ご注意ください。
――――西暦2022年2月28日。沖縄沖――――
甲板を歩くのは役職ごとに色分けされたカラフルな人々の姿。灰色の甲板を彩り、そしてちょこまかと動き回っている。色分けから分かる通り皆それぞれが異なる職務を担っているのだから当然向かう先は異なり、整然とした無秩序を生み出す。
そんな灰色の飛行甲板。給油車や牽引車なども走る広大な甲板の上を進んでいく一機の航空機。周囲にパトランプで注意を促す牽引車にひかれて進んでゆく。収納の関係から翼は折りたたまれ、認識されないように鈍い色で塗装されていた。
牽引車は三番カタパルトの前まで航空機を移動させる。飛行甲板上には多くの航空機が露天駐機されており、一番と二番のカタパルトを平時に使用することはできないからだ。
発艦位置に付いた航空機、これまでその誘導を担ってきた黄色の作業員が離れ、代わって射出装置要員である緑色が足元へと取り付く。十秒ほどで機体とカタパルトを繋いだ彼らは、安全な場所へと素早く退避。牽引車もとうの昔に退避済みだ。
そして、折りたたまれていた羽がアングルドデッキの滑走路いっぱいに広げられ、先程まで隠されていた翼上の国籍マークが沖縄の太陽に照らされる。
それはミートボールと呼ばれることもある……白に縁どられた赤の円章。日本国を示す国籍マーク。
既に火の入っていたエンジンがその出力を上げ、甲板上にその呼吸音を轟かせ始める。
ところ変わって
「司令、哨戒機の発艦用意、完了致しました」
艦艇の指揮を預かるとなればそれは艦長と呼ばれるポストであるわけで、艦のトップである。そんな彼が報告に敬語を使う。即ち、艦長の報告は彼の上位――――戦隊司令に向けられたものであった。
艦長の視線の先には第一種軍装。服装を見れば将官であることは直ぐに分かる。米海軍の空母打撃群司令が少将であるように、彼の階級章も海軍少将。詰襟に桜が一つ。
「ん、哨戒機を発艦させろ」
戦隊司令は一つ頷いてから直ぐに命令。
厳密には哨戒機の発艦命令を出すのは航空戦隊司令ではなく、その上位の機動艦隊司令なのだが、ここ第二機動艦隊ではこの海軍少将が機動艦隊司令と航空戦隊司令を兼任している。そのため彼が号令を出したわけだ。
それにしても、日本海軍の主力たる連合艦隊。それを構成する機動艦隊の司令職は原則として海軍中将が配置されることになるはずなので、この人事は例外的なものだった。
ともかく、海軍少将から命令は下された。ほの暗いCDCにて艦長が復唱、別室にある管制室へと伝達されてゆく。
そんな当たり前な風景を目の当たりにしつつ、艦長はそれに違和感を覚えていた。
今回の哨戒機の発艦は普段と変わらないものだ。別に何かの大作戦が始まるわけでもない。もちろん呉を母港とするこの艦隊がここまで出張ってきたのは特殊な事情が有ってのことだが、所詮は政治的なアピールに過ぎない。
しかし、後ろの男。この艦隊の指揮権を持つ彼はなぜCDCにやってきたのであろうか。艦長にはそれが不思議でならなかった。
彼はCDCよりか司令部艦橋や航海艦橋を好み、演習の時はわざわざ露天戦闘指揮所に移動する人間である。
そんな彼が
「発艦、完了しました」
そう報告があり、一部のモニターに艦隊より離れた哨戒機の位置情報が表示された。ゆっくりと離れてゆく。
「艦長、言いたいことがあるんだろう?」
不意に、後ろから声がかけられる。もちろん声の主は司令だ。
「……いえ、特には」
不満はない。むしろありがたいぐらいだ。主力艦である空母の艦長と艦隊の司令、担当範囲こそ違うものの、いずれもこの艦隊における上位の人間。その二人には緻密な連携が求められる。しかし片桐少将が作戦中に艦橋という外に晒された場所にいる限り、艦長は彼と同じ場所にいる訳には行かなかった。理由はもちろん、攻撃を受けた際に指揮官を一斉に失う事態が想定されるからだ。
当然ながら平時は二人共艦橋にいる。食事も共にする。
だが、今は作戦行動中だ。確かにこの作戦の性質を考えれば、艦隊が直接攻撃を受けることは想定されない。しかし、作戦行動中に変わりはない。
だから、念には念を入れて。それが日航空母艦「日向」を預かる艦長の考え方であった。
現在は戦闘行動中。司令だってそのつもりだろう。だからこそ、彼がCDCに降りてきたのは意外であった。彼が自身のやり方をそう簡単に変えるとは思えないからだ。
さてどう言ったものかと艦長が思案していると、それを察した片桐海軍少将――――この艦隊の指揮権を預かる男――――は笑った。
「なに、私がCDCに降りてきたって、槍は降らないさ」
普段通りのどっしり構えた様子。
しかし、直ぐにその声は低く抑えられることになる。
「……今日ばかりは、ここにいるべきと思ってね」
艦長がその言葉の意味を知るまでは、あと一時間と十二分が必要だった。
日本第二機動艦隊より出撃した艦上哨戒機のQ14‐C。青い海を眼下に進んでゆく。
《……了解》
「なんて?」
操縦士の八洲海軍中尉は通信手と爆雷手を兼任する樋川少尉へと問うた。
直ぐにインカム越しの返事。
《進路変更の命令です、2‐9‐0へ変針せよと》
「変針?」
そう訝しみながらも命令は命令、八洲中尉は操縦桿を操って進路を変更する。彼らの愛機はその操作を忠実に実行し、Q14‐Cは計画での道筋から外れた。
《なにか通報でもあったんですかね?》
「……さあな」
ともかく、仕事が増えたのは間違いないだろう。八洲中尉の頭の中では既に時間ロスの計算が始まっていた。
《夜間着艦……なんてなりませんよね?》
不安げな樋川少尉の声。Q14「
「そうならないことを祈ろう」
八洲中尉に出来る返答はそれだけだった。彼らの所属する第四五七航空隊は基本地上配備の哨戒機部隊で、空母への着艦経験はまだ二回しかない。それも真昼の着艦だ。
もしもこの時間ロスで夜間着艦となってしまったら……ある程度の不安は残る。しかし着艦しない訳にもいかない。
まあ、その時はなんとかしよう。そう思った八洲中尉が計器類を再確認し始めたとき、耳に入ったのは樋川少尉の声だった。
《っ! これは?》
「どうした、樋川」
《監視窓の映像を回します》
その言葉とともに
「……?」
眼を疑ったというよりか、何が変なのか八洲中尉は理解できなかった。
なんせ映し出された映像に映されているのは一面の海面だ。別に潜水艦のものと思しき影もないし、インド洋や紅海に派遣されたとき目にした海賊の姿もない。
ただ、深い色をしていた。海の色だ。
《おかしいんですよ、ここら一面の色だけやけに暗い》
そう言われれば、確かにその通りかもしれない。
しかし、何があるというのだ。は八洲中尉は計器類を確認しつつ確認を進める。
「電磁反応は?」
《いや、ありません》
「……樋川少尉は、何がいると?」
「何かいる」なんだか変な表現であった。しかしそう言ってしまったのは、彼自身「何かいるかもしれない」という予感に苛まれていたからであった。
《……魚群、でしょうか?》
返答に疑問符が混じる部下の声。
魚群を見たことのない八洲中尉には魚群がどう見えるかよく分かっていなかったが、海の中になにか蠢く群れがいる。ともかくそんな表現なのだろうと受け取った。
「ともかく艦隊司令部に報告、海保に問い合わさせろ」
《了解、問い合わせます》
海で何らかの異変があるなら、通報はむしろそっちの方に行くだろう。もし本当に魚群なら、漁に関する届出が海保に回っているはずだ。
《……了解。中尉、問い合わせてくれるそうです。それまで旋回して待機》
「よし、待とう」
八洲中尉の空間はエンジンの奏でる音に支配される。計器類は何度見ても正常な値を示し、風防越しの景色は綺麗なものだ。沖縄にはサンゴも多く生息しているという。どこかで生きているのであろう珊瑚虫に思いを馳せる。そのぐらいには平和な時間であるはずだが、彼はなにか気味の悪いモノが真後ろにいるような気分だった。
返答が返ってきたのは数分後のことだ。やはりというべきかこの季節に遊弋する魚群は存在せず、ともかくは規模を確認せよとのこと。
「高度を一旦上げるぞ」
《了解》
海鳥は空へ舞い上がる。遥か遠くに水平線。春先の海は青く、その空の蒼と混ざってしまいそうだ。空の中は平穏そのもので、太陽の光が装備一式を照らす。
「写真撮影」
指示を飛ばせば応答、音は聞こえなかったが海鳥の下腹部に設置されたカメラがシャッターを切る。その情報は母艦上空に旋回する警戒機を通じ母艦、艦隊司令部……必要があればそのさらに上位の機関に転送されることだろう。
《はえぇ……ほんとにデカイですね》
樋川の声が聞こえる。水平条件下で撮影された写真は撮影高度に応じてその大きさを推測することが可能だが、そんなことをせずとも「デカイ」と言い切れる景色が眼下に広がっている。
黒く澱んだ、いや澱んだという表現すら適切ではないかもしれない。偵察機乗りとなれば状況把握能力を買われてここにいる訳だが、今の八洲中尉にはこの状態を表現する言葉が全くもって見つからなかったのだ。
「……海の『癌』みたいだな」
十数年の学歴で培ってきた語彙を探り、そして捻り出した言葉がこれである。確かに無秩序に増殖するさまこそ癌のそれに通じるかもしれないが、全く的を射ていない。
そういう不気味さではないのだ。
八洲中尉はまだ知らない。
その不気味さが、祖国、いや……人類という種の存続を脅かすことになることなど。
<架空兵器紹介>
・日向(ひゅうが)型航空母艦
日本の保有する7万t級正規空母。2022年2月時点では同型艦二隻。
・Q14海鳥(うみどり)
日本の哨戒機。対潜水艦戦に特化した設計となっている。
通常型であるA型、早期警戒能力を持たせ肥大化したB型、艦載運用が可能な海軍向けC型の三種類が存在する。