見滝原中学校校門前。ワルプルギスの夜との戦いまで後少しと迫ってはいるのだが、当然そんなことは露ほども知らない大勢の生徒は、今日も今日とて勉学から解放された喜びに身を躍らせて帰路についていく。そんな人の波に流されず、悠然と校門の前に佇む葵の姿は数週間前を彷彿とさせる。むしろ人目を惹く容姿なだけに、前にも見た子だと気付く者はちらほらといるようだ。
そんな彼女が何をしているかというと、所謂出待ちである。ただしほむらでもなくマミでもなく、そしてさやかでもない。ピンク色の女神様を待っているのだ。もう少しいいタイミングがあるだろうとも思えるが、葵に連絡手段というものは何気に少ない。勿論ほむらやマミに言伝を頼むというのが一番簡単なのだろうが、根掘り葉掘り尋ねられるのも少々困るためこういった手段に出たのだ。
しかしそんな葵もこの状況は予想外だったと苦笑いをしつつ、目の前で機関銃のごとく喋り続ける女性教師、その凄まじい勢いの愚痴に付き合う。正直目玉焼きの好みなど葵は人それぞれだとは思っているのだが、勢いに圧されて意見を述べさせられたのだ。
「目玉焼きの卵が半熟かどうか、それは意外と重要なことだと思いますよ? なにせ世界を見渡せば目玉焼きの焼き方一つで様々な派閥が国境を越えて、喧々囂々と議論を交わしているのですから。それを『その程度のこと』としてしか見れないならば、どのみち貴女には縁の無い男性だったんでしょう。別に貴女が悪いと言っている訳ではありませんよ? その男性と貴女における見解の相違というやつです。ただ人生の伴侶とは自分の半身を預け合うほどに信頼が重要だと思いませんか? 多少の違いを許し合えるのは当然のことですが、そもそも大した仲に発展していないのならば先に解って良かったというものです。世間はバツイチに意外と厳しいですから」
「なるほど…」
「私から見ても早乙女先生はとても魅力的な女性に見えますよ。いわゆる女性同士のお世辞などではなく、本心からです。平均寿命は女性の方が高いんですから姐さん女房でもいいじゃありませんか。その中沢君とやらのアプローチも卒業してまだ続くようなら真摯なものでしょうし、そこまでいけば先生と生徒の関係もなくなりますよ」
「でも親子でもおかしくない年齢差だし……それにそこまで待てばもう崖っぷちどころか転がり落ちちゃう年齢だし…」
「自分への言い訳は好機を潰しますよ。ようは貴女がどうしたいかです。後悔しない生き方なら、例え独身だろうが歳の差婚だろうが、どっちでもいいんじゃないかと」
「……ええ! ありがとう。まだ答えは出ないけど、後悔はしないようにやってみるわ」
「その意気です」
外で話すには少々はしたない内容を長々と話し込む女性教師、早乙女和子。生徒への挨拶もそっちのけで恋愛相談、それも一回り離れた子供へと話しているあたり和子の悩みもかなり深刻なものだろう。葵もその必死な様子につい持論を披露してしまったというわけだ。そしてそんなやりとりをしている彼女達に心底呆れかえった様子で声が掛けられる。
「なにしてるんだか…」
「おや、お疲れさまですほむら。あと他の皆さんも。しっかり勉強しましたか? さやか」
「何で私限定なのさ」
「失礼、言い間違えました。さやかはしっかり勉強していましたか?」
「NO、よ」
「ほんとに失礼だなお前ら!?」
テンポよく会話が弾む三人、そしてそれを少し離れて見ているまどか。ニコニコと笑って見ているあたりが彼女らしいとも言えるだろう。暫し他愛もないやりとりを繰り返した後、ほむらからふと疑問の声が上がる。
「今日はどうしたの? 迎えにくるなんて聞いていなかったけれど」
「ええ、すいませんが今日はまどかに用がありまして。まどか、この後時間ありますか?」
「へ? 私? う、うん大丈夫だけど……どうしたの?」
「ええ、ちょっと二人きりで話したい事があるんです。今後の事も含めて、とても大切な話です」
予想もし得なかった衝撃発言にほむらは耳を疑った。その次に頭を疑い、最後に現実を疑って、結局聞き間違いではなかったようなのでおそらく夢なのだろうと判断したようである。
「…うん、解った。長くなるかな?」
「そうですね。短くはないと思います」
まどかは自分を優柔不断で決断力のない人間だと卑下しているが、しかしこと他人のためとあらば信じられないほどの行動を取る時がある。今回においては葵の真剣な表情と雰囲気からとても大事な話だと感じ取り、迷う素振りもなく即決したのだ。ちなみにほむらは今夢から覚めようとさやかの頬を抓っている真っ最中である。
「そっか。んーと……じゃあね、葵ちゃん。よかったら家に泊まりにこない? パパもママもこの前のこと話したら遊びに連れておいでって言ってたの。たっくんも葵ちゃんとまた遊びたいって」
「え……それは助かりますが、ご迷惑では? 親御さんにも都合というものがあるでしょうし」
「たぶん大丈夫だよ!」
「うーん…」
子供の突拍子の無い思い付きは往々にして親の負担になるものだ。普通に考えていきなり友達を泊めることになれば良い顔はしないだろう。少なくとも葵はそう思うし、そういう風に育ってきた。とはいえ、まどかが親に迷惑を掛けるようなタイプには見えないこともあり、結局押しにも負けて葵はまどかの家に泊まることと相成った。
だが問題はそこではなく、今一番憂慮すべき事態はまどかよりも少し横にある。つまりプルプルと震えて俯いているほむらへの対処だ。さやかから頬を抓り返されて、ようやく今が現実だと認識したほむらの暴走を抑えることこそが最優先事項であると言えよう。
「い、い、いつの間にそんな……? 二人で遊んでたなんて聞いてない……え? 嘘よね? こんなのありえない。こんなの、こんなのって…」
「あの、ほむら?」
「ほむらちゃん?」
「…私の戦場は此処じゃない」
「ちょ、ほむら! そっちは行っちゃ駄目なやつです!」
澱んだ瞳で時間を戻ろうとするほむら。が、そもそも時間遡行できるのは極々限定された時間の中だけなので、ただ変なポーズをとっているだけにとどまっているのだが。
「心配しなくとも大丈夫ですよ、けしてほむらを蔑ろにしたいわけではないんです。ただ確認しておかなければならないことがあるだけですから」
「じゃ、じゃあ私も一緒に」
「それはお勧めしません」
「お勧めしない……? 来るなとは言わないのね」
「ええ。言えなくはない事柄ですが……でも言いたくはないです。正直それが貴女のためなのか自分のためなのかも解らない。貴女の為を思ってと言いつつ単なる言い訳でしかないのかもしれません。ほむら……私は、その、貴女に」
どこかお道化た様な雰囲気は既に霧散し、ほむらも真剣に葵の言葉に思案する。本当に珍しく歯切れが悪い葵が、さらに躊躇うように何かを告白しようとしているのを見てほむらは言葉を被せるようにしてそれを遮った。
「…愛の告白は結構よ。貴女がそう言うのならそうしましょう。悪いようにはならないでしょうし、しないでしょう?」
「はい、すみません」
「そこはありがとうでいいんじゃないかしら」
くすくすと笑いながら口元に手を当てるほむら。先ほどの痴態はどこへやら、優雅と言ってもいいほどに冷静さを取り戻しているのは、葵とまどかに変な雰囲気が一切なかったせいでもあるだろう。問題なく収まりかけたその状況に、しかし頬の痛みから回復したさやかが場の空気を一切読まずに間の抜けた言葉を発した。
「まどかの家に泊まりにいくんだー? 私も久しぶりにいこっかな」
「空気読んでくれませんかさやか」
「仕方ないわ。魚に空気は要らないもの」
「さやかちゃん…」
「そこまで言うほどのこと!? あとほむらはその魚ネタやめてくんない? このさやかちゃんのどこに魚要素があるってのさ……あ、もしかして白魚のように美しい手をしてるとかそういう――」
「……」
「うう、謝るからその心底うざいって感じの顔はやめてくださいお願いします」
「心底うざいわ…」
「わざわざ言わないでよっ!?」
くだらない話をしながら分かれ道までの帰路を楽しく過ごす四人。ちなみに仁美は習い事のため先に帰っており、もし居れば葵とまどかの関係に色めき立ち、さらに話がややこしくなったであろうことは想像に難くない。
そして暫し歩いた後、葵はほむらにマミ達への言伝を頼み別れの挨拶をする。少し寂しそうに手を振って離れていくほむらを見送り、まどかもまたほんの少しだけ寂しげに呟いた。
「葵ちゃん、ほむらちゃんに凄く信頼されてるんだね……少しだけ羨ましいなぁ…」
「はは、まあ付き合い自体は私の方がちょっとだけ長いですし。勿論今までの世界を含めればまどかの方が余程長いでしょうが、それを付き合いというのかは疑問ですしね」
「? でもそれは葵ちゃんも一緒なんじゃないの?」
「いえ、私は彼女が繰り返した時間の中に一切登場していない。まさしく奇跡のような遭逢なのでしょう。だからこそ私は今この世界をほむらにとっての最後にしたい、彼女を開放してあげたい。そのための出会いで、またそうであってほしいとも思います。ほむらの苦難には必ず意味があったのだと示したいのです」
「…そっか。ほんとに羨ましいなぁ……私、やっぱりなんにも出来ないままだ。ほむらちゃんと友達になって少しは変われたと思ったんだけど、でもほむらちゃんは凄い人で、クラスのみんなも凄い凄いって言ってて、私なんかが…」
「ほらほら、そういうのはやめましょう。その理論で行くと総理大臣の友人は各国首相しか勤められなくなっちゃいますよ。友人であることに条件なんかいりませんとも」
「例えがおかしいよ、葵ちゃん」
「そうですか?」
「そうですとも……えへへ」
にぱーと笑顔になりながら独特の笑声で元気を取り戻すまどか。彼女が何に関して才能を発揮するかなど葵は知りもしないが、それでもこの可愛さと純真さは一種の才能と言っていいんじゃないかと内心で癒されていた。少なくともこの笑顔だけで一〇〇万ドルぐらいの価値はあるでしょうと内心で独り言ち、その比喩表現の古臭さがまたなんとも絶妙である。
そうこうしているうちに二人は家に辿り着き、葵は遠慮がちに玄関へと上がる。まどかに招き入れられながらリビングへと進み、家庭菜園を世話しているまどかの父、そしてその横で遊んでいるたつやへと挨拶をした。
「ただいまー」
「おかえりまどか。おや、まどかの友達かな? いらっしゃい」
「お邪魔します。わぁ、見事な家庭菜園ですね……たっくんも元気でしたか?」
あーいと元気よく返事をしながら葵の傍に近付いてくるたつや。葵は基本的に柔和な雰囲気を佇ませているため子供に好かれやすく、外見が女性になったことでさらに懐かれ度合が増しているのかもしれない。
そして一方、たつやと仲が良いんだねとニコニコ笑っているまどかの父は、まさにこの子にしてこの親ありと言うレベルでまどかとの血の繋がりを確信させる。
そんな優し気なまどかの父親と暫し雑談をした後、宿泊の旨をまどかが伝え、快く了承されたことで葵も少し安心してまどかの部屋へ向かった。
「いやー……まどかのお父さんですねぇ」
「えぇー、なにそれ? パパはパパだよ?」
「いえ、まどかと同じくらい優しそうですね、と。まあ娘は父親に、息子は母親に似ると言いますし、見事に体現しているということなんでしょう。とするとお母さんはちょっとお転婆な感じですか」
「わ、正解! お母さんの方がバリバリいくタイプなんだ。たっくんもそうなっちゃうのかな?」
「あはは、甘いマスクにグイグイいくタイプとくればモテそうですね。どうします? 弟に先を越されちゃったら」
「さ、流石にそれはやだな…」
ベッドに腰かけるまどかと座布団に正座する葵。小さな机越しにお喋りは続き、どこか暢気な空間が形成されている。どちらも温厚な性質だけに、ホンワカした雰囲気が続くのも苦ではないのだろう。これがさやかなど居れば要所要所で必ず切れのいい突っ込みが入る筈である。
「それでね、その時のさやかちゃんがほんとに可笑しくて…」
「ほう、それは耳寄りな話ですね。まどかがそう言っていたと伝えなければ」
「だ、ダメだよ!?」
「某ピンクちゃんがそう言っていたとぼかしておきますから大丈夫ですよ」
「ぼかせてないし大丈夫でもないよ! それにピンクちゃんって……葵ちゃん、時々おじさんみたいだね」
「お、おじさんは言い過ぎです」
例え実年齢だってまだおじさんではない。などと自分に言い訳をしているが、二十代も半ばを過ぎれば立派なおじさんであるというのは世間一般の共通認識だろう。むしろ若い世代にはおじさん扱いされ、おっさん世代には若造扱いされる中々に難しい世代であるとも言えるだろうか。
「あー……というか、そういえば話してませんでしたね。マミ達との生活で麻痺してましたが、よく考えればこの状況はいかにも拙い。でも不用意に吹聴するのもどうかと思いますし……うーん」
「えっと、なんの話?」
「どうすべきか……ううん。まどか、実はですね」
「う、うん」
「実は私…………ええと、やっぱやめときます。すいません」
「ええっ! そこまで焦らして!?」
「や、まあ詮無いことです。気になるならほむらにでも聞いておいてくださいな」
「えぇー…?」
御大層な秘密とまでは思っていないが、さりとて軽々に暴露するような内容でもなく、葵は直前で言葉にするのをやめた。一緒に暮らすわけでもないのに一々それを明かすというのも変な話だろう。また何かしら不都合があればその時でいいだろうと葵はお口にチャックをしたのであった。その後、多少の時間が過ぎた頃、まどかの母が仕事を終えて帰ってきた。
「入るよー? お、あんたが葵ちゃんかい? 狭い家だけどゆっくりしてってよ……それにしてもさやかちゃん以外が来るのも珍しいねぇ。クラスの子?」
「あ、ママおかえり」
「お邪魔してます、それとお仕事お疲れさまです。一応校外の友人ということになりますね。まどかにはお世話になって……はいませんが、親しくさせてもらってます」
「おや、随分大人っぽい子だねぇ。アハハ、子供っぽいまどかにゃ丁度いいのかもね。もうご飯できるから降りておいでよ」
「はーい」
「はい、ありがとうございます」
廊下に出ればそれだけで良い匂いが漂っている。間違いなく美味しさを予感させる――確信させる香りだ。葵はとても嬉しそうな表情でリビングへと突入するのであった。
「味はどうかな? 葵ちゃん。さっきとれた野菜を使ったんだけど」
「ええ、とても美味しいです。私も料理はしますがここまで上手くは……」
「んふふ、羨ましいだろぉー? 私が惚れるのも無理ないってもんさ。葵ちゃんも良い男がいればぐずぐずしてないでアタックかけちゃいな。まどかはそのへん全然なんだよねー、絶対隠れファンぐらい居る筈なんだけどねぇ」
「もう! ママ!」
「あはは、確かにまどかは可愛いですからね。高校にもなればきっと手紙の嵐ですよ」
「ダメダメ! 手紙なんぞで告白するような軟弱者はダメさ。男は包容力があって、でもいざとなれば頼りになるかっこいいのじゃないとね……うちの旦那みたく」
「ママ、恥ずかしいからそのへんでやめてよう…」
「ふふ、夫婦仲が良いのはとても素晴らしいことです」
いい歳こいて熱々に惚気る母親を見て赤面するまどか。とはいえ夫婦どちらも二十代で通用するほど若々しく見えるため、見苦しいということはけしてない。それでも身内としては恥ずかしさに苛まれるのも仕方のないことではあるだろうが。
「葵ちゃんは将来有望そうだねぇ……どうだい? たっくんはきっと良い男になるよ~?」
「ええ、先程もまどかとそんな話をしてたんですけどね。まあでも、それはそれとして私は男に興味がないので謹んで辞退させていただきましょう」
「おや、まだまだ思春期だねぇ。そんなこと言ってると婚期を逃しちゃうってもんだ。中学生で早すぎるってこたないんだから」
「あはは、肝に命じる……と言いたいとこですけどね」
言葉を濁して苦笑する葵。本当のことなど荒唐無稽すぎて言えやしないが、しかし適当に嘘をつくのはポリシーに反する。頬を掻いて視線を適当な方向に向け、誤魔化すように彷徨わせる。
しかし実年齢でも葵の上をいき、濃い人生経験も送ってきた詢子には葵が照れや恥ずかしさから男性を否定しているのではなく、本心から興味がないことを嗅ぎ取った。
「ふぅん……ならまどかなんてどうだい? 親の欲目にしても優良物件には違いないからねぇ」
「そうですね……って親としてそれはどうなんですか。ただでさえまどかは最近少しそっちの気が出てそうなのに」
「きゃあ! ふ、二人とも何言って……! 別にほむらちゃんとはそういう――」
「へー…」
「ほー……割と冗談でしたが、これはほむらにもチャンスはあるんでしょうか。ま、私は後悔しなければ問題ないとは思いますのでお気になさらず。いつの世もマイノリティは辛いですが、頑張ってください」
「だ、だから違っ…!」
「へえ、ほむらちゃんねえ……どんな子なんだい? 聞かせておくれよ」
「とても良い子ですよ、本当に……この世界で一番尊敬しているかもしれません。あれほど人のために頑張れる人間を私は知らない。少しずれているところもありますが、そこも愛嬌でしょう」
べた褒めである。これは本当に本心からの言葉で、普段はそこまで態度には出さずとも葵が常々思っていることでもある。むしろそう思っているからこそこれだけ葵は協力をしているのだ。
尊敬と羨望。自分には到底できないであろうことを成し遂げてきた――否、成し遂げ続けている彼女だからこそ誰よりも救われてほしい。その感情にどれだけ恋愛的な感情が含まれているかは不明でも、例えどのような関係であっても仲良く居続けたいと葵は思っているし、誰とどういった関係になっても祝福できる確信があった。まあ見るからにちゃらんぽらんな男と恋仲になれば全力で邪魔するのは間違いないだろうが。
「…あんまり修羅場にならないようにね。私も放任主義だけどさぁ、痴情の縺れで刃傷沙汰だけは勘弁してよ?」
「む、あり得ませんよ。あと私がそういう趣味である前提で語るのはやめてください」
「おや、そういう趣味ってどんな趣味だい?」
「はて、どんな趣味でしょうか……まあでも、しいていうならば詢子さんが中学生の頃の早乙女先生との関係に似て――」
「ストーーップ! ……葵ちゃん? 後で少しお話ししようか」
校門前での葵と和子の会話、それは昔の恋愛事情から始まった。和子は明確に口に出していたわけではないが、まどかの母詢子と同級生であったこと、詢子がレディースの総長として同性から慕われていたこと、そしてそんな彼女のせいで男性へ興味が沸くのに時間がかかったのだと愚痴っていたことから想像した関係であるが、ばっちり当たっていたようだ。
「お話しですか? 構いませんよ。ちなみに私は般若湯的なものがあれば口が緩むタイプです」
「りょーかい。良い性格してるね、葵ちゃん」
「ふふ、すいませんね。詢子さんとは非常に気が合いそうな予感がするもので。それに元から話したいこともありましたし、丁度良かったです」
般若湯――つまりはお酒である。まあ仏教徒もこれはお酒ではなく般若湯だから戒律には触れないと言い張る代物であるからして、未成年が呑んでも問題はないのだろう。きっと。
「ねえ、ママも葵ちゃんもさっきから何の話してるの? それに葵ちゃん、私とのお話しは…」
「すいませんまどか。先に少しママさんとお話しさせてくださいね。とっても気になることがあるようですから落ち着かないでしょうし」
「くうぅー! 可愛いくらいに生意気! 気に入った!」
「まだ素面でしょうに……大丈夫ですか」
女が三人。とても姦しいこの状況で、男に口出す余地もなし。しっしっと追い払われた父親は息子と共に私室へ向かった。すごすごと廊下を行く様は先ほどの熱々具合が嘘のようである。まあ夫婦の仲など鉄のようなもの、熱しやすくて冷めやすく、年経れば錆びやすく、されど手入れをきちんとすれば鈍くも輝くものである。そんなこんなでまどかは先にお風呂に入り、その間に軽く酒の席が設けられる運びとなった。
「さてと! 割となんでもあるけど、何がいい? ナポレオンなんかいっちゃうかい? ジョニ黒もあるよ」
「どこのおっさんですか……生憎と嗜むのは安酒ばかりでして。まあジョニ黒が安酒かどうかは年代別で一家言飛びかいそうですが」
「酒なんて楽しく吞めりゃそれでいいのさ。誰だって最初は雰囲気こみで美味しいっていってるだけさね」
「あはは、そうですね。ではそこのそれを」
「あいよ。私は~……久々にこれでも呑もうかな。葵ちゃんは水割りでいいのかい?」
「ええ、お願いします」
マスカルポーネにブルーベリージャムを添えて、他にはクラッカーやチョコレートなどで彩を加える。ウィスキーには甘いものがよく合う。世間的にも個人的にもそこに全く異論の余地はなく、更には嗜好が甘味好きに変わりつつあることも加わって葵は大層ご満悦である。居候先は子供ばかりで自由になる金銭もない。アルコールを摂取する環境にはなりようもないために、この偶然が設けてくれた酒の席には感謝してもし切れない、そんな様子がよく解る葵の表情だ。
「…で、さっきの話。どこ情報だい? お姉さん『少ーしだけ』気になるんだけど」
「こほん、しかし沈黙は金という言葉もありますから。みだりに他人が言っていたことを吹聴するのは、はしたないことです」
「ままま、ほら呑みねえ呑みねえ」
「おっととと。って日本酒じゃあるまいしやめてください。というかぶっちゃけ解ってるでしょう?」
ある程度は秘密の関係、漏れるとすれば自分か相手か。己が白痴でないと言うならば、おおよその推測はつくものだ。そもそもそこらにばら撒かれるならともかくして、思い出したくもない過去という訳ではなく若い時分の火遊びであると詢子は認識している。相手も分別のある教師なのだから話す相手は弁えているだろうし、実際に目の前の少女はそのへんの大人よりもよほど自己を律しているように見えると詢子は考えていた。故にこの席は詰問の場ではなく談笑の場でしかあり得ないというわけだ。
「まね。単に少し話してみたかったってだけだからねぇ。最近あの子も少し変わったみたいだし、葵ちゃんのおかげかい?」
「まさか。あの子が変化しているなら、きっとほむらの影響でしょう。良くも悪くも人は人によってしか変わりませんから……心配せずとも良い変化ですよ。誰にも騙されてないし、唆されてもいません。そうなりかけたら必死で止めてくれる良い友人も居るでしょう」
まどかが騙されかけたらほむらが黙ってはいないだろう。矢が効かなければ鉄砲を、鉄砲が効かなければミサイルを。それでも駄目なら空母すら持ってくるのが暁美ほむらという少女なのだ。心無いキャッチセールスなどがこようものならほむらに心臓をキャッチされること請け合いである。
「葵ちゃんは大人っぽいってより子供らしくないねぇ。ま、そのへんについては私の子供なんだから心配してないよ。あと気になることっていったら……さっきの話くらいかな。実際のとこどうなんだい? 私だって娘が選んだ道なら口出しする気はないけど、一時の気の迷いってのは厄介だからねぇ…」
遠い日を想う詢子の横顔は、実体験を伴ったリアルさがありありと浮かんでいた。後悔はしていなくとも何かしら思うところはあって当然だろう。今でもちょくちょくと会う関係なのだから記憶の角に寄せることも出来やしないし、詢子はしたいとも思っていない。
「それも含めて成長というものです。それを言ったら恋愛なんて麻疹のようなものじゃないですか。あの時はどうかしていたなんて言っても、その時はそれが、そんな精神状態の自分が自身なのですから。それらを飲み込んで人格を形成していって、最後に笑い話になるのなら失敗もまた成功なり、です」
「ふふ、言うねえ。それでも親は子が痛い目を見るのは嫌なもんなんだよ。頭ではそれが必要なことだと解っていてもね。ま、どうにもならなくなったらどうにかしてあげるのが親の役目ってやつさ。そこまでは口出ししないのが我が家のルール! もちろん助言はするけどね」
ご立派ですと深く頷く葵にヘッドロックをかます詢子。言っていることは割と良いことなのだが、如何せん見た目が少女なので小生意気にしか映らないのがその理由である。そんな微笑ましいやりとりではあるが、絵的には美女と美少女がガパガパと胃にアルコールを運び込みんでいるというなんとも言い難い光景だ。
その後も会話は弾む。それは雑談としてはよくある話、日常についての事柄に及ぶのもまた自然な流れなのだろう。しかしそこに突っ込まれても話せないのが葵としても困ったところで、当たり障りなく答えようとしても、そもそも友人関係以外は障りしかない日常なのだから。
どこの学校に通っているかを聞かれて答えに窮するのも予想していたことではある。が、結局話せることがあまりない以上返事は曖昧なものにしかなりようがないのだ。
「あー……なんというか。学校には事情があって通っていませんので」
「ありゃ、そうなんだ。なんか悪いこと聞いちゃったかい?」
「いえ、お気になさらず。それに今のところはどうにもならない事情ですが、先の事はちゃんと考えていますよ。学力も大卒程度はあるので問題ありません」
「おお、そっか……色々複雑みたいだけどさ、何か困ったら相談しにきなよ? なんでもできるってわけじゃないけど、こうやって付き合うくらいならしてあげるからさ」
「ほんとですか!」
「おおっと、そこに食いつくのかい。アハハ、まあ未成年が呑めるとこは限られてるか。私の若い頃は小学生から呑んでるやつも居たもんだけどねえ」
「世知辛い世の中です……まあ子供にアルコールはあまりよくないとは思いますけどね」
酒は百薬の長とは言うが、何事も過ぎれば毒となる。いわんや未成熟な体に依存性のある液体は進んで摂取させるものではないだろう。それでも葵としては偶に呑むくらいの娯楽はあってしかるべきだと思うのだ。特に未来が定まっていないこの瞬間であるが故に、強く思う。
「そういや話したいことってなんだったんだい? まどかのこと?」
「ああ、そうでした……けどもう大丈夫です。詢子さんの人となりもよく解りましたし、とても魅力的な女性だということも理解しました。あとはまどかの判断しだいです」
「おお? 悪いけどあたしゃもう旦那のもんなんでね。火遊びは卒業したのさ」
「それは残念」
酒で滑らかになった口調は程々に危険な冗談を滑らせつつ、円滑に話を終わらせる。そろそろまどかが出てくる頃だからお風呂に入っておいでと言う詢子に、葵は頭を下げつつ風呂場へ向かった。パタパタとスリッパの音を廊下に響かせながら、酔いで火照った頭と体を嬉しく感じている葵。数日に一度は楽しんでいた趣味がかなりの期間我慢を強いられていたのだから、その喜びもひとしおなのだろう。
その後は丁度風呂から上がったまどかと入れ替わりになり、濡れた髪を下ろして頬を上気させるパジャマ姿のまどかに少しドキドキしたりと少しの役得があったようだ。そして葵も風呂を終え――女性にあるまじき短時間である――まどかの部屋へと戻った。ちなみに着替えは魔法である。この青いパジャマも魔法少女のコスチュームには違いないのだから、魔法というのも便利なものだ。
「さて、と。ではまどか、少々お付き合い願います」
「う、うん。お願いします」
夕方話があると言ってからの約七時間。微妙に焦らされていたまどかは風呂上り後にいれたアイスティーをゴクリと嚥下し、その内容に身を構える。いったいどんなセリフが出てくるのだろうかと薄い胸に手を当てた。
「まどか、あなたの全てが欲しいんです」
そして葵の一言を理解した瞬間、再度口に含んでいた紅茶を全て吹き出したのであった。葵が風呂に入りなおしたのは言うまでもない。