手をこまねいていて、カバさんチームは八甲田山ごっこをしている。このチームは余裕あるな。
「……大野さん、なにしてるのかな」
「雪をばっさばっさかきわけてるでありますな」
一方、ウサギさんチームは大半のメンバーが鬱々と沈み込む中、M3で37mm砲の砲手を務める大野あやがなんかやっている。教会の外で雪をかきわけかきわけ、何かを探しているようだ。
「あ、何か見つけたみたい」
「メガネだったようであります。デュワってかけてますよ」
何がしたかったのかはわからないが、満足げな表情で戻ってきたので良しとしよう。
とまあこのように割と元気な手合いもいるが、全体として大洗女子学園の士気は試合続行が困難なほどに低くなってしまっている。
「いかんな……西住、なんとかしろ」
「ええ!? わ、私ですか!?」
「隊長だろ。何かやって、士気を回復させるんだ」
「そんな無茶ぶり……!」
だからこそ、みほがなんとかしなければならない。
暗く、落ち込んだ心。この状況を立て直すのがどれほど大変か、みほはこれまでの人生で歩んできた戦車道の経験から知っている。敵の戦車を1輌でも撃破すれば気分も変わるのだが、降伏勧告の猶予時間として動くに動けない今はそれすら望めない。
そんな状況で、それでも何とかするためには。
問答無用で気分を盛り上げる方法。そんなものが、あるとするならば。
「……あれしか、ないか」
みほに心当たりはたった一つ。
正直かなり恥ずかしいが、覚悟を決めて、行くしかない。
廃教会の中央へと歩み出て、顔を上げる。
「うぅ……! たぶん中継されてるけど、恥ずかしいけど……我慢!」
真っ赤な、顔を。
◇◆◇
「……なんです、あれは」
「ヤックデカルチャー……」
プラウダ高校が指定した、3時間の猶予時間が切れるまで、あとほんの少しとなったとき。大洗女子学園が立てこもる廃教会の中に動きがあった。
中継の映像からは内部の詳しい状況まではわかっていなかったが、西住ちゃんたちが必死に戦車を修理し、偵察を出し、戦う意思は消えずともだんだんとその意思が細っていく様子がうかがえていた。
それこそ、このまま試合の再開ができないのではないか。そんな危惧さえ観客席のあちこちから聞こえ始めていた。
だが、今。
「ダンス、ですね。大洗女子学園のみんなで。……西住ちゃんと杏ちゃんとカエサルがやたら慣れてますけど」
空気が変わった。
そしてその中心は、大洗女子学園が立てこもる廃教会。
今にも降伏しそうな空気が漂っていた大洗チームが披露しているダンスから、何かが変わり始めた。
そう、ダンス。
なんとなくこころのともだちっぽさがある、見事なダンスだ。
多人数で踊ることを前提とした華やかな振り付け。一人ひとりに華があり見せ場がある、そんなダンス。一体いつの間に練習したんだこの子らと思わないでもないけど、きっとあんこう踊りの経験が生きたんだろう。あの踊りができればほかの踊りも大体できるはず。
「本当に、一体何をしているんです、あの子たちは!?」
「気分転換でしょう。よく見てください。みんなの表情が明るくなりました。……あれなら、戦えます」
みしみしと音が鳴りそうな握力で自分の膝を握りしめる西住師範。
戦車道の試合の真っ最中にいきなり踊り出す、という目の前で起きていることが受け入れられないのだろう。でもまあ割とよくあることじゃないかな。プラウダ高校は進撃中にカチューシャを歌って士気を上げてたし。急に歌うよ。
なんにせよ、状況は変わった。
失意に沈んでいた大洗女子学園は息を吹き返し、降伏勧告への返事を求めるプラウダ高校に徹底抗戦の意志を告げ、審判団からも試合の続行が放送で知らされた。
そうだとも。まだ試合は終わっていない。本当の勝負はこれからだ。
客席からは散々待たされたことへの愚痴こそ聞こえてくるが、それでも席を立つ人はほとんどいなかった。いまも、試合開始時と変わらない人数が中継モニターに釘付けになっている。
誰もがわかっているんだ。
決着が近いことを。
プラウダ高校が戦力差そのままに踏みつぶすか、大洗女子学園が奇跡の逆転勝利を見せてくれるか。
はっきりと見通せるわけではないが、廃教会の中を動く人影はなくなった。きっと、みんな戦車に乗りこんだのだろう。
スピーカーからはかすかに、でも確かに戦車のエンジン音が高まるのが聞こえてくる。
次に動き出せば、あとは試合が終わるまで大洗は止まらないという確信があった。
それはきっと全ての観客にとっても同じで、静かに、しかし熱く、その時を待った。
大洗女子学園が、見事逆転を決めるその瞬間を。
◇◆◇
反撃が始まった。
先陣を切ったのは、なんと38(t)。プラウダ高校の陣容の最も薄い地点をまっしぐらに目指す……と見せかけて寸前で転針。食らいついたのは、なんとT-34が大量に待ち構える最も分厚い防衛線だった。
事前の偵察で大洗側はプラウダの布陣を理解していたはず。つまり、これは作戦ミスでもうっかりでもなく、計画通りの行動ということだ。事実、大洗の隊列に乱れはない。行進間射撃でプラウダの混乱を拡大させ、迷うことなく第一陣を突破。
しかしその後の第二陣はさすがに接触までにわずかながらも時間がかかった結果、準備万端待ちかまえられてしまっている。そのまま突っ込んでいけば突進力を殺され、後方から追いかけてきたT-34の第一陣との間で包囲されることになるだろう。
体を張ってそれを防いだのが、切り込み隊長を務めるカメさんチームの38(t)だった。
相手はT-34、しかも4輌。比較するのもバカバカしいほどの圧倒的優位を背に立ちはだかる第二陣に向かって、38(t)は雪を蹴立てて猛然と立ち向かっていった。
たった、1輌で。
中継カメラはそのときⅣ号戦車のキューポラから顔を出す西住ちゃんを映していた。
38(t)を見送る、見送らざるを得ないその表情に宿る感情はいかばかりか。俺には心中を察することしかできない。
「……ふん」
そして、隣で忸怩たる思いがありそうな鼻息をこぼした、西住師範の心中もだ。
ともあれ、状況は一変した。
完全に包囲していたとはいえ、予想外にもっとも分厚い防衛線を狙われ、しかもまんまと突破されたことでプラウダは追撃戦を余儀なくされる。それでもいまだ有利に変わりはないが、この試合はフラッグ戦。
大洗のフラッグ車である八九式が追いつめられる一方、別動隊としてフラッグ車撃破に向かったⅣ号とⅢ突が着実にフラッグ車を追い回すに至り、勝負の行方は完全にわからなくなった。
チャンスはここにきて五分と五分。
一瞬でも早く敵フラッグ車を撃破したチームが勝利を得る。
この試合状況になってから、観客の声援は何倍にも増した。
プラウダを応援する声、大洗への励まし。
あちこちから周りの雪を溶かしそうな熱気を含んだ声が上がる。八九式に至近弾があれば歓声と悲鳴が弾け、プラウダのフラッグ車が追いつめられても同じことが起きる。
試合の行く末は、選手が諦めない限り最後の瞬間までわからない。
だがそれでも一つだけはっきりしているのは。
この試合が、高校戦車道の歴史に。それぞれのチームの胸に。そして俺たち観客の心に、いつまでも残るだろうということだけだ。
『プラウダ高校フラッグ車、行動不能。よって、大洗女子学園の勝利!!』
◇◆◇
「やったぜキャプテン! 最後の逃げ切りすごかったよ!」
「はい、ありがとうございます! バレー部みんなの力です! ……って、わああああ!? なんで高い高いするんです!? 放り投げるんです!?」
試合終了後。
勝利を収めながらもほぼ満身創痍の大洗女子学園戦車隊が引き上げてきた待機場所に、さっそく店長がやってきていた。真っ先に餌食になったのは、アヒルさんチームのキャプテン。IS-2を筆頭に多数のT-34からしぶとく逃げ回り、最後の直撃弾をひらめきとしか思えない機動で回避してのけたことで、ほぼ同時だったプラウダ高校フラッグ車の撃破を大洗の勝利へと導いた。
2回戦でCV33を5輌も撃破する活躍といい、八九式という戦車道のレギュレーションの中でスペックが高いとは言えない戦車を駆りながらのこの活躍、アヒルさんチームの成長は実に目覚ましい。
その喜びがあふれてしまったのだろう。店長は、なんかキャプテンをぽんぽん放り投げていた。
「はっ! でもこれは……アタッカーの視点!」
「あはははは! あはははははは!」
しかし、キャプテンは結構お気に召した模様。放り投げられるたびにスパイクの練習、というよりはアタッカーがスパイクで狙う場所を吟味しているのだろう。いまのキャプテンの視界にはVRよろしくバレーのコートと相手チームのディフェンスが見えているのかもしれない。
「……ねえ。店長、キャプテンと仲良すぎない?」
「どうする忍ちゃん。トす? トす?」
「いいわね」
しかし、それを面白くなさそうな目で見る少女たちがいた。
誰あろう、アヒルさんチームの残りのメンバーである。
それもそのはず。彼女たちは廃部にされてなおバレー部に、そしてキャプテンについていくことを選んだバレー好きにしてキャプテン好き。キャプテンに近づく男がいればこうもなろう。
戦車の砲撃をして「こんなスパイク打ってみたい」と言ってのける彼女らの言う「トす」。一体いかなる所業なのか、想像するだけでも震えが走る。店長の命、危うし。
「ふう、キャプテンは軽くて投げやすいなあ。……やあ、みんな」
「はい」
「どうも」
「こんにちは」
しかもそんな空気に気付かず、試合後の車長ミーティングに呼ばれていったキャプテンを下ろしてからのこのことバレー部1年生の元へやってくる店長。本格的に危機感がない男である。
むしろ、バレー部はいつでも仲が良さそうで店に来るたび際限なくサービスして体育会系の胃袋に挑戦する始末。だから今日も、ちょっと目つきが悪くなって取り囲むように位置取られていることにも気付かず、自ら進んで袋の鼠になりに行き。
「キャプテンはいいぞ」
「ですよね!」
思考の傾向が一緒のため、あっちゅー間になじむのであった。
「今回の試合、八九式は確か発砲してなかったよね。最低でもT-34を相手にフラッグ車を務めるんだから効かない攻撃は捨てて回避に専念するって判断、すごいよ。なかなかできることじゃない」
「はい! それにキャプテンの指示も全部的確で、被弾する気がしなかったです!」
「私たち、キャプテンと一緒ならどんな戦車とも戦えます!」
「そしていつか、バレー部を復活させるんです!」
ご覧いただきたい。さっきまでトすなる謎の所業の対象になりかけていたアホと、麗しい乙女たちの会話である。
ちなみにこのあと、「キャプテンがどれだけかわいいか」の議論は白熱し、キャプテン本人が車長会議から戻ってくるまで続いたという。
学園廃校の可能性を聞かされてなお、ブレない奴らだった。
◇◆◇
「よし、撤収準備完了。今回は寒い場所だからアルコール類がたくさん売れたなあ。……もちろん未成年にはノンアルコールしか出してないけどね!」
誰にともなく断りを入れつつ、恒例になってきた戦車道の試合会場での出店を片付ける俺。
今回は試合中に雪が降るくらいに寒い場所での試合だったせいもあってか、サツマイモジュースのお湯割り(比喩)がとてもよく売れた。プラウダ側が設定した降伏勧告の猶予時間が長かったせいもあって、その間に食べ物やら飲み物を補充しようという人が多く、結果としてどの店も結構売り上げが伸びたらしい。
てなわけでうちも撤収準備は割と楽です。持ち帰る在庫がほとんどないというのは楽でいい。
「……少し、よろしいでしょうか」
「はい? すいませんがもう店じまいなんで大したものは……って、ノンナさん」
そんな時だった。
珍しい来客、プラウダ高校のノンナさんが訪れたのは。
「試合、お疲れさま。惜しかったですね」
「はい。大洗女子学園は強かった、そういうことでしょう。……行進間射撃だったとはいえ、まさか私の砲撃をあそこまで避けるとは思いませんでした。いいチームです」
一応俺は、選手ではないとはいえ大洗女子学園に住んで、試合も主に大洗を応援していた人間。こういう時に話す内容というのはちょっと気を遣うところだが、ノンナさんに隔意はないようだった。確かに試合には負けてしまったが、それでも相手の強さを正しく讃える。さすがノンナさん、それでこそ戦車道だ。
「それで、何の御用で? お土産だったら、この場で渡せる分は少ないですけど、あとから送るのでよければいくらでも注文受け付けますよ」
「それは助かります。……ですが、本題は別です。店長には、お礼をしに来ました」
「お礼……?」
ノンナさんはそう言って、少しだけ笑う。
知り合ってからまだ間もないが、あまり表情の動かないクールな人らしいということはよくわかる。それを考えると、このかすかな表情の変化も結構感情をあらわにしてくれてるいることになるんじゃなかろうか。
しかし、一体何のお礼なんだろう。
「試合前にカチューシャがお世話になったことについて、です。あなたのおかげで、試合を楽しむことができましたから」
カチューシャは一度拗ねるとおだてるまでなかなか機嫌を直してくれなくて。ノンナさんは言う。全く困っていない様子で。
カチューシャのことが本当に大好きだと、言葉にしなくてもわかる表情で。
きっと、幸せなんだろう。カチューシャと一緒に戦車道をする今が。副官としてカチューシャを支える今のプラウダ高校での日々が。それがわかるだけで、俺も幸せになってくる。ああ、やっぱりいいなあ、こういうの。
正直なところ、お礼というなら俺にとってはこれだけで十分だった。
こんなにも美しい友情と愛情を見せられたら、それだけで俺の心は天へと昇る。プラウダに積もる深い雪の中でも消えない、炎のような愛。確かにそれがあることを、今日俺は知った。
……知ったのだが、ノンナさんの愛はそんな俺の想像を軽々と超えた境地にあったのだ。
そのことを、俺はすぐに思い知らされる。
「ですので、これを」
あまりにもあっさりと、ノンナさんはそれを出した。
背中に隠していた何かが姿を見せたその瞬間。
俺の目は、眩んだ。
「ぐっはあああああ!? な、なんだこの光は……!?」
「ふふふ……やはり、店長も「わかる」人だったのですね」
ノンナさんがチラ見せしたそれの正体を、俺はまだ掴めない。
そのまばゆさたるや、地上に降りた太陽の如し。夜に姿を見せればあらゆる闇を駆逐し、昼に降臨すれば未来までをも照らす導きの光となる。そんな強く激しく、しかし優しい輝きが、そこにはあった。気がする。実際には光ってないんだろうけど、俺の目にはめちゃくちゃ眩しく映る……!
「くっ、なんだこのすさまじいまでのエネルギー……! 眩し過ぎて、そこにあるものが何なのか見えない……!」
「それでこそ、私の見込んだ店長です。だから、私は今日のお礼としてこれを持ってきたのです。この……『カチューシャ日記』を」
「か、カチューシャ日記だとう!?」
その正体。ノンナさんの口から聞かされて、怒涛のような納得が俺を襲った。
カチューシャ日記。
高校戦車道を愛好するファンたちの間でまことしやかに囁かれる、プラウダのトップシークレット。
ちっちゃくかわいく優秀なプラウダの隊長、カチューシャ。日々惜しみなく振りまかれる彼女の愛くるしさを子細に綴ったとされるその書物の存在は、実在を疑われながらも多分あるんじゃねーのと半ば公然の秘密として扱われている。
なぜなら、その著者とされているのが誰あろう、目の前にいるノンナさんだからだ。
常にカチューシャに付き従う、ブリザードのノンナ。永久凍土よりも冷たい眼差しの奥に、カチューシャへの愛を燃やす副隊長。彼女であればカチューシャの可愛さを日記に書き留めるくらい当たり前だろうと、戦車道ファンの間では語り草になっている。
「まさか、実在していたなんて……!」
「ふふふ、この存在を校外の人に教えるのは初めてですから、無理もありませんね。……店長になら、読んでいただいてもいいと思いまして」
「なん……だと……!?」
そしてさらに追い打ちをかける驚愕。
今、ノンナさんはなんと言った? 読んでいい、と。ノンナさんの目から見たカチューシャへの愛100%といっても過言でない、カチューシャ日記を、俺が、読んでもいいと!?
「持ち出していただくわけにはいきませんし、時間もあまりありません。申し訳ないですが、ここで読んでください。……さあ」
「う、うおおおお……!」
するり、と寄り添うノンナさんの動きは獲物を絡め取る蛇のそれ。
いつの間にか手の中には、恐れ多いほどの輝きを放つカチューシャ日記が鎮座する。
なんということだろう。ただ一冊のノートだというのに……重い! 気がする!
たっぷりと詰め込まれた愛の分だけ、重みを増している……! と錯覚する!
ここまで来てしまえば、俺の体は俺自身の意志ではなく本能に従って動いてしまう。
枝から離れたリンゴが地面に落ちるように、コーラを飲んだらげっぷが出るように、鼻っ柱を殴れば鼻血が出るように。恐る恐る、厳かに、カチューシャ日記の1ページ目を、開く。
「……………………………………………………………………………………ふう」
「て、店長ーー!?」
そして、早速意識を持っていかれました。
「ハッ!? こ、ここはどこだ。ついさっきまで、川の向こう側のじいちゃんと『カチューシャはいいぞ』という話で小一時間盛り上がっていたはず」
「落ち着いてください店長。カチューシャがいるのはこちら側です」
気付いたときには、ノンナさんに支えられてかろうじて立っていた。なんてことだ。カチューシャ日記……これは足腰に来る! 膝が生まれたての小鹿みたいにガクガクだ!
「あ、ありがとうノンナさん。この日記からあふれるあまりの愛に飲まれて、危うく向こう側に逝くところだった」
「ええ、そうでしょう。私もよく過去の日記を見返しては鼻血の海で目を覚まします」
その後も、時間いっぱいまでこんな感じだった。
ノンナさんが解説してくれる、日記に書かれているカチューシャの姿。いつ何があったのか、その時のカチューシャがどれほど愛おしかったか。日記を読むだけでも伝わってくるそれらが、書き手たるノンナさん自身の言葉で語られるというおまけつきのため、込められた愛が数倍にも増して伝わってくるようだった。
実際、カチューシャ日記を読むことができたのは長い時間でもなく、眺めることができたのはほんの数ページだったというのに、俺もノンナさんもそれぞれ3回鼻血を吹いた。
それでなお、お互い1滴たりとも日記に血をつけることがなかったのは神業以外の何物でもなかったと思う。
だがそうするだけの価値が、これにはあった。国宝に指定されないのが不思議なくらいだぜ!
「……ありがとう、ノンナさん。こんなお礼をしてもらえるなんて思わなかった。今日の試合と合わせて、一生の思い出になります」
「喜んでもらえて幸いです。もしプラウダ高校に遊びに来ることがあったら是非連絡してください。いつでも歓迎します……同志店長」
「光栄です。ノンナさんも、大洗に来るときはうちの店で盛大に歓迎しますよ。いつでもきてください。もちろん、カチューシャも一緒に」
そしてしばらく。
二人そろって貧血で顔が青くなり始めたので、名残惜しいがカチューシャ日記の閲覧を終える。たぶんこれ以上続けると、二人そろって雪原に真っ赤な鼻血絵図を書いてぶっ倒れることになっていただろう。
だが、寂しく思うことはない。
今日はここで別れたとしても、別れの握手でつないだこの手の絆は確かに結ばれた。
ノンナさんはこれからもカチューシャを愛し、俺はノンナさんがカチューシャを愛し続けることを知っている。それだけで俺もノンナさんも幸せでいられるのだから、これはもう友達よりむしろ同志と呼ぶのがふさわしい。
俺たちは今日、同志を得た。そのことが俺にとってもノンナさんにとっても良いことであると確信している。
「カチューシャは大洗の決勝戦を観戦に行くつもりです。もちろん、私もお供します。そのとき、また会いましょう」
「ええ、約束です」
戦車道は絆の武道。
一人では戦えず、仲間とともに強くなる。
女の子たちがそうあることを、俺は何よりも尊く思う。
今日の出会いに感謝する。
ここまで連れてきてくれた西住ちゃんたちに感謝する。
全ての人に、全ての戦車に、そして全ての女の子たちの友情と愛に感謝する。
そして祈ろう。
大洗の勝利を。大洗の未来を。西住ちゃんたちの戦車道に、幸多からんことを。
次は決勝戦。
対戦相手は、黒森峰女学園。
西住ちゃんが、自身の過去と向き合わずには勝てない相手である。